原作…白井カイウ 作画…出水ぽすか『約束のネバーランド』1〜14巻までの感想
2019年6月9日 漫画
※注※
ネタバレがあります!
「もし自分がこの子どもたちと同じ立場だったらどうするだろうか? そもそも自分の境遇の真実に自力で気づけるだろうか? 仮に気づいたとして、諦めずにいられるだろうか? 友達を見捨てることなく、全員で助かろう、と必死で戦えるだろうか?」
と唸りながらコミックス1巻を読み始めたわたしは、気づいたら14巻まで一気に読み終えていて、今は15巻の発売を待ち切れずにいます。
〈こういう人におすすめ〉
例えば、映画『トゥルーマン・ショー』が好きだ、という方なら、きっとこの漫画のことも気に入るはず。
「自分の人生は他人に用意されたものだった」と気づき、どんなに外の世界に辛いこと悲しいこと悲しいことが沢山あって、どんなに今まで居た世界が安全だったとしても、その心地良い世界から外の世界へ脱出して自分の人生を手に入れようとするところが、この漫画と共通しています。
また、映画『ミネハハ 秘密の森の少女たち』が好きだ、という方にもこの漫画はおすすめ。
ある人物が巨額の費用と時間と人員を費やして子どもたちを育成しているけれど、子どもたちは不気味な門と森に阻まれて敷地から逃げることが出来ず、ほとんどの子どもたちは大人になる前に死亡、そしてごく一握りの子どもたちは大人になると加害者側に加担する、というところが、この漫画と共通しています。
また、漫画『食糧人類』が好きだという方にもこの漫画はおすすめ。
自分たちに人間としての基本的人権というものは全く認められておらず、家畜として飼育されていつかは怪物に食べられるのだ、しかも自分たちが食べられることで死を免れる人間たちが居て彼らは自分たちの逃亡を阻止したいのだ、と悟った上で、友達と協力しながら怪物に立ち向かい、怪物を滅ぼそう、とするところが、この漫画と共通しています。
と、ここまで書けばこの『約束のネバーランド』のストーリーが概ね伝わると思います。
〈ストーリーの見どころ〉
『約束のネバーランド』に登場する子どもたちは「自分たちは孤児院で育てられている孤児だ」と思い込まされていました。
「里親が決まれば孤児院から出て行けるのだ」と。
「それまでは、〝ママ〟と呼ばれる孤児院の職員によって愛情たっぷりに育ててもらえて、血は繋がらないけれど兄弟姉妹同然のみんなと暮らせるのだ」と。
「先に里親が決まって孤児院から出て行ったみんなが手紙のひとつも出してくれないのは、みんなが外の世界で幸せになって孤児院のことを忘れてしまったからだ」と。
けれど、そうではありませんでした。
「孤児院」ではなく、「農園」。
「孤児」ではなく、「家畜」。
「里親のもとへ行く」のではなく、「農園から出荷される」。
「孤児院の職員」ではなく、飼育を監督する「飼育監」。
手紙は「出さない」のではなく、「出せない」。
先に「里親」のもとへ行ったみんなはもう居ない。
この世のどこにも居ない。
とっくに「鬼」の胃袋の中。
その残酷な真実を知った子どもたちは、最年長者でもまだ12歳にも満たない、ごく幼い存在。
子どもたちは怖くて怖くてたまらなかったけれど、これ以上誰かを食べられてしまう前に、「みんなで逃げよう」と誓います。
「農園」から脱走した子どもたちが運動神経も頭脳も助け合いの精神もずば抜けて優れていることや、子どもたちを支援してくれるごく僅かな人間と鬼に出会えたおかげで、子どもたちは絶えず襲いかかってくる鬼たちから逃れ、途中少しずつ仲間を失いながらも、生き延びていきます。
その中で、
自分たちは鬼に食べられたくない。
けれど、自分たちだって他の生き物を殺して食べている。
自分たちと鬼に大した違いは無い。
お世話になった鬼もいる。
鬼を絶滅させること無く、共存出来る道は無いのか?
