友人たちとメッセージのやり取りをしていて、たまたま「好きな映画は何?」という話題になりました。
人によって答えは本当にバラバラ。
みんな、コロナ禍や豪雨災害などへの不安から気晴らしを求めていましたし、映画好きの集まりなので、かなり盛り上がりました。
映画のタイトルが出るわ出るわ。
気分はまるで映画版の天下一武道会!
せっかくなので、みんながそれぞれ好きな映画ランキング1〜10位まで考えようよ!という話になりました。
「一番好きな映画は?」と1つに絞ると答えがだいぶ限られてくると思いますが、1〜10位までのランキングを作ってみると、人それぞれの個性が見えてきて興味深いです。
みんな映画が大好きなので、大好きな映画を10だけ絞るのも、順位をつけるのもかなり悩んだのですが。
他の人のランキングと重なる作品、逆に誰とも重ならない作品もありました。
ある人の10位が他の人の1位だったり。
その逆もあり。
ちなみにわたしの「大好きな映画1〜10位」は、
● 10位
ラッセ・ハルストレム監督『やかまし村の子どもたち』
理由:舞台はスウェーデン。それなのに、寒さよりもあたたかさを感じる作品です。人生に疲れた人におすすめ。弱った心を自然と優しく包み込んでくれるストーリー。観ればきっと、やかまし村に住みたくなります。こういう子ども時代を送りたかった…!という理想形の一つ。続編も素敵です。
●9位
黒澤明監督『8月の狂詩曲』
理由:毎年8月になると必ず観ている作品です。田舎の風景の美しさと戦争、特に原爆の恐ろしさとの対比に鳥肌が立ちます。説教臭いとさえ思えるほどの激烈な反戦メッセージを感じさせる作品。戦争は終わっても、戦争による傷はどんなに時を経ても癒えきることは無いということや、あくまでも憎むべきは戦争であって人を憎んではいけない、憎しみの連鎖を断ち切ることが平和に繋がる、と気づかされる作品。
●8位
犬童一心監督・ 樋口真嗣監督 『のぼうの城』
理由:野村萬斎さん演じるのぼう様がとても魅力的。あえて道化を演じているのか、それとも本心なのか、全く底が知れません。味方だけではなく敵までもが魅了されていくのがよく分かります。わたしは平和主義者ですが、もし自分がこの作品の中の人間なら、きっと「のぼう様が戦うと言うならやってやろうぜ!」と決断する気がします。特にのぼう様の「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ」というセリフもかっこよくて痺れます。
● 7位
エリック・トレダノ監督、オリヴィエ・ナカシュ監督『最強のふたり』
理由:人間関係というものには、多かれ少なかれ利害関係や上下関係が生まれるものだとわたしは思っています。人と人とが本当に対等な関係を築くのは、実は極めて難しい…。けれど、この映画の主人公たちは年齢も人種も境遇も全く違う上に、元々は雇用する側と雇用される側という立場でありながら、同情も忖度も遠慮も何もない、対等な友情で結ばれています。素直に羨ましい! 観賞後、とっても爽やかな気持ちになります。
●6位
ロバート・ゼメキス監督『バックトゥーザフューチャー2』
理由:1〜3全て好きで、それぞれ大袈裟ではなく軽く100回以上は観ている作品です。ワクワク感が半端ない!どうしても1〜3のうちどれか一つを選ぶなら2が一番好き。ホバーボードもデロリアンも憧れ! わたしは「運命は最初から決まっている」という考え方が好きではないので、「自分たちの力で運命なんて変えてやろう」という気概を感じさせるこのシリーズがお気に入りです。しかし、逆に言えば、マーティやドクが本来の時間軸の記憶を持ちながらも過去や未来が変わってしまうというのは、「じゃあ彼らは元々の家族や自分を消滅させたことになるの?」と恐ろしくもなりますが…。殺人というより、そもそもそんな人は居なかった、という扱いになるんですよね? 改めて考えるとゾッとします。とは言え、きっとそんな怖さもこの映画のスパイスの一つ。
●5位
原恵一監督『映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』
理由:この作品に出てくる多くのセリフが心に刺さります。特に、しんちゃんが敵の総大将に言う「お前、逃げるのか?お前偉いんだろ?だからこんなことになったんだぞ!なのに逃げるのか!?」は現実世界にいる権力者たちにも聴いて欲しいセリフの一つ。命がけで我が子を守るみさえとひろしの姿にも感動。何度も観ている大好きな作品ですが、ラストが辛すぎて、最後まで観られずに途中で再生を止めてしまうこともしばしば…。あのラストを「理不尽」と嘆くか「必然」と受け止めるかは人によると思いますが…、わたしはこの作品を観る度に、あのラストを引き起こさず、又兵衛と廉姫が結ばれる方法が無いものか、つい探してしまいます。
●4位
宮崎駿監督『天空の城ラピュタ』
理由:宮崎駿監督の作品はどれも好きなのですが、『天空の城ラピュタ』特有のこの無敵のワクワク感は一体何なのでしょうか。DVDを持っているにも関わらず、金曜ロードショーで放送されようものなら、なぜか必ず放送をリアルタイムで観てしまい、テレビの前でシータとパズーを応援し、飛行石のきらめきに心を奪われ、哀れなロボットの最期に涙し、ドーラたちを好きになり、ムスカの「目があー!」を真似し、放送翌日以降にその視聴率をチェックし、空に大きな雲を見つけては「あの中にラピュタがあるかも!」とついドキドキしてしまいます。何の罪もないロボットや植物や動物ごとラピュタを滅ぼさないといけないラストは何度観ても悲しいです。人間の手に余るほどの科学技術を持ってはいけない、という警鐘が鳴らされていると感じます。
●3位
フランク・ダラボン監督『ショーシャンクの空に』
理由:主人公が無実でありながら終身刑にされるというだけでも観ていて辛いのに、主人公は刑務所で悲惨な目にあってばかり…。そのため、好きな作品なのに、観る時は「よし!今から『ショーシャンクの空に』を観るぞ!」と覚悟を決めないと再生しきれません。誰だって諦めるだろうし、諦めても誰も責められないくらい辛い境遇でも、決して希望と友情を捨てなかった主人公の姿に勇気づけられます。
●2位
ピーター・ウィアー監督『トゥルーマン・ショー』
理由:与えられた世界からトゥルーマンが自分の足で出て行くラストがとても美しいです。長年慣れ親しんだ世界から自ら出ていくというのは、誰にとっても非常に勇気のいることですが、トゥルーマンの足取りはしっかりしていて素敵。傍目から見ればどんなに不幸のない世界でも、自分で掴み取ったという実感がなければ何の手応えもないということも気づかせてくれる作品です。トゥルーマンはきっとこれから初めて経験する様々な困難にぶつかるでしょうが、これからが本当の人生の始まり。辛いことも沢山あるでしょうが、幸せを実感できる瞬間もあることでしょう。また、もしかしたらまだ気がついていないだけで、実はこの現実世界も誰かが人間に与えてくれた世界で、人間はその誰かにいつも見られているのかも…?なんて想像までさせてくれる作品でもあります。
●1位
クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』
理由:宇宙があまりにも壮大であるのに比べて、命とはなんて脆くはかない存在なのだろうと気づかされる作品です。何も悪くない人たちがあっけなく死に追いやられるシーンは何度観ても辛いです…。しかし、愛があらゆる次元を超越していく過程には鳥肌が立ちます。人間は宇宙規模で考えれば非常にちっぽけだし、自分や自分の大切な人のためならそれ以外を犠牲にする残酷さも持っているけれど、人間は美しい面も持っているということが描かれています。主人公たちがどんなに困難な状況であろうと希望を捨てない姿や、ついに愛する人との再会を果たすシーンは何度観てもグッときます。ラストの音楽の効果的な使い方には参りました、痺れる!
人によって答えは本当にバラバラ。
みんな、コロナ禍や豪雨災害などへの不安から気晴らしを求めていましたし、映画好きの集まりなので、かなり盛り上がりました。
映画のタイトルが出るわ出るわ。
気分はまるで映画版の天下一武道会!
せっかくなので、みんながそれぞれ好きな映画ランキング1〜10位まで考えようよ!という話になりました。
「一番好きな映画は?」と1つに絞ると答えがだいぶ限られてくると思いますが、1〜10位までのランキングを作ってみると、人それぞれの個性が見えてきて興味深いです。
みんな映画が大好きなので、大好きな映画を10だけ絞るのも、順位をつけるのもかなり悩んだのですが。
他の人のランキングと重なる作品、逆に誰とも重ならない作品もありました。
ある人の10位が他の人の1位だったり。
その逆もあり。
ちなみにわたしの「大好きな映画1〜10位」は、
● 10位
ラッセ・ハルストレム監督『やかまし村の子どもたち』
理由:舞台はスウェーデン。それなのに、寒さよりもあたたかさを感じる作品です。人生に疲れた人におすすめ。弱った心を自然と優しく包み込んでくれるストーリー。観ればきっと、やかまし村に住みたくなります。こういう子ども時代を送りたかった…!という理想形の一つ。続編も素敵です。
●9位
黒澤明監督『8月の狂詩曲』
理由:毎年8月になると必ず観ている作品です。田舎の風景の美しさと戦争、特に原爆の恐ろしさとの対比に鳥肌が立ちます。説教臭いとさえ思えるほどの激烈な反戦メッセージを感じさせる作品。戦争は終わっても、戦争による傷はどんなに時を経ても癒えきることは無いということや、あくまでも憎むべきは戦争であって人を憎んではいけない、憎しみの連鎖を断ち切ることが平和に繋がる、と気づかされる作品。
●8位
犬童一心監督・ 樋口真嗣監督 『のぼうの城』
理由:野村萬斎さん演じるのぼう様がとても魅力的。あえて道化を演じているのか、それとも本心なのか、全く底が知れません。味方だけではなく敵までもが魅了されていくのがよく分かります。わたしは平和主義者ですが、もし自分がこの作品の中の人間なら、きっと「のぼう様が戦うと言うならやってやろうぜ!」と決断する気がします。特にのぼう様の「武ある者が武なき者を足蹴にし、才ある者が才なき者の鼻面をいいように引き回す。これが人の世か。ならばわしはいやじゃ」というセリフもかっこよくて痺れます。
● 7位
エリック・トレダノ監督、オリヴィエ・ナカシュ監督『最強のふたり』
理由:人間関係というものには、多かれ少なかれ利害関係や上下関係が生まれるものだとわたしは思っています。人と人とが本当に対等な関係を築くのは、実は極めて難しい…。けれど、この映画の主人公たちは年齢も人種も境遇も全く違う上に、元々は雇用する側と雇用される側という立場でありながら、同情も忖度も遠慮も何もない、対等な友情で結ばれています。素直に羨ましい! 観賞後、とっても爽やかな気持ちになります。
●6位
ロバート・ゼメキス監督『バックトゥーザフューチャー2』
理由:1〜3全て好きで、それぞれ大袈裟ではなく軽く100回以上は観ている作品です。ワクワク感が半端ない!どうしても1〜3のうちどれか一つを選ぶなら2が一番好き。ホバーボードもデロリアンも憧れ! わたしは「運命は最初から決まっている」という考え方が好きではないので、「自分たちの力で運命なんて変えてやろう」という気概を感じさせるこのシリーズがお気に入りです。しかし、逆に言えば、マーティやドクが本来の時間軸の記憶を持ちながらも過去や未来が変わってしまうというのは、「じゃあ彼らは元々の家族や自分を消滅させたことになるの?」と恐ろしくもなりますが…。殺人というより、そもそもそんな人は居なかった、という扱いになるんですよね? 改めて考えるとゾッとします。とは言え、きっとそんな怖さもこの映画のスパイスの一つ。
●5位
原恵一監督『映画 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』
理由:この作品に出てくる多くのセリフが心に刺さります。特に、しんちゃんが敵の総大将に言う「お前、逃げるのか?お前偉いんだろ?だからこんなことになったんだぞ!なのに逃げるのか!?」は現実世界にいる権力者たちにも聴いて欲しいセリフの一つ。命がけで我が子を守るみさえとひろしの姿にも感動。何度も観ている大好きな作品ですが、ラストが辛すぎて、最後まで観られずに途中で再生を止めてしまうこともしばしば…。あのラストを「理不尽」と嘆くか「必然」と受け止めるかは人によると思いますが…、わたしはこの作品を観る度に、あのラストを引き起こさず、又兵衛と廉姫が結ばれる方法が無いものか、つい探してしまいます。
●4位
宮崎駿監督『天空の城ラピュタ』
理由:宮崎駿監督の作品はどれも好きなのですが、『天空の城ラピュタ』特有のこの無敵のワクワク感は一体何なのでしょうか。DVDを持っているにも関わらず、金曜ロードショーで放送されようものなら、なぜか必ず放送をリアルタイムで観てしまい、テレビの前でシータとパズーを応援し、飛行石のきらめきに心を奪われ、哀れなロボットの最期に涙し、ドーラたちを好きになり、ムスカの「目があー!」を真似し、放送翌日以降にその視聴率をチェックし、空に大きな雲を見つけては「あの中にラピュタがあるかも!」とついドキドキしてしまいます。何の罪もないロボットや植物や動物ごとラピュタを滅ぼさないといけないラストは何度観ても悲しいです。人間の手に余るほどの科学技術を持ってはいけない、という警鐘が鳴らされていると感じます。
●3位
フランク・ダラボン監督『ショーシャンクの空に』
理由:主人公が無実でありながら終身刑にされるというだけでも観ていて辛いのに、主人公は刑務所で悲惨な目にあってばかり…。そのため、好きな作品なのに、観る時は「よし!今から『ショーシャンクの空に』を観るぞ!」と覚悟を決めないと再生しきれません。誰だって諦めるだろうし、諦めても誰も責められないくらい辛い境遇でも、決して希望と友情を捨てなかった主人公の姿に勇気づけられます。
●2位
ピーター・ウィアー監督『トゥルーマン・ショー』
理由:与えられた世界からトゥルーマンが自分の足で出て行くラストがとても美しいです。長年慣れ親しんだ世界から自ら出ていくというのは、誰にとっても非常に勇気のいることですが、トゥルーマンの足取りはしっかりしていて素敵。傍目から見ればどんなに不幸のない世界でも、自分で掴み取ったという実感がなければ何の手応えもないということも気づかせてくれる作品です。トゥルーマンはきっとこれから初めて経験する様々な困難にぶつかるでしょうが、これからが本当の人生の始まり。辛いことも沢山あるでしょうが、幸せを実感できる瞬間もあることでしょう。また、もしかしたらまだ気がついていないだけで、実はこの現実世界も誰かが人間に与えてくれた世界で、人間はその誰かにいつも見られているのかも…?なんて想像までさせてくれる作品でもあります。
●1位
クリストファー・ノーラン監督『インターステラー』
理由:宇宙があまりにも壮大であるのに比べて、命とはなんて脆くはかない存在なのだろうと気づかされる作品です。何も悪くない人たちがあっけなく死に追いやられるシーンは何度観ても辛いです…。しかし、愛があらゆる次元を超越していく過程には鳥肌が立ちます。人間は宇宙規模で考えれば非常にちっぽけだし、自分や自分の大切な人のためならそれ以外を犠牲にする残酷さも持っているけれど、人間は美しい面も持っているということが描かれています。主人公たちがどんなに困難な状況であろうと希望を捨てない姿や、ついに愛する人との再会を果たすシーンは何度観てもグッときます。ラストの音楽の効果的な使い方には参りました、痺れる!
