信じた人たちに裏切られ、飲み食いも出来ず、熟睡も出来ず、身体中傷つき、死をも覚悟していた陽子が、ついに信じられる人たちに出逢う下りでは、読み手であるわたしまで救われたような思いがしました。
 わたし自身は傷なんて負っていないのに、身体が癒えていくような気がしました。心があたたかくなりました。
 人は、信じられる人が居るというだけで、こんなにも救われるものなのでしょうか。

 中でも、楽俊は清々しいほど良い奴で、しかもいわゆる萌え要素を兼ね備えています。
 特に、陽子に抱きしめられた楽俊が(陽子は楽俊をはっきり言って喋るネズミの妖だと思っていて、まさか人間の男になれるとは知りませんでした)、「お前、もうちょっと慎みを持った方がいいぞ」と動揺する所なんかは、わたし、かーなーりニヤニヤしてしまいましたっ。ニヤニヤ頂きましたっ。ごちそーさまっ!
 わたしが陽子だったら間違いなく楽俊に惚れています。
 けれど、陽子はその性格からいって、簡単に惚れたりはしないんでしょうねぇ。そういうところも又、良いんですけどね。

 また、わたしは、下巻において登場した、胎果についての話も興味深く感じました。
 この十二国記の世界においては、子どもは親の身体からは生まれず、里木(りぼく)という木の実から生まれてくるのだそうです。(ただし、遊郭はこの世界にも存在します。純粋に、ただひたすら快楽を求める為の物なのでしょうね)
 胎児がなる実だから、胎果。
 子どもを欲しがっている夫婦がお供え物をして、願いを込めて里木の枝に帯を結ぶと、天がその夫婦に親となる資格があるか見定め、合格すれば里木の枝に胎実がなり、夫婦がその胎実をもぐと、一晩おいて実から子どもが生まれるのだそうです。
 逆に、天がその夫婦に親となる資格がないと判断すれば、いつまでも胎果はならないのだそうです…。
 …この方法なら、子どもは皆望まれて生まれてくるし、それはとても素晴らしいことなのですけれど、胎果がならない夫婦はたまったものではないでしょう。
 自分たちの何がどういけなくて胎果がならないのか、どうすれば胎果がなるのか、天が親切に教えてくれるはずもなく…、何だかそれが、現実世界で不妊治療を頑張っている夫婦に重なって思えて、わたしは切なくなりました。
 現実世界では、子どもを望んでいないのに安易な性行為で妊娠して子どもを産んでみたはいいものの虐待して殺してしまう人もあれば、子どもが欲しくて欲しくて不妊治療に励み続けているのに子どもを授かれない人もいて…、どうして世の中ってもっと上手くいかないのでしょうか。

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