と悩む子どもがいる一方、鬼の絶滅を願う子どもも居るので、彼らが今後どんな道を切り拓いていくのか気になります。
〈鬼を絶滅させるべきか? 共存すべきか?〉
多分、どちらの言い分も間違っていません。
また、鬼は見た目こそ人間からすれば異形だけれど、やっていることは現実の人間がやっていることと変わらないので、子どもたちがあくまで鬼の絶滅を願うなら、それは子どもたちより上の世代が作り上げた人間社会の有様を皮肉っているようにも思えます。
鬼が子どもたちを「農園」で育てているのと、人間が牛、豚、鳥、魚といった生き物を「養殖」しているのは変わらないし、
「養殖物」よりも「天然物」を美味しいと感じる者がいるのも変わらないし、
鬼が子どもたちを「儀式」で殺すのと、人間が生き物たちを殺すのは変わらないし、
鬼の中には子どもたちを「遊びの狩り」で殺す者も居るけれど、人間の中にだって生き物たちを「遊びの狩り」で殺す者も居るし、
鬼が子どもたちを「食べる」のと、人間たちが生き物たちを「食べる」のは、やっぱり変わらないし、
鬼の中にもはっきりとした身分制度があって、上位の鬼はより美味しいものを食べて着飾って裕福な暮らしが出来るけれど、下位の鬼は量産された質の低い食べ物しか手に入れられないのも、人間社会と似ているし、
貴族鬼の間で「最高級食材」の話が出た途端、それまで食べていた恐らく「並よりは良い食材」を、貴族鬼が「もういいわ!」と食べ残すシーンが描かれるけれど、それも気軽に食べ物を廃棄する人間と変わらないし、
「ボクを殺したらボクのパパが……」なんて親の威光を盾に命乞いをする鬼も、
自分たちは子どもたちを殺しまくっているくせにいざ仲間を殺されたら泣く鬼も、
燃えるような戦いを楽しみたいからという理由で、敢えて子どもたちに有利な状況を作り出してやって自らを窮地に追いやるという、自殺衝動とも解釈出来る行動を取る鬼も、
人間に見えます。
もともと鬼が人間っぽいのか、人間を食べているうちに人間っぽくなってしまったのかは分かりませんが。
この漫画の続きがとても気になります。
鬼の正体が気になるし、子どもたちが生き延びて大人になれるかどうかも気になるし、たとえ偽善的だったとしても「共存」が本当に可能なのかも気になります。
これまで現実の歴史の中で、「共存」することがいかに難しいかが示されてきたけれど、せめて漫画の中でくらい「みんなで幸せになる」結末があって欲しいです。
〈気になる点〉
しかし、わたしがコミックス派でまだ連載最新話まで読んでいないから勝手に疑問視しているだけかもしれないですが、いくつか気になる点があります。
なお、ストーリーの面白さに注目してもらうため、ここまでは敢えて子どもたちや鬼たちの名前を明記しなかったのですが、ここからはそれぞれのキャラクターの名前を具体的に書いていこうと思います。
●パルウゥスはどうなった?
「鬼が鬼の死体を食べるとその意識や能力を受け継ぐ」というルールがあるのに、子どもたちがレウウィス大公を倒した後、レウウィス大公の肩にいつも乗っていたパルウゥスを仕留めなかったのが、どうにも危険な伏線のような気がしてなりません。
パルウゥスがレウウィス大公の死体を食べたら、レウウィス大公以上の強敵を生み出したことになるのでは…?
●レウウィス大公が最期に見た走馬灯の中になぜムジカの姿があった?
レウウィス大公の視界にはムジカだけでなくソンジュの姿もあるのに、明らかにムジカに注目が集まっている様子。
もしかしたら、エマが救いたがっているムジカこそが世界の真実を握っている重要な存在なのかもしれません。
●鬼は元々は人間か?
