こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、パニック映画を観るよりも、この本を読んでいる方が、ずっとずっと怖い。
 
 よく、原発について語る際に、「もし安全性が保証されるならば原発に賛成」という言い方をする方がいますが、この本を読んだら、そんな「もし」は簡単に言えなくなると思います。
 原発は人間の力で制御出来る、と言われていたのは、もはや遠い過去の話。
 この本には、原発の安全神話がいかにして崩れ去ったかがよく描かれています。
 
 原発で事故が起きたら、たとえ放射能を浴びながらであっても、原発で働く社員がその場でなんとか対処して、放射能が外部へもれるのを止めなければなりません。
 でも、作業をするのは、ロボットではなく生身の人間。
 未だかつて無い地震が起きて、そのすぐあとに大きな津波がきて、身内の安否がわからず、いつまた地震や津波が襲ってくるかわからない、ただそれだけでも想像を絶する恐怖だろうに、原発の電源喪失という前代未聞の事態に対するマニュアルが無く、どう対処していいかもはや誰も正しい答えを持っていない中で、でも途方に暮れることもパニックになることも許されずとにかくこの状況を何とかしなければならない…、という極限状態がこの本には描かれています。
 
 この本には、まさにその当時の社員の様子を写した写真がたくさん載っていますが、別にそれは、社員に写真を撮る余裕があったわけではありません。むしろその逆。
 この写真たちは、その場で実際に作業にあたった職員たちの遺書代わりとして撮られたもの。
 生きてこの場から帰れるかわからない、この場に居たという記録を残したい、という、写真の形態を取った遺書。
 家族の一人一人に宛てて遺書として書かれたメモもこの本では紹介されていますが、早く作業に戻らないと一刻を争うため長文は書けなかったようで、ごく短い文ずつしか書けていません。
 だから、放射能に冒される中で撮影された写真がこうして残っているんですね…。

 わたしは福島に知人が数人居て、みんな地震と津波で家族と家と仕事を失っただけでなく放射能によって故郷に帰れなくなったので、別にわたしは東電社員を擁護したいわけではありません。
 けれど、こうして現場で作業をした社員たちは、果たしていま無事なのか、家族に会えたのか、避難出来たとすれば東電社員ということで避難先に居辛くなったりしなかったか、PTSDの症状に悩んでいるのではないか、…と、わたしは読んでいて色々考え込んでしまいました。

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