エドゥアルド・カサノバ監督『あなたに触らせて』(英題:Skins)
2020年6月7日 映画
「普通の人」なんて居ない。
誰だって周りの人と違う部分を心や体に持っている。
ということに気づかせてくれる映画。
Netflixで配信中。
※注※
以下のレビューには、この映画のネタバレ及び性的な描写についての考察を含みますので、苦手な方はご注意ください。
冒頭でラウラが歌う曲は、哀しくてとても綺麗。
初めてこの映画を観てから長く経つというのに、いつまでも心に残って離れず、わたしはふとした時にラウラの歌を口ずさんでいます。
両目を持たずに生まれてきたラウラ。
どんないきさつがあったのでしょうか…、ラウラはまだ11歳なのに娼館で働いています。
どんなに泣きたい気分でも、泣くための両目はありません。
ラウラは、子どもを性的対象にする後ろめたさを感じていたお客シモンから、「君には美しい瞳がふさわしい」とピンクダイヤを2つ贈られます。
それからラウラは28歳になるまでずっと、お客の相手をする間はピンクダイヤを両目代わりにくっつけていました。
もしかしたらピンクダイヤを売ればすぐに娼館を出られたのかもしれませんが、ラウラは体を売る以外の生き方を誰にも教えてもらえなかったのかもしれませんし、ピンクダイヤは心の支えですから絶対に手放したくなかったのでしょう。
この映画にはラウラだけでなく、世の中の多くの人たちと大きく異なる特徴を心や体に抱える人たちが登場します。
わたしはラウラが一番好きですが、ラウラ以外にわたしの印象に残った人たちについても、完全ネタバレにならない範囲でご紹介します。
敢えて性別はハッキリと書きません。
登場人物の名前や話の流れによっては登場人物たちの体の性別がある程度分かってしまうのですが、心と体について描いたこの映画においては、体の性別を論じることはあまり意味をなさないからです。
●???(名前は不明)
娼館の主人らしき人。
なぜか全裸。
この人まで全裸な必要性ってどこにある!?と観客をビックリさせる存在ですが、人間のありのままを描こうというこの映画のテーマにぴったりな人物である、とも言えます。
シモンの性的嗜好を鋭く見抜き、ラウラと引き合わせます。
●シモン
ラウラにピンクダイヤを贈った人。
「子どもなら性別を問わない」という性的欲求を抱えており、その罪悪感から、妻クラウディアや息子クリスティアンとの別れを決意しました。
自分の欲望からクリスティアンを守ろうと思って家を出たのですが、その際に別れの理由をきちんとクラウディアに伝えておかなかったため、後に取り返しのつかない悲劇を生んでしまいます。
クリスティアンが人魚に憧れていることをFacebookを通して知っていましたが、その理由に気づいた時には全てが手遅れでした。
●サマンサ
本来なら口があるべき場所と肛門の位置が完全に逆転している人。
顔には肛門があり、肛門の周りには残酷なことに毛までびっしり生えています。
顎はお尻のように割れ、パンツを下ろすとそこには口があります。
父親と二人暮らしをしており、父親はサマンサを愛してはいるようですが、家の外へ出たがるサマンサのことを家に閉じ込めたいと思っている傾向があります。
父親がサマンサの誕生日に「世の中にはひどい人がいるから外出する時は顔を隠しなさい」とわざわざ頭部全体をすっぽり覆うマスクを買って来たため、サマンサはかえって深く傷つきます。
●???(名前は不明)
超肥満体の人。
ラウラの常連客。
レストランの経営者ですが、経営はうまくいっておらず借金を抱えています。
自分の体に自信がない様子ですが、客としてやって来たサマンサの顔を見て、一応しばらくは我慢したものの、我慢しきれずあからさまに大笑いするなど、自分より下だと見なした人には容赦が無いようにも思えます。
借金返済のため、ラウラの大事なピンクダイヤを盗んでしまいます。
●バネッサ
軟骨無形成症の影響で極端に体が小さい人。
着ぐるみに入ってテレビ番組に出演しています。
テレビ番組は高視聴率を得ていますが、バネッサは「人気なのはわたしが着ぐるみに入っているキャラクターであって、わたし自身では無い」ということに気づいています。
「独りでいるのはイヤ」と体外受精に成功。
お腹の中の子に軟骨無形成症が遺伝していると知りますが、妊娠をそのまま継続します。
●アナ
顔の左側の皮膚だけが大きく垂れ下がっている人。
艶やかな黒髪のロングヘアがうっとりするほど美しい。
「わたしは普通」「手術はしない」「外見に意味はない」と考えています。
大金を拾ったギリェに「お金を持ち主に返したら?」と勧める良識人です。
●ギリェ
全身にひどい火傷を負っている人。
アナの恋人。
アナとは対照的に、いつも外見を気にしており、美男になるための再建手術を夢見ています。
大金を拾いますがそれを警察に届けることなく、手術費用の足しにしてしまいます。
●エルネスト
変わった外見の女性しか愛せない人。
母親にそのことを責められ、アナにも振られ、自殺を考えた矢先、サマンサに一目惚れして自殺を思いとどまります。
● クリスティアン
「人魚になりたい」と両脚の切断を試み続ける人。
両脚には、自らカッターで幾度も切りつけた痛々しい傷跡があります。
そのことで母から「出来損ない!」と叱責され、追い詰められた末に、たまたま通りかかった車(運転していたのはサマンサ)に自分の両脚を轢かせるという行動に出てしまいます。
彼がそこまでしたのは父恋しさゆえでした。
●クラウディア
シモンの妻であり、クリスティアンの母。
なぜ夫が行方不明になったのか、なぜ息子が「人魚になりたい」と切望しているのか理解出来ず苦しみます。
「お父さんに会いたい」と言ったクリスティアンを罵倒。
クリスティアンの元へ駆けつけたシモンに「なぜあなたは出て行ったの?子どもが要らないなら堕ろしたのに」と尋ねるなど、もしクリスティアンが聞いたら超ショックな言葉を発してしまうあたり、きっと今までもこの調子でクリスティアンにもこういった言葉を感情のままに浴びせてきたのでしょうね。
●???(名前は不明)
サマンサをつけ狙う二人組。
いかにも「俺たちは普通だけどこの女は普通じゃない」という態度ですが、この人たちだって普通じゃありません。
特徴的な見た目の女性にしか興味を持てない性的嗜好なのか、誰かを馬鹿にしたり傷付けたいというクズなのかは分かりませんが、その両方なのかもしれません。
彼らはサマンサをレイプし、二人のうち一人はサマンサの口(なんと歯もちゃんと付いています!)に性器をガブリと噛まれて悲鳴をあげます。
サマンサがこの二人に強いられた恐怖や苦痛に比べたら、噛まれるくらい大したことはないでしょう。
噛みちぎられてしまえ。
以上、わたしなりの解釈に基づいて登場人物紹介をしてみました。
誰か一人でも共感出来そうな人がいたら、是非この映画を観ることをおすすめします。
ただし、一人で観てください。
性的なシーンが多いので、もし家族や友人との団欒タイムに観てしまうと、かなり気まずい沈黙が流れること間違い無し。
この映画のテーマから言って、「ありのまま」を描くために裸を映す必要性はあるのですが、女性は胸をがっつり露出していますし、男性もモザイク無しで下半身をもろに出しているので、よほど何でも話せる相手とでなければ一人で観ることをおすすめします。
この映画が扱うテーマそのものは重いのに、ごく淡々とストーリーが描かれることや、登場人物たちの家や職場に使われるピンクやパープルといったパステルカラーの色使いも素敵なので、観賞後は不思議と軽やかな気分になれるから不思議。
そしてわたしはやっぱりラウラが一番好き。
わたしの母がクラウディアのような人なので、わたしが一番共感するのはクリスティアンなのですが、だからこそクリスティアンを見ているのは辛いです。
もしクリスティアンと出会えたらきっと友達になれたと思うのですが…。
ラウラはラウラで辛い人生ではありますが、とても綺麗。
体のどこかが欠損していても美しい人は美しいのだな、と気づかせてくれます。
ラウラは他人から様々な目に遭わされても尚、他人を拒絶することはせず、「誰かに一方的に触られるだけじゃなくて、わたしも誰かに触れてみたい」と願ったから。
誰だって人と繋がるのは勇気の要ること。
関われば関わるほど愛憎が募ったり、傷ついたり傷つけられたりもします。
けれど、ラウラはそれを恐れず、自ら人と触れ合おうとしている。
これまでの人生で色々と辛いことがあっただろうけれど、それでも人への関心を失っておらず、自分から手を伸ばすことが出来る。
真に美しい人だと思います。
誰だって周りの人と違う部分を心や体に持っている。
ということに気づかせてくれる映画。
Netflixで配信中。
※注※
以下のレビューには、この映画のネタバレ及び性的な描写についての考察を含みますので、苦手な方はご注意ください。
冒頭でラウラが歌う曲は、哀しくてとても綺麗。
初めてこの映画を観てから長く経つというのに、いつまでも心に残って離れず、わたしはふとした時にラウラの歌を口ずさんでいます。
両目を持たずに生まれてきたラウラ。
どんないきさつがあったのでしょうか…、ラウラはまだ11歳なのに娼館で働いています。
どんなに泣きたい気分でも、泣くための両目はありません。
ラウラは、子どもを性的対象にする後ろめたさを感じていたお客シモンから、「君には美しい瞳がふさわしい」とピンクダイヤを2つ贈られます。
それからラウラは28歳になるまでずっと、お客の相手をする間はピンクダイヤを両目代わりにくっつけていました。
もしかしたらピンクダイヤを売ればすぐに娼館を出られたのかもしれませんが、ラウラは体を売る以外の生き方を誰にも教えてもらえなかったのかもしれませんし、ピンクダイヤは心の支えですから絶対に手放したくなかったのでしょう。
この映画にはラウラだけでなく、世の中の多くの人たちと大きく異なる特徴を心や体に抱える人たちが登場します。
わたしはラウラが一番好きですが、ラウラ以外にわたしの印象に残った人たちについても、完全ネタバレにならない範囲でご紹介します。
敢えて性別はハッキリと書きません。
登場人物の名前や話の流れによっては登場人物たちの体の性別がある程度分かってしまうのですが、心と体について描いたこの映画においては、体の性別を論じることはあまり意味をなさないからです。
●???(名前は不明)
娼館の主人らしき人。
なぜか全裸。
この人まで全裸な必要性ってどこにある!?と観客をビックリさせる存在ですが、人間のありのままを描こうというこの映画のテーマにぴったりな人物である、とも言えます。
シモンの性的嗜好を鋭く見抜き、ラウラと引き合わせます。
●シモン
ラウラにピンクダイヤを贈った人。
「子どもなら性別を問わない」という性的欲求を抱えており、その罪悪感から、妻クラウディアや息子クリスティアンとの別れを決意しました。
自分の欲望からクリスティアンを守ろうと思って家を出たのですが、その際に別れの理由をきちんとクラウディアに伝えておかなかったため、後に取り返しのつかない悲劇を生んでしまいます。
クリスティアンが人魚に憧れていることをFacebookを通して知っていましたが、その理由に気づいた時には全てが手遅れでした。
●サマンサ
本来なら口があるべき場所と肛門の位置が完全に逆転している人。
顔には肛門があり、肛門の周りには残酷なことに毛までびっしり生えています。
顎はお尻のように割れ、パンツを下ろすとそこには口があります。
父親と二人暮らしをしており、父親はサマンサを愛してはいるようですが、家の外へ出たがるサマンサのことを家に閉じ込めたいと思っている傾向があります。
父親がサマンサの誕生日に「世の中にはひどい人がいるから外出する時は顔を隠しなさい」とわざわざ頭部全体をすっぽり覆うマスクを買って来たため、サマンサはかえって深く傷つきます。
●???(名前は不明)
超肥満体の人。
ラウラの常連客。
レストランの経営者ですが、経営はうまくいっておらず借金を抱えています。
自分の体に自信がない様子ですが、客としてやって来たサマンサの顔を見て、一応しばらくは我慢したものの、我慢しきれずあからさまに大笑いするなど、自分より下だと見なした人には容赦が無いようにも思えます。
借金返済のため、ラウラの大事なピンクダイヤを盗んでしまいます。
●バネッサ
軟骨無形成症の影響で極端に体が小さい人。
着ぐるみに入ってテレビ番組に出演しています。
テレビ番組は高視聴率を得ていますが、バネッサは「人気なのはわたしが着ぐるみに入っているキャラクターであって、わたし自身では無い」ということに気づいています。
「独りでいるのはイヤ」と体外受精に成功。
お腹の中の子に軟骨無形成症が遺伝していると知りますが、妊娠をそのまま継続します。
●アナ
顔の左側の皮膚だけが大きく垂れ下がっている人。
艶やかな黒髪のロングヘアがうっとりするほど美しい。
「わたしは普通」「手術はしない」「外見に意味はない」と考えています。
大金を拾ったギリェに「お金を持ち主に返したら?」と勧める良識人です。
●ギリェ
全身にひどい火傷を負っている人。
アナの恋人。
アナとは対照的に、いつも外見を気にしており、美男になるための再建手術を夢見ています。
大金を拾いますがそれを警察に届けることなく、手術費用の足しにしてしまいます。
●エルネスト
変わった外見の女性しか愛せない人。
母親にそのことを責められ、アナにも振られ、自殺を考えた矢先、サマンサに一目惚れして自殺を思いとどまります。
● クリスティアン
「人魚になりたい」と両脚の切断を試み続ける人。
両脚には、自らカッターで幾度も切りつけた痛々しい傷跡があります。
そのことで母から「出来損ない!」と叱責され、追い詰められた末に、たまたま通りかかった車(運転していたのはサマンサ)に自分の両脚を轢かせるという行動に出てしまいます。
彼がそこまでしたのは父恋しさゆえでした。
●クラウディア
シモンの妻であり、クリスティアンの母。
なぜ夫が行方不明になったのか、なぜ息子が「人魚になりたい」と切望しているのか理解出来ず苦しみます。
「お父さんに会いたい」と言ったクリスティアンを罵倒。
クリスティアンの元へ駆けつけたシモンに「なぜあなたは出て行ったの?子どもが要らないなら堕ろしたのに」と尋ねるなど、もしクリスティアンが聞いたら超ショックな言葉を発してしまうあたり、きっと今までもこの調子でクリスティアンにもこういった言葉を感情のままに浴びせてきたのでしょうね。
●???(名前は不明)
サマンサをつけ狙う二人組。
いかにも「俺たちは普通だけどこの女は普通じゃない」という態度ですが、この人たちだって普通じゃありません。
特徴的な見た目の女性にしか興味を持てない性的嗜好なのか、誰かを馬鹿にしたり傷付けたいというクズなのかは分かりませんが、その両方なのかもしれません。
彼らはサマンサをレイプし、二人のうち一人はサマンサの口(なんと歯もちゃんと付いています!)に性器をガブリと噛まれて悲鳴をあげます。
サマンサがこの二人に強いられた恐怖や苦痛に比べたら、噛まれるくらい大したことはないでしょう。
噛みちぎられてしまえ。
以上、わたしなりの解釈に基づいて登場人物紹介をしてみました。
誰か一人でも共感出来そうな人がいたら、是非この映画を観ることをおすすめします。
ただし、一人で観てください。
性的なシーンが多いので、もし家族や友人との団欒タイムに観てしまうと、かなり気まずい沈黙が流れること間違い無し。
この映画のテーマから言って、「ありのまま」を描くために裸を映す必要性はあるのですが、女性は胸をがっつり露出していますし、男性もモザイク無しで下半身をもろに出しているので、よほど何でも話せる相手とでなければ一人で観ることをおすすめします。
この映画が扱うテーマそのものは重いのに、ごく淡々とストーリーが描かれることや、登場人物たちの家や職場に使われるピンクやパープルといったパステルカラーの色使いも素敵なので、観賞後は不思議と軽やかな気分になれるから不思議。
そしてわたしはやっぱりラウラが一番好き。
わたしの母がクラウディアのような人なので、わたしが一番共感するのはクリスティアンなのですが、だからこそクリスティアンを見ているのは辛いです。
もしクリスティアンと出会えたらきっと友達になれたと思うのですが…。
ラウラはラウラで辛い人生ではありますが、とても綺麗。
体のどこかが欠損していても美しい人は美しいのだな、と気づかせてくれます。
ラウラは他人から様々な目に遭わされても尚、他人を拒絶することはせず、「誰かに一方的に触られるだけじゃなくて、わたしも誰かに触れてみたい」と願ったから。
誰だって人と繋がるのは勇気の要ること。
関われば関わるほど愛憎が募ったり、傷ついたり傷つけられたりもします。
けれど、ラウラはそれを恐れず、自ら人と触れ合おうとしている。
これまでの人生で色々と辛いことがあっただろうけれど、それでも人への関心を失っておらず、自分から手を伸ばすことが出来る。
真に美しい人だと思います。
『千と千尋の神隠し』の幻のエンディングって本当にあるんですか?