6つの塔のあるお寺にあった図が、まるでツノがある人×他の生き物=ツノがある人と他の生き物を混ぜた姿の鬼、を示しているかのように見えます。
なお、ツノがある人×蛇のような生き物=× だった模様。
掛け合わせても上手くいかない例があったのかも。
●ノーマンは本当に元のノーマンか?
一時は生存が絶望視されたノーマンが鬼に喰われることなく生還しているのは嬉しい限りですが、他の子どもたちに対して平気でメスを入れて人体改造を施してきた新型農園で、ノーマンだけ人体改造を免れたとは考えにくいです。
ノーマンと同時期に新型農園で実験に加わっていたヴィンセントの頭に傷跡があるのだから、ノーマンも実は頭に傷跡があるのかも…。
●子どもたちは「品種改良」されてはいないのか?
現実の人間たちは、これまで沢山の動物に品種改良を重ねてきました。
例えば牛なら、より乳量が増えるように、或いは肉質が良くなるように。
鬼たちが「農園」を営み始めて、かれこれ1000年もの時が経っているそうですから、何らかの品種改良が人間にも加えられている可能性は高いです。
ということは、エマたちが仮に人間の世界へと脱出出来たとしても、純粋な人間たちと自分たちに違う点があり、人間社会に受け入れてもらえない可能性もあります。
そうでないことを祈ります。
●「ママ(飼育監イザベラ)が産んだのは誰なのか?
イザベラが産んだのはレイです。
では、レイの父親は誰なのでしょう?
イザベラが飼育監として認められるためには、「子どもを産んでママになる」という条件をクリアする必要がありました。
かといって、「農園」や「本部」の様子を見る限り、自由に恋愛させて子どもを授からせてくれるような雰囲気は全くありません。
下手に異性と出会わせて脱走のきっかけになっても困るはず。
となるとイザベラは人工授精で身ごもった可能性があります。
人工授精の様子は実際イザベラの回想の中でも描かれています。
人工授精に用いる受精卵を準備するためには卵子と精子が必要になるわけですが、前述した掛け合わせの話を考慮すると、組み合わせ次第では美味しい「食材」に適さない可能性があります。
ということは、ここからは何の根拠もない推測ですが、既に「出荷」されて鬼の胃袋に入って特に美味だった人間を「またあの肉が食べたい」とクローンとして量産する可能性は0ではありません。
どう育つか分からない子どもを新たに生み出すよりも、こう表現するとかなり残酷ですが、クローンなら効率良く意図した通りの子どもが誕生しそう。
その仮定が正しいなら、イザベラは代理母で、レイは誰かのクローンなのかもしれません。
だから、子どもたちは優秀な子ばかりなのかもしれません。
レイ、エマ、ノーマンが非凡なのは勿論、ドン、ギルダ、フィルも優秀だし、他の子たちも、記憶力・理解力・判断力・運動神経・容姿・優しさ(コニーはきっと「優しさ」に該当)など、必ず一つ以上の面が特に優れている子どもばかりなのは、優秀な子どもが選抜されてクローン化されているのかも…。
例えば馬だって、肉用になる馬、乗馬用になる馬、競馬で活躍した後はその優秀な血統を絶やさないように種馬として活躍する馬、など様々ですよね。
平凡な遺伝子の人間は「量産型農園」に、秀でた遺伝子の人間は「高級農園」に送られるのかも…。
そうだとしたらゾッとします。
白井カイウ先生がコミックス5巻で「レイの誕生日は1月15日」「ただしレイの本当の誕生日は別にある」と書いていることから、もしかしたら「今回のレイ」の誕生日が1月15日で、「オリジナルのレイ」の誕生日が別にあることを示しているのかもしれません…。
でも、それ凄く怖いですよね。
何度生まれても、どれだけ代を重ねても、毎回大人になれずに、毎回食べられるだなんて。
そんな残酷なことを1000年も繰り返してきたのでしょうか?
