今日の日記はとても長いです
2004年8月30日 命について コメント (3) 今、家の外で例の子猫が鳴き続けています。口元を牛乳で濡らしてやる、子猫が口を舐める、を繰り返して、出来る限りのことをしてから外に放しました。トイレは刺激しなくても自分で出来るみたいです。最後に少しだけ牛乳を飲んでくれたのが印象的でした。でも、本当に少しだけ。死んでしまう。わたしには何も出来ない。母猫にしかあの子を生かすことは出来ない。目の前の子猫一匹救えない自分の無力さに泣けてきます。
放したのは自分勝手なエゴ。先が短いとわかりきっていても、家に置いておくことくらい出来るはずです。学校が始まって、家に誰もいなくなるにしても置いておくことくらい出来るはず。でもわたしはその可能性を、あの子の命を、諦めて放した。ひどいことをしたと思います。あの子の死体を見たくない、そんな傲慢な毒にわたしは心を冒されているんです。子どもの頃、仲の良かった野良猫たちの死を幾つも見ました。既に白骨化してしまっているのを見つけたり、蛆に死体を喰い荒らされているのを見たり。でも一番ひどかったのはこのケースです。小学校5年生くらいの頃だったと思います。学校から帰ってみると、勝手口近くのドブに老猫が浸かっていました。ぐったりして、ドブから這い出す元気すらもなく、死が目前なのは明らかでした。思い切ってドブの中に手を入れて出してみると、立つことも出来ない様子で、ハエがたかり始めていました。せめて死ぬまで傍にいてやりたかったのに、母は「親戚の集まりに行く、その猫を海に捨てに行くよ」と言ったんです。帰って来てから死体を片付けるのは面倒だから、という理屈なのだとあの時の子どもの自分にも分かりました。嫌だ、行かずにこの猫の傍にいる、と口では抵抗したものの、なぜか体に力が入らなくて。まるで、頭の中が痺れたようで。結局母にくっついて海まで行き、母がその猫を岩の上に置くのをじーっと見ていました。もう夕方、徐々に潮が満ちてくる時間帯でした。車に乗って親戚の集まりに行って、談笑したり食事をしたり、従姉妹がわたしに読ませる為に作ってくれたお話を読んだりして、・・・でも頭の中にはずっと、最後に見たあの猫の顔がありました。こっちを見てるあの猫の顔が。
わたしはあの時と同じなんですね。何も出来やしない。いえ、あの時の方がマシだったでしょう。あの時は死を看取る覚悟が出来た、でも今は出来ない。怖い。死体になってしまっているのを見たくない。今、我が家には飼い猫がいますが、その子の死すら看取る勇気はない。死体を見て、葬ることは出来ない。最低ですね。家族にその役目を押し付けて、自分だけ逃げようとしている。辛いのはみんな同じなのに・・・。
今もまだあの子猫は鳴いています。明日にはもう止むでしょう。片手で持って歩けるサイズ、黒くてしっぽは半端な長さ、先っぽがホウキみたいに広がっています。今日になって少しだけ見れた黒い左眼は相変わらず目ヤニに覆われていて、鼻の周りも細かいゴミが複雑に絡み合って、目ヤニやゴミを取ってやろうと引っ張ると痛そうな顔をします。母猫を求めていつまで経っても鳴きやまず、しゃがんでいるわたしの背中によじ登ってくる。撫でてやると嬉しそうにしている。手足も顔も痩せていて小さくて、ちっとも重くない。そういう子猫でした。
わたしは絶対忘れない。何か出来る人間になってみせる。
放したのは自分勝手なエゴ。先が短いとわかりきっていても、家に置いておくことくらい出来るはずです。学校が始まって、家に誰もいなくなるにしても置いておくことくらい出来るはず。でもわたしはその可能性を、あの子の命を、諦めて放した。ひどいことをしたと思います。あの子の死体を見たくない、そんな傲慢な毒にわたしは心を冒されているんです。子どもの頃、仲の良かった野良猫たちの死を幾つも見ました。既に白骨化してしまっているのを見つけたり、蛆に死体を喰い荒らされているのを見たり。でも一番ひどかったのはこのケースです。小学校5年生くらいの頃だったと思います。学校から帰ってみると、勝手口近くのドブに老猫が浸かっていました。ぐったりして、ドブから這い出す元気すらもなく、死が目前なのは明らかでした。思い切ってドブの中に手を入れて出してみると、立つことも出来ない様子で、ハエがたかり始めていました。せめて死ぬまで傍にいてやりたかったのに、母は「親戚の集まりに行く、その猫を海に捨てに行くよ」と言ったんです。帰って来てから死体を片付けるのは面倒だから、という理屈なのだとあの時の子どもの自分にも分かりました。嫌だ、行かずにこの猫の傍にいる、と口では抵抗したものの、なぜか体に力が入らなくて。まるで、頭の中が痺れたようで。結局母にくっついて海まで行き、母がその猫を岩の上に置くのをじーっと見ていました。もう夕方、徐々に潮が満ちてくる時間帯でした。車に乗って親戚の集まりに行って、談笑したり食事をしたり、従姉妹がわたしに読ませる為に作ってくれたお話を読んだりして、・・・でも頭の中にはずっと、最後に見たあの猫の顔がありました。こっちを見てるあの猫の顔が。
わたしはあの時と同じなんですね。何も出来やしない。いえ、あの時の方がマシだったでしょう。あの時は死を看取る覚悟が出来た、でも今は出来ない。怖い。死体になってしまっているのを見たくない。今、我が家には飼い猫がいますが、その子の死すら看取る勇気はない。死体を見て、葬ることは出来ない。最低ですね。家族にその役目を押し付けて、自分だけ逃げようとしている。辛いのはみんな同じなのに・・・。
今もまだあの子猫は鳴いています。明日にはもう止むでしょう。片手で持って歩けるサイズ、黒くてしっぽは半端な長さ、先っぽがホウキみたいに広がっています。今日になって少しだけ見れた黒い左眼は相変わらず目ヤニに覆われていて、鼻の周りも細かいゴミが複雑に絡み合って、目ヤニやゴミを取ってやろうと引っ張ると痛そうな顔をします。母猫を求めていつまで経っても鳴きやまず、しゃがんでいるわたしの背中によじ登ってくる。撫でてやると嬉しそうにしている。手足も顔も痩せていて小さくて、ちっとも重くない。そういう子猫でした。
わたしは絶対忘れない。何か出来る人間になってみせる。
コメント
このエピソードの結末にある「感謝している」というコトバが、G-dark さんの葛藤を物語っていると想いました。
この出来事から数ヶ月が経ちましたが、いまだにあの子猫の黒い体の感触が、手に残っているような気がします。きっとそれはどこにでもある小さな命の死だったけれど、忘れてはいけないと思います。わたしが今までに見た、他のたくさんの小さな死も。人間の死と同様に。
読んでくださってありがとうございました。m(^-^)m
「いのち」と「死」を実感できるのは貴重な体験です。
ぜひ忘れずに保っていただけたらと思います。
勝手ながら、この日記を引用させていただきました。
http://diary.cururu.jp/knocky/50003085644