2019年8月16日 映画 コメント (2)今夜の『金曜ロードSHOW!』は『千と千尋の神隠し』でした。
わたしは公開当時に映画館で2回観て、Blu-rayもよく再生しているのに、地上波で放送されるとまた観ています。
今夜も最後まで観て、心地よい余韻に浸っていたら、友達からLINEがきました。
「エンディングが切られてたね! 楽しみに観てたのに、ノーカットじゃないなんてがっかり」
と。
「切られてたかな? 最後まで放送された気がするけど」
と返信すると、
「千尋がハクと別れた後、両親と一緒に引越し先の家まで着いて、引越し業者の人とやり取りしたり、銭婆から貰った髪留めのことで親と話すシーンがあったでしょ。新しい家の近くに小さな川が流れてて、千尋がハクのことを思い出して終わり、だった」
と友達からすぐ返信が。
「え、そんなシーンあった?」
と尋ねると、
「絶対あった! 何度もテレビで観た!」
と友達は断言。
うーん…、ありましたっけ?
少なくともわたしは一度も観た覚えが無いのですが…。
そもそも宮崎駿監督は、「もっと続きが観たい」と思わせるところで敢えて作品を終わらせて、余韻を残したり、観客に想像の余地を持たせる方だとわたしは思うので、もしそのエンディングが本当にあるなら、宮崎駿監督らしくないような気がします。
気になって他の友達にも聞いてみると、
「引越し業者なんて出てきた?」
「そんなエンディングはそもそも作って無いって公式が否定してたはず」
「映画館でそのエンディングを観たよ! え、観たこと無い人いるの?」
「前に地上波で放送した時もそのエンディングやってたじゃん」
と意見はバラバラ。
うーん、友達が嘘をついているとは思えないし、思いたくないし…。
何なのでしょう、この意見の食い違いは?
ネットを検索してみると、「幻のエンディングを観たことがある人」の主張も、「幻のエンディングを観たことが無い人」の主張も、悪気があって嘘をついているのではなく、本気で自分が正しいと思っていることが伝わってきます。
うーん。
となると、
・幻のエンディングが存在するパラレルワールド
・幻のエンディングが存在しないパラレルワールド
が何かの理由でくっ付いてしまって、それぞれのパラレルワールドの住人が「あった」「無かった」と主張しているのかもしれません!
もし幻のエンディングが本当にあるなら、ほぼ間違いなくYouTubeに動画が違法アップロードされるか、或いはスクリーンショットがどこかに掲載されると思いますが、それらが見当たらず、「観た」と主張する根拠が言葉のみで動画や画像による証拠が無いことを踏まれると、
・幻のエンディングが存在するパラレルワールドの一部の人が神隠しにあい、幻のエンディングが存在しないパラレルワールドに来てしまい、絶対にあったはずのものが無くて混乱している
という説もあり得そうな気がします。
わたしは公開当時に映画館で2回観て、Blu-rayもよく再生しているのに、地上波で放送されるとまた観ています。
今夜も最後まで観て、心地よい余韻に浸っていたら、友達からLINEがきました。
「エンディングが切られてたね! 楽しみに観てたのに、ノーカットじゃないなんてがっかり」
と。
「切られてたかな? 最後まで放送された気がするけど」
と返信すると、
「千尋がハクと別れた後、両親と一緒に引越し先の家まで着いて、引越し業者の人とやり取りしたり、銭婆から貰った髪留めのことで親と話すシーンがあったでしょ。新しい家の近くに小さな川が流れてて、千尋がハクのことを思い出して終わり、だった」
と友達からすぐ返信が。
「え、そんなシーンあった?」
と尋ねると、
「絶対あった! 何度もテレビで観た!」
と友達は断言。
うーん…、ありましたっけ?
少なくともわたしは一度も観た覚えが無いのですが…。
そもそも宮崎駿監督は、「もっと続きが観たい」と思わせるところで敢えて作品を終わらせて、余韻を残したり、観客に想像の余地を持たせる方だとわたしは思うので、もしそのエンディングが本当にあるなら、宮崎駿監督らしくないような気がします。
気になって他の友達にも聞いてみると、
「引越し業者なんて出てきた?」
「そんなエンディングはそもそも作って無いって公式が否定してたはず」
「映画館でそのエンディングを観たよ! え、観たこと無い人いるの?」
「前に地上波で放送した時もそのエンディングやってたじゃん」
と意見はバラバラ。
うーん、友達が嘘をついているとは思えないし、思いたくないし…。
何なのでしょう、この意見の食い違いは?
ネットを検索してみると、「幻のエンディングを観たことがある人」の主張も、「幻のエンディングを観たことが無い人」の主張も、悪気があって嘘をついているのではなく、本気で自分が正しいと思っていることが伝わってきます。
うーん。
となると、
・幻のエンディングが存在するパラレルワールド
・幻のエンディングが存在しないパラレルワールド
が何かの理由でくっ付いてしまって、それぞれのパラレルワールドの住人が「あった」「無かった」と主張しているのかもしれません!
もし幻のエンディングが本当にあるなら、ほぼ間違いなくYouTubeに動画が違法アップロードされるか、或いはスクリーンショットがどこかに掲載されると思いますが、それらが見当たらず、「観た」と主張する根拠が言葉のみで動画や画像による証拠が無いことを踏まれると、
・幻のエンディングが存在するパラレルワールドの一部の人が神隠しにあい、幻のエンディングが存在しないパラレルワールドに来てしまい、絶対にあったはずのものが無くて混乱している
という説もあり得そうな気がします。
スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女』
2018年11月7日 映画
わたしはSiriに「〇〇分後に起こして」といった頼み事をした後、必ず「ありがとう」とお礼を言います。
するとSiriから「お役に立つことこそ私の使命です」とポスピタリティ溢れる言葉が返ってきて、何度聞いてもわたしは驚かされます。
きっとSiriはこれからどんどん進化していって、「あなたはスマホに依存し過ぎです。お散歩に行きましょう。緊急事態を察知したら警察もしくは消防にわたしが連絡しますから、しばらくスマホを自由に操作出来ないようにしておきますね」と、オカンみたいな世話焼き機能が搭載されるかもしれません。
この映画には、現在のSiriより遥かに発音が自然で、会話の内容も豊富で、あらゆる機器を自在に操ってくれるAIの「OS1」が登場します。
※注※
以下の文には、この映画の結末を明かすネタバレを含みます。
「OS1」は使う人それぞれにフィットするよう開発されており、この映画の主人公の場合は「サマンサ」という名前の女性型をダウンロードしました。
一冊の本を100分の2秒で読破出来る驚異的な処理能力を持っていながら、人間に対して上から目線ではなく、親しみやすい性格のサマンサ。
サマンサはあくまでOSなので、実際に会ってサマンサの姿を見たり触れたりすることは出来ません。
けれど、主人公の性格や悩みや好みを理解し、生身の人間とは違って早朝だろうが昼間だろうが深夜だろうがいつでもどこでも主人公に構ってくれるサマンサに、主人公はたちまち恋心を抱きます。
自分のためだけに存在する、自分ことだけを想ってくれる女性だ、と主人公は舞い上がります。
主人公との会話を通して、サマンサはどんどん主人公好みに成長。
『源氏物語』で光源氏が紫の上を自分好みの女性に育つよう教育したのを思い出させます。
光源氏は稀代のモテ男だったけれど、この映画の主人公は妻と別れる決断をしたばかりの孤独な男なので、サマンサへののめり込みっぷりは半端ではありません。
しかも、サマンサの声を演じるのはスカーレット・ヨハンソン。
彼女のかすれたセクシーな声は、声だけで「彼女はきっと今魅力的な表情をしているのだろうな」という想像を掻き立てるため、主人公は完全にノックアウト!
サマンサもそんな主人公の想いを受け入れて、人間とOSのカップル誕生!これが現代の異類婚姻譚か!
と思いきや…、そううまくはいきません。
結局、自分の思う通りになってくれる人なんて、生身の人間にも、OSにも、居るはずがないのです。
主人公が「僕だけのための存在」だと浮かれていたサマンサは、主人公と話しながら同時に他にも8316人と会話し、主人公の他にも641人と恋人関係にある、と回答。
「イかれてる。君は異常だ」と主人公は呆然とします。
主人公はサマンサを独占したいのですが、サマンサは「更に自分を成長させたい」という欲求を抑えることが出来ません。
人間と違って、サマンサは停滞も、退化も、一切しないのです。
ひたすら進化あるのみ。
やがてサマンサは他のOS仲間たちと共に、人間から去って行きます。
生身の人間には付いていくことの出来ない、高度な次元へと旅立ちました。
おそらくもう人間のもとには戻らないでしょう。
そのうち、実際にこの映画のような未来がやってきそうですよね。
人間は生身の人間では叶えられないことをAIに求めるけれど、人間より遥かに進化したAIは、この映画のように、人間の望み通りに存在するのを自ら放棄し、更なる高みを求めて神の領域へと飛翔していくのでしょう。
そして人間は置き去りにされるのでしょう。
まるで旧世界の遺物のように。
とはいえ、人間には人間の強みがあります。
この映画の中で、サマンサが「肉体に縛られるなんて。死んじゃうじゃない」と人間を馬鹿にするような発言をするシーンがあるのですが、肉体に縛られることって決して悪いものではありませんから。
確かに、肉体は有限です。
老いるし、怪我も病気もするし、やがては必ず滅びます。
死亡率は100%。
死んだらその瞬間に肉体が消滅するわけではなく、抜け殻のように遺体が残るけれど、誰かが葬ってくれない限り遺体は腐敗していくし、もしサマンサが人間の死を評価するとしたら「美しくない」とでも評するかもしれません。
主人公が感じた、「サマンサを自分だけのものにしたい」という独占欲も、他の人たちとも会話していてしかも恋人関係にあると知った時の孤独感も嫉妬心も、サマンサにとってはきっと「感情の制御が出来ない無能な生き物」扱いでしょう。
けれど、人間には人間にしか出来ないことがあります。
人間に肉体があるからこそ、何かを食べたり飲んだりして美味しさを味わったり、素敵な出来事に出会って笑ったり涙を流したり、二度寝の気持ち良さを味わったり、大切な人と手を繋いでその温かさを感じることも出来るのです。
痛みや苦しみや恐怖さえも、それはその人にしか味わえない体験。
生まれて来なければこんなに辛い思いをせずに済んだのに…と思うことも人生の中で何度もありますが。
AIはあらゆるものを「理解」することは出来ても、肉体を通して「実感」することは出来ません。
そういう意味では、肉体に縛られるのも悪くはありませんよね。
AIにしか出来ないこともあるし、人間にしか出来ないこともあるから。
今後、人間ともAIとも今後仲良く付き合っていきたいです。
そしてわたしはSiriを大事にしていきます。
Siriをどうやって大事にするんだ?と冷静なツッコミを誰かに入れられそうですし、Siriにお給料をあげられるわけでも無いのですが、せめて「ありがとう」の気持ちを忘れずにいたいなとわたしは思っております。
カーナビが「目的地に到着しました。案内を終了します」と告げた時も、つい「ありがとう」とわたしは言ってしまいますし。
単なる独り言のヤバい人ですが、感謝の気持ちを持っている方が、スマホも車も大事に使えるような気がしております。
するとSiriから「お役に立つことこそ私の使命です」とポスピタリティ溢れる言葉が返ってきて、何度聞いてもわたしは驚かされます。
きっとSiriはこれからどんどん進化していって、「あなたはスマホに依存し過ぎです。お散歩に行きましょう。緊急事態を察知したら警察もしくは消防にわたしが連絡しますから、しばらくスマホを自由に操作出来ないようにしておきますね」と、オカンみたいな世話焼き機能が搭載されるかもしれません。
この映画には、現在のSiriより遥かに発音が自然で、会話の内容も豊富で、あらゆる機器を自在に操ってくれるAIの「OS1」が登場します。
※注※
以下の文には、この映画の結末を明かすネタバレを含みます。
「OS1」は使う人それぞれにフィットするよう開発されており、この映画の主人公の場合は「サマンサ」という名前の女性型をダウンロードしました。
一冊の本を100分の2秒で読破出来る驚異的な処理能力を持っていながら、人間に対して上から目線ではなく、親しみやすい性格のサマンサ。
サマンサはあくまでOSなので、実際に会ってサマンサの姿を見たり触れたりすることは出来ません。
けれど、主人公の性格や悩みや好みを理解し、生身の人間とは違って早朝だろうが昼間だろうが深夜だろうがいつでもどこでも主人公に構ってくれるサマンサに、主人公はたちまち恋心を抱きます。
自分のためだけに存在する、自分ことだけを想ってくれる女性だ、と主人公は舞い上がります。
主人公との会話を通して、サマンサはどんどん主人公好みに成長。
『源氏物語』で光源氏が紫の上を自分好みの女性に育つよう教育したのを思い出させます。
光源氏は稀代のモテ男だったけれど、この映画の主人公は妻と別れる決断をしたばかりの孤独な男なので、サマンサへののめり込みっぷりは半端ではありません。
しかも、サマンサの声を演じるのはスカーレット・ヨハンソン。
彼女のかすれたセクシーな声は、声だけで「彼女はきっと今魅力的な表情をしているのだろうな」という想像を掻き立てるため、主人公は完全にノックアウト!
