何千という遺体を検死してきた方が書いた本。
 
 第1章では自殺した方の遺体の状態について述べられているのですが、その描写たるや、もう…、生々しくって、この本を読んで自殺を思いとどまる人がいるかもしれないと思うほどグロいです。
 特にわたしが悲鳴をあげそうになったのは、P36の、転落死についての描写。もし足から転落したらまず大腿骨頚部が折れ、骨盤や腰の骨が折れ、頭がガクンと前のめりの状態になるため首の骨が折れ、体がエビのように折れ曲がって肋骨が折れる…と。想像するだけで痛い。痛いです。
 こんな調子で、どんな死に方をすると遺体がどんな状態になる(首絞め、感電死など様々)、ということが書いてあるので、わたしはこの本を読んでいてすっかり血の気が引いてしまいました。楽な死に方なんて無いのだなとつくづく考えさせられ、と同時に、これまでにわたしが経験してきた身近な人たちの死を想うと、涙が止まらなくなりました。みんなが最期に感じたであろう恐怖、痛みを、今になって自分も感じたような気がして…。
 
 さて、同じく第1章には、借金苦に苦しみ、愛する家族に保険金を遺すため、事故に見せかけて自殺した方たちについても書かれています。
 先述の通り、読んでいて胸が苦しくなりました。この方たちは本当は生きていたかっただろうに…どれだけ無念だっただろうか…どれだけ怖かっただろうか…と。
 けれど、事故死した遺体と自殺した遺体の違いは結局見抜かれてしまい、遺族には保険金は下りず、遺族には後悔だけが残ることに…。
 せっかく死んだのに、と言えば語弊があるかもしれませんが…、読んでいて何ともやりきれない気持ちになりました。
 かといって、自殺した方の気持ちや遺族の気持ちを汲んで「事故死です」と嘘の報告をするわけにはいきませんから、それが検死に携わる方の辛いところだな、とお察し致します。この本にはそこまで書かれていませんが、多分、検死に携わる方は遺族から詰られることも全くないわけではないでしょうし、遺体の持ち主が夢に出てきて恨み言の一つや二つ言うこともあるのではないでしょうか。
 けれど真実は明らかにされねばなりません。他殺が間違って事故死や病死として処理されてはいけないのと同じように、自殺もまた自殺として扱われねばなりません。
 もしこの仕事をなさっている方に会う機会があったら、わたしは心から「お疲れ様」と言いたいです。
 
 以上のように、この本はわたしの心にひどく焼き付いたのですが、実はこの本に対していくつか疑問があります。
 例えば、P75~P84に書かれているピストル強盗が犯した殺人についての描写は、まるで小説のようによく書けているのですが、筆者自身が「犯人は未だに捕まっていない」と述べているし、目撃者がいたとも書かれていないのに、どうして筆者はここまで詳細に犯人の「おとなしくしろ。いいな、静かにしてろよ」(P77から抜粋)というセリフや、殺された女性店員の「私は、開け方を知らないんです」(P78から抜粋)というセリフを書けるのでしょうか? もしこのページの前後にでも「これらの描写はあくまでわたしの想像だが」などと述べてくれていたら読み手も納得できるし、もし監視カメラが作動していて一連の人物たちの動きやセリフを読唇術などから証明出来るのならば、監視カメラがあったとこの本に書いておくべきではないでしょうか。それなのに筆者は「とくに店員さんは、「逃げるな」と脅されて逃げる途中」(P83から抜粋)などと、さもそれが事実であるかのような誤解を招く描写をしています。逃げたということは遺体の状況からしてわかるのでしょうが、本当に「逃げるな」と脅されてのことだったと100%断言できない以上、専門職として安易にこのような描写をすべきではないのではないでしょうか。読み手の中には、筆者が書いたこの小説めいた内容を、実際に起きたこととして「へえ、犯人はこうやって脅したんだな」と素直に受け止めてしまう人がいるかもしれません。
 P97~P101に書かれている殺人についても同じようなことが言えます。筆者は「慌てた犯人は、これ以上騒がれては大変だと、寝床にあった布団を彼女に被せた。「騒ぐな」と言って足と手を縛った。そして、さらに口も塞ぎ、おとなしくなったところで、犯人はあらためて室内を物色しにかかった」(P99~P100から抜粋)などと、目撃者はいないはずなのになぜか詳細に状況を描写しているのですが、この殺人については筆者はしっかり「これが私の見解だった」(P100から抜粋)と添えています。
 どうして筆者は、P75~P84の殺人については「これが私の見解だった」という一文を添えることが出来なかったのでしょう。
 P75~P84の間であるP80に「その時の法医学的な見解は以下のようなものだった」という一文が出てきた時は、わたしは「あ、これでちゃんとフォローしてくれるのかな」とホッとしたのですが、よくよく読んでみると、それは犯人や女性店員のセリフを筆者の想像によるものだ、と示す一文ではなく、その一文はあくまで、犯人が相当な銃の使い手であるという見解を示すものに過ぎませんでした。
 きっとわたしの読解力が足らないからこそわたしがこういう疑問を抱くのでしょうが…、もし遺族が筆者が書いたセリフを読んだら、「これが娘の最期の言葉か」と涙する可能性があります。
 ただの想像なら想像とはっきり添えるべきであって、こういう本においては専門職として脚色を極力省くべきではないかとわたしは思うのですが…。わたしが間違っているのでしょうか…。
 わたしが読んだのはこの本の第一刷発行本なので、それ以降刷られたものについては加筆修正されていることを願います。
 
 その他に関しては、同じ場所から白骨遺体とミイラ遺体が発見される謎や(白骨=夏に亡くなった、ミイラ=冬に亡くなった)、同じ状況下において家族間に死亡時間の差が生じた際の遺産相続問題についてのこと(例えば10~30分の差があったとしてもトラブルを避けるため同時死亡として扱われる)など、勉強になっただけに、尚更そういった脚色が惜しまれるところです。

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