住職と家元の座を11歳で継いだ、という生い立ちや、いけばなや人との対話を通して感じられる美について書かれた本です。

「花を拠り所にしていると、なぜだか自分の心がなごみ、喜びも悲しみも、手向けた花が吸い取ってくれて無心に返ることができます。花との禅問答のようなものでしょう」(P26~27から抜粋)

「花の鼓動が聞こえたのかもしれません」「花が人を呼んだのでしょう」(いずれもP29から抜粋)

「いけばなは見えないものを見せるものなのです」(P83から抜粋)

「花は非常に便利な言葉でもあります。花にたとえると、すべてが美しい姿に変わっていきます」(P96から抜粋)

「池坊の花の美しさは、つぼみにあると言われます。つぼみはこれから花を開くもので、常に未来を向いています」(P158から抜粋)

などの言葉にハッとさせられました。
こういう感性をわたしも身につけて生きていきたいです。
 「いつか子どもを産みたい」と思いつつも様々な事情で妊娠が遅れ、いざ「子どもを産もう」と思った時にはもはや妊娠出来る年齢ではなかった…という人を少しでも減らしたい、という想いで出版された本。

 この本のタイトルだけを見ると、女性側の加齢(三十五歳以上かどうかが一つの目安)による不妊についての内容がメインの本か、という印象を受けるかもしれませんが、この本は女性側だけでなく男性側の問題による不妊についても言及しており、日本という国は妊娠「しない」ための性教育はしていても妊娠「する」ための知識の普及が不十分であること、諸外国と比べて不妊についての議論が活発でないこと等の問題についても触れた本です。

 特に、第三章『医師と患者 苦悩の現場』は涙なくしては読めませんでした。
 夫婦も頑張っている。
 医師も頑張っている。
 けれど頑張ったからといって必ず妊娠に繋がるわけではない。
 妊娠出来たからといって、流産せずに必ず無事に出産出来るとは限らない。
 …辛い話です。
 連日、ニュースを見れば、我が子を捨てたり暴力をふるったり殺したりする親のニュースが出てくるけれど…、子どもが欲しくて欲しくてたまらない夫婦のもとに子どもが授からず、バカ親(敢えてこの表現を使わせていただきます)が子どもが授かれるのは、本当に腹の立つ話です。
 若い時に性行為に及ぶか、歳を取ってから性行為に及ぶか、その差が道を分けるのだ…と頭では納得出来ても、心は納得出来ないです。したくない。
 特に、この本の第三章で、ある夫婦が、子宮外妊娠した時の受精卵の写真も、体外受精で出来たその他の受精卵の写真も、大切に保管していて、「せっかく私たちの子どもとして来てくれたのに、育てられなくてごめんね」とつぶやいた…というくだりを読んだ時、わたしは涙が止まらなくなりました。
 なんでこの人たちに子どもが授からないのか。
 なんだか他人事とは思えず、悔しいです。

 けれど、たとえ納得したくなくても、不妊治療は魔法ではない、ということは理解しなければいけません。
 「卵子が老化していると、分裂するときに組織を引っ張り合うエネルギーが足りなくなっていたり、バランスが崩れてしまっていたりして、正常な分裂が行われなくなるとみられているのだ」(P28から抜粋)
 「不妊治療は、受精卵が成長するための「環境」を整備する、という手助けを行うことはできるが、分裂に関しては、受精卵が持つ力に頼るしかない。だからこそ、どんなに高い技術を持った医師でも、卵子の老化に太刀打ちすることができずに、頭を抱えているのが現状なのだ」(P29から抜粋)
 というこの本の記述を読むと…、もし「いつか子どもが欲しい」と思っているのであれば加齢は大きなリスクであることがよく分かりました。

 わたし自身は現在二十代未婚で子どもはいないのですが、今のうちからこの本と出逢えて本当に良かったです。
 産む、産まない、を選択するのは自由だけれど、加齢によって妊娠そのものが難しくなることを知った上で産む、産まないを選択するのか、或いはそれを全く知らずに選択して後から後悔するか、は大違いなので…。

 また、この本は、子どもがいない夫婦に平気で「お子さんは?」と聞いたり、「子どもはいいわよ」「なんで作らないの?」などと言ってくる人たちの存在についても折々で触れています。
 …本人たちは全く悪気はないのかもしれないけれど、なんて心無いことでしょう…。
 …わたしは決してこういう人たちにはなりたくないです…。でも、もし今までにわたしもそんなことを聞いたり言ったことがあるとしたら、自分で自分を殴りたいです。

読書数を400冊の大台に乗せる旨を宣言してから、はや半年以上…。
おかげさまで、どうにかこうにか到達しました!
ありがとうございます。

ただ、皆さんにとって参考になるレビューを書けているのかについては、正直言って自信がありません…。
沢山本を読めばいいというわけではないし、上には上が居て「年に400冊以上読みます」と言う猛者も周りには少なくないですし…。
でも、昔は、本を読めば賢くなるものだ、と思っていたのですが、実際には本を読めば読むほど自分がいかに無知であるか気づかされ、もっと学びたい、という意欲につながることに気づくことが出来ました。

これからも読み続けます!