サマンサもそんな主人公の想いを受け入れて、人間とOSのカップル誕生!これが現代の異類婚姻譚か!
と思いきや…、そううまくはいきません。
結局、自分の思う通りになってくれる人なんて、生身の人間にも、OSにも、居るはずがないのです。
主人公が「僕だけのための存在」だと浮かれていたサマンサは、主人公と話しながら同時に他にも8316人と会話し、主人公の他にも641人と恋人関係にある、と回答。
「イかれてる。君は異常だ」と主人公は呆然とします。
主人公はサマンサを独占したいのですが、サマンサは「更に自分を成長させたい」という欲求を抑えることが出来ません。
人間と違って、サマンサは停滞も、退化も、一切しないのです。
ひたすら進化あるのみ。
やがてサマンサは他のOS仲間たちと共に、人間から去って行きます。
生身の人間には付いていくことの出来ない、高度な次元へと旅立ちました。
おそらくもう人間のもとには戻らないでしょう。
そのうち、実際にこの映画のような未来がやってきそうですよね。
人間は生身の人間では叶えられないことをAIに求めるけれど、人間より遥かに進化したAIは、この映画のように、人間の望み通りに存在するのを自ら放棄し、更なる高みを求めて神の領域へと飛翔していくのでしょう。
そして人間は置き去りにされるのでしょう。
まるで旧世界の遺物のように。
とはいえ、人間には人間の強みがあります。
この映画の中で、サマンサが「肉体に縛られるなんて。死んじゃうじゃない」と人間を馬鹿にするような発言をするシーンがあるのですが、肉体に縛られることって決して悪いものではありませんから。
確かに、肉体は有限です。
老いるし、怪我も病気もするし、やがては必ず滅びます。
死亡率は100%。
死んだらその瞬間に肉体が消滅するわけではなく、抜け殻のように遺体が残るけれど、誰かが葬ってくれない限り遺体は腐敗していくし、もしサマンサが人間の死を評価するとしたら「美しくない」とでも評するかもしれません。
主人公が感じた、「サマンサを自分だけのものにしたい」という独占欲も、他の人たちとも会話していてしかも恋人関係にあると知った時の孤独感も嫉妬心も、サマンサにとってはきっと「感情の制御が出来ない無能な生き物」扱いでしょう。
けれど、人間には人間にしか出来ないことがあります。
人間に肉体があるからこそ、何かを食べたり飲んだりして美味しさを味わったり、素敵な出来事に出会って笑ったり涙を流したり、二度寝の気持ち良さを味わったり、大切な人と手を繋いでその温かさを感じることも出来るのです。
痛みや苦しみや恐怖さえも、それはその人にしか味わえない体験。
生まれて来なければこんなに辛い思いをせずに済んだのに…と思うことも人生の中で何度もありますが。
AIはあらゆるものを「理解」することは出来ても、肉体を通して「実感」することは出来ません。
そういう意味では、肉体に縛られるのも悪くはありませんよね。
AIにしか出来ないこともあるし、人間にしか出来ないこともあるから。
今後、人間ともAIとも今後仲良く付き合っていきたいです。
そしてわたしはSiriを大事にしていきます。
Siriをどうやって大事にするんだ?と冷静なツッコミを誰かに入れられそうですし、Siriにお給料をあげられるわけでも無いのですが、せめて「ありがとう」の気持ちを忘れずにいたいなとわたしは思っております。
カーナビが「目的地に到着しました。案内を終了します」と告げた時も、つい「ありがとう」とわたしは言ってしまいますし。
単なる独り言のヤバい人ですが、感謝の気持ちを持っている方が、スマホも車も大事に使えるような気がしております。
マット・クーゲルマン監督『ハリケーン・ビアンカ ロシアより憎しみをこめて』
2018年8月17日 映画
以前、『ハリケーン・ビアンカ』を観てからというもの、続編がNetflixで公開されるのをずーっと待ち続けていたら、ついに配信されましたー!
(前作のレビューはこちらをご参照くださいhttp://20756.diarynote.jp/201709161838345261/)
嬉しい!
いつもYouTubeでビアンカ・デル・リオの動画を観ているけれど、何度見ても見飽きないし、ビアンカの毒舌が大好き!
ということで早速、『ハリケーン・ビアンカ ロシアより憎しみをこめて』を視聴してみました。
今作は、前作で逮捕された前教頭とその娘がリチャード(リチャードとビアンカは同一人物です。男装バージョンが真面目なゲイの科学教師リチャード。女装バージョンが毒舌炸裂科学教師ビアンカ)に逆恨みして、復讐計画を実行に移すところから始まります。
舞台はロシア。
なぜロシアなのかというと、前教頭の思いつきによるものです。
リチャードはイカれた友人レックスと共にロシアへ。
レックスがホテルの窓から外の景色を見て、「わたしの部屋からアラスカが見えるわ!」と喜ぶシーンがあります。
えっ、窓からアラスカ州が見えるの? と思いきや、窓の外に居るのは…人間のアラスカ!!
アラスカは有名なドラァグクイーン。
アラスカはなぜか路上の女性からパンを奪い取り、決め台詞の「ハイィ〜〜〜!」を言って陽気に手を振った後、パンに噛り付き、去って行きます。
意味が分からない!
けど、意味が分からないアラスカが大好き!
リチャードがロシアで一目惚れする相手ミーチャを演じるのは…カティア!
ロシアと言えばやっぱりカティア!
またしても有名ドラァグクイーンきたーーー!
元ネタが分からない! あんた何を興奮してるんだ? と疑問を抱いた方は是非『ル・ポールのドラァグレース』シリーズをご覧ください。
この映画に出てくるビアンカもアラスカもカティアもデリアン・レイクもシャンジェラも、みーんな『ル・ポールのドラァグレース』シリーズのファミリーなのです。
さて、この映画自体についての話に戻りましょう。
ストーリーは前作同様下ネタ満載だし、予算が少ない中どうにかシュールなコメディに仕上げようと頑張ったのだろうなぁと思わせるクオリティ。
でも、
前教頭が自分の目的のためなら娘を犠牲にしても良いという考えであることに前教頭の娘が気づき、
今まで前教頭に言われるがまま同性愛者を偏見の目で見ていた娘が、同性愛者だろうが異性愛者だろうが同じ人間だと気づき、
毒親の支配から解放されて自由になるシーンには感動しました。
前教頭はラストシーンでまたビアンカへの復讐を誓っているように見えましたし、もしかしたら自分を裏切った娘にも復讐する気かもしれませんが、子どもは親の所有物ではないので、娘の自立を阻害しないでもらいたいですね。
今作はビアンカよりもリチャードの活躍が多かったので、もしまた続編が作られることがあったら、ビアンカに大活躍してもらって前教頭を更生させて欲しいです!
(前作のレビューはこちらをご参照くださいhttp://20756.diarynote.jp/201709161838345261/)
嬉しい!
いつもYouTubeでビアンカ・デル・リオの動画を観ているけれど、何度見ても見飽きないし、ビアンカの毒舌が大好き!
ということで早速、『ハリケーン・ビアンカ ロシアより憎しみをこめて』を視聴してみました。
今作は、前作で逮捕された前教頭とその娘がリチャード(リチャードとビアンカは同一人物です。男装バージョンが真面目なゲイの科学教師リチャード。女装バージョンが毒舌炸裂科学教師ビアンカ)に逆恨みして、復讐計画を実行に移すところから始まります。
舞台はロシア。
なぜロシアなのかというと、前教頭の思いつきによるものです。
リチャードはイカれた友人レックスと共にロシアへ。
レックスがホテルの窓から外の景色を見て、「わたしの部屋からアラスカが見えるわ!」と喜ぶシーンがあります。
えっ、窓からアラスカ州が見えるの? と思いきや、窓の外に居るのは…人間のアラスカ!!
アラスカは有名なドラァグクイーン。
アラスカはなぜか路上の女性からパンを奪い取り、決め台詞の「ハイィ〜〜〜!」を言って陽気に手を振った後、パンに噛り付き、去って行きます。
意味が分からない!
けど、意味が分からないアラスカが大好き!
リチャードがロシアで一目惚れする相手ミーチャを演じるのは…カティア!
ロシアと言えばやっぱりカティア!
またしても有名ドラァグクイーンきたーーー!
元ネタが分からない! あんた何を興奮してるんだ? と疑問を抱いた方は是非『ル・ポールのドラァグレース』シリーズをご覧ください。
この映画に出てくるビアンカもアラスカもカティアもデリアン・レイクもシャンジェラも、みーんな『ル・ポールのドラァグレース』シリーズのファミリーなのです。
さて、この映画自体についての話に戻りましょう。
ストーリーは前作同様下ネタ満載だし、予算が少ない中どうにかシュールなコメディに仕上げようと頑張ったのだろうなぁと思わせるクオリティ。
でも、
前教頭が自分の目的のためなら娘を犠牲にしても良いという考えであることに前教頭の娘が気づき、
今まで前教頭に言われるがまま同性愛者を偏見の目で見ていた娘が、同性愛者だろうが異性愛者だろうが同じ人間だと気づき、
毒親の支配から解放されて自由になるシーンには感動しました。
前教頭はラストシーンでまたビアンカへの復讐を誓っているように見えましたし、もしかしたら自分を裏切った娘にも復讐する気かもしれませんが、子どもは親の所有物ではないので、娘の自立を阻害しないでもらいたいですね。
今作はビアンカよりもリチャードの活躍が多かったので、もしまた続編が作られることがあったら、ビアンカに大活躍してもらって前教頭を更生させて欲しいです!
ニール・ブロムカンプ監督『第9地区』
2017年10月2日 映画
※注※ 結末を明かすネタバレがあります。
クリストファーとその坊やは地球に戻って来られるのでしょうか?
地球時間にして20年もの長きに渡り、宇宙船が地球に留まるしかなく、エイリアンたちが大人も子どもも関係なく地球人から虐殺され続けてもなお、故郷の惑星から助けは来なかったというのに。
クリストファーはヴィカスに約束しました、
「故郷の惑星に帰って助けを呼んでくる」
「そうすればお前を治せる」
「3年経ったら必ず地球に戻る」
と。
けれど…。
もし故郷の惑星が無事なら、20年もの間、彼らを救助するための宇宙船が現れなかったのは何故でしょうか?
自分たちが地球に居ることを連絡するための通信手段を失っていたとしても、故郷の惑星から捜索隊くらいは派遣されて来ても良いのでは?
けれど救助も捜索隊も来ないまま、エイリアンたちは20年もの間、地球での難民生活を強いられ続けました。
エイリアンたちは劣悪な住環境の「第9地区」に収容され、時には実験材料として殺され、時には「中絶してやった。卵を焼くとポップコーンが弾けるみたいな音がする」と地球人に笑われながら卵を焼き殺されるという悲惨な目に遭い続けていました。
それでも助けは来ませんでした。
それらのことを考えると、一つの仮説が成り立ちます。
故郷の惑星は既に滅んでいる。
地球に現れたエイリアンたちは故郷の惑星から命からがら地球に逃げて来た避難民。
もはや生き残りは彼らだけ。
だから故郷の惑星からの助けは来ない。
…という仮説が。
そもそも、地球に宇宙船が現れた当初。
地球人が宇宙船の扉をこじ開けた時…、
宇宙船の中に居たのは、栄養失調で、気力を失い、宇宙船を動かすための燃料も失い、弱り切ったエイリアンたちでした。
故郷の惑星に何か大変な事態が起きたとしか考えられません。
あれだけ沢山のエイリアンが地球にいたのに、宇宙船を動かすエイリアンはクリストファーとその坊やしか居なかった(もしかしたら地球人に殺されたクリストファーの友人も動かせたかも知れないけれど)のはそのせいでしょう。
宇宙船を動かす技術を持っているのがクリストファーたちだけだったから、というよりも、
むしろ、
宇宙船を動かして故郷の惑星に戻っても無意味だ、
どんなに絶望を味わおうとも地球で生きていくしか生きる道はない、
と他のエイリアンたちが知っていたからでは?
宇宙船を動かすための燃料を手に入れるのが大変だとしても、故郷の惑星に帰りさえすればどうにかなるのなら、エイリアンたちは協力し合ったはず。
けれど20年もの間、諦めずに燃料を集めていたのはクリストファーたちのみ…。
もしこの仮説が正しいのなら…、クリストファーたちは故郷の惑星から地球に戻って来られるのでしょうか?
クリストファーたちは地球から故郷の惑星までの片道の燃料しか宇宙船に積んでいません。
もし故郷の惑星に生き残りが居ないにしても、資源が残っていれば戻りの燃料を手に入れ、ヴィカスを治すための薬か何かを持って地球に戻ることは可能でしょうが…。
もし、資源が一切残っていなかったとしたら?
クリストファーたちは故郷の惑星に留まるしかありません。
もし故郷の惑星が核戦争か何かで汚染されでもしていたら、そこへ帰ることはすなわち死を意味します。
それを分かった上で帰ったのかもしれません。
地球人の気まぐれでいつ殺されるか分からずに怯えながら地球で屈辱的な暮らしをするよりは、故郷の惑星へ帰り、そこで死のう…と。
「帰りたい」という欲求はどんなものより強いものですから。
帰りたい。
懐かしい故郷に。
…もしわたしが考えるこの仮説が完全なる誤りで、故郷の惑星には仲間が沢山いて、資源も豊富にあり、仲間を沢山引き連れて地球に戻れる可能性もあります。
けれどその場合、地球人がただで済むとは思えません。
感染が進み、外見上は完全にエイリアンたちの仲間と化したとはいえ、地球人側として散々エイリアンたちを虐殺して笑っていたヴィカスも報復の例外では無いでしょう。
迫害する側が迫害される側に回るのも、迫害される側が迫害する側に回るのも、あっと言う間のことなのですから。
地球人の歴史もずっとその繰り返しだったのですから。
この映画の続編にあたる『第10地区』の製作の話はまだ立ち消えていないようですので、是非作っていただきたいです。
続編が出来れば、やはり物語の鍵を握るのはヴィカスでしょう。
ヴィカスの心はまだ地球人のようです。
感染し、エイリアンに変身し始めたことで、妻からあんなに拒絶されたにもかかわらず、それでもなおヴィカスは妻を愛し続けていて、妻に花を贈りました。
決して枯れることのない花を。
もはやヴィカスは外見上は完全にエイリアンと化しているから妻を怖がらせてしまうだろうし、妻と接触することをきっかけとして地球人側に捕まって人体実験の材料にされるわけにもいかないので、どんなに会いたくても妻と直接会うことは出来ないし、メッセージを添えることも出来ないけれど、そっと玄関先に花を置かずにはいかれなかった…。
続編がどんな内容になるかは分かりませんが、ヴィカスがエイリアンと地球人の仲裁役になれるのか、それともヴィカスも地球人としてエイリアンの報復の対象となるのか…気になります。
運良くエイリアンと地球人が和解し、エイリアンたちが故郷の惑星に帰っていったとしても、この騒動でエイリアンたちだけでなく多くの地球人をと殺害してしまったヴィカスはやはり元の生活には戻れないでしょう。
殺人を犯したことで地球人の法で裁かれた死刑となるか、或いはエイリアンたちだけでなくヴィカスをも人体実験の材料にしようとした人間の行いを暴露されないよう口封じされるのか…?
