わたしは朱色の筆ペンで万葉集の恋歌を書き写すのが好きです。
 初めてシドの『御手紙』を聴いてからというもの、恋歌を書き写していく際、頭の中にこの曲が流れるようになりました。

 この曲の歌詞は、男性が女性へ恋文を書いているようにも女性が男性に恋文を書いているようにも取れます。どの箇所でも言い切るような表現を使っていませんし、言葉遊びをしています。
 「髪を切ろうと決めた」のは女性が見栄えを良くするため髪を整えたという意味なのかもしれず、「紅を引こうか悩む」から女性が男性に宛てた歌か・・・と思いきや。「とめどなく想 明け方」と「扉の向こう 踏み込む」というところには、男性が女性の家へ通いに行って明け方まで留まっていたいという意味が込められているのかもしれません。「過去にいくつ君へ仕えた 誰よりもが私でしょう」というところも、男女どちらかわからない。「好む姿 映し続けます」・・・お互いの気持ちかもしれません。
 この曲のPVを見ると、シドのヴォーカリストが男性であるため当然なのですが、男性が女性に宛てる歌に聴こえます。PVには女性(ちなみに舞妓さん)も登場するのですが、彼女は歌っていませんし、たまにペロリと舌を出しています。からかっているのでしょうか、それとも誘惑しているのでしょうか。

 歌詞とPVを照らし合わせると、なんだか男女が互いに文を交わし合っているようで素敵です。
 タイトルにインナーマザーとあるものの、心の内側にいる父についても論じた本です。

 「親」という生き物はいないけれど、子どもは心の内側に「親」というイメージを作り上げます。もしもその「親」が子どもにとって良くないものであったとしても、子どもは「自分が悪い子だからだ。良い子になったら愛してもらえる」と思って努力してしまいます。たとえ親に虐待されようと、「本当は愛されている」と思って耐えてしまいます。努力が報われないまま大人になってからも、その人は「親」に愛されようとして苦しみ続けてしまいます・・・。
 そしてその人は、自分を苦しめる相手に自ら近づいていってしまうのです。自分を褒めてくれる相手には不信さえ抱きます。「私のことやさしいとか言う人はみんなだまされているんだとか思ってしまう」(P20)。逆に、自分を苦しめる相手には安心します。「ほら、やっぱり私はダメなのよ」「こんな彼だけど、本当は私のことを愛してくれているのよ」(P43)と・・・。
 子ども時代に「苦しめられる」状況を「愛されている。安心できる」状況だと思い込もうとしてしまったため起こる現象ですね。子ども時代と同じ状況を作ることで、その人は子ども時代に叶わなかった「愛される」ことに再挑戦しているのかもしれません。大人になった今からでも、もしも愛されたなら、子ども時代の飢えを癒せる・・・と信じて。けれどその人はどうすれば良いかわかりません。そのため相手と別れた後も、新たな自分を苦しめる相手と付き合い続けてしまい、自分をすり減らしていってしまうのです。

 斉藤さんは、子どもを苦しめる「親」にならないために以下のようなことをすすめています。わかりやすいように「」で表しますが、「」内には『』を使わせていただきます。実際は『』ではなく「」が使われています。
 「〜(中略)『お前はそのままでいい』『そのままのおまえが私の大切な子だ』というメッセージが、きちんと伝えられているという前提が必要なのです」(P69。叱る時は、ということ)「母は『いいかげん』ぐらいのほうがよい」(P76)。「聖母になどなれっこないし、めざす必要もないのです」(P78)。「子どもの住む世界は子どもの聖域ですから、ある程度以上は近寄らない」(P198)。「子どもの『秘密』に触れない」(P199)。「子どもが出ていく時期がきたら、『いつでも帰っておいで』といって部屋を用意しておくと、安心してサッサと出ていきます」(P210)。「自分で決めた人生を子どものせいにしない」(P220)。

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 わたしの「母」は一番最後のものが出来ていなかったなあ・・・。
 子どもたちが壊されてしまわないように、夜の街をパトロールしたり子どもたちの相談に乗ってきた水谷先生(現在は教員を退職なさったそうなのですが、今も「先生」と呼びたいです)の著書。
 この著書では、水谷先生が関わった子どものうち合計12人のエピソードが綴られています。その12人のうち、救おうとして救えなかった子どもは3人。
 水谷先生の言葉の1つ1つから、後悔が伝わってきました。
 その1つ1つを読みながら、わたしはこんなことを考えてしょげてしまいました。「わたしには出来るだろうか?」と。昼は教員をし、夜は街を巡回し、深夜は電話相談受け付け。1人1人の子どもに真摯に向き合い、それを15年以上続け、それでも後悔する。・・・この著書を読んでいてわたしは、「わたしには水谷先生のようなことは出来ないと思う。わたしは、子どものために何もやろうとしない大人の1人なんだな」と気付きました。わたしも子どもの頃にありのままの自分を受け入れてくれる大人が欲しかったのに、自分が大人になった今自分は子どもに何もしようとしていないのだ、と。
 けれど水谷先生がこの著書で、「せめてひと言だけでいい。身近にいる子どもたちに、愛のある優しい言葉をかけてあげてほしい。そしてほめてあげてほしい」(P195)とおっしゃっているので、何だか救われる思いがしました。そうですよね。特別なことが出来ないと嘆く前に。ただ優しい言葉をかける。ほめるだけでいい。それならわたしも出来ると思うので、安心しました。
 また、子どもを壊そうとする大人たちにも優しい言葉が必要なのだろうなあ・・・ということも思いました。大人になったからといって誰かに救いを求めなくなる訳ではないですものね。もしかしたら傷ついた大人たちは子どもを壊すことでしか救難信号を出せないのかもしれません。悲しいことですし子どもにとっては迷惑極まりないのですが。(><) 大人が子どもを壊す→その子どもが救われぬまま大人になる→大人が子どもを壊す、という悪循環を止めるためには、子どもだけに目を向けるのではなく大人にも目を向けるべきかもしれませんね。わたしは常々「20歳を超えたら(自分の不幸を)親や周囲の大人のせいにすべきではない」と考えていたのですが、それは間違っていたかもしれない、と反省しました・・・。


