「特に近年は、時間とお金と知恵を尽くして努力をすればするだけ外見レベルは向上するのであって、その努力を惜しむ人は人間としての魅力が足りない人、という価値観が広まっています」(P214)という一文を読んでいて、わたしは深く頷いてしまいました。
 
 綺麗な人自体は本当はそんなに多くないのかもしれないけれど、綺麗にしている人は非常に多い…とわたし自身も日ごろから感じています。
 今は様々な美容・ファッションの情報を誰もが吸収しているので、明らかに変!とびっくりするような人を見かけることは無くなりました。
 時々、その人が20代~30代だった頃に流行ったメイクやヘアスタイルを引きずっている人を見かけるけれど、そのことを本人に教えることは「自分自身を客観的に見る能力に欠けている」と言うのと同じように思えて、物凄く失礼な気がするので、言えません…。

 この本においては、美醜について悩むことのない「おたく」についての考察も成されています。
 「彼等はやはり揃って色白で、ジーンズメイトで売ってるっぽいチェック柄のシャツにジーンズを着用し、リュックを背負いつつも手には紙袋、といったいでたちなのです」(P85)、「彼等をよく見ていると、伸び気味の髪が何日間か洗っていない感じでペタッとしていたり、ズボンの裾が汚れていたりすることがよくある。しかしそのペタッとなった髪や汚れたズボンは、彼等に私が持っているような生臭い自意識がほとんど無いということを教えてくれるのです」(P87)、「混んだ電車の中でリュックを背負ったままにしていると自分がどう思われるか、などということに全く注意を払わずに浮き世離れした表情を続ける彼等が少し、羨ましくもなる」(同じくP87)と著者は語ります。

 そう考えると、少しおたくの人たちが羨ましくなります。容姿の悩みから解放されているなんて…。
 おたくの人々というのは、三次元(現実世界)の異性に恋愛感情を抱くことは滅多にありません。
 おたくの人々にとっては、二次元(架空)の異性こそが恋愛対象であり、いわゆる「○○は俺の嫁」。そういう「嫁」たちはおたくの人々の容姿も学歴も収入も一切咎めることはありません。今の技術においては「嫁」たちには自我が無いからです。「嫁」たちは、ただただ可愛らしく微笑んで、時には魅力たっぷりに怒っても見せる存在。
 おたくの人々は、異性に好かれるため外見を飾り立てるという、人間が何千年も昔から続けてきた生臭い煩悩から解き放たれた、ある意味での新人類なのです。それはある意味とても羨ましいことです。彼等は好きなキャラが、例えばいわゆるギャルゲーのキャラだとしたら、好感度パラメータを上げることだけに集中すれば良いのですから。
 男性に限らず、女性も二次元のキャラに夢中になっている人は沢山います。二次元のキャラは、すね毛も脇毛もないしオナラもしないし浮気もしないし金をせびりもしないし暴力もふるわないからです。老けることさえ、ない。
 男性も女性も、二次元のキャラ相手を好きでいる限り、異性に幻滅させられることはありません。わざわざ時間を割いてデートをセッティングしなくても、自分が好きな時に漫画やゲームなどそれぞれの媒体にアクセスすれば相手の姿を確認出来るのです、たとえば相手が架空の存在であっても。三次元の異性こそが架空の存在のようなものなのです。

 そのうち、おたくに限らず、ほとんどの人にとって三次元の異性が恋愛対象でなくなる、そんな時代がくるかもしれませんね…。
 その時「容姿の時代」は終焉を迎えるのかも。

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