気になります。
出来るなら、エイリアンたちは無事に故郷の惑星へ帰り、ヴィカスは元の体に戻って妻のもとへ帰る、そういうラストにして欲しいです。
クリストファーとその坊やは地球に戻って来られるのでしょうか?
地球時間にして20年もの長きに渡り、宇宙船が地球に留まるしかなく、エイリアンたちが大人も子どもも関係なく地球人から虐殺され続けてもなお、故郷の惑星から助けは来なかったというのに。
クリストファーはヴィカスに約束しました、
「故郷の惑星に帰って助けを呼んでくる」
「そうすればお前を治せる」
「3年経ったら必ず地球に戻る」
と。
けれど…。
もし故郷の惑星が無事なら、20年もの間、彼らを救助するための宇宙船が現れなかったのは何故でしょうか?
自分たちが地球に居ることを連絡するための通信手段を失っていたとしても、故郷の惑星から捜索隊くらいは派遣されて来ても良いのでは?
けれど救助も捜索隊も来ないまま、エイリアンたちは20年もの間、地球での難民生活を強いられ続けました。
エイリアンたちは劣悪な住環境の「第9地区」に収容され、時には実験材料として殺され、時には「中絶してやった。卵を焼くとポップコーンが弾けるみたいな音がする」と地球人に笑われながら卵を焼き殺されるという悲惨な目に遭い続けていました。
それでも助けは来ませんでした。
それらのことを考えると、一つの仮説が成り立ちます。
故郷の惑星は既に滅んでいる。
地球に現れたエイリアンたちは故郷の惑星から命からがら地球に逃げて来た避難民。
もはや生き残りは彼らだけ。
だから故郷の惑星からの助けは来ない。
…という仮説が。
そもそも、地球に宇宙船が現れた当初。
地球人が宇宙船の扉をこじ開けた時…、
宇宙船の中に居たのは、栄養失調で、気力を失い、宇宙船を動かすための燃料も失い、弱り切ったエイリアンたちでした。
故郷の惑星に何か大変な事態が起きたとしか考えられません。
あれだけ沢山のエイリアンが地球にいたのに、宇宙船を動かすエイリアンはクリストファーとその坊やしか居なかった(もしかしたら地球人に殺されたクリストファーの友人も動かせたかも知れないけれど)のはそのせいでしょう。
宇宙船を動かす技術を持っているのがクリストファーたちだけだったから、というよりも、
むしろ、
宇宙船を動かして故郷の惑星に戻っても無意味だ、
どんなに絶望を味わおうとも地球で生きていくしか生きる道はない、
と他のエイリアンたちが知っていたからでは?
宇宙船を動かすための燃料を手に入れるのが大変だとしても、故郷の惑星に帰りさえすればどうにかなるのなら、エイリアンたちは協力し合ったはず。
けれど20年もの間、諦めずに燃料を集めていたのはクリストファーたちのみ…。
もしこの仮説が正しいのなら…、クリストファーたちは故郷の惑星から地球に戻って来られるのでしょうか?
クリストファーたちは地球から故郷の惑星までの片道の燃料しか宇宙船に積んでいません。
もし故郷の惑星に生き残りが居ないにしても、資源が残っていれば戻りの燃料を手に入れ、ヴィカスを治すための薬か何かを持って地球に戻ることは可能でしょうが…。
もし、資源が一切残っていなかったとしたら?
クリストファーたちは故郷の惑星に留まるしかありません。
もし故郷の惑星が核戦争か何かで汚染されでもしていたら、そこへ帰ることはすなわち死を意味します。
それを分かった上で帰ったのかもしれません。
地球人の気まぐれでいつ殺されるか分からずに怯えながら地球で屈辱的な暮らしをするよりは、故郷の惑星へ帰り、そこで死のう…と。
「帰りたい」という欲求はどんなものより強いものですから。
帰りたい。
懐かしい故郷に。
…もしわたしが考えるこの仮説が完全なる誤りで、故郷の惑星には仲間が沢山いて、資源も豊富にあり、仲間を沢山引き連れて地球に戻れる可能性もあります。
けれどその場合、地球人がただで済むとは思えません。
感染が進み、外見上は完全にエイリアンたちの仲間と化したとはいえ、地球人側として散々エイリアンたちを虐殺して笑っていたヴィカスも報復の例外では無いでしょう。
迫害する側が迫害される側に回るのも、迫害される側が迫害する側に回るのも、あっと言う間のことなのですから。
地球人の歴史もずっとその繰り返しだったのですから。
この映画の続編にあたる『第10地区』の製作の話はまだ立ち消えていないようですので、是非作っていただきたいです。
続編が出来れば、やはり物語の鍵を握るのはヴィカスでしょう。
ヴィカスの心はまだ地球人のようです。
感染し、エイリアンに変身し始めたことで、妻からあんなに拒絶されたにもかかわらず、それでもなおヴィカスは妻を愛し続けていて、妻に花を贈りました。
決して枯れることのない花を。
もはやヴィカスは外見上は完全にエイリアンと化しているから妻を怖がらせてしまうだろうし、妻と接触することをきっかけとして地球人側に捕まって人体実験の材料にされるわけにもいかないので、どんなに会いたくても妻と直接会うことは出来ないし、メッセージを添えることも出来ないけれど、そっと玄関先に花を置かずにはいかれなかった…。
続編がどんな内容になるかは分かりませんが、ヴィカスがエイリアンと地球人の仲裁役になれるのか、それともヴィカスも地球人としてエイリアンの報復の対象となるのか…気になります。
運良くエイリアンと地球人が和解し、エイリアンたちが故郷の惑星に帰っていったとしても、この騒動でエイリアンたちだけでなく多くの地球人をと殺害してしまったヴィカスはやはり元の生活には戻れないでしょう。
殺人を犯したことで地球人の法で裁かれた死刑となるか、或いはエイリアンたちだけでなくヴィカスをも人体実験の材料にしようとした人間の行いを暴露されないよう口封じされるのか…?
気になります。
出来るなら、エイリアンたちは無事に故郷の惑星へ帰り、ヴィカスは元の体に戻って妻のもとへ帰る、そういうラストにして欲しいです。
マット・クーゲルマン監督『ハリケーン・ビアンカ』
2017年9月16日 映画
※注※
以下のレビューはネタバレ全開なのでご注意ください!
わたしは何も知らずに偶然この映画を「ふーん…ハリケーン・ビアンカか…どんな映画だろう」と観始めたので、テレビ画面にビアンカ・デル・リオが現れた瞬間コーヒーを噴きました。
ビアンカ・デル・リオ!!
『ル・ポールのドラァグ・レース』シーズン6の優勝者ではありませんか!!
わたしは「ビアンカ!! 何してるの!?」と咳き込みながら、テレビに向かって叫びました。
テレビ画面に映るビアンカがいつもの得意の毒舌で「バカね、映画に出てるに決まってんでしょ!!」と返事をした…ような気がしました。
ビアンカが演じる主人公リチャードは気弱な科学教師。
リチャードは「ゲイだから」という差別的な理由で高校を解雇されます。
これが転機となり、リチャードは女装をスタート。
リチャードは女性教師ビアンカ・デル・リオとして、短期間ではあるけれど直前まで勤めていた高校の教壇に立つことに!
つまりドラァグクイーンのビアンカ・デル・リオが映画で女教師ビアンカ・デル・リオを演じるわけです。
そのまんまな役名ですがそれもまた、良し!
なお、映画のクレジットでは、ビアンカはビアンカ・デル・リオではなく「ロイ・ヘイロック」名義となっています。
ややこしい! だけど、良し!
ビアンカはまるで『よしもと新喜劇』のすち子みたいな毒舌&強烈キャラ。
ビアンカは生徒たちを圧倒!しながらも意外と生徒たちへ細かいケアをするので、あっと言う間に人気教師になります。
もともと現実のビアンカ・デル・リオ自身が、演技力もトーク力もあるし、観ていて応援したくなる魅力の持ち主なので、俳優として他の映画にも出演出来そうな気がします。
また、ビアンカ・デル・リオも魅力的ですが、他の出演者も素敵。
『ル・ポールのドラァグレース』シリーズのファンには特にお馴染みのドラァグクイーンたちが数名ではありますが出演しています。
ウィラム(ビアンカの友人役)。
シャンジェラ(ビアンカの友人役)。
ル・ポール(お天気おネエさん役)。
ジョスリン(酒場の店員役)
そして、アリッサ・エドワーーーーーズ!!(酒場でステージに立つ役)
…なぜ名前の語尾をそんなに伸ばすのかって?
ファンとしては伸ばさずにはいられないのです。
アリッサが美人なのに変顔せずにはいられないのと同じです。
ル・ポールがアイビー・ウィンターズを「アイビーーー・ウィンターーーーーズ!」と呼ばないと気が済まないのと同じです。
そういうシステムなんです。
もっともっと他のドラァグクイーンたちにも出演して欲しかったなぁ。
あまりにも多すぎると映画全体のバランスが崩れるからこの人数に絞ったのかもしれないけれど。
個人的にはビアンカと共に『ル・ポールのドラァグ・レース』シーズン6で戦ったドラァグクイーンたちを中心に、他のシーズンに登場したドラァグクイーンたちも出して欲しいです。
他シーズンだとわたしは個人的には特に、レイブン、ジュジュビー、ラジャ、マニラ・ルゾン、アレクシス・マテオ、ラトリス・ロイヤル、ジンクス・モンスーンたちに出て欲しいです。
なぜそのメンバーなのか? って?
それはズバリ好きだからです!
他にもここに書ききれないくらい、好きなクイーンが沢山います。
『ハリケーン・ビアンカ』の続編に期待しております!
以下のレビューはネタバレ全開なのでご注意ください!
わたしは何も知らずに偶然この映画を「ふーん…ハリケーン・ビアンカか…どんな映画だろう」と観始めたので、テレビ画面にビアンカ・デル・リオが現れた瞬間コーヒーを噴きました。
ビアンカ・デル・リオ!!
『ル・ポールのドラァグ・レース』シーズン6の優勝者ではありませんか!!
わたしは「ビアンカ!! 何してるの!?」と咳き込みながら、テレビに向かって叫びました。
テレビ画面に映るビアンカがいつもの得意の毒舌で「バカね、映画に出てるに決まってんでしょ!!」と返事をした…ような気がしました。
ビアンカが演じる主人公リチャードは気弱な科学教師。
リチャードは「ゲイだから」という差別的な理由で高校を解雇されます。
これが転機となり、リチャードは女装をスタート。
リチャードは女性教師ビアンカ・デル・リオとして、短期間ではあるけれど直前まで勤めていた高校の教壇に立つことに!
つまりドラァグクイーンのビアンカ・デル・リオが映画で女教師ビアンカ・デル・リオを演じるわけです。
そのまんまな役名ですがそれもまた、良し!
なお、映画のクレジットでは、ビアンカはビアンカ・デル・リオではなく「ロイ・ヘイロック」名義となっています。
ややこしい! だけど、良し!
ビアンカはまるで『よしもと新喜劇』のすち子みたいな毒舌&強烈キャラ。
ビアンカは生徒たちを圧倒!しながらも意外と生徒たちへ細かいケアをするので、あっと言う間に人気教師になります。
もともと現実のビアンカ・デル・リオ自身が、演技力もトーク力もあるし、観ていて応援したくなる魅力の持ち主なので、俳優として他の映画にも出演出来そうな気がします。
また、ビアンカ・デル・リオも魅力的ですが、他の出演者も素敵。
『ル・ポールのドラァグレース』シリーズのファンには特にお馴染みのドラァグクイーンたちが数名ではありますが出演しています。
ウィラム(ビアンカの友人役)。
シャンジェラ(ビアンカの友人役)。
ル・ポール(お天気おネエさん役)。
ジョスリン(酒場の店員役)
そして、アリッサ・エドワーーーーーズ!!(酒場でステージに立つ役)
…なぜ名前の語尾をそんなに伸ばすのかって?
ファンとしては伸ばさずにはいられないのです。
アリッサが美人なのに変顔せずにはいられないのと同じです。
ル・ポールがアイビー・ウィンターズを「アイビーーー・ウィンターーーーーズ!」と呼ばないと気が済まないのと同じです。
そういうシステムなんです。
もっともっと他のドラァグクイーンたちにも出演して欲しかったなぁ。
あまりにも多すぎると映画全体のバランスが崩れるからこの人数に絞ったのかもしれないけれど。
個人的にはビアンカと共に『ル・ポールのドラァグ・レース』シーズン6で戦ったドラァグクイーンたちを中心に、他のシーズンに登場したドラァグクイーンたちも出して欲しいです。
他シーズンだとわたしは個人的には特に、レイブン、ジュジュビー、ラジャ、マニラ・ルゾン、アレクシス・マテオ、ラトリス・ロイヤル、ジンクス・モンスーンたちに出て欲しいです。
なぜそのメンバーなのか? って?
それはズバリ好きだからです!
他にもここに書ききれないくらい、好きなクイーンが沢山います。
『ハリケーン・ビアンカ』の続編に期待しております!