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 P82〜P90に登場する女の子。児童相談所に保護されたけれど親に連れ戻され行方知れずになったあなたについて、水谷先生はこう書いています。「水谷は君をさがしています」と。この本が出版されたのは2004年。わたしはこの本以外の著作を読んでいないのでわからないのですが、もしかしたら既にあなたは水谷先生に連絡を取っているかもしれません。けれどもしあなたがまだ連絡を取っていないのなら、どうか連絡してあげてください。あなたが生きているということを。どうか生きていてください。
 就職活動の息抜きに、と思ってMAD動画を作り始めたのですが・・・夢中になってしまいました。
 詳細は秘密日記にて。
 もうすぐ不動産を買って大家になるよ、という方に観ていただきたい映画です。そういう方にとってこの映画は恐怖映画です。「大家になったら自分も貸借人にこんな目に遭わされるかも・・・」と御覚悟を。
 アレックス役はベン・スティラー、ナンシー訳はドリュー・バリモア。中でもバリモアの演技が印象的です。夫人に冷静に接しようとするバリモアの固まった表情や、夫人の死に様を想像するバリモアの微笑みを見ていると・・・。思わずこちらまで夫人の死に様を想像してニヤリとしてしまいます。

 *注*完全ネタバレの上、詳しく書きすぎて恐ろしい長文になってしまいました。m(><)m

 新婚カップルのアレックスとナンシーは家を探していました。2人は不動産屋に「掘り出しものですよ」と導かれて、ある家を見に行きます。
 外装も内装もクラシックな家です。2階建て。年数を経た木の内装の色と香りが、アンティーク好きの心をくすぐります。大きな本棚が備え付けられており、暖炉が3つあり、黒い廻階段が1つあります。黒い廻階段はなめらかな曲線を描き、薔薇の花と葉を思わせるような細工が施されています。浴室の壁にはオリジナルのタイルが嵌められています。リビングには大きな窓があって日の光がよく入るうえ、窓の1つには孔雀を描いたステンドグラスが使われていて勿論このステンドグラスからも光が差し込みます。家の広さは167平米とはいえ、2階建てで2階にも浴室がついているので将来子どもが生まれても部屋に困りません。周辺は交通量も少なく、近くには児童公園やお店もあります。
 2階にはコネリー夫人という100歳近い女性が1人で住んでいます。賃貸法により、もし2人がこの家を買って大家になったとしても、夫人を追い出すことは出来ません。その場合2人は大家としての義務を果たさねばならないのです。1階に大家である2人が住み、2階に賃借人である夫人が住むという形で。とはいえ不動産屋は「優しいおばあさんです。それに夫人は体が弱い」と言いました。アレックスとナンシーがコネリー夫人に会ってみると実際夫人の人柄は良さそうでしたし健康状態は思わしくないようでした。2人は2〜3年もしたら子どもが欲しいと思っていたので、ちょっと意地悪な考えではありますが、その頃にはコネリー夫人は亡くなったり施設に行ったりしているだろうから2階を使えるようになるだろう、と考えました。不動産屋が提示したこの家の値段は2世帯住宅としては考えられないほど安く、しかも不動産屋は「(あなたたちが早く決めないと)この家にはすぐ他に買い手がつく」と言ったので・・・。
 2人はこの家を買い、夫人の大家になってしまいました。
 そう。なってしまった、のです。2人は1階に住み始めてすぐ後悔し始めます。
 まず後悔したのは音のことでした。クラシックな家なので2階の音が1階にはっきり聞こえてしまうのです。夫人は高齢で耳が遠いためテレビの音量を上げるのですが、夜だろうとお構いなしに大音量でテレビを観るのです。日常的に。それに夫人は音楽を好むため、大音量で音楽も聴くし演奏もします。ダンスもします。1階で眠ろうとしている2人は全然眠れません。2人が「静かにして」と頼んでも、夫人はお構いなし。
 次に困ったのは、夫人が雑用をひっきりなしに頼んでくること。大家の義務を超えた雑用ばかりです。ごみ出しを頼んだり、買い物に付き合わせたり、ペットを捕まえさせたり、ただのレーズンを「ネズミのふんでしょ?」としつこく聞いてきたり。とにかくしょっちゅう声をかけてくるのです。2人が「2人とも働いているから、緊急の困りごとの時だけ声をかけて」と頼んでも、夫人はお構いなし。
 最も2人にストレスを与えたのは、夫人が2人に感謝や謝罪をしないこと。前述したように夫人は2人の頼みごとを聞いてくれません。それなのに夫人は自分の頼みごとは叶えられて当然と思っているのです。例えばこんなことがありました、夫人が喉にチョコレートを詰まらせたので2人が夫人を救命した、ということが。アレックスが夫人にチョコを吐きださせて人工呼吸を施し、ナンシーは心臓マッサージを施したのです。それなのに夫人は「(2人がチョコレートに薬を仕込んでいて)わたしはチョコレートを食べたら気を失った」「気を失っている間(アレックスに)強姦されかけた。キスもされた」「ナンシーは(夫の強姦を助けるために)わたしを押さえつけていた」と警察に訴えたのです。その上、ごみ出しを頼まれた時ごみの中から夫人の下着が飛び出してしまってそれをアレックスが拾い上げただけなのに、夫人は「(アレックスは)わたしの下着を盗んで匂いを嗅いだ」と警察に訴えたのです。そんな稀少なフェチいるんかいな? ・・・否、いるかも。年上好みと下着愛好を極めし者が。しかも100歳以上をストライクゾーンとする猛者が!・・・話が逸れました。しかし夫人は「とても良い夫婦だから」となぜか告訴はしませんでした・・・。その後も夫人は2人にこういった行為を続けたのです。
 2人は、夫人が死んでくれればいいのに、と願います。夫人の死にざまを想像する時の2人の顔は輝いています。2人は色々考えました。階段から落ちる夫人。生きたまま袋に入れられて海に落とされる夫人。他にも首を折る、ショック死させる、殴り殺す、首を切る、溺死させる、小さく切り刻むなど様々な殺し方をお互いに話しては想像し合って、「お互いに悪魔ね」と夫婦の絆を強くしました。2人はこの段階ではただ夫人の死を想像して楽しむだけでした。
 しかし夫人は、アレックスが書いた完成原稿が入った(アレックスは作家です)パソコンを火の燃えている暖炉に投げるということまでやってしまいました。燃えるパソコン・・・燃える原稿・・・燃える・・・燃える・・・あああああああ。ついに2人は決意しました。夫人を殺そう、と。夫人にインフルエンザをうつそうとしたり、電気ショックを与えようとしたり、ガス爆発を起こそうとしたり・・・、でも全て大失敗。それどころか自分たちだけがひどいインフルエンザに苦しみ、電気ショックを受け、ガス爆発で顔にひどいヤケドを負いました。2階を水漏れさせることで床材を腐らせ夫人ごと床を落とそうとも試みましたが、これも大失敗。
 思い余ってアレックスは銃を買ってきましたが、夫人を撃つ前にアレックスの股間が撃たれてしまいました(銃が暴発したのです)。とうとう2人は殺し屋を雇いました。殺し屋を雇うための料金は思った以上に高かったため、2人は全ての家具を売り払うしかありませんでした。しかし夫人を殺せると考えると家具を売り払うのも楽しいもの。かくして2人は殺し屋を雇いました。しかし夫人はなぜかモリ銃を所持しており、モリで殺し屋の胸をぐっさり刺しました。殺し屋はモリが刺さったまま逃げ去ったのでその後どうなったか不明。亡くなっていないと良いのですが・・・。当然まだまだ夫人は生きています。
 2人は決意しました。この家を売ろう、と。もう十分戦った、と。2人は買った時より非常に安い値段で不動産屋にこの家を売り、この家には新たな買い手がつきました。2人が別れを言うため夫人を訪問すると・・・。なんと夫人は、椅子に座ったまま動きませんでした。息もしていませんでした。不動産屋は夫人の首や手首に手を当てて脈をはかり、「夫人が亡くなっている」と2人に告げました。2人は大ショックを受けました。まさか! あれだけ自分たちが殺そうとしても死ななかった夫人なのに! 2人はショックを受けつつも、この家を後にしました。
 ・・・しかし当然この映画には続きがあります。2人がこの家を去った後、2階では夫人と不動産屋と警察官(夫人が2人の行いを訴えた警察官)の3人がお茶を楽しんでいました。ぴんぴんしている夫人は言いました、「今度からはもっとわたしの取り分を多くしてくれよ」。不動産屋は言いました、「でもママ。今だって随分渡してるだろう?」。
 アレックスとナンシーは詐欺被害に遭ったのです。大家がこの家を買い値より安く売れば売るほど儲かる仕組み。新しい大家はすぐ決まるのですから。何たってこの家はとても魅力的なのです。けれど詐欺被害に遭ったことを知らないまま2人はこの家を去りました。きっと、夫人と不動産屋と警察官はこれからも、次の大家をカモにして詐欺を続けていくのでしょう・・・。

