「この男の為なら死ねるランキング日本史編」があったらかなり上位に入るであろう島津義弘公についての本。

有名な関ヶ原退き口で島津軍のとった行動は「兵を捨て駒にした」とも評されがちだけれど、むしろ兵の方が、己の命を犠牲にしてでも殿に生き延びて欲しいと健気に願ったからこそ。

でないと怖くてあんな戦法はとれない!

普通、負け戦で退却する場合は敵に背を向けて逃げるけれど、島津軍はその逆をいく。

まさかの前進退却。

「島津軍には部隊あげての突貫の際、「繰り抜きの御陣法」というのがある。隊伍を固めて遮二無二突進し、敵にあたって散らず、止まらず、そのまま速度を落とすことなく駆け抜けるのである」
(P112から抜粋)

これは敵軍もさぞ驚いたことでしょう。

相手が逃げていくかと思いきや、逆に猛スピードでこちらに突進してくるのだから。

敵軍は、退却中の島津軍を追いかけてくる。

そもそも最初から兵差は圧倒的で、敵軍の勢いは凄まじい。

義弘公は死を覚悟したけれど、甥の豊久を含む家臣たちが、生きて薩摩に帰るよう義弘公を説得。

自分が敵を少しでも食い止めている間に義弘公に逃げてもらおうと豊久が敵に立ち塞がって討死。

また、最後尾の兵たちがステガマリ戦法をとる。

「ステガマリとは、後尾の一組が本隊の脱出を助けて犠牲となる。騎卒は、道路脇の茅草にひそみ、点々と銃を構えて折敷き、追撃して来る敵の先鋒に発砲する。銃を撃ち終えれば槍をとって突撃する。死ぬまで戦い続けることが定められている」
(P119から抜粋)

…知れば知るほど凄い。

義弘公が生きて帰ることが薩摩藩の存続に繋がったとはいえ、そこまでさせる義弘公のカリスマ性に驚かされます。

全然尊敬出来ない殿のためにそこまでする兵はいないでしょう。

ということは相当な人物であったということ。

ちなみに中馬大蔵さん(ちゅうまん おおくら さんと読みます。余談ですが我が祖母の家の近くに中馬さんのお墓があります)という方は、義弘公が手勢が少なくて困っていると知って、島津軍に合流するため薩摩から伏見まで十三日間走り続けて駆けつけたそうです。

中馬さんは農作業の途中で、取るものも取りあえず走り出したため、鎧と槍は他の人から強奪!

「おはんは、おいの家の鎧と槍を使えば良か」(標準語訳…あなたはわたしの家の鎧と槍を使えば良いです)と中馬さんは言ったそうですが、その人が中馬さん宅を知っていたかどうかは謎。

また、中馬さんはお金が無かったのでスリをしながら薩摩から伏見まで駆け抜けたそうです。

盗んだバイクで走り出す、ならぬ、盗んだ鎧と槍とお金で走り出した中馬さん!!

…中馬さんに鎧と槍を奪われた方と、お金をスられた方に、鹿児島にそれから数百年後に生まれ、そして中馬さんのお墓と少し縁がある者として、子孫というわけではないけれど、中馬さんに代わってお詫び申し上げます。

おかげさまで中馬さんは関ヶ原で活躍。

義弘公の籠を担いで追っ手から逃げきった。

他の多くの勇敢な兵たちの犠牲があってこそ義弘公は生き延びたわけですが、もし人並外れて体力のある中馬さんが義弘公の籠を担いでいなかったら、敵が義弘公の乗る籠に追いつき、歴史は変わっていたかもしれません。

さて、義弘公の魅力は一言では語り尽くせませんが、家臣に「お前の父は何合戦で手柄があった。お前は父に似ており父に劣らぬ働きをするだろう」(P3から抜粋)と声をかけたり、逆に「父は心がけてはいたが運がなくさしたる手柄はないが、お前は父に優るようだから手柄をたてるだろう」(同じくP3から抜粋)と励ますなど細やかな声かけをしていたのが素敵です。

その戦場でのチートな強さから「鬼島津」と呼ばれて恐れられながらも、敵味方の区別なく供養したというギャップも魅力ですね。

そんな義弘公が年老いて亡くなると、その時の藩主が殉死を固く禁じたにも関わらず、十三人もの人が殉死切腹したというエピソードも凄まじい!

死してもなお仕えたいと思わせる男…。

わたしは今後も義弘公に関する本を他にも読み続けて、そのカリスマ性に触れたいと思います。

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