これからこの小説を読む方には、二つの点に注意して頂きたいです。

 まず、一つ。
 この小説を読んでしばらくは、箱(匣)というものが怖くなるので、それを覚悟して読むこと。
 わたしは弁当箱におかずを詰めていた際、ふと「隙間が空いてるから、もっと何か詰めなきゃ」とうっかり独り言を言ってしまった自分に気が付いて食欲を失くしましたし、宅配便を受け取った際などは「もしやこの中に…あれが…」とごくりと生唾を飲んでからしかダンボール箱を開けられない、という状態に陥りました。

 二つ。
 読むなら、必ず最後まで読み通すこと。
 バラバラ殺人を描いたこの小説は、前半はまだマシなのですが、後半からどんどんエグくなっていきます。
 クライマックス直前という段階になってから或る人物が告白した所業などは、わたしは読んでいて本当に胃液がこみ上げてきて、「なるほどこれが『反吐が出る』って感覚なのか! 他の人はまだまともだ! この人こそ狂っている!」という堪らない嫌悪感に襲われ、あと少し読めばこの小説を読み終わるというのに、バタンと本を閉じてしまいました。
 けれど、「とにかく最後まで見届けよう…」と思い直して再びページをめくると、勿論或る人物に対する嫌悪は消えないけれど、この物語そのものの物悲しさが胸を打ち、涙さえ出ました。
 多分、他の作家がこの物語を書いたら、単に残酷でセンセーショナルな内容で終わったでしょう。例えば似たような匣については、大塚英志原作・田島昭宇画の漫画『多重人格探偵サイコ』第一巻にも登場し、あれはあれで好きな作品ですが、不快感が半端ではありません。
 京極夏彦が描いたこの匣は、勿論残酷極まりない代物であることに変わりはありません。けれど…、痛々しく、虚しく、哀れでありながらも、どこか奇麗。
 最後まで読んで良かった。

 また、この小説においては木場や榎木津といった人物たちの人気が高いようですが、わたしはやはり京極堂が好きです。
 関口と青木が、不幸な生い立ちの人について「屈折した性格になるのも頷ける」「これでおかしくならなきゃ嘘だ」「サイコキラー」などと話していた時、京極堂は怒って「生い立ちに遠因がないとは云わないし、幼児虐待を受けた者の多くがその人生に大きな傷を負うようなことは確かにあるが、だからと云ってそれが犯罪を犯す理由にはならない! ○○(ネタバレとなってしまうので名前は伏せます)と同じような悲惨な生い立ちをした者だって、まともに暮らしている人は大勢いるよ。~(中略)いいか、きっかけは必ずあるんだ。それさえなければ、○○だってこんなことしやしなかったさ!」(文庫版P834から抜粋)と言います。
 不幸な幼少期を送った=犯罪者になるリスクがある、と見なされかねない昨今の風潮を、わたしはずっと懸念してきました。だからこそ京極堂の言葉は、何だか嬉しかったです。

 余談ですが、この小説の中で頻繁に「生きている」という言葉が用いられることが、わたしの心に引っかかりました。
 「ああ、生きてゐる」とか、「この女は生きている」とか、とにかく目につきます。
 京極夏彦の他の作品(例えば『幽談』に収録されている短編『手首を拾う』など)に於いても、「生きている」という言葉はやはり効果的に使われています。
 京極夏彦にとって「生きている」という言葉がどういう意味を持つのか…、それを知る為にも、わたしは今後も京極夏彦の小説を読み続けたいと思います。

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