 初見の時は気づかなかったのですが、わたしは2回目にこの映画を観た時あるシーンに釘付けになりました。問題のシーンはかなり前半の方、2人が大家になったばかりの時にあります。なぜわたしは初見の時に気付かなかったのでしょう、アレックスが夫人に「困った時は声をかけて」と言った時夫人が不気味に笑っていたのを・・・。

記憶に残るチラシ

2008年2月3日
 ユーキャンのチラシを貰いました。就職活動をしている学生向けの、ではなくごく一般向けに講座内容を知らせるチラシです。チラシは普通のチラシ(固い素材の紙1枚だけで、すぐ内容がわかるもの)ではなくて、開かないと中身がわからないタイプ。例えば紙を折ってサイコロを作る時、紙を内側に向かって折っていきますよね。その原理を使って、横方向に長い長方形の紙を内側に折って封をしたチラシなのです(わかりにくい表現で申し訳ありません)。
 何の気なしに開いてみたらびっくり。案内資料申し込みのハガキはチラシの中面にあったのですが、普通そういうチラシって切り取り線に従ってハサミで切り取るか、片手でチラシを押さえつつもう片方の手でやや力を入れて切り取ったりしますよね? その動作が要らなかったのです。このチラシの場合、チラシを親指と人さし指だけでペリッとはがすことができたのです。切り取るのではなく、はがせました。
 ユーキャンのコンセプトの中に「忙しい人でもOK!」というのがあるので、このハガキの取りやすさは忙しい人にはありがたいでしょうね。チラシの封を開けなければハガキを取れない、という動作を必要とするため結局はプラマイゼロになってしまうわけですが・・・これを考えた人はすごいと思います。こういうことをやったら見た人の記憶に必ず残りますし。封を開けにくいわけではないので、封を開けなければならないとはいえ嫌な感じはしないですし・・・。
 わたしも上手くすればいずれどこかへ就職するわけですが、もし就職出来たなら働く中でこのようなアイディアを出し、アイディアを実現させたいなと思います。
?美しい人?によるコーチングの成果 <後編>
 美しい人による舞いのコーチングを受けた結果・・・。
 戦場で、ルティレ(両脚を外側に開き、片足の膝を曲げて、軸にしている足の膝に片足のつま先をつける)に似たポーズを取るのが習慣化してしまいました。
 ・・・呂布に「戦場で踊るような奴は俺の軍にはいらん!」と追い出されるのは時間の問題かも(>0<)

 ちなみにこの武器が、美しい人も愛用している武器です。爪を模した武器で、飛んだり一回転したりしながら敵兵を華麗に倒していく武器なのです。戦いにくそうだ、と皆さんおっしゃるのですが、戦いにくい代わりに攻撃を受けにくいのが長所です。トリッキーな動きをするため、敵兵や敵武将が動きについてこれないのです。
 ハッ、「華麗に」という言葉を使ってしまいました!
 美しい人に華麗に洗脳されつつあります。
 ・・・いっそのこと呂布も洗脳しちゃえ。
 アン・ドゥー・トロワ♪
?美しい人?張儁乂氏とツーショット・・・? <中編>
 逃げさせてはもらえませんでした。

 ガッシリ捕まえられ、美しい人の軍団がいつも戦場で舞っている(!?)という踊りをマスターさせられる羽目に。
 その様子をまた写真に撮らせていただいたのですが、シャッターを押そうとする度に美しい人はすぐさまわたしの前に出ます・・・。さすがです。