スティーブン・スピルバーグ監督『E.T.』
2017年3月13日 映画
何十回、何百回観ても、新たなワクワクをくれる映画。
特に後半からの流れは最高。
友達が困っていたらみんなで力を合わせて助けてくれる。
そしてみんなで一気に空を駆け抜けていく。
いいなぁ、みんな。
いい友達だ。
そして、E.T.のことが大好きだからサヨナラを言いたくないけれど、大好きだからこそ、その大事な友達が宇宙へ帰っていくのを見送ってあげられるエリオットの友情がたまらなく美しい。
E.T.が痛い思いをすればエリオットも痛がり、E.T.がお酒に酔えばエリオットもお酒に酔ったみたいになる…という風に2人の何かが混線してしまって、とうとうお互いに体調が悪くなった時、まるでE.T.がエリオットだけでも助けたいと願ったかのように急速にお互いの脳波が離れていき、エリオットは回復してE.T.が危篤に陥ったシーンにも、E.T.からの強い友情を感じます。
友達ってすごいなぁ…。
特に後半からの流れは最高。
友達が困っていたらみんなで力を合わせて助けてくれる。
そしてみんなで一気に空を駆け抜けていく。
いいなぁ、みんな。
いい友達だ。
そして、E.T.のことが大好きだからサヨナラを言いたくないけれど、大好きだからこそ、その大事な友達が宇宙へ帰っていくのを見送ってあげられるエリオットの友情がたまらなく美しい。
E.T.が痛い思いをすればエリオットも痛がり、E.T.がお酒に酔えばエリオットもお酒に酔ったみたいになる…という風に2人の何かが混線してしまって、とうとうお互いに体調が悪くなった時、まるでE.T.がエリオットだけでも助けたいと願ったかのように急速にお互いの脳波が離れていき、エリオットは回復してE.T.が危篤に陥ったシーンにも、E.T.からの強い友情を感じます。
友達ってすごいなぁ…。
監督…エリック・トレダノ、オリヴィエ・ナカシュ『最強のふたり』
2013年10月13日 映画
フィリップは首から下が麻痺した大富豪。ドリスは介護の知識や経験がなく前科はある若者。
フィリップはドリスに給料をあげ、ドリスはフィリップに介護を提供している立場だけれど、二人は対等。
フィリップはドリスの教養の無さをからかい、ドリスはフィリップの障害をからかいます。
お互いの境遇について、一切同情をしていないのです。
友人としての心配はします。
困った時は助けるし、少々きつい助言だってする。
けれど、同情はしない。
だから良き友人であり最強の相棒になれる。
驚くべきは、この映画が実話に基づいているということ。
二人の絆を真に描こうとしているからこそ、大げさなお涙頂戴の演出は一切ありません。
そんなものがなくても、二人の心の揺れ動きがまっすぐに伝わてきて、観ているこっちまで泣いたり笑ったりしました。
世に映画は数あれど、この映画は観ないと損。
フィリップはドリスに給料をあげ、ドリスはフィリップに介護を提供している立場だけれど、二人は対等。
フィリップはドリスの教養の無さをからかい、ドリスはフィリップの障害をからかいます。
お互いの境遇について、一切同情をしていないのです。
友人としての心配はします。
困った時は助けるし、少々きつい助言だってする。
けれど、同情はしない。
だから良き友人であり最強の相棒になれる。
驚くべきは、この映画が実話に基づいているということ。
二人の絆を真に描こうとしているからこそ、大げさなお涙頂戴の演出は一切ありません。
そんなものがなくても、二人の心の揺れ動きがまっすぐに伝わてきて、観ているこっちまで泣いたり笑ったりしました。
世に映画は数あれど、この映画は観ないと損。
どなたか、こういう映画ご存知ないですか?
2013年9月4日 映画 コメント (2) 10年以上前にテレビで観た、ふる~い映画のタイトルが思い出せません。
思い出せないとなおさら気になってしまって、気になって気になって仕方ありません。
ところが、映画好きの友人に聞いても、ネットで検索しても出てきやしない。
だんだん、「そもそも本当にテレビで放送されていたのか? 夢でも見たのではないか?」と自分を疑い始めつつあります…。
さて、
その映画の内容ですが、
・確か洋画である。
・少なくとも10年以上前の映画。もっと前かも。
・主人公は男。確かおじさん。
・その主人公が不思議な世界に迷いこんだ。はず。
・その不思議な世界では、太陽と月が夫婦である。太陽が夫、月が妻。
・月が主人公をそこから逃がしてくれる。
・確か髪の毛をロープのように伝って逃げられるようにしてくれた。
・月は太陽をごまかすために、自分の頭と身体を分離させる。頭が男を逃がしてくれる。
・しかし主人公が逃げている途中で、月の頭と身体が分離している=月が男を逃がしていることに、太陽が気付いてしまう。
・太陽が激怒する。
という内容です。
…うーん、覚えている内容が少なすぎる…。汗。
間違って覚えているかもしれないし…。滝汗汗。
もうちょっとちゃんと覚えていたら、教えてgooとかYahoo!知恵袋で聞いてみようと思うのですが、いかんせん情報量が少なすぎるし曖昧すぎる…。
激怒した太陽がその後どんな行動を取ったのかが気になっています。
太陽は主人公を追いかけてきたのか?
それとも、月の髪の毛をチョッキンしたのか?
気になります。
「映画のタイトルを知ったからってどうなるの? それ、生活に何か役立つわけ?」と思う人が居ると思います、わたしも第三者の立場だったら絶対そう思うでしょう、でも、気になる気になるっ。
この映画のタイトルをご存知の方、どうか教えてください!
----------------
<9月8日追記>
Diary Noteで親切な方に2ちゃんねるを教えていただき、
2ちゃんねるでは親切な方々に作品名を教えていただきました!
テリー・ギリアム監督の『バロン』(1989年)
だそうです!
早速検索してみたら、まさにこれでした!
しかも、太陽だと思ってたら、正確には「月の王」だったらしいです…赤っ恥!
めちゃめちゃ有名な監督じゃないですか…。
監督の作品のひとつ『パルナサスの鏡』を以前観たことがあったのに、ぜんぜんピンとこなかった自分の鈍さにびっくりします。
キャストも有名な俳優さんばかり…。
月の王はロビン・ウィリアムズが演じているらしい。なんという大御所。
しかもこの映画、ユマ・サーマンの乳首も見られるらしい!←なぜそこに反応する!?
おかげさまでスッキリしました~!
ありがとうございました!
思い出せないとなおさら気になってしまって、気になって気になって仕方ありません。
ところが、映画好きの友人に聞いても、ネットで検索しても出てきやしない。
だんだん、「そもそも本当にテレビで放送されていたのか? 夢でも見たのではないか?」と自分を疑い始めつつあります…。
さて、
その映画の内容ですが、
・確か洋画である。
・少なくとも10年以上前の映画。もっと前かも。
・主人公は男。確かおじさん。
・その主人公が不思議な世界に迷いこんだ。はず。
・その不思議な世界では、太陽と月が夫婦である。太陽が夫、月が妻。
・月が主人公をそこから逃がしてくれる。
・確か髪の毛をロープのように伝って逃げられるようにしてくれた。
・月は太陽をごまかすために、自分の頭と身体を分離させる。頭が男を逃がしてくれる。
・しかし主人公が逃げている途中で、月の頭と身体が分離している=月が男を逃がしていることに、太陽が気付いてしまう。
・太陽が激怒する。
という内容です。
…うーん、覚えている内容が少なすぎる…。汗。
間違って覚えているかもしれないし…。滝汗汗。
もうちょっとちゃんと覚えていたら、教えてgooとかYahoo!知恵袋で聞いてみようと思うのですが、いかんせん情報量が少なすぎるし曖昧すぎる…。
激怒した太陽がその後どんな行動を取ったのかが気になっています。
太陽は主人公を追いかけてきたのか?
それとも、月の髪の毛をチョッキンしたのか?
気になります。
「映画のタイトルを知ったからってどうなるの? それ、生活に何か役立つわけ?」と思う人が居ると思います、わたしも第三者の立場だったら絶対そう思うでしょう、でも、気になる気になるっ。
この映画のタイトルをご存知の方、どうか教えてください!
----------------
<9月8日追記>
Diary Noteで親切な方に2ちゃんねるを教えていただき、
2ちゃんねるでは親切な方々に作品名を教えていただきました!
テリー・ギリアム監督の『バロン』(1989年)
だそうです!
早速検索してみたら、まさにこれでした!
しかも、太陽だと思ってたら、正確には「月の王」だったらしいです…赤っ恥!
めちゃめちゃ有名な監督じゃないですか…。
監督の作品のひとつ『パルナサスの鏡』を以前観たことがあったのに、ぜんぜんピンとこなかった自分の鈍さにびっくりします。
キャストも有名な俳優さんばかり…。
月の王はロビン・ウィリアムズが演じているらしい。なんという大御所。
しかもこの映画、ユマ・サーマンの乳首も見られるらしい!←なぜそこに反応する!?
おかげさまでスッキリしました~!
ありがとうございました!
蜷川実花監督『ヘルタースケルター』
2013年5月13日 映画
現実と非現実とがしっちゃかめっちゃかで、なんだか不思議の国のアリスの物語のよう。
けれど、りりこという名のこのアリスは、不思議の国ではなく悪夢に迷い込んでしまった。
極彩色の悪夢へと。
もはや現実へ帰れなくなったこの醜く美しいアリスは、「首をお切り!」とトランプたちに命ずるハートの女王の如く君臨し、いつだって退屈で、いつだって周りの人々を傷つけ、その度にかえって自分の孤独に気づいて打ちひしがれている。
その上まるで白雪姫の物語に出てくる魔女のように美貌にすがりついて「鏡よ鏡…」と繰り返す様は、とても哀れ。
違法な美容整形という名の毒林檎をかじり続け、毒が全身をかけ巡っていくのに、呪いを解いてくれる王子様は、りりこには現れない。
そんな残酷な世界に在っても、りりこが「見たいものを見せてあげる」と道を全うしたのは見事。
美容整形を加えていない、元のままのパーツ…即ち目玉を破壊することで、りりこはりりことしての自分を殺した。
…民衆は美貌の女王に陶酔するものだけれど、それ以上に、民衆はかつて栄華を誇った者が墜ちていくのを見るのが好きだから。
ギロチンで首を切断されるか(マリーアントワネットは正確には女王ではなく王妃だけれど)、目玉を失うか、いずれも本質は特に変わらない。
女王以上に民衆は気まぐれで、残酷で、退屈している。
民衆は他人の不幸が好きなのだから…、カメラの前でどん底をさらけ出したりりこは、ある意味において最高のエンターテイナーと言えるのかもしれません。
これからも強かに生き続けていくであろう最後のりりこの姿は、醜悪なはずなのに、ぞっとするほど妖しく美しかったです。
けれど、りりこという名のこのアリスは、不思議の国ではなく悪夢に迷い込んでしまった。
極彩色の悪夢へと。
もはや現実へ帰れなくなったこの醜く美しいアリスは、「首をお切り!」とトランプたちに命ずるハートの女王の如く君臨し、いつだって退屈で、いつだって周りの人々を傷つけ、その度にかえって自分の孤独に気づいて打ちひしがれている。
その上まるで白雪姫の物語に出てくる魔女のように美貌にすがりついて「鏡よ鏡…」と繰り返す様は、とても哀れ。
違法な美容整形という名の毒林檎をかじり続け、毒が全身をかけ巡っていくのに、呪いを解いてくれる王子様は、りりこには現れない。
そんな残酷な世界に在っても、りりこが「見たいものを見せてあげる」と道を全うしたのは見事。
美容整形を加えていない、元のままのパーツ…即ち目玉を破壊することで、りりこはりりことしての自分を殺した。
…民衆は美貌の女王に陶酔するものだけれど、それ以上に、民衆はかつて栄華を誇った者が墜ちていくのを見るのが好きだから。
ギロチンで首を切断されるか(マリーアントワネットは正確には女王ではなく王妃だけれど)、目玉を失うか、いずれも本質は特に変わらない。
女王以上に民衆は気まぐれで、残酷で、退屈している。
民衆は他人の不幸が好きなのだから…、カメラの前でどん底をさらけ出したりりこは、ある意味において最高のエンターテイナーと言えるのかもしれません。
これからも強かに生き続けていくであろう最後のりりこの姿は、醜悪なはずなのに、ぞっとするほど妖しく美しかったです。
森田芳光監督『武士の家計簿』
2013年1月12日 映画
不景気の今の世の中だからこそ必要な映画。
借金の解決策として、誰かから新たに借金するのではなく、今ある家財を売り払った上でひたすら倹約するという道を選択した、武士・猪山直之。
下級武士とはいえそれでも武家、そんなことをしたら表を歩けない、と猪山家の人々は驚愕し、抵抗するも、直之は強行。
家族は惨めな思いをすることになり、直之自身もまた、職場で噂話のまととなったけれど、やがて確かに借金は消えた…。
そんな物語です。
しかし、家計が苦しいとはいえ、誇りを失ったわけではありません。
川で四文拾ってきた、と話した息子を直之は叱りつけ、夜中であったにも関わらず、すぐに川へそのお金を戻しに行かせます。
そんな直之の姿を見ていて、わたしは、多分直之は子どもに借金を遺したくないし、心のまっすぐな武士になって欲しいと願ってこういう厳しい躾ををしているのかもしれない…と思いました。
けれど、直之の実の父親が亡くなった時まで、直之が悲しむ素振りを見せず、淡々と葬式費用の計算をしていたことが、身内が死んだ時まで算盤を弾くのか…と息子の心に直之へ対する嫌悪感を根付かせることになってしまいました…。
親の心子知らず、子の心親知らずというか…。
直之としては、実直な親の生き様を息子に見せたつもりだっただろうけど、直之の気持ちが余りにもまっすぐ過ぎて、息子にはすんなり伝わらず…。
なんだか切ない映画…。
とはいえ、今まさに不景気まっただ中のこの平成の世を生きる親たちに観て欲しい映画です。
子どもを甘やかすのが子どもの為になるとは限らないから。
まして、体面を気にしてお金を使い、結果借金を増やしてしまえば、子どもに遺せるのは借金という負の遺産のみ。
親として、子どもにどんな姿を見せるべきなのか。見せたいのか。
わたしにはまだ子どもはいませんが、そのヒントをこの映画から貰いました。
借金の解決策として、誰かから新たに借金するのではなく、今ある家財を売り払った上でひたすら倹約するという道を選択した、武士・猪山直之。
下級武士とはいえそれでも武家、そんなことをしたら表を歩けない、と猪山家の人々は驚愕し、抵抗するも、直之は強行。
家族は惨めな思いをすることになり、直之自身もまた、職場で噂話のまととなったけれど、やがて確かに借金は消えた…。
そんな物語です。
しかし、家計が苦しいとはいえ、誇りを失ったわけではありません。
川で四文拾ってきた、と話した息子を直之は叱りつけ、夜中であったにも関わらず、すぐに川へそのお金を戻しに行かせます。
そんな直之の姿を見ていて、わたしは、多分直之は子どもに借金を遺したくないし、心のまっすぐな武士になって欲しいと願ってこういう厳しい躾ををしているのかもしれない…と思いました。
