高橋留美子 「人魚の森」
2005年12月3日 漫画
いつの世も人は「不老」と「不死」に惹かれる。
若いままの姿で、生き続けたいと望む。
しかしわたしたちは本当に「そう」なりたいのだろうか?
この作品を読む度いつも考える。
この作品、「人魚の森」シリーズでは人魚の肉というものが登場する。主人公・湧太(ゆうた)とヒロイン・真魚(まな)はこの肉を食べており、不老不死である。彼らは老いない。死にはするが、生き返る。しかし二人は元に戻る方法を探して旅をする。
なぜ二人が元に戻ろうとするのか、その理由を二人が出逢う人々が教えてくれる。不老不死になろうと人魚の肉を探す者、不老不死になろうとは思わない者、既に不老不死であり更に生き続けたいと願う者、肉ではなく人魚の血や灰により形だけの不老不死を得た者、不老不死になりかけて化け物になった者、そして人魚自身である。
死を受け入れ生きていく人々と、不老不死を望んだり不老不死である人々との違い。それは「生きよう」とするか否かだ。
人魚の灰により屍から生きる屍となった女・苗(なえ)は、魂もなく殺人を繰り返していた。だが主人公と再会し、彼を抱きしめ、彼に抱きしめられることによって屍に戻っていった。それは彼女が、その瞬間生きることを取り戻したからなのではないだろうか。
不老不死になりそこなって化け物となった大眼(おおまなこ)は魂を時に失い殺人を繰り返した。彼が死んだのは、ヒロインに出逢い彼女に恋をし、愛されたいと願ったからではないだろうか。
八百年生きた真人(まさと)は母親の存在を求め、人魚の肉を女たちに食べさせ、彼女たちを死なせたり化け物にしてしまっていた。彼が死んだまま生き返らなかったのは(これについては詳しくは描かれていないが)、母親代わりの女性の死に涙を流したからではないだろうか。
主人公とヒロインは「生きる」ために人間に戻ろうとするのだ。
生きることと死ぬことに疑問を感じた時に読んでいただきたい作品です。
自分が「死にたくない」のか「生きたい」のかがわかるはず。
そして今の自分が、「生きている」のか「生きていない」のかも・・・。
死ぬことと生きていないことは違う。
生きていない人間になってはいけない。
どうか、生きていて。
若いままの姿で、生き続けたいと望む。
しかしわたしたちは本当に「そう」なりたいのだろうか?
この作品を読む度いつも考える。
この作品、「人魚の森」シリーズでは人魚の肉というものが登場する。主人公・湧太(ゆうた)とヒロイン・真魚(まな)はこの肉を食べており、不老不死である。彼らは老いない。死にはするが、生き返る。しかし二人は元に戻る方法を探して旅をする。
なぜ二人が元に戻ろうとするのか、その理由を二人が出逢う人々が教えてくれる。不老不死になろうと人魚の肉を探す者、不老不死になろうとは思わない者、既に不老不死であり更に生き続けたいと願う者、肉ではなく人魚の血や灰により形だけの不老不死を得た者、不老不死になりかけて化け物になった者、そして人魚自身である。
死を受け入れ生きていく人々と、不老不死を望んだり不老不死である人々との違い。それは「生きよう」とするか否かだ。
人魚の灰により屍から生きる屍となった女・苗(なえ)は、魂もなく殺人を繰り返していた。だが主人公と再会し、彼を抱きしめ、彼に抱きしめられることによって屍に戻っていった。それは彼女が、その瞬間生きることを取り戻したからなのではないだろうか。
不老不死になりそこなって化け物となった大眼(おおまなこ)は魂を時に失い殺人を繰り返した。彼が死んだのは、ヒロインに出逢い彼女に恋をし、愛されたいと願ったからではないだろうか。
八百年生きた真人(まさと)は母親の存在を求め、人魚の肉を女たちに食べさせ、彼女たちを死なせたり化け物にしてしまっていた。彼が死んだまま生き返らなかったのは(これについては詳しくは描かれていないが)、母親代わりの女性の死に涙を流したからではないだろうか。
主人公とヒロインは「生きる」ために人間に戻ろうとするのだ。
生きることと死ぬことに疑問を感じた時に読んでいただきたい作品です。
自分が「死にたくない」のか「生きたい」のかがわかるはず。
そして今の自分が、「生きている」のか「生きていない」のかも・・・。
死ぬことと生きていないことは違う。
生きていない人間になってはいけない。
どうか、生きていて。
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