 美しい人「私が手本となります。華麗に舞うのです! 戦場でより輝くために……。さあ、特訓の用意はいいですか」
 わたくし「(観念するしかないみたいだわ)・・・はい」
 美しい人「美の追求は尽きません…。さあ、もっと花開くのです。優雅に! 典雅に! 美しく!」
 わたくし「は、はいっ」
 美しい人「我らの美、敵兵の胸に刻みつけてやるのです!」
 わたくし「はいっ、コーチ」
 美しい人「コーチではありません。張儁乂です」

 後編へと続く・・・。
 
?美しい人?張儁乂氏とツーショット・・・? <前編>
 画像あり。
 ビットマップからJPEGに画像を変換したら画質が落ちてしまいました。(><)

 *注*
 以下はただのジョークです。
 美しい人はこのようなことを言いそうな武将ではありますが、実際『真・三國無双Online』の中ではこのようなことは言いません☆

 MMO『真・三國無双Online』にて。
 通称?美しい人"張儁乂(ちょう しゅんがい)氏にツーショット写真をお願いしてみました。
 美しい人は普段から自らを「美しい」と公言してやまぬ男性です。美しい人は爪を模した武器を愛用し、戦場で美しく舞いながら敵兵を葬っていく武将なのです。
 わたし(王麗月というキャラクター)は呂布という武将の部下なのですが、最近美しい人が使っているのと同じ武器を使い始めたこともあって、美しい人に挨拶に行って参りました。そして同じ武器を使っている者同士意気投合し、記念にツーショット写真をお願いすることになりました。
 2人仲良く並んで、はい、チーズ。
 したはずなのですが・・・。
 シャッターを切る瞬間、美しい人がずずずいと前に出てしまわれました。
 これではもはやツーショット写真とは言えません。

 美しい人「フフフ、美しい人は常に前に出なければならないのです!」
 わたくし「そっそんな・・・遠近法を恐れないだなんて・・・!」
 美しい人「日々のたゆまぬ美容が、この張儁乂をアップになればなるほど美しい美貌にしているのです!」
 わたくし「ひ、ひげが無い・・・! 儁乂さま永久脱毛なさったのね! さすがですわ」
 美しい人「この張儁乂の好敵手になり得るのは上杉Gackt氏だけなのです!」
 わたくし「なんだか会話が噛み合っていないみたい。どうしましょう」

 美しい人に圧倒されているうちに美しい人が画像のようなことを言い出したので、わたしは逃げ出そうとしました・・・が・・・。
 
 続く。
 この映画は、ラストをどう解釈するかによって自分の性格が良いか悪いかわかってしまう映画でもあります。

 *注*以下は完全ネタバレを含むあらすじです。
 この映画の主人公はハロルド・クイック。端整でもなく不細工でもない容姿(失礼な・・・)の中年男性で、職業は国税庁の会計検査官。独身で一人暮らし、恋人もいない生活をずっと続けてきました。
 彼はある日突然、自分にしか聞こえない女性の声に気付きます。女性の声は「〜彼は知る由も無かった」などと、小説の三人称の語り口で彼の人生を語り続けるのです。女性の声は、彼の行動全てを忠実になぞって描写していきます・・・。女性の声は、彼がじき死ぬということさえほのめかしました! 彼は危機感を持ちます。「僕はもしかすると小説の登場人物なのかもしれない」「そして、筋書きで僕は死ぬことになっているのかも・・・」。そう恐れた彼は文学の研究家のもとを訪ね、「自分は本当に小説の登場人物なのか」「もしそうであるとしたら、その小説はハッピーエンドで終わるのか」「一体その小説家を書いているのは誰なのか」を探っていきます。
 探っている間に、彼には恋人ができました。恋人は、ケーキ屋を経営している女性アナ・パスカルです。出会いのきっかけは、アナが店の税金を「税金を戦争に使わないで」と政府に主張するため滞納していたこと。アナが彼女のお店へ税金の調査に行ったことが二人の出会いでした。アナは美味しいお菓子が人生を楽しくしてくれることを知っている女性です。彼はアナといる時人生で初めての安らぎを感じました。彼はよりいっそう「死にたくない」という思いを強くしました。
 そしてついに、なんと彼は自分の生きているのと同じ世界(小説家が作り出した異世界ではない)に生きている女性小説家を見つけ出します。彼女はこれまで執筆してきた小説全てで、結末には必ず主人公を死なせてきた小説家。全ての主人公に対して「非常に好ましい人物」と親愛の念を抱いていながらも、ずっと死なせ続けてきたのです。なので彼女はこの小説でも、いつものように主人公を死なせようとしていました。しかし彼女の目の前にハロルド・クイックが現れます。ハロルドは彼女に訴えます、「僕を殺さないでくれますよね?」と。
 まさか自分が執筆している小説の主人公の人生と実在の人物の人生がリンクしているとは思いもよらなかったため、彼女は驚愕。「その目・・・その口・・・」彼女はハロルドを見て微笑みました。まるで生みの母親と息子が初めて会ったかのようなシーン。彼女はハロルドに「僕を殺さないでくれますよね?」と聞かれる以前から彼を死なせたくないと思っていたため、この時彼女の心は彼を死なせない方向に大分傾きます。
 しかし彼女は強い恐れを感じます。現在執筆中のこの小説は彼が死ななければ最高傑作にはなり得ません。彼女は小説家として、どうしても彼を死なせなければならないのです。彼を生かしてしまえば作品の出来が落ちてしまう。けれど主人公を死なせれば、実在するハロルドまで死んでしまう。彼女は迷い続け、ぶるぶる震えながら「彼は死・・・」とまで書いてしまいました。けれど「彼は死んだ」とまでは書けず、彼女は苦しみます。苦しんだ末、彼女はこんな結末を書き終えました。彼は交通事故に遭ってしまったけれど奇跡的に生還し、以後恋人と共に幸せに暮らした・・・と。結末が書き終えられたことによって、小説の主人公とハロルドを繋いでいたものは切れ、ハロルドは自由の身になりました。もはや彼は小説家によって殺されはしないのです。
 この結末によって小説の出来はぐんと落ちてしまいましたが、小説家は言います。「だってこれは、自分が死ぬと知らずに死んでいく男の話よ」。「細部を書きなおすわ」。