ネタバレがあります!
「もし自分がこの子どもたちと同じ立場だったらどうするだろうか? そもそも自分の境遇の真実に自力で気づけるだろうか? 仮に気づいたとして、諦めずにいられるだろうか? 友達を見捨てることなく、全員で助かろう、と必死で戦えるだろうか?」
と唸りながらコミックス1巻を読み始めたわたしは、気づいたら14巻まで一気に読み終えていて、今は15巻の発売を待ち切れずにいます。
〈こういう人におすすめ〉
例えば、映画『トゥルーマン・ショー』が好きだ、という方なら、きっとこの漫画のことも気に入るはず。
「自分の人生は他人に用意されたものだった」と気づき、どんなに外の世界に辛いこと悲しいこと悲しいことが沢山あって、どんなに今まで居た世界が安全だったとしても、その心地良い世界から外の世界へ脱出して自分の人生を手に入れようとするところが、この漫画と共通しています。
また、映画『ミネハハ 秘密の森の少女たち』が好きだ、という方にもこの漫画はおすすめ。
ある人物が巨額の費用と時間と人員を費やして子どもたちを育成しているけれど、子どもたちは不気味な門と森に阻まれて敷地から逃げることが出来ず、ほとんどの子どもたちは大人になる前に死亡、そしてごく一握りの子どもたちは大人になると加害者側に加担する、というところが、この漫画と共通しています。
また、漫画『食糧人類』が好きだという方にもこの漫画はおすすめ。
自分たちに人間としての基本的人権というものは全く認められておらず、家畜として飼育されていつかは怪物に食べられるのだ、しかも自分たちが食べられることで死を免れる人間たちが居て彼らは自分たちの逃亡を阻止したいのだ、と悟った上で、友達と協力しながら怪物に立ち向かい、怪物を滅ぼそう、とするところが、この漫画と共通しています。
と、ここまで書けばこの『約束のネバーランド』のストーリーが概ね伝わると思います。
〈ストーリーの見どころ〉
『約束のネバーランド』に登場する子どもたちは「自分たちは孤児院で育てられている孤児だ」と思い込まされていました。
「里親が決まれば孤児院から出て行けるのだ」と。
「それまでは、〝ママ〟と呼ばれる孤児院の職員によって愛情たっぷりに育ててもらえて、血は繋がらないけれど兄弟姉妹同然のみんなと暮らせるのだ」と。
「先に里親が決まって孤児院から出て行ったみんなが手紙のひとつも出してくれないのは、みんなが外の世界で幸せになって孤児院のことを忘れてしまったからだ」と。
けれど、そうではありませんでした。
「孤児院」ではなく、「農園」。
「孤児」ではなく、「家畜」。
「里親のもとへ行く」のではなく、「農園から出荷される」。
「孤児院の職員」ではなく、飼育を監督する「飼育監」。
手紙は「出さない」のではなく、「出せない」。
先に「里親」のもとへ行ったみんなはもう居ない。
この世のどこにも居ない。
とっくに「鬼」の胃袋の中。
その残酷な真実を知った子どもたちは、最年長者でもまだ12歳にも満たない、ごく幼い存在。
子どもたちは怖くて怖くてたまらなかったけれど、これ以上誰かを食べられてしまう前に、「みんなで逃げよう」と誓います。
「農園」から脱走した子どもたちが運動神経も頭脳も助け合いの精神もずば抜けて優れていることや、子どもたちを支援してくれるごく僅かな人間と鬼に出会えたおかげで、子どもたちは絶えず襲いかかってくる鬼たちから逃れ、途中少しずつ仲間を失いながらも、生き延びていきます。
その中で、
自分たちは鬼に食べられたくない。
けれど、自分たちだって他の生き物を殺して食べている。
自分たちと鬼に大した違いは無い。
お世話になった鬼もいる。
鬼を絶滅させること無く、共存出来る道は無いのか?
