アレハンドロ・アメナーバル監督 『海を飛ぶ夢』
2008年6月5日 映画
ラモン・サンペドロは実在した人物。
首を折ったことが原因で頭から下の感覚を失い、動かすことも出来なくなった男性。
彼は事故から約30年間ずっとベッドの上で生きてきました。
今、ラモンは実在「した」人物。
彼は死を望み、友人が手を貸したのです。
この映画は尊厳死を肯定もしなければ否定もしません。
この映画は観客がラモンを応援したくなるように、しかし時には尊厳死に反対する側を応援したくなるように作ってあります。
誰も悪くないから。
ラモンは愛されていなかったわけではありません。愛していなかったわけでもありません。だからこそ彼は約30年間待ったのです。「何故僕は死にたいんだ」と苦しみ続けたのです。
けれど、今の体では愛する人に触れられません。愛する人が触れてくれたとしても、今の体は感じることが出来ません。だから彼は魂を体から自由にして、魂となって愛する人を感じたかった。大好きな海に、車椅子などに縛られず、自由に行きたかった。
それが彼にとっての「生きる」ということ。
だから彼の友人は彼が生きられるように、尊厳死を合法化するため裁判に協力しました。けれど努力は報われず、裁判所は彼が尊厳死することを許してはくれませんでした。最終手段として友人は、コップの水に青酸カリを混ぜ、ストローをさし、ラモンの傍に置くという方法によって彼が死ぬのを手助けしました。
彼と友人の行動を責められる人はいるのでしょうか。
責める人はいたでしょう。特に宗教関係者が。この映画にも神父が登場します。神父もラモンと同じく四肢麻痺なのですが、神父は尊厳死に反対する立場。神父は自分の考えをラモンやラモンの家族に押し付けようとします。そのせいでラモンの家族は心に一生忘れられない傷を負いました。
・・・この神父が正しいのか正しくないのかはわたしにもわかりませんが、一つハッキリしていることがあります、わたしはこの神父が嫌いです。けれどこの映画には、神父の登場シーンも含めたどのシーンも飛ばさずに何度もリピートさせる力があります。それは多分神父に悪意があるのではなく心底「尊厳死はいけない」と思って言っているからであり、ラモンの家族も友人も彼を応援しつつも(ただしラモンの兄は応援しない立場)気持ちが揺らいでいるからであり、ラモンの魂が海の上を飛んでいくシーンが美しいからではないかと思います。
首を折ったことが原因で頭から下の感覚を失い、動かすことも出来なくなった男性。
彼は事故から約30年間ずっとベッドの上で生きてきました。
今、ラモンは実在「した」人物。
彼は死を望み、友人が手を貸したのです。
この映画は尊厳死を肯定もしなければ否定もしません。
この映画は観客がラモンを応援したくなるように、しかし時には尊厳死に反対する側を応援したくなるように作ってあります。
誰も悪くないから。
ラモンは愛されていなかったわけではありません。愛していなかったわけでもありません。だからこそ彼は約30年間待ったのです。「何故僕は死にたいんだ」と苦しみ続けたのです。
けれど、今の体では愛する人に触れられません。愛する人が触れてくれたとしても、今の体は感じることが出来ません。だから彼は魂を体から自由にして、魂となって愛する人を感じたかった。大好きな海に、車椅子などに縛られず、自由に行きたかった。
それが彼にとっての「生きる」ということ。
だから彼の友人は彼が生きられるように、尊厳死を合法化するため裁判に協力しました。けれど努力は報われず、裁判所は彼が尊厳死することを許してはくれませんでした。最終手段として友人は、コップの水に青酸カリを混ぜ、ストローをさし、ラモンの傍に置くという方法によって彼が死ぬのを手助けしました。
彼と友人の行動を責められる人はいるのでしょうか。
責める人はいたでしょう。特に宗教関係者が。この映画にも神父が登場します。神父もラモンと同じく四肢麻痺なのですが、神父は尊厳死に反対する立場。神父は自分の考えをラモンやラモンの家族に押し付けようとします。そのせいでラモンの家族は心に一生忘れられない傷を負いました。
・・・この神父が正しいのか正しくないのかはわたしにもわかりませんが、一つハッキリしていることがあります、わたしはこの神父が嫌いです。けれどこの映画には、神父の登場シーンも含めたどのシーンも飛ばさずに何度もリピートさせる力があります。それは多分神父に悪意があるのではなく心底「尊厳死はいけない」と思って言っているからであり、ラモンの家族も友人も彼を応援しつつも(ただしラモンの兄は応援しない立場)気持ちが揺らいでいるからであり、ラモンの魂が海の上を飛んでいくシーンが美しいからではないかと思います。
コメント