 *注*「良かった、ハロルドが死ななくて」とホッとしたあなたは性格が良いと言えます。以下の文を読むことはおすすめできません。

 「あれ? なんか腑に落ちない」と思ったあなたはわたしと同類! どうぞ以下の文へ。
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 以下はわたしが解釈した、この小説家の考えです。彼女の「細部を変える」という選択をこう解釈するか否かで、この映画にブラックな要素を感じるか否かが分かれると思います。
 (ハロルドは自分が死ぬかもしれないと知っていた。自分が小説の登場人物かもしれない、ということ気づいていた。気づいている上で、今まで何日間も生活してきたしこのわたしを探し当て、わたしに殺さないでくれと言った。自分が死ぬと知らずに死んでいく普通の男の話より、こっちの方が面白い小説になるわ!)
 彼女は以上のように考えたのではないでしょうか? 小説家であれば誰しも作品の出来を何より大切にするものです。もちろん小説家も人間ですから、人によっては違うでしょうが・・・。人の命か作品の出来かならば、作品の出来。だからこそ彼女はハロルドが実在の人物だと知った時すぐに結末を変えたりはしなかったのです。彼女が細部を変えるという素晴らしいアイディアを思いつかなければハロルドは・・・(><) 殺されていたでしょうね。そして彼女の小説は、自分が死ぬと知らずに死んだ普通の男を主人公にした最高傑作になった。そう思うとこの映画にブラックな要素を感じざるを得ません。
 商品名の中に「おいしい」とあるものの、はっきり言って美味しくない・・・。
 おっと! うっかり本音が飛び出してしまいました。
 けれどこれを飲んだ翌日は、顔の毛穴がきゅっと引き締まっているのを実感できます(医学的根拠は不明。事実が大切)。紀文はこれより遥かに飲みやすい『豆乳飲料 麦芽コーヒー』も出してはいるけれど、効果はこれの方が上。
 だから飲みたい。でもまずい。
 ワタクシは、どうすれば飲めるか考えました。

 試行錯誤した結果、KATAOKAの『バンホーテン ミルクココア』のホットに混ぜるという方法が最も飲みやすく且つ無理がない、ということが判明致しました。味が反発し合わないのです。

 飲み続けるぞ〜ヽ(^∀^)ノ
 中村うさぎさんと高梨真教さんとの対談、高梨さんによる美容整形に関する説明などが載っている本です。

 真実を伝えたい、という中村うさぎさんの思いから、とても赤裸々な内容になっています。血や傷口などグロテスクなものが苦手な方は裏表紙を見ないように・・・。中村さんの術後すぐの顔が写っていますから。裏表紙だけでなく、至るところにグロテスクな描写があるので御覚悟を。
 美容整形をしてみたい、と考えている方には必読の本だと思います。大きく顔が崩れてから手術をするとリスクが高くなるということ、顔のパーツの形を整えることはできるが顔の系統までは変えられないということ、変身願望と若返り願望は別だということ、新しく登場した美容法に「新しいのだから、きっと既存のものより良いのだろう」と安易に飛びついてはいけないということ、などが書かれていますので。
 ただしこの本は美容整形を勧める本ではありません。中村さんはあくまでこの本によって、美容整形が如何に現代的テーマを孕んでいるか明らかにしたい、とのことです。それを御理解ください。
 この本は、別人になりたいという願望が美容整形に結び付くという人間心理が病的なテーマを孕んでいる、ということを明らかにしています。
 中村さんは美容整形の実体験を正直に語り、写真も載せてくださっています。写真を見ると、美容整形はたとえ「プチ」という名がついたとしても手術は手術なのだ、ということが伝わってきます。特に中村さんは今回リフトアップ手術をなさったので手術規模が大きい。わたしは中村さんの術後の、いわゆるダウンタイム中の顔の腫れ方に驚きました・・・。こういったら失礼ですけれど顔が・・・アンパンマンみたいに腫れています(ごめんなさい!)。中村さんもこの本の中でおっしゃっているのですが、美容整形で綺麗になるためには人生で一番の不細工期間を過さなければならないのですね。このダウンタイムに耐えられるか否か、美容整形を考えていらっしゃる方には自己分析していただきたいです。
 勿論、ダウンタイムに耐えられるか否か自己分析するだけでは足りません。自分がどんな顔になりたいのか目標を具体的に設定し(変身したいのか? 若返りたいのか? ということだけでも)、希望する手術内容がどんなものなのか確認し、手術が失敗したらどうするか考えることも必要。医師に任せっきりにして、後から「聞いてなかった」と文句を言うのは駄目。医師は本当にこの手術内容で良いのか、などと確認を取っているのですから。この本の中で中村さんと高梨真教さんが対談中におっしゃっているのですが、医師の説明を上の空で聞いていて、「任せますから」と手術に同意したにも関わらず後で文句を言う人っているんですね・・・。自分の顔のことなのに・・・。中村さんが「自己判断して責任取るの嫌なんだろうね」(P32)とおっしゃっているのですが、その通りではないかと思います。恐らくそうやって文句を言う人は、わたしの推測に過ぎないのですが「手術すれば自分の人生全て良い方に変わるはず。今までは顔が悪かったから駄目な人生だったんだ、性格のせいじゃない。早く手術したい! 手術に失敗すれば医師の責任にすればいい! 自分で判断していたら時間がかかってしまう! 早く手術を!」と考えていらっしゃるのではないでしょうか・・・何だか悲しい推測ですが。いや、わたしもそういう風に考えていた時期があったので・・・共感してしまうんですよ。「自分の顔が悪いんだ」と思いつめてしまうのって。自分の顔に対して誰よりも自分自身が残酷な判定を下してしまって、でも自分は自分を嫌いになりたくないから顔を変えたい、と願うのは当然の帰結だと思うのです。けれど美容整形は手術なのだから失敗することもあるので、医師任せはやめた方がいいと思いますよ。(><) 時間が経てば経つほどリスクは高くなってしまうけれど(顔の崩れ方がひどくなればなるほど手術規模が大きくなるという意味です)、それでもじっくり検討した方がいい。
 別人になりたいから美容整形をしたい、という人と若返りたいから美容整形をしたい、という人では心の持ちようが全く違うようですから。恐らく前者はダウンタイムに耐えられない。美容整形だけでは治療できない苦しみを抱えているのでしょうから。そういった例として、この本ではマイケル・ジャクソンが例に挙げられています。なぜマイコー(ごめんなさい、いつもマイケルをマイコーと呼んでいるので呼ばせてくださいっ)が黒人から白人になり鼻や唇が崩壊したのか? 中村さん曰く「マイケル・ジャクソンが妖怪になったのは、諦めていたことの実現なんですよ。白人になるとか」(P108)。マイコーは「どうせ無理だろうからダイアナ・ロスになろう」と美容整形を始め、やってみたら結構ダイアナ・ロスになれてしまったので「もっと試そう」と考えてしまったようです。
 ・・・マイコーのように自暴自棄になってはいけません・・・。人は若返る方法はいくつか持っています。けれど人は、自分以外の人間にはなれないのですから。

