ティム・フェイウェル監督 『ノーマ・ジーンとマリリン』
2007年2月22日 映画
この映画を観た後実際のマリリンの映画を見たら、彼女があんまり綺麗に笑うから涙が出ました。
マリリン・モンロー。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン。洗礼名ノーマ・ジーン・ベイカー。私生児として生まれ、母の精神病を理由に孤児院へ行き、その後里親の家を転々とし性的虐待及びネグレクトを受けて育つ。
「女優になりたい」。でも彼女は演技も歌も下手で、教養もなかった。彼女にあったのは、美。心は子どものまま成長していなかったけれど、大人の女性の顔と体を持っていた。何より「愛して欲しい。愛してもらえるならどんなことでもする」という気持ちが強かった。だから自分の顔と体を十分に利用した。
彼女は女優になった。でも世間は彼女を高級娼婦のように見た。彼女は演技を学び、徐々に演技派として認められつつあったけれど・・・妊娠、中絶(12回以上行ったとされる)、流産(少なくとも3回)、結婚、離婚を繰り返した彼女の精神は消耗し、お酒と薬なしでは耐えられなくなる。そして今まで彼女を支えてきた顔と体が加齢によって魅力を失った時、精神は限界に達する。「もう誰もわたしを愛してくれない」と。
「見捨てないで」。「独りにしないで」。「わたしを愛して」。彼女の悲痛な思いがこの『ノーマ・ジーンとマリリン』には本当にストレートに描かれていると思います。彼女がもう一人の自分ノーマ・ジーンの幻覚を見て、ノーマ・ジーンに語りかけたり語りかけられることによって。女優になったけれどボロボロの自分と、女優ではないけれどまだ希望を持っていた頃の自分の対話によって。
でも2人は和解できない。お互いを愛したいのに。彼女はラストシーンでノーマ・ジーンに「あんたなんて消えてしまった方がいい」と言われ薬を大量に飲み、救急車に運ばれていきます・・・でも彼女は安らかな顔なんてしていなくて、怯えている。もう彼女の傍にノーマ・ジーンはいない。マリリン・モンローもいない。
悲しい映画でしたが・・・、心の奥に残りました。
36年の生涯。
彼女の人生は誰も経験できないけれど、この映画に存在する孤独感、虚無感、そして自分の何によって生き抜いていくか選択しなければならないという経験は、多かれ少なかれ、誰もがするものだから。
マリリン・モンロー。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン。洗礼名ノーマ・ジーン・ベイカー。私生児として生まれ、母の精神病を理由に孤児院へ行き、その後里親の家を転々とし性的虐待及びネグレクトを受けて育つ。
「女優になりたい」。でも彼女は演技も歌も下手で、教養もなかった。彼女にあったのは、美。心は子どものまま成長していなかったけれど、大人の女性の顔と体を持っていた。何より「愛して欲しい。愛してもらえるならどんなことでもする」という気持ちが強かった。だから自分の顔と体を十分に利用した。
彼女は女優になった。でも世間は彼女を高級娼婦のように見た。彼女は演技を学び、徐々に演技派として認められつつあったけれど・・・妊娠、中絶(12回以上行ったとされる)、流産(少なくとも3回)、結婚、離婚を繰り返した彼女の精神は消耗し、お酒と薬なしでは耐えられなくなる。そして今まで彼女を支えてきた顔と体が加齢によって魅力を失った時、精神は限界に達する。「もう誰もわたしを愛してくれない」と。
「見捨てないで」。「独りにしないで」。「わたしを愛して」。彼女の悲痛な思いがこの『ノーマ・ジーンとマリリン』には本当にストレートに描かれていると思います。彼女がもう一人の自分ノーマ・ジーンの幻覚を見て、ノーマ・ジーンに語りかけたり語りかけられることによって。女優になったけれどボロボロの自分と、女優ではないけれどまだ希望を持っていた頃の自分の対話によって。
でも2人は和解できない。お互いを愛したいのに。彼女はラストシーンでノーマ・ジーンに「あんたなんて消えてしまった方がいい」と言われ薬を大量に飲み、救急車に運ばれていきます・・・でも彼女は安らかな顔なんてしていなくて、怯えている。もう彼女の傍にノーマ・ジーンはいない。マリリン・モンローもいない。
悲しい映画でしたが・・・、心の奥に残りました。
36年の生涯。
彼女の人生は誰も経験できないけれど、この映画に存在する孤独感、虚無感、そして自分の何によって生き抜いていくか選択しなければならないという経験は、多かれ少なかれ、誰もがするものだから。
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