自分の運転する車で行ってきました。
 幼い頃を過ごした土地へ。

 わたしの昔の実家は港の近くにあります。ウニが網から地面に転がっていたりするところ。高齢者率が著しいこともあって、子どもは非常に可愛がられます。
 幼い頃。わたしが学校から帰ってくると、ひなたぼっこ中のおばあさんたちに「○○ちゃんおかえり〜」と言ってもらえました。わたしが寄り道をする時はたいてい、おばあさんたちに「ちょっとうちへ上がってお菓子を食べていきなさい」と呼び止められた時。
 家へ帰る頃には、わたしが勝手に名前をつけて餌を与えていた野良猫やその子猫が駆け寄ってきました。猫たちはわたしが帰る時間をしっかり把握していたのです。
 そうそう、毎夏、夜になるとおばあさんたちは軒先に椅子を設置していました。わたしも一緒に椅子に座って夕涼みをしたものです。夕涼み中、目の前にタヌキがやってきて、わたしはとてもビックリしたというのにおばあさんたちが平然とおしゃべりを続けていたのが懐かしいです。おばあさんたちは黒飴やらキンカンやら色々くれて、中でもわたしは柏餅を気に入りました。ただし柏餅の皮だけ。なぜかあの頃わたしは餡が苦手だったのです。だからわたしは柏餅の皮だけ食べて残りを自分の祖母にあげる、という呆れたことをしていました。おかげさまで今では餡も食べられます。
 飼っていた金魚が死んだので庭に埋めたら埋めた場所を忘れてしまい、白骨化したものをうっかり掘り返してしまったこともありました。あの頃わたしは何匹も金魚を飼っていたため、同じ過ちを繰り返さぬよう、庭の椿の下を「金魚を埋める場所」と決めました。桜の下には死体が埋まっている、とよく聞きますが椿の下にも死体が埋まっているんですよ。


 書き続けたらキリがないくらい思い出のある土地。
 今回自分の運転する車で行ってみて、家並みもそう変わっておらず、相変わらずのどかな様子で安堵しましたけれど、「もうここはわたしの帰りたいところではない」ということがハッキリしました。


 わたしが知っている「おばあちゃんたち」はわたしの祖母を除いてみんな亡くなってしまったから。
 わたしが知っている野良猫たちも、もういないから。その子猫の子猫くらいは生きているかもしれないけれど。
 土地は変わらずに在るけれど、わたしの帰りたい風景が永遠に消失しました。


 帰りたい風景を新たに築いていくしかないですね。与えてもらうだけではなく。

コメント

covaio
covaio
2009年3月5日18:28

変わっていくからこそ、切なくてはかなくて、それでいて美しくて。
変わらなければ変わらないで、つまらないものになってしまう。

頭では理解してても悲しいですよね。

でも、そう思える『心』を持っているということが素晴らしいのではないでしょうか。
私はそう思いますよ。

G−dark
2009年3月6日10:46

そうなんですよね。
刹那なものだからこそ、よりいっそう愛しく思えるのかもしれません。
頭では「時間が経つのは仕方ない」「同じ時間には決して戻れない」とわかっているのですが・・・。
実はこの日記を書く際、「こんな弱さを吐露して良いのだろうか」と少し躊躇してしまったのですが、covaioさんのように理解してくださる方がいると実感できたので、書いて良かったと思います。

>でも、そう思える『心』を持っているということが素晴らしいのではないでしょうか。
>私はそう思いますよ。
 ありがとうございます。
 この心をいつまでも忘れずにいて、自分がいつかおばあちゃんとなった際、自分がかつておばあちゃんたちにして貰った様なことを子どもたちに出来たらいいなぁと思います。

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