「わたしが王になったら善政を敷こう…」と、国を治める予定なんてたぶん来世でもありはしないのに、わたしは泣きながらこの巻を読みました。
 
 貧しくてひもじくて明日の命も危うい人々が口減らしのために小さな子供たちを捨てるくだりが冒頭から続いたので、正直言うと、読み進めるのが辛かった…。
 かつてそうして捨てられた子供二人が成長し…、片方は「自分のような子供を作りたいのか!?」(P268から抜粋)ともう片方の暴挙を止めようとし、問われた方は「国が傾くのが怖いか? 荒廃が怖いか、死が怖いか。楽になる方法を教えてやろうか」「全部滅びてしまえばいいんだ」(P269から抜粋)と答える、というこのくだりには戦慄を覚えました。

 どうしてこんなことになってしまうのでしょうか?
 
 そもそも、この『十二国記』の世界において、王は麒麟が天帝による天意によって選ぶもの。
 王が玉座にいないだけで国は荒れる。
 けれど、王が玉座に居ても国が乱れることもある。
 麒麟に選ばれた王が必ずしも善い政をするとは限らないから。
 「諸神は悪を雷で打つという。ならば麒麟が病むのを待たずとも、王が道を誤った瞬間に雷で打てばよろしかろう。~(中略)不遜だというのなら、今ここで雷罰を下していただこう」(P120~121から抜粋)と笑う者が居ても、天帝は現れない。
 天意はわからない。
 苦しむのはいつだって民。

 …酷い。

 そんな中でも民は王に期待を寄せる。 
 臣もまた、死を命じられるのも覚悟の上で「どれだけの民が死んだか、その目で確かめろ」(P32から抜粋)と死んだ民の戸籍を王へ投げつける臣もあれば、興す王と滅ぼす王どちらの謚がお好みか、と王に問う臣もあり、また、王のために麒麟を逃がそうと自らの命を代償にしてしまう臣もあり…、臣は懸命に働いている。

 なのにだからといって民の暮らし向きがすぐ良くなるわけではない。
 反乱分子は生まれる。
 そうなれば血が流される。

 国とは?
 王とは?
 臣とは?
 民とは?
 と、この巻は読み手の心を雷で打ちます。

 わたしはこの巻を読んだ後、ニュースや新聞を以前よりじっくり読むようになりました。
 自分の住む国、他の国、それらが今どうなっているのかを知りたくて。

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