短編集。
 京極さんの綴る言葉たちには不思議な風情があるので、わたしは何度も何度もこの本を読み耽り、その世界に浸ってしまいました。

 わたしは、1つ目の短編『手首を拾う』で主人公が庭を観ている時の描写(P28)を特に気に入りました。その理由を上手く言えないのですが、激しい音の鳴る状況から、全く音の無い状況に変わるまでの移り変わりの書き方が、美しいなと思って。
 手首の正体が結局何なのかは、この作品の中でハッキリと説明されないのですが、わたしは多分この手首は主人公のかつての妻の象徴だろうなという気がします。手首だけしか無いということは、主人公に罵声を浴びせることも、主人公を突き飛ばすことも出来ないのですから。手首だけしかないから、手首は、主人公を拒否しない。それは見方を変えれば、体のほとんどが主人公を拒否しているとも捉えられますが…。
 「私は七年振りに手首を拾った。ああ、久しぶりだね。手首を頬に当てる。冷たい女の体温。生きているね。良かった」(P37から抜粋)という主人公のモノローグが、酷く悲しく、けれど美しいので、何故か涙が、零れそうになります。

 2つ目の短編『ともだち』は、主人公と喫茶店のマスターが、幽霊なんて居ないさと言いながらも、お互いに主人公の友達の幽霊の姿を見ていて、その幽霊について冷静に話し続けている…という、ちょっと変わった雰囲気の話です。
 3つ目の短編『下の人』は、主人公のベッドの下に幽霊が棲みついてしまったため、最初主人公は幽霊の存在を迷惑だと感じていたけれど、その幽霊の姿が余りに奇妙だし無力な様子なので、主人公はだんだん幽霊を気の毒に思い始め、しまいには主人公から自発的に幽霊に触れて助けようとする…という、これもまた奇妙な話です。
 4つ目の短編『成人』は、人に成れなかった者のことを書いた作品です。これはあくまでわたしが読んでいて思ったことなので、もしかしたら違うかもしれませんが、多分、銀色の缶に入っていたのは、いわゆる水子なのではないでしょうか。けれど何かの理由でその家族はその水子を葬らず(ちなみに、その家族の1人が「まだいるんだから」と話しています)、それどころか毎年雛人形を飾ってやったり、もし人に成れていたら成人式に出るのに晴着が必要だっただろうからという理由なのか着物を用意してやっているのだ…と思います。家族が目に狂気を浮かべて「二十年もよ、二十年も面倒みたのによ」と呟きながら雛人形を壊すくだりは、読んでいて少々寒気がしました。

 …と、どの短編もそれぞれ独特の世界観なので読み応えがあるのですが、わたしが一番気に入ったのは、7つ目の短編『知らないこと』。
 …やられた! と、この短編を読み終えてすぐ、膝を打つ思いがしました。
 どの短編でも幽霊のことを書いているけれど、この短編においては生きた人間のことが書かれています。
 読んでいると、狂っている人間の混乱した思考を仮体験しているかのような気分になり、乗り物酔いとはまた違う、何といえばいいのでしょうか、文章酔いしていると言えばいいのでしょうか、とにかく嫌~な気分になりました。
 まるで、「どうだ、幽霊より余程、生きている人間の方が怖いだろう?」という京極さんに問われたかのような気がしました。本当にそういう意図があるかどうかはわかりませんが、
もしそうだとしたら、敢えてこの本のタイトルを『幽談』にした京極さんのセンス、堪りません!

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