けれど、直之の実の父親が亡くなった時まで、直之が悲しむ素振りを見せず、淡々と葬式費用の計算をしていたことが、身内が死んだ時まで算盤を弾くのか…と息子の心に直之へ対する嫌悪感を根付かせることになってしまいました…。
親の心子知らず、子の心親知らずというか…。
直之としては、実直な親の生き様を息子に見せたつもりだっただろうけど、直之の気持ちが余りにもまっすぐ過ぎて、息子にはすんなり伝わらず…。
なんだか切ない映画…。
とはいえ、今まさに不景気まっただ中のこの平成の世を生きる親たちに観て欲しい映画です。
子どもを甘やかすのが子どもの為になるとは限らないから。
まして、体面を気にしてお金を使い、結果借金を増やしてしまえば、子どもに遺せるのは借金という負の遺産のみ。
親として、子どもにどんな姿を見せるべきなのか。見せたいのか。
わたしにはまだ子どもはいませんが、そのヒントをこの映画から貰いました。
犬童一心監督・ 樋口真嗣監督 『のぼうの城』
2012年11月5日 映画 野村萬斎演じる成田長親(のぼう)は魅力的。
無邪気に振る舞うことで周囲の人々を和やかにしつつも、その実、もはや脊髄反射としか思えぬほど素早く鮮やかに敵も味方も魅了する策士。
もはや成田長親は、野村萬斎以外には演じきれないでしょう。
けれどそれ以上に、上地雄輔演じる石田三成の好感度が高いことに、ただただ驚かされました。
石田三成と言えば冷酷なイメージがつきものですが、上地雄輔版の石田三成は、理想に燃える若い武士で、自分から見れば敵であるはずの忍城の人々のことを素直に賞賛します。
何より、石田三成が「錢と武力のためにしか動かない世の中」を嘆く姿が、武士道の輝きを求めてこういう映画を観るような、まさに現代日本人の心情とも重なって感じられ、非常に共感しました。
主人公サイド(成田長親)から見れば敵であるはずの石田三成に好感を持てる、今までにない映画だと思います。
この映画には真の悪役はいません。
秀吉さえも、石田三成に自信をつけてもらうべく、陰であれこれ根回ししてくれる優しい上司に思えました。
最も貧乏くじを引いた長束正家さえも、最終的にはどこか滑稽でクスクス笑いを誘う存在に。
水攻めのシーンが描かれているので、今回の津波を経験なさった方たちにはお勧め出来ない映画ではあるのは事実…。
けれど、この映画では、水攻めにあったはずの主要人物たちは何故かケガ一つ負っていないし、むしろ前向きですらあります。
そもそも石田三成が忍城に水攻めをしたのに忍城の人々が戦い抜いたのは史実。
「昔の人たちも頑張ったんだな」と、どこか勇気づけられるような気がします。勿論、戦で水攻めされるのと、全く想定外であるなか突然津波に日常を奪われるのはショックの度合いが違い過ぎるので、何とも言えませんが…。
この映画のエンドロールとエンドロールの間に、現在の忍城周辺の風景が映し出されるのですが、あの風景こそまさに、この映画が発するメッセージだと思います。
戦争がテーマであるにも関わらず、この映画は終始笑いを取ろうとしました。それにより、良い意味では安心して観られる、悪く言えば緊迫感の無い映画になってしまったことは事実。さすがに一騎打ちシーンはグロテスクではありますが、今時のハリウッド映画を見慣れている人にとっては大した残酷描写とは言えません。
けれど、忍城の戦いを非常にコカルに描こうとし、そして成功したこの映画の試みによって、これまで日本の歴史にあまり興味の無かった人たちにも「歴史って面白い」「自分たちが住んでいる街でも、昔はこんな凄い人たちが頑張っていたのかな?」と興味を抱かせることもまた間違いないでしょう。
是非映画館で観ることをお勧めします。
無邪気に振る舞うことで周囲の人々を和やかにしつつも、その実、もはや脊髄反射としか思えぬほど素早く鮮やかに敵も味方も魅了する策士。
もはや成田長親は、野村萬斎以外には演じきれないでしょう。
けれどそれ以上に、上地雄輔演じる石田三成の好感度が高いことに、ただただ驚かされました。
石田三成と言えば冷酷なイメージがつきものですが、上地雄輔版の石田三成は、理想に燃える若い武士で、自分から見れば敵であるはずの忍城の人々のことを素直に賞賛します。
何より、石田三成が「錢と武力のためにしか動かない世の中」を嘆く姿が、武士道の輝きを求めてこういう映画を観るような、まさに現代日本人の心情とも重なって感じられ、非常に共感しました。
主人公サイド(成田長親)から見れば敵であるはずの石田三成に好感を持てる、今までにない映画だと思います。
この映画には真の悪役はいません。
秀吉さえも、石田三成に自信をつけてもらうべく、陰であれこれ根回ししてくれる優しい上司に思えました。
最も貧乏くじを引いた長束正家さえも、最終的にはどこか滑稽でクスクス笑いを誘う存在に。
水攻めのシーンが描かれているので、今回の津波を経験なさった方たちにはお勧め出来ない映画ではあるのは事実…。
けれど、この映画では、水攻めにあったはずの主要人物たちは何故かケガ一つ負っていないし、むしろ前向きですらあります。
そもそも石田三成が忍城に水攻めをしたのに忍城の人々が戦い抜いたのは史実。
「昔の人たちも頑張ったんだな」と、どこか勇気づけられるような気がします。勿論、戦で水攻めされるのと、全く想定外であるなか突然津波に日常を奪われるのはショックの度合いが違い過ぎるので、何とも言えませんが…。
この映画のエンドロールとエンドロールの間に、現在の忍城周辺の風景が映し出されるのですが、あの風景こそまさに、この映画が発するメッセージだと思います。
戦争がテーマであるにも関わらず、この映画は終始笑いを取ろうとしました。それにより、良い意味では安心して観られる、悪く言えば緊迫感の無い映画になってしまったことは事実。さすがに一騎打ちシーンはグロテスクではありますが、今時のハリウッド映画を見慣れている人にとっては大した残酷描写とは言えません。
けれど、忍城の戦いを非常にコカルに描こうとし、そして成功したこの映画の試みによって、これまで日本の歴史にあまり興味の無かった人たちにも「歴史って面白い」「自分たちが住んでいる街でも、昔はこんな凄い人たちが頑張っていたのかな?」と興味を抱かせることもまた間違いないでしょう。
是非映画館で観ることをお勧めします。
クリス・ワイト監督 『トワイライト・サーガ ニュームーン』
2012年7月20日 映画
「わたしだったらエドワードよりジェイコブを選ぶわ~」と、この映画を見ていてしみじみ思いました。
でも、ベラとしては、自分がいなくても生きていけそうな男(ジェイコブ)よりも、自分がいなければ生きていけない男(エドワード)を選びたかったのかな…。
それが女心ってやつなんでしょうか…。
とは言え、現実世界で「自分がいなければ生きていけない男」を選ぶと、ヒモやDV男やモラハラ男に当たるリスクが極めて高いので、気をつけないといけませんね~。
また、この映画を見ていて衝撃を受けたことが一つあります。
吸血鬼のアジトにて、ベラは吸血鬼のエサとして連れて来られた人間たちとすれ違います。
その人間たちは、まさか今から自分たちが殺されるとは夢にも思っておらず、観光ツアーに連れて行って貰えるものと思いワクワクしています。
この人間たちの中には子どももまじっていたのに、ベラはそのまま通り過ぎてしまいました。
そしてみんな殺されてしまいました。
…なんか、もう、ベラは人間じゃない気がします…。一応、良心の呵責からなのか、子どもとすれ違った時の夢をベラが見たような描写はありましたが…。吸血鬼たちの能力がベラには効かないのですが、それはベラが吸血鬼でも狼族でも人間でもないおかしな存在だからなのかも…。
全体的に言うと、この映画は少女漫画っぽいというか、メロドラマ展開をニヤニヤ楽しめるので気に入りました。
でも、ベラとしては、自分がいなくても生きていけそうな男(ジェイコブ)よりも、自分がいなければ生きていけない男(エドワード)を選びたかったのかな…。
それが女心ってやつなんでしょうか…。
とは言え、現実世界で「自分がいなければ生きていけない男」を選ぶと、ヒモやDV男やモラハラ男に当たるリスクが極めて高いので、気をつけないといけませんね~。
また、この映画を見ていて衝撃を受けたことが一つあります。
吸血鬼のアジトにて、ベラは吸血鬼のエサとして連れて来られた人間たちとすれ違います。
その人間たちは、まさか今から自分たちが殺されるとは夢にも思っておらず、観光ツアーに連れて行って貰えるものと思いワクワクしています。
この人間たちの中には子どももまじっていたのに、ベラはそのまま通り過ぎてしまいました。
そしてみんな殺されてしまいました。
…なんか、もう、ベラは人間じゃない気がします…。一応、良心の呵責からなのか、子どもとすれ違った時の夢をベラが見たような描写はありましたが…。吸血鬼たちの能力がベラには効かないのですが、それはベラが吸血鬼でも狼族でも人間でもないおかしな存在だからなのかも…。
全体的に言うと、この映画は少女漫画っぽいというか、メロドラマ展開をニヤニヤ楽しめるので気に入りました。
米林宏昌監督 『借りぐらしのアリエッティ』
2011年12月8日 映画 コメント (2)
同じ世界に生まれていたならば、一緒に居られたかもしれない。でも、そうではなかった。だから、お別れしなくてはいけない。
小人と人間の、禁断の淡い初恋。
この切ない物語を彩る、ケルト音楽の優しい音色に、涙さえ誘われます。
心の震えと、弦楽器の響きが、とてもよく合っていて…。
この映画は、音の使い方がとても上手。例えば、ショウがアリエッティに初めて触れるシーンでは、ふいに音が消えます。いかにその一瞬がお互いにとって特別なものか、伝わってきます。
とはいえ、特筆すべきは家政婦ハルの存在です。
小人を探し、捕らえ、「み~つけた!」とはしゃぐハル…。
小人を「泥棒小人」と表現するハルの傲慢さに、わたしはショックを受けました。
確かに、小人は人間の家から砂糖やティッシュなどを泥棒しています。けれど、人間だって自然に寄生して、小人よりよっぽど多くのものを自然から泥棒しているではありませんか。
この映画の中では、絶滅した生き物についても語られます。好奇心に任せて小人を捕らえようとするハルの姿は、毛皮などを奪うために動物を狩ったり、木を伐採しまくって砂漠と化した、身勝手な人間の姿と重なります。
小人たちは必要な分だけ取っていくけれど、人間の貪欲さは限度というものを知らない。
自然から自分たちが物をもらうのは当然、と思っているからこそ、自分たちと同じように生きているはずの小人を「泥棒」なんて言えるのです。
それでいて、ハルは自分が間違っていたと気づくと、まるで自分が被害者であるとでも言うかのようにわざとらしくフラついて見せる。
アリエッティとショウの恋心が美しければ美しいほど、ハルの醜悪さが際立ちます。
アリエッティは引っ越していったけれど、どんな土地でもきっと懸命に生きるでしょう。
ハルは心臓の手術次第ではあるけれど、きっと生きていく。
けれど、果たして「ハル=人間」はどうなのでしょう…。…きっと…。
小人と人間の、禁断の淡い初恋。
この切ない物語を彩る、ケルト音楽の優しい音色に、涙さえ誘われます。
心の震えと、弦楽器の響きが、とてもよく合っていて…。
この映画は、音の使い方がとても上手。例えば、ショウがアリエッティに初めて触れるシーンでは、ふいに音が消えます。いかにその一瞬がお互いにとって特別なものか、伝わってきます。
とはいえ、特筆すべきは家政婦ハルの存在です。
小人を探し、捕らえ、「み~つけた!」とはしゃぐハル…。
小人を「泥棒小人」と表現するハルの傲慢さに、わたしはショックを受けました。
確かに、小人は人間の家から砂糖やティッシュなどを泥棒しています。けれど、人間だって自然に寄生して、小人よりよっぽど多くのものを自然から泥棒しているではありませんか。
この映画の中では、絶滅した生き物についても語られます。好奇心に任せて小人を捕らえようとするハルの姿は、毛皮などを奪うために動物を狩ったり、木を伐採しまくって砂漠と化した、身勝手な人間の姿と重なります。
小人たちは必要な分だけ取っていくけれど、人間の貪欲さは限度というものを知らない。
自然から自分たちが物をもらうのは当然、と思っているからこそ、自分たちと同じように生きているはずの小人を「泥棒」なんて言えるのです。
それでいて、ハルは自分が間違っていたと気づくと、まるで自分が被害者であるとでも言うかのようにわざとらしくフラついて見せる。
アリエッティとショウの恋心が美しければ美しいほど、ハルの醜悪さが際立ちます。
アリエッティは引っ越していったけれど、どんな土地でもきっと懸命に生きるでしょう。
ハルは心臓の手術次第ではあるけれど、きっと生きていく。
けれど、果たして「ハル=人間」はどうなのでしょう…。…きっと…。
リー・ダニエルズ監督 『プレシャス』
2011年11月11日 映画
娘として母親に愛されることも、女の子として彼氏と恋することもすっ飛ばして、2人の子の母親になってしまった16歳の少女。
1人目の子の父は少女自身の実の父親の子、2人目の子の父は義理の父親の子。
少女は母親と暮らしているけれど、母親からは「わたしの男を盗りやがって!」「お前なんて誰も相手にしない」「ビッチ!」と罵られ殴られる。十分に食べさせて貰えず、食べ物を店から盗むこともある。母親が「学校なんて行かなくていい!生活保護もらってりゃいいんだ!」と怒鳴ることと、恵まれた環境とはいえない場所(ハーレム)で育ったことから、少女は読み書きも満足に出来ない。
少女は「プレシャス」という名前を与えられていながら、ちっとも大切にはされていない。
そんなテーマを扱った映画だから、鑑賞中気分が重くなるのを覚悟した上でわたしはこの映画を見始めました。
けれど、確かに父親によるレイプシーンや、母親による罵倒・暴力シーンは目を背けたくなったけれど、見るのをやめることはありませんでした。
プレシャスの子どもたちへの愛情に、月並みな表現ですが感動したからです。
プレシャスにとっては、たとえ犯されて孕んだ子であっても、子どもたちは大切な我が子。たまらなく愛しくて、離れていると苦しくて、抱きしめたらプレシャス自身も優しい笑顔になる。
本当は、プレシャスは母親に抵抗出来るはず。体重100kgを超える巨体を持ち、走ることも踊ることも出来る力があるのだから。でも、プレシャスは母親が自分を傷つけるのをただ悲しそうに受け入れながら、母親に食事を作ってあげている。それは、「虐待がそうさせているのだ」と言ってしまえばそれまでだけれど…、「娘として愛されたい」という思いがそうさせているように思えました。
プレシャスはフリースクールに通い始め、家を出てからも、母親が求めれば面会に応じましたから。
そこには、「もしかしたら母さんは変わってくれるかも」という期待もあったかもしれない。
けれど、母親は身勝手だった。
ラストシーン手前になって、母親はプレシャスの誕生日すら覚えていないことを露呈したし、「お前があの男に黙ってヤラせたから悪いんだ」と極めて愚かなことを言いました。
まるで自分が被害者だと主張するような口ぶりに、わたしは眩暈を覚えました。
確かに、母親もある意味被害者なのかもしれない、でもそこにプレシャス自身の非はまっっっったく!!ありません。