イシャドンの謎

2008年1月24日 笑い
 我が男友達Fくんと久し振りに会ったら、こんなことを聞かれました。
 「イシャドンって何?」
 Fくん曰く、Fくんが働いている博多の料亭に鹿児島からのお客さんが来て、そのお客さんが「この間イシャドンがどうのこうの」と言っていたのだそうです(どうのこうの、の部分は詳細不明)。
 Fくんは「イシャドンって鹿児島のネッシーみたいなもん?」と興味津々。
 さて何でしょうね。イシャドン。
 ワタクシはFくんにこうヒントを出しました。「イシャドンはね、生き物だよ。イシャドンのメスは人間の体を切り裂くんだよ。でも最近鹿児島ではイシャドンの数が減ってるんだ」。
 さて、読者の皆様はおわかりになったでしょうか・・・。イシャドンの正体。
 答えは・・・NHKなどで鹿児島の離島における医者不足などの特集を見ればお判りになるかと存じます。イシャドン。医者どん。「どん」には敬称という用法がございます(*注*現代において、一人称で自分のことを「おいどん」という人はいません)。
 Fくんが聞いたお客さんの言葉「イシャドン」が本当に「医者どん」なのかはわかりませんが、その可能性は高いのではないかなあ、と鹿児島出身のわたくしは思います。
 嗚呼、本当に鹿児島に怪獣イシャドンがいたらいいのに〜。桜島に群れをなして棲息するイシャドン。桜島が噴火する度に生まれてきて、灰と共に風に吹かれてどこへなりと移動する。主な栄養源は桜島大根。イシャドンの姿は清らかな心の持ち主にしか見ることが出来ない。けれどイシャドンがやってくると洗濯物や車が問答無用で灰まみれになるためイシャドンは害獣指定されている、なんて如何でしょうか・・・。

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 後日この話を他の友達に話したら、「イシャドンってテポドンの仲間?」と言われました。むーん。ミサイルよりは怪獣の方がなんぼか可愛らしいですな。
 最近身の周りでもニュースでも、思わぬ悲報を知ることが多くなってきました。悲報を知る度にわたしはこの曲を聴きたくなります。マドンナの『ダイ・アナザー・デイ』。「わたしが死ぬのは今日じゃない」と歌ってくれるから。
 この曲のPVで、マドンナは処刑されようとしている女性を演じています。なぜ処刑されるのかはわかりませんが、処刑人たちはひどく彼女を殺したがっています。この曲が映画『007 ダイ・アナザー・デイ』のテーマであることを考えると、もしかすると彼女はスパイ行為をした罪で処刑されようとしているのかもしれません。彼女の心の中では、生きようとする衝動と死のうとする衝動とが闘います。彼女は髪を振り乱し、処刑人に唾を吐き、必死にもがいて生きようとします。彼女はこう歌います。「わたしが死ぬのは今日じゃない」「今はわたしが逝く時じゃない」「この(悪)循環を壊してみせる」「(わたしを殺そうとする)決まりをめちゃくちゃにしてみせる」。彼女の生きようとする衝動は死のうとする衝動に打ち勝ち、彼女は処刑場から脱出します。その一部始終の格好いいこと!
 この曲を聴いていると、「今この時自分以外にも生きている人がいるんだ」と思い出して安心できます。いえ、当たり前なのですけれどね・・・自分以外に生きている人がいるのは。けれど悲報を知ってしまうと、「今はもうあの人はこの世界にいないんだ」という現実と直面してしまうのです。そして「自分が知らないだけで、今この時誰かが死んでいるかもしれない」と思い至ってしまうのです。だから悲報を聞いた後はこの曲が必要。また、昨日うっかり久し振りに映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観てしまったので、わたしは余計この曲に聴き入ってしまいます・・・。
 わたしも生まれてきた以上は必ずいつか死ぬのですが、どんなにみっともなくても構わないので死ぬまでは懸命に生き続けたいと思います。
エルモの災難 〜後編〜
 画像あり。

 実はこのエルモはティッシュカバーなのです。
 試しにティッシュを2枚分引っ張ってみたら、ティッシュが羽根のように見えました。
 わたしは「天使のようなエルモを写真に収めよう」と思ったのです、最初は。
 けれどわたしは好きなものほどいじめたくなる性分。
 ついつい前編のような行為を働いてしまいました。
 ごめんよエルモ。(><)

 わたしは時々、この天使なエルモが部屋をパタパタ飛んでいる夢を見ます。夢じゃなかったらいいのに♪ 捕まえていじめたい(^皿^)←いけません!! ちなみにエルモの羽根は『鼻セレブ』で出来ています。
エルモの災難 〜前編〜
 画像あり。
 一度に画像を複数載せられないため、前編と後編に分けて載せますね。

 ごめんよエルモ。
 初めは君の体の大きさと対比させるために野菜ジュースを君の目の前に置いてみたのです。けれどわたしは、君の目が野菜ジュースを飲みたがっているように見えたのです。だからわたしは思いついてしまったのです。どうすれば、永久に微動だにせぬ君が野菜ジュースを飲んでいるかのように見えるか、ということについて。わたしが思いついた方法は主に幼児がやりがちな行為であり、君は幼いという年齢設定のキャラクタァなのです。
 わたしは迷わなかった。
 迷えば良かった。
 ごめんよ、エルモ(^皿^)