と悩む子どもがいる一方、鬼の絶滅を願う子どもも居るので、彼らが今後どんな道を切り拓いていくのか気になります。
〈鬼を絶滅させるべきか? 共存すべきか?〉
多分、どちらの言い分も間違っていません。
また、鬼は見た目こそ人間からすれば異形だけれど、やっていることは現実の人間がやっていることと変わらないので、子どもたちがあくまで鬼の絶滅を願うなら、それは子どもたちより上の世代が作り上げた人間社会の有様を皮肉っているようにも思えます。
鬼が子どもたちを「農園」で育てているのと、人間が牛、豚、鳥、魚といった生き物を「養殖」しているのは変わらないし、
「養殖物」よりも「天然物」を美味しいと感じる者がいるのも変わらないし、
鬼が子どもたちを「儀式」で殺すのと、人間が生き物たちを殺すのは変わらないし、
鬼の中には子どもたちを「遊びの狩り」で殺す者も居るけれど、人間の中にだって生き物たちを「遊びの狩り」で殺す者も居るし、
鬼が子どもたちを「食べる」のと、人間たちが生き物たちを「食べる」のは、やっぱり変わらないし、
鬼の中にもはっきりとした身分制度があって、上位の鬼はより美味しいものを食べて着飾って裕福な暮らしが出来るけれど、下位の鬼は量産された質の低い食べ物しか手に入れられないのも、人間社会と似ているし、
貴族鬼の間で「最高級食材」の話が出た途端、それまで食べていた恐らく「並よりは良い食材」を、貴族鬼が「もういいわ!」と食べ残すシーンが描かれるけれど、それも気軽に食べ物を廃棄する人間と変わらないし、
「ボクを殺したらボクのパパが……」なんて親の威光を盾に命乞いをする鬼も、
自分たちは子どもたちを殺しまくっているくせにいざ仲間を殺されたら泣く鬼も、
燃えるような戦いを楽しみたいからという理由で、敢えて子どもたちに有利な状況を作り出してやって自らを窮地に追いやるという、自殺衝動とも解釈出来る行動を取る鬼も、
人間に見えます。
もともと鬼が人間っぽいのか、人間を食べているうちに人間っぽくなってしまったのかは分かりませんが。
この漫画の続きがとても気になります。
鬼の正体が気になるし、子どもたちが生き延びて大人になれるかどうかも気になるし、たとえ偽善的だったとしても「共存」が本当に可能なのかも気になります。
これまで現実の歴史の中で、「共存」することがいかに難しいかが示されてきたけれど、せめて漫画の中でくらい「みんなで幸せになる」結末があって欲しいです。
〈気になる点〉
しかし、わたしがコミックス派でまだ連載最新話まで読んでいないから勝手に疑問視しているだけかもしれないですが、いくつか気になる点があります。
なお、ストーリーの面白さに注目してもらうため、ここまでは敢えて子どもたちや鬼たちの名前を明記しなかったのですが、ここからはそれぞれのキャラクターの名前を具体的に書いていこうと思います。
●パルウゥスはどうなった?
「鬼が鬼の死体を食べるとその意識や能力を受け継ぐ」というルールがあるのに、子どもたちがレウウィス大公を倒した後、レウウィス大公の肩にいつも乗っていたパルウゥスを仕留めなかったのが、どうにも危険な伏線のような気がしてなりません。
パルウゥスがレウウィス大公の死体を食べたら、レウウィス大公以上の強敵を生み出したことになるのでは…?
●レウウィス大公が最期に見た走馬灯の中になぜムジカの姿があった?
レウウィス大公の視界にはムジカだけでなくソンジュの姿もあるのに、明らかにムジカに注目が集まっている様子。
もしかしたら、エマが救いたがっているムジカこそが世界の真実を握っている重要な存在なのかもしれません。
●鬼は元々は人間か?
