わたしはこの本で「対幻想」というものの存在を知りました。
 対幻想とはこの本のP117によれば、「関係」という「他者とつながりたい欲望」(P117より引用)であり、対幻想は人をつがわせるのだそうです。人がつがうのは性的欲求のためだけでなく孤独を感じないためでもあり、この二つは同じものと言えるようです。
 わかりやすく説明するならば未婚者が「自分は一人身では不完全なのではないだろうか。配偶者がいて、子どももいなければ一人前ではないのでは・・・」などと悩んで婚活するのも対幻想のせいであると言えましょう。更に身近な例で説明すると、当ブログを読んでくださっている方々も友人から「彼氏又は彼女がいないので欲しいのだがどうすれば良いかわからない」という相談を受けた経験はあることと思いますのでその例を用いて説明致します。恋人がいないということが日常生活に支障をきたすわけでもないのに思い悩むというのも、「一人では不完全である」という思い込み故なのかもしれません。勿論、恋人がいればいたで楽しいことも沢山あります。とはいえ、わたし自身はこれまで「○○さんのことが好きだから恋人になって欲しい」と悩んでばかりだったので、「恋人が欲しいから出会いを求めて何か行動する」という実体験は特別ありません。しかしいつかわたしも実際に行動し始めるかもしれません、恋人や配偶者を得るために。その際わたしはきっと「嗚呼、わたしは今対幻想にとらわれているのか?」と自らに問うでしょう。そしてこの本を思い出します。


 他にこの本で興味深いのは、いわゆるBL作品になぜ女性読者が夢中になるのかについて「女性読者にとって少年は女である。少年は異性であるため、女性読者は少年と同一化せずに済む・・・」という考察をしているところです。(御存知でない方のために説明いたします。BLとはボーイズラブのこと。BL作品は少年同士など男性同士の恋愛を描いているのです)。
 同一化。
 わたしも時々BL作品を読むのですが、実際わたしも「なぜわたしは少年同士の恋愛をこんなに美しく感じるのか。男性と女性の恋愛を描いた作品は、妙な息苦しさを持っているというのに」と度々考えてきました。同一化せずに済むから、という説明は至極納得のいくものです。
 この本も言及している通り、BL作品に登場する少女たちは女性が「これは女性の嫌な部分」と感じる部分をあからさまに体現しているように思います。身勝手だったり、嫉妬深かったり・・・。そういった部分は勿論男性だって持っているでしょうが、女性自身が「女性である自分」に辟易しているからこそ、女性読者はBL作品を求めるのかもしれません。そしてBL作品に登場する少女は、何か酷い体験をするというのがポピュラー。
 この本は「(BL作品に登場する)少女たちが不当な扱いに遭うのは、彼女たちが『女だから』である」(P146より引用)とも述べます。・・・確かにそうでしょうね・・・。女だから・・・。女性読者は女性が女性であるがために自己嫌悪することを知っているから、BL作品に登場する少女が何か苦しみを負わねば自然に感じないのかもしれませんね。・・・ううむ。

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