 *画像を見れない方のために、エルモが自分の置かれている状況を説明してくれました・・・*

 エルモ「Look♪ I did it♪ I can drink the vegetable juice through my nose♪」
 余りにも秀逸なタイトルに惹かれて読み始めました。
 著者曰く著者自身もハゲ。著者はテレビディレクターであり、ハゲがテーマの番組を作ったことをきっかけにこの本を著したそうです。
 この本では、「自分たちはハゲることの何を恐れるのか?」ということについて考察がなされています。ハゲている人たちの話を聞いたり、著者自身が自分のことを考えたりしながら、考察していくのです。
 著者は、スキンヘッドにしたことでハゲゆく苦悩と決別しただけでなくスキンヘッドに合う服装を始めたことで女性にモテ始めた・・・という人の話を聞き、このように考えます。「ハゲゆく者が未練を持ち続けているのは、おそらく髪自体にではないのだ。〜(中略)おそらくは、抜けていく髪は僕らが失いたくないものの象徴でしかない」(P34)。
 スキンヘッドにする以外のハゲ対処法は以下の通り。ヘアケア治療、投薬治療、植毛、増毛(カツラもここに含まれる)。しかしハゲの根治治療は未だ無い。生えなかったからといって訴訟するのも難しい。副作用もあって、その副作用ゆえに更にハゲが進むこともある。例えば植毛なら頭皮が炎症を起こしてしまって、毛を引っこ抜かねば治療できなくなってしまうことがある。増毛なら、増毛した毛によって自毛が負担を受け、自毛が抜けてしまうことがある。カツラは1個30〜50万はするしすぐボロボロになってしまうので何度も買い替えねばならず、金銭的負担が凄まじい。おまけに育毛関連企業はハゲゆく人の不安に巧みに付け込んでくるので、ハゲゆく人は夜逃げしなければならなくなるほどお金を使う羽目になってしまう・・・。
 けれどハゲゆく人の中には、断固としてスキンヘッドという道を拒む人がいるのです。スキンヘッドの人は自分に嘘をついている、本当は髪の毛が欲しいはずだ! と。また、周囲に自分がカツラ使用者であることをカミングアウトしたいと考えている人の中にも、カミングアウトした後もカツラは絶対に外したくない、と考えている人がいるのです。・・・カツラをかぶっていることを隠し続けるのは、ハゲていること以上に辛い。だからカミングアウトして、カツラを隠さずに堂々と生きたい。しかし、そもそもハゲていることを隠すためにカツラをかぶっているのだから、カミングアウトしてもカツラは脱がない・・・と。
 ハゲゆく人の心の機微について、著者はこう考えます。「ハゲている自分の姿をさらすか否かということ。しかし、それが大きな違いなのである」(P103)。
 自分がハゲていると認めるか、否か。それが、スキンヘッドという道に行くか、ヘアケア治療・投薬治療・植毛・増毛という道に行くかを左右する。では、自分がハゲていると認めるか否かを決めるのは何なのか? 著者は考えます。「(恋愛においてもビジネスにおいても)外見至上主義社会における不平等こそが、ハゲを苦しめているものの正体なのかもしれない」(P103)と。しかし、ハゲゆく人に向けられる外見至上主義の視線とは、他者の視線ではない。ハゲゆく人が自分自身に向ける視線である・・・と著者は考えるのです。
 「自分がハゲていなかった時代にハゲに対して思っていた気持ちが、そのままハゲになった自分に返ってくる。だからハゲを憎んでいればいるほどハゲに悩む。ハゲを嫌ったりバカにしたりする人たちの心象とハゲで深く悩む人の心象というのは、実はコインの裏表ではないのか」(P113)

 なるほど・・・。真理かもしれません。スキンヘッドにできる人はハゲに対して偏見を持たない人なのかも。
 ちなみにわたしはスキンヘッド推奨派です。我が男友達の1人が20歳にしてハゲ始めたのですが、育毛などにかかる莫大な費用に愕然としてスキンヘッドにしたところ、周りの女性から「潔い」「個性的」「坊主萌え〜」などと高評価を受けたからです(最後の坊主萌えは一体何なのだろう・・・)。本人は大変喜び、スキンヘッドが似合う男になれるようイメチェン真っ最中です。
 そういった例を知っていたので、わたしはこの本を読むまで「ハゲはハゲに対抗する過程が哀しいんだよな。みんなスキンヘッドにしちゃえば一気に悩みが解決するのに」などと軽く思っていたのですが・・・。この本によって、「サラリーマンがスキンヘッドにしたら威圧感が出て仕事に差し障るなあ。カツラをかぶるのも納得だなあ」「自分がハゲていると認めるのは辛いよな・・・自分で自分に辛い評価を下すのだから」と考えを変えていくことが出来たと思います。
環境が厳しければ厳しいほど、綺麗な花が咲く?
 画像あり。
 例によってピントがぼけています。
 赤い薔薇の画像です。
 『美少女戦士セーラームーン』のタキシード仮面がピュッと投げそうな真っ赤な薔薇。

 80歳を超える祖母が祖母の家の庭で、薔薇をてきとうに栽培しているのです。
 わたしも薔薇を鉢植えで育てているのですが、祖母の薔薇の方がはるかに花が大きいし色も綺麗。環境の違いや、品種の違い(わたしが育てているのは『フォーエバーローズ』。しかし、しょっちゅうフォーエバーヤングと言い間違えます)もあるのでしょうけれど。気になる。知りたい。
 わたしが「どんな手入れをしてるの?」と聞いたところ、祖母は「何にもしてないよー」と返しました。「水遣りは? 肥料は?」と聞いたところ、「雨が水遣りの代わりよー。肥料はあげてないよー」。えっ! 薔薇って水も肥料もたっぷり必要なのに・・・。唖然としていたら祖母が「この辺にはノラ猫がいっぱいいるからねー。わたしが肥料あげなくてもいいのよー」。・・・ガーン。そんな濃い肥料では薔薇が根負けしませんかっ?
 わたしは、花は厳しい環境であればあるほど綺麗な花を咲かせる、という話を本で読んだことがあります。逆に心地良い環境では安心して少しの花しか咲かせなくなる、のだとか。確かに心地良い環境であればその花自身が長く生きられるため、無理に子孫を残さなくて良いのでしょうね。栄養を花に回さなくて済む分、栄養を根や茎に回すことが出来るのかも。
 けれどそれにしたってノラ猫の何かが肥料代わりってあんまりじゃありませんかー!(><) もしかしてノラ猫の何かが水遣りの役割も果たしているのでしょうか?
 それでも綺麗な花が咲くならば結果オーライなのでしょうけれど。
 時々通りかかった人が祖母の庭を見て「綺麗な薔薇だねー」と褒めてくださるのですが、・・・真実は告げられません。
左近寺(さこんじ)さんというのは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』に登場するキャラクターです。