6つの塔のあるお寺にあった図が、まるでツノがある人×他の生き物=ツノがある人と他の生き物を混ぜた姿の鬼、を示しているかのように見えます。
なお、ツノがある人×蛇のような生き物=× だった模様。
掛け合わせても上手くいかない例があったのかも。
●ノーマンは本当に元のノーマンか?
一時は生存が絶望視されたノーマンが鬼に喰われることなく生還しているのは嬉しい限りですが、他の子どもたちに対して平気でメスを入れて人体改造を施してきた新型農園で、ノーマンだけ人体改造を免れたとは考えにくいです。
ノーマンと同時期に新型農園で実験に加わっていたヴィンセントの頭に傷跡があるのだから、ノーマンも実は頭に傷跡があるのかも…。
●子どもたちは「品種改良」されてはいないのか?
現実の人間たちは、これまで沢山の動物に品種改良を重ねてきました。
例えば牛なら、より乳量が増えるように、或いは肉質が良くなるように。
鬼たちが「農園」を営み始めて、かれこれ1000年もの時が経っているそうですから、何らかの品種改良が人間にも加えられている可能性は高いです。
ということは、エマたちが仮に人間の世界へと脱出出来たとしても、純粋な人間たちと自分たちに違う点があり、人間社会に受け入れてもらえない可能性もあります。
そうでないことを祈ります。
●「ママ(飼育監イザベラ)が産んだのは誰なのか?
イザベラが産んだのはレイです。
では、レイの父親は誰なのでしょう?
イザベラが飼育監として認められるためには、「子どもを産んでママになる」という条件をクリアする必要がありました。
かといって、「農園」や「本部」の様子を見る限り、自由に恋愛させて子どもを授からせてくれるような雰囲気は全くありません。
下手に異性と出会わせて脱走のきっかけになっても困るはず。
となるとイザベラは人工授精で身ごもった可能性があります。
人工授精の様子は実際イザベラの回想の中でも描かれています。
人工授精に用いる受精卵を準備するためには卵子と精子が必要になるわけですが、前述した掛け合わせの話を考慮すると、組み合わせ次第では美味しい「食材」に適さない可能性があります。
ということは、ここからは何の根拠もない推測ですが、既に「出荷」されて鬼の胃袋に入って特に美味だった人間を「またあの肉が食べたい」とクローンとして量産する可能性は0ではありません。
どう育つか分からない子どもを新たに生み出すよりも、こう表現するとかなり残酷ですが、クローンなら効率良く意図した通りの子どもが誕生しそう。
その仮定が正しいなら、イザベラは代理母で、レイは誰かのクローンなのかもしれません。
だから、子どもたちは優秀な子ばかりなのかもしれません。
レイ、エマ、ノーマンが非凡なのは勿論、ドン、ギルダ、フィルも優秀だし、他の子たちも、記憶力・理解力・判断力・運動神経・容姿・優しさ(コニーはきっと「優しさ」に該当)など、必ず一つ以上の面が特に優れている子どもばかりなのは、優秀な子どもが選抜されてクローン化されているのかも…。
例えば馬だって、肉用になる馬、乗馬用になる馬、競馬で活躍した後はその優秀な血統を絶やさないように種馬として活躍する馬、など様々ですよね。
平凡な遺伝子の人間は「量産型農園」に、秀でた遺伝子の人間は「高級農園」に送られるのかも…。
そうだとしたらゾッとします。
白井カイウ先生がコミックス5巻で「レイの誕生日は1月15日」「ただしレイの本当の誕生日は別にある」と書いていることから、もしかしたら「今回のレイ」の誕生日が1月15日で、「オリジナルのレイ」の誕生日が別にあることを示しているのかもしれません…。
でも、それ凄く怖いですよね。
何度生まれても、どれだけ代を重ねても、毎回大人になれずに、毎回食べられるだなんて。
そんな残酷なことを1000年も繰り返してきたのでしょうか?
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