南海キャンディーズのしずちゃん扮する熊野小百合の父が亡くなったシーンで。
 「ああ、あのお父さん死んじゃったんだ・・・!」とわたしの目から涙が溢れました。
 普段は、登場人物の父が亡くなった、ぐらいでは決して泣きません。
 けれど小百合の父の場合は違いました。
 

 小百合の父は町の炭鉱夫。この町では、炭鉱を閉鎖してハワイアンセンターを作ろうという計画が、炭鉱夫たちとその家族の気持ちを置き去りにして進行しています。町の会社は、オイル主流の時代になる前に炭鉱を閉鎖したい。炭鉱夫たちとその家族たちは、100年も続いた炭鉱を閉鎖して欲しくない。男は炭鉱でお国のために命をかけて働くのが当たり前、女はそれを支えるのが当たり前・・・、みんなその考えのもと生きてきたからです。みんな炭鉱以外の場所で働くという選択肢を無くそうとします。そのためこの町ではハワイ事業に協力すると「裏切り者」と言われます。それでも小百合の父は「会社のお役に立ててもらえればと思って」娘を連れて来るのです。
 熊野小百合は初登場シーンで、父に連れられてフラダンスの練習場にやって来ます。小百合はでっかいです。父の身長を頭1つ超えて、でっかいです。体格も立派です。練習場に居た数名の人間は、小百合の姿に唖然とします。けれど小百合は内気な様子で、挨拶も出来ません。視線はさまようばかり。小百合は何故か練習場にお盆を持って来ています。緊張している時って何かを触ったり握ったりしたくなりますよね。小百合にとって握れる身近なものはお盆だったのでしょう。更に小百合の着物からいって家事手伝いをしていることが考えられます。この町の女性は選炭場で働く人も多いし、もしかしたら町の旅館で仲居をやっているのかもしれませんが、どうもこの様子だと家の外で働いているようには見えません。家の外で働くには、挨拶をする、笑顔を作る、などの対人スキルが必要です。けれど小百合は、練習場にいる数名の人間に一言も声をかけることが出来ない。お盆をギューッと握りしめていることからいっても、人見知りであることは間違いありません。父はそんな小百合のことを「男手ひとつで育てたもんで、見てくれはちっと男みたいだげんど。小っちぇえ頃から踊りが好きで好きで・・・な」と紹介します。それでようやく小百合は笑顔を浮かべます。父はどうすれば小百合が笑うか知っているのです。
 この短い紹介の中に色んなフォローが含まれています。多分、小百合の父はこう言いたいのではないでしょうか。小百合がこう育ったのは小百合のせいではありません。男みたいなのではなく、少し男みたいに見えるだけ。見てくれがこうなだけであって、心の中は小百合という名にぴったりの娘です。小百合は嫌々練習場に来たのではなく、踊りが好きだから来たのですよ。けれど初々しい性格なので一人で来れず、そのため自分が付き添って来たのですよ。・・・と。小百合が笑ったのは、父の言いたいことを理解したからではないでしょうか。
 小百合の父は、「娘がいつもお世話になって・・・」と練習場に挨拶に来ることもありました。上手く踊れずに外を走らされる娘と一緒に走ることもありました。「小百合頑張れ!」と言いながら。
 練習を積み重ねた結果、小百合はフラダンスを踊れるようになりました。けれどダンサーとして舞台に上がり始めた頃の小百合は、舞台で笑顔を浮かべられないし、楽屋では壁に向かって何かブツブツ話すし、舞台そでまで出ておきながら逃げようとするし、終いには舞台中央で座りこんだ後舞台から走って逃げる始末。
 そんな状態だったのが変わります。小百合は舞台で笑いながら踊れるようになったのです。いつの頃からか、小百合は舞台に上げる前に手鏡を見て微笑むようになりました。自分で買った手鏡かもしれないし、母の形見の手鏡かもしれません。けれどわたしには、小百合の父が「笑顔で踊れるように」と買ってくれた手鏡であるように思えました。
 舞台に上がる前に、小百合は父の身に起こったことを知らされます。炭鉱で落盤事故が起き、父がその犠牲になったというニュースが飛び込んできたのです。小百合は手鏡を離さず、手鏡を見ながら無理やり笑顔を作ろうとします。父が死んだかどうかはわからない。もしかしたら今から急いで駆け付ければ、小百合は父の死に目にあえるかもしれない。他のダンサーたちは舞台を中止して帰ろうとしました。けれどただ一人、当の小百合が言いました。「躍ります」と。「父ちゃんもきっとそう言ってくれっと思うから・・・」と。
 舞台は予定通り終了。小百合を含むダンサーたちは町に帰ってから、小百合の父が最期まで小百合の名を呼びながら息を引き取ったと知りました。小百合は町の人に「親不幸者!」と詰られ、泣きながら、父の亡骸に会うため歩きだします。

 
 わたしには、小百合がどちらを選択したとしても親不幸になったし親孝行になったような気がします。
 多分親になった人間は、死ぬ時に子どもや孫に会いたいものではないでしょうか。普段子どもに立派になって欲しいと思ってはいても、死ぬ時は会いたい。だから小百合が舞台を取りやめにしてでも父に会いに駆け付ければ、父は喜んだはず。けれどこれまでの父の行動を考えると、父は心のどこかでガッカリしたかもしれません。勿論喜びの方が勝るでしょうが・・・。
 でも、これって凄いことだと思いませんか。
 どちらを選択したとしても親不幸になるし親孝行になる、という親子関係を築けるなんて。
 

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