左近寺さんは男性警察官。
男性警察官専用の独身寮(ちなみに名前はニコニコ寮)に住んでいます。
柔道大好き。
プロテインを愛飲しているので物凄いマッチョ。
いかつい顔。
女性と付き合った経験なし。
あるのは苦い初恋経験のみ。
女性など不要、筋肉こそ全て、という考えの持ち主。
そんな左近寺さんがゲーム『どきどきメモリアル』のヒロイン早乙女沙織に夢中になったから、さあ大変!

左近寺さんは沙織とラブラブになるべく『どきどきメモリアル(以下どきメモ)』に熱中。
夜な夜などきメモをやっては「うぉおお何故だ沙織ぃいいい!(10 回以上も誘っているのにデートを断られた)」「デートのお誘いお誘いデートに誘ってくれたあああw(沙織がデートに誘ってくれた)」などと熱狂。
沙織に「大嫌い!」と言われた日には、左近寺さんは絶望のあまり暴走。
ゲーム機とテレビ以外の部屋の家具をめちゃめちゃにしてしまいました。
奇声をあげたり壁に頭突きをするので、独身寮に住む他の警察官は大迷惑。
しかし左近寺さんは止まりません。
どきメモグッズを買い漁り、沙織と一緒に写れるプリクラを撮り、柔道の試合の最中も沙織とじゃれ合っている気分でニヤニヤして負けてしまう始末。
見かねた両津勘吉が左近寺さんからどきメモに関する全てを取り上げましたが、左近寺さんは魂が抜けたようになってしまいました…。(´Д`)  

左近寺さんは虚ろな目をしながら夜道を歩き続けるように。
それだけに留まらず、ゲームが再生されていないテレビ画面に向かってどきメモのオープニングテーマを歌…って…。
沙織に飢えすぎる余り、至るところで失禁を…。

だめです、書いているうちに不憫になってきてしまいました。

なんでそんなにハマるのか?

左近寺さんの気持ちを知るべく、わたしも『ときめきメモリアル(以下ときメモ)』をやってみました。
我が友が何故か所有していたからです。
彼はときメモのためだけにセガサターンを捨てずに取っているとのこと。
…わたしの身近にも左近寺さんがいたようです!

実際にときメモをやってみてビックリ。
まさか本当にフルボイスだとは。
こち亀が大袈裟に脚色してどきメモをフルボイスにしているのかと思っていました。
また、主人公の名前もあだ名も設定可能で、詩織と親しくなるとあだ名で呼んでもらえるようになる。
デートも様々なところを選べ、アプローチの仕方によって詩織の態度が変わっていく。
遊び続けていくうちに詩織の他にも沢山可愛い女の子が登場。
しかもどの女の子も、多少の差はあれど主人公に気がある。

…こりゃー思春期の男子中学生とか、女性に免疫のない男性がやったら熱狂的にハマるだろうなあ…。
 脳損傷を負ってしまった子どもと生きる家族の気持ちを知ることが出来る本です。
 脳損傷は交通事故に遭う、暴力を受ける、高い熱を出す、など様々な原因で起こります。どうしても「自分の子どもには起こらない。他人事」と思いたいものですが、起こる時は起きてしまうのです。「子どもの脳損傷とは一体どのようなものなのか?」「同じように脳損傷を負った子どもを持つ他の家族は、どのように考えどのようなことをしているのか?」「無理に前向きになりたくない。後ろ向きにはなりたくないけれど、今すぐには前向きになれない。ゆっくり前向きになれるような本を読みたい」という家族に読んでいただければな・・・と、わたしはこの本を読んでいて思いました。
 この本にはかなりのページを割いて、低酸素性脳症後遺症になった男の子の事例とその子の母親の気持ちが書かれています。その子はプールで泳いだ後嘔吐し意識を失い心肺停止し、脳損傷を負ってしまったそうです。けれど原因はあくまでも不明。なぜ我が子が? と問うても答えられる人はいません。母親にはその子の元気だった姿がはっきりと思い出せるのに、突然の出来事でその子は以前と違ってしまっています。母親は、朝目が覚めたら我が子が元に戻っていますように、と願いました。けれど残念ながら元に戻ったりはしません。母親は苦しみます。母親は苦しみながらも少しずつ、我が子が少しでも回復するにはどうしたら良いのか、ということを考えたり行動したり出来るようになっていきました。母親は、『多くの人に(子どもが脳損傷を負ったことを)受容できたのね」と言われて辛かった』(P61)といいます。以下、P62の内容を要約して御紹介します。・・・我が子の状況を客観的に見たり、子どもを回復させるために考えたり行動したり出来るようになることを「受容」と言うならば自分たちは「受容」できたことになるだろう。けれど我が子が障害を負ってしまったことについては多分一生受け入れられないと思う。それよりも今どう生きていくか、日々をどう過ごすかの方が大切な気がする。・・・とも母親は言います。この、ショック→否認→悲しみと怒り→適応→再起の流れ。脳損傷の子どもを持つ御家族にも参考になるのではないでしょうか・・・。
 他にも発熱後原因不明の急性脳症になった男の子の事例、交通事故で脳外傷を受けた男の子の事例を読むことができます。また、アトムの会(脳損傷を負った子どもと家族のための会)が家族に行ったアンケートの結果もP108から読むことができます。このアンケート結果には、家族の日常生活の悩みや工夫などが挙げられており、わたしは特にP117の「(家族の)心のケアをする職種が欲しい。ボランティアでなく」という意見が胸に残りました。確かに現在、日本には課題を抱えている本人を支援する職種は多いにも関わらず、その家族を支援する職種は非常に少ないのですよね・・・。日本も家族支援に力を入れるべきだ、と強く感じます。

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