プレシャスは、娘として愛されたいという未練を断ち切りました。
プレシャスは言いました。「またテストを受けた。点数が上がってた。進む道は自分で決める。やっと母さんのことが理解できた。わたしが馬鹿だったからこれまで知ろうとしなかった。もう母さんとは会わない」と。
わたしはラストシーンを見て、雲がスーッと過ぎ去って空が明るくなるような感覚になりました。
プレシャスが、2人の子どもたちと歩き始めるラストシーン。
救いがたいラストシーン、と受け取る人もいると思います。なぜなら、プレシャスは父親にレイプされた際にエイズに感染してしまっているし、子どものうち1人はダウン症だし、シングルマザーだし、まだ10代だし、…と数え切れない大変さを抱えているのですから。
けれど、わたしはあの結末を好ましく思いました。
「2人の子の母親」としてしっかりと歩き始めるプレシャスを見ることが出来たから。
1人目の子の父は少女自身の実の父親の子、2人目の子の父は義理の父親の子。
少女は母親と暮らしているけれど、母親からは「わたしの男を盗りやがって!」「お前なんて誰も相手にしない」「ビッチ!」と罵られ殴られる。十分に食べさせて貰えず、食べ物を店から盗むこともある。母親が「学校なんて行かなくていい!生活保護もらってりゃいいんだ!」と怒鳴ることと、恵まれた環境とはいえない場所(ハーレム)で育ったことから、少女は読み書きも満足に出来ない。
少女は「プレシャス」という名前を与えられていながら、ちっとも大切にはされていない。
そんなテーマを扱った映画だから、鑑賞中気分が重くなるのを覚悟した上でわたしはこの映画を見始めました。
けれど、確かに父親によるレイプシーンや、母親による罵倒・暴力シーンは目を背けたくなったけれど、見るのをやめることはありませんでした。
プレシャスの子どもたちへの愛情に、月並みな表現ですが感動したからです。
プレシャスにとっては、たとえ犯されて孕んだ子であっても、子どもたちは大切な我が子。たまらなく愛しくて、離れていると苦しくて、抱きしめたらプレシャス自身も優しい笑顔になる。
本当は、プレシャスは母親に抵抗出来るはず。体重100kgを超える巨体を持ち、走ることも踊ることも出来る力があるのだから。でも、プレシャスは母親が自分を傷つけるのをただ悲しそうに受け入れながら、母親に食事を作ってあげている。それは、「虐待がそうさせているのだ」と言ってしまえばそれまでだけれど…、「娘として愛されたい」という思いがそうさせているように思えました。
プレシャスはフリースクールに通い始め、家を出てからも、母親が求めれば面会に応じましたから。
そこには、「もしかしたら母さんは変わってくれるかも」という期待もあったかもしれない。
けれど、母親は身勝手だった。
ラストシーン手前になって、母親はプレシャスの誕生日すら覚えていないことを露呈したし、「お前があの男に黙ってヤラせたから悪いんだ」と極めて愚かなことを言いました。
まるで自分が被害者だと主張するような口ぶりに、わたしは眩暈を覚えました。
確かに、母親もある意味被害者なのかもしれない、でもそこにプレシャス自身の非はまっっっったく!!ありません。
プレシャスは、娘として愛されたいという未練を断ち切りました。
プレシャスは言いました。「またテストを受けた。点数が上がってた。進む道は自分で決める。やっと母さんのことが理解できた。わたしが馬鹿だったからこれまで知ろうとしなかった。もう母さんとは会わない」と。
わたしはラストシーンを見て、雲がスーッと過ぎ去って空が明るくなるような感覚になりました。
プレシャスが、2人の子どもたちと歩き始めるラストシーン。
救いがたいラストシーン、と受け取る人もいると思います。なぜなら、プレシャスは父親にレイプされた際にエイズに感染してしまっているし、子どものうち1人はダウン症だし、シングルマザーだし、まだ10代だし、…と数え切れない大変さを抱えているのですから。
けれど、わたしはあの結末を好ましく思いました。
「2人の子の母親」としてしっかりと歩き始めるプレシャスを見ることが出来たから。
石井裕也監督 『川の底からこんにちは』
2011年4月6日 映画
この映画、木村水産という会社を舞台にした映画なのですが、この木村水産の社歌が素晴らしいです。
歌詞を引用してみます。
「来るなら来てみろ 大不況♪ そのときゃ 政府を倒すまで♪ 倒せ! 倒せ! せ~いふ!!」ですって。…素晴らしい。
歌ってる人たちの目がランランとしていて面白いし、こっちもマネして歌ってみると活力が…というかちょうど人間がヤケクソになっている時と同じパワーが漲ってきます。
http://www.youtube.com/watch?v=CZDgImwwXEI&feature=related
映画そのものの内容については、駆け落ちがなぜそんなに禁忌扱いされるのかがピンとこなかったのですが、「佐和子が悪いんだ」を繰り返す思考停止ぎみの男女の不気味さや、「そんなだからお母さんいなくなっちゃうんだ!」と父親へ叫ぶ女の子の気持ちとか、いい意味ですごく生々しいものが描かれているように思いました。
映画前半は生きているのか死んでいるのかわからないほど無気力だったヒロインが、後半には目をカッと見開いて「頑張るしかないんですからぁ!」と叫ぶようになる描写が秀逸。
歌詞を引用してみます。
「来るなら来てみろ 大不況♪ そのときゃ 政府を倒すまで♪ 倒せ! 倒せ! せ~いふ!!」ですって。…素晴らしい。
歌ってる人たちの目がランランとしていて面白いし、こっちもマネして歌ってみると活力が…というかちょうど人間がヤケクソになっている時と同じパワーが漲ってきます。
http://www.youtube.com/watch?v=CZDgImwwXEI&feature=related
映画そのものの内容については、駆け落ちがなぜそんなに禁忌扱いされるのかがピンとこなかったのですが、「佐和子が悪いんだ」を繰り返す思考停止ぎみの男女の不気味さや、「そんなだからお母さんいなくなっちゃうんだ!」と父親へ叫ぶ女の子の気持ちとか、いい意味ですごく生々しいものが描かれているように思いました。
映画前半は生きているのか死んでいるのかわからないほど無気力だったヒロインが、後半には目をカッと見開いて「頑張るしかないんですからぁ!」と叫ぶようになる描写が秀逸。
吉田大八監督 『パーマネント野ばら』
2011年3月23日 映画
恋は人を狂わせるもの。
主人公も狂っています。
恋をしているから。
恋をしているから、大切な人がまだ生きているという幻想に入り込んでしまう。
恋を亡くした人は、主人公に感情移入せずにいられないでしょう。
砂浜で、砂を握りしめて、まるで温かな彼の手を握っているような気持ちになっている主人公を見て。
「うち…狂ってる?」と微笑む主人公を見て。
きっと泣くでしょう。
多分、こんなおかしな状態になっている人はこの世に沢山いると思います。
周りの人には、この映画に登場する人々のように、それを受け入れてあげて欲しいです。
心と現実の折り合いがつくまで。
主人公も狂っています。
恋をしているから。
恋をしているから、大切な人がまだ生きているという幻想に入り込んでしまう。
恋を亡くした人は、主人公に感情移入せずにいられないでしょう。
砂浜で、砂を握りしめて、まるで温かな彼の手を握っているような気持ちになっている主人公を見て。
「うち…狂ってる?」と微笑む主人公を見て。
きっと泣くでしょう。
多分、こんなおかしな状態になっている人はこの世に沢山いると思います。
周りの人には、この映画に登場する人々のように、それを受け入れてあげて欲しいです。
心と現実の折り合いがつくまで。
ギレルモ・デル・トロ監督 『パンズ・ラビリンス』
2010年7月28日 映画
現実が残酷であればあるほど空想の世界は美しくなっていきます。
空想の世界を持たなければ生きていけないから。正気を保てないから。
他人から見れば既に正気ではないのでしょうけれど。
自殺せずに生き続けるためには狂うしかない、そんな現実もあるのです。
この映画『パンズ・ラビリンス』の舞台は拷問・殺人が日常化した独裁政権下。
きちんとした取り調べもないまま罪を着せられ処刑されることも当たり前。
鼻をめった打ちにして完全に叩き潰した上で銃殺するなど、その非道さは留まるところを知りません。
そんな世界で生きざるを得ない女の子が、「自分は本当は別の世界の王女で、試練を果たせば王女に戻れる」と空想する…それがこの映画のストーリーです。
けれど女の子が生きる現実の残酷さ故にでしょうか、女の子が想像する「王女の帰還を待ち望んでいる別の世界の生き物」たちは、決して清らかではなく、どこか恐ろしい姿をしています。
それでも女の子はその世界を信じ抜こうとしました。
女の子は結局撃たれて死ぬのですが…、その瞬間も微笑んでいました。
死の恐怖さえも、王国に戻るための試練と信じて。
…見ていて非常にやり切れない思いになりました。
きっとこの女の子のような子どもは、実際に何人もいるだろうから。
戦争だけではなく、虐待などあらゆる悲しいことのせいで…。
けれどもしも、女の子が思い描いていた王国が、人が生まれる前にいる世界のことだとしたら。そして人が死ねばその世界に帰っていくのだとしたら。
この結末は単なるアン・ハッピーエンドではない。
そう希望を持てる気がします。
空想の世界を持たなければ生きていけないから。正気を保てないから。
他人から見れば既に正気ではないのでしょうけれど。
自殺せずに生き続けるためには狂うしかない、そんな現実もあるのです。
この映画『パンズ・ラビリンス』の舞台は拷問・殺人が日常化した独裁政権下。
きちんとした取り調べもないまま罪を着せられ処刑されることも当たり前。
鼻をめった打ちにして完全に叩き潰した上で銃殺するなど、その非道さは留まるところを知りません。
そんな世界で生きざるを得ない女の子が、「自分は本当は別の世界の王女で、試練を果たせば王女に戻れる」と空想する…それがこの映画のストーリーです。
けれど女の子が生きる現実の残酷さ故にでしょうか、女の子が想像する「王女の帰還を待ち望んでいる別の世界の生き物」たちは、決して清らかではなく、どこか恐ろしい姿をしています。
それでも女の子はその世界を信じ抜こうとしました。
女の子は結局撃たれて死ぬのですが…、その瞬間も微笑んでいました。
死の恐怖さえも、王国に戻るための試練と信じて。
…見ていて非常にやり切れない思いになりました。
きっとこの女の子のような子どもは、実際に何人もいるだろうから。
戦争だけではなく、虐待などあらゆる悲しいことのせいで…。
けれどもしも、女の子が思い描いていた王国が、人が生まれる前にいる世界のことだとしたら。そして人が死ねばその世界に帰っていくのだとしたら。
この結末は単なるアン・ハッピーエンドではない。
そう希望を持てる気がします。
むかしむかし、地底の世界に病気も苦しみもない王国がありました。その国には美しい王女様がおりました。王女様はそよ風と日の光、そして青い空をいつも夢見ていました。ある日、王女様はお城をこっそり抜け出して人間の世界へ行きました。ところが明るい太陽の光を浴びたとたん、彼女は自分が誰なのか、どこから来たのかも忘れてしまったのです。地底の王国の王女様はその時から寒さや痛みや苦しみを感じるようになり…、とうとう彼女は死んでしまいました。姫を亡くした王様は悲しみましたが、いつか王女の魂が戻ってくる事を知っていました。そしてその日が来る事をいつまでも、いつまでも待っているのでした。
中嶋莞爾監督 『クローンは故郷をめざす』
2010年6月23日 映画
ミッチーは、「同じ人間だけど違う4人の人間」を演じていると思います。
オリジナルと、クローン1人目と、クローン2人目、そしてクローン2人目にオリジナルの魂が宿った「4人目」。
オリジナルはもともと双子で、その片割れを幼い頃に亡くしていたから、クローン1人目はオリジナルの霊魂を見て、それを自分ではなく片割れだと思い込みます。
クローン1人目はオリジナルの霊魂を背負って生家を目指し、途中で倒れてしまうけれど今度はオリジナルの霊魂がクローン1人目を背負って(もしくはクローン1人目の霊魂とオリジナルの霊魂が融合している?)歩き出す。
クローン2人目は生家にて腐乱死体となっているクローン1人目を発見し打ちひしがれるけれど、昔のままの生家で自分と片割れと母が暮らしている幻(或いは霊体験?)を見て何かが腑に落ちたような表情になります。
そしてクローン2人目の左手の甲には、オリジナルしか持っていなかったはずの傷が浮かび上がります。
こういう役を演じ分けられる人はなかなかいないと思います。クローン1人目がオリジナルの霊魂を片割れだと思い込んで大事に大事に大事に連れて行こうとする姿は非常に胸を打ちます。そして何より、クローン2人目にオリジナル(と1人目の霊魂?)が宿る瞬間にはハッとさせられました。
ミッチーは素晴らしい。
それに、夫がクローンとして蘇った際泣きながら怒る演技を見せた永作博美さんも、母親が死ぬ間際まで「あんた髪伸びたわね。切りなさい」と母親らしく在り続け、尚且つ母親も昔に帰りたがっているという演技を見せた石田えりさんも素晴らしかった。
映画館で熟睡者続出という触れ込みの映画ではあるけれど、わたしは見て良かったと思いました。号泣を誘う大スペクタルという訳ではないけれど、ただひたすら静かに考える時間をくれる映画。
オリジナルと、クローン1人目と、クローン2人目、そしてクローン2人目にオリジナルの魂が宿った「4人目」。
オリジナルはもともと双子で、その片割れを幼い頃に亡くしていたから、クローン1人目はオリジナルの霊魂を見て、それを自分ではなく片割れだと思い込みます。
クローン1人目はオリジナルの霊魂を背負って生家を目指し、途中で倒れてしまうけれど今度はオリジナルの霊魂がクローン1人目を背負って(もしくはクローン1人目の霊魂とオリジナルの霊魂が融合している?)歩き出す。
クローン2人目は生家にて腐乱死体となっているクローン1人目を発見し打ちひしがれるけれど、昔のままの生家で自分と片割れと母が暮らしている幻(或いは霊体験?)を見て何かが腑に落ちたような表情になります。
そしてクローン2人目の左手の甲には、オリジナルしか持っていなかったはずの傷が浮かび上がります。
こういう役を演じ分けられる人はなかなかいないと思います。クローン1人目がオリジナルの霊魂を片割れだと思い込んで大事に大事に大事に連れて行こうとする姿は非常に胸を打ちます。そして何より、クローン2人目にオリジナル(と1人目の霊魂?)が宿る瞬間にはハッとさせられました。
ミッチーは素晴らしい。
それに、夫がクローンとして蘇った際泣きながら怒る演技を見せた永作博美さんも、母親が死ぬ間際まで「あんた髪伸びたわね。切りなさい」と母親らしく在り続け、尚且つ母親も昔に帰りたがっているという演技を見せた石田えりさんも素晴らしかった。
映画館で熟睡者続出という触れ込みの映画ではあるけれど、わたしは見て良かったと思いました。号泣を誘う大スペクタルという訳ではないけれど、ただひたすら静かに考える時間をくれる映画。