まずは…2014年内に、また100冊読みます!
↑と宣言しといていつも予定より遅れる妖怪だめ人間!(妖怪なのか人間なのか分からないほどだめ)
 数=楽しい、というイメージを子どもに持ってもらうのにうってつけの絵本。
 「足して9」計算法や「足して4」計算法を使っておつりを素早く計算する方法、100に近い二桁や三桁のかけ算を楽に計算する方法、長方形や十文字の紙を切って正方形を作る方法、江戸の算数「清少納言 知恵の板」、などを分かりやすく紹介。
 数学にまつわる偉人の言葉などのエピソードも織り交ぜて教えてくれるので、「親子で楽しむ!」というタイトル通り、大人も楽しめる内容です。
 小学生以上の子ども向けの絵本だと思いますが、むしろ、数=難しい、と子ども時代に苦手意識を持ってしまった大人にこそすすめたいです。
 わたし自身、数学が苦手だった、というより算数の時点で大の苦手だったのですが、この本は楽しく読めました。
 歯の本だけど目から鱗!
 歯並びというより噛み合わせそのものに注目すること、症状が出てしまった後から対処するのではなく事前に予防していくことの大切さが書かれている本です。

 「知覚過敏は歯ブラシのやりすぎで起こると説明される歯医者も多いのですが、歯ブラシで何百万回みがいても歯はほとんど削られません。しかし、夜間などの無意識下での歯ぎしりや食いしばりは、通常の意識下のかむ強さの3~4倍の大きさで歯をすり合わせています。~(中略)歯が次第に壊れていくのも無理からぬことです」(P64から抜粋)

 「最悪はうつ伏せ寝姿勢で寝る方で、~(中略)左右どちらかを下にして寝て顎がずれますと、顔もずれますので、その寝方を続けていますと、ますます、顔が左右に歪んでいきます」(P78から抜粋)

 など、ぞーっとするようなことが書かれているのですが、特に、

 「抜けたままにしておくと、どうしても下顎は「抜けた側」で噛もうとします。~(中略)昼間の食事のときは歯のある側でしかたなく噛むのですが、夜寝ている間は、不思議なことに、逆に歯のない側で噛もうとするのです」(P102から抜粋)

 という記載には、わたしは心底驚かされました!
 人間の体って…不思議なことでいっぱい。

 この本を読んで、わたしは歯科へ行きたくなりました。
 歯だけではなく、噛みあわせもちゃんと診てくれる歯科へ。
 近所にそういうところがあるのか分からないけど…。
 アルバム『Superfly BEST』収録曲。

 おっとこ前な曲!
 仕事中にこの曲が頭の中で鳴っています。
 この曲がエンディングテーマだったドラマ『Doctor-X 外科医・大門未知子』の台詞を真似て、わたしも仕事で「わたし、失敗しないので」って言ってみたいです。
 …わたしは失敗しまくりですけどね!(笑)
 日々精進です。
 十代、二十代、三十代など、若い世代の孤独死の事例も紹介されており、孤独死は決して他人事ではなく、自分自身や友人などにも遠い未来ではなくすぐにでも起こり得るかもしれない…と気付かせてくれる本です。
 孤独死しやすい人の特徴も挙げられており、『本当の「ひとり」にならないための26のアドバイス』と題したアドバイスも書かれています。
 …わたし自身、孤独死しやすい人の特徴にいくつか思い当たる点があったので…、…反省し…、すぐさま部屋を片付け、そしてしばらく連絡を取っていなかった友人へ年賀状を出しました。

 「「おひとりさま」ではなく、実家で親と同居しているケースでも、死後1週間ほどで発見される例が増加している」(P74から抜粋)という一文には、特に衝撃を受けました。
 一人で暮らしていても独りではない場合もあるし、逆に、家族と暮らしていても独りかもしれない…何とも皮肉な話です。
 たとえ臨終の際に一人だったとしてもすぐに誰かに遺体を見つけてもらえる人と、死後1週間以上経っても誰にも気付いてもらえず腐っていってしまいその異臭でやっとその死に気付いてもらえる人との違いが、この本には書かれています。

 「まだ、誰も気づいてくれない……」
 「でも明日になれば、きっと誰かが気づいてくれるはず」
 「もう4日だ……。どうして誰も気づいてくれないんだ!」
 「私の顔が変色してきた……」
 「虫が、私の体の上を歩いている……」
 「あーっ、誰か早く私に気づいてくれー!!」(以上P111から抜粋)
 という、孤独死した人の想いをイメージしたくだりを、わたしは決して忘れないでしょう。
 この声なき悲鳴は、今まさにどこかで誰かがあげているのかもしれないから…。

 …人間は生まれてきた以上いつか必ず死にます。
 長生きが一番ですが、いつ死ぬか、どう死ぬかは、誰にもわからない。
 わたしも、せめて死後48時間以内くらいには気付いてもらえて、逆に友人など周りの人の死に早く気付いてあげられる、だけではなくて、死んでしまう前にちゃんとお互いに気付いて、出来る限り助け合い、生を全うしたいです…。
 
 中高年の皆さん! …じゃなくて中高生の皆さん!(「ちゅう」と入力しただけで「中高年」と変換する我がスマホよ、ああ無情)
 この本を図書館で借りるなどして自宅へ持ち帰った後、家族の目につく場所に放置しておくのはくれぐれもやめましょう。
 有名なタイトルの本=真面目な本、とは限りません。
 寺山修司のこの「書を捨てよ、街へ出よう」は有名な本の中でも特に、真面目に不真面目な本です。
 家族に「あの子どんな本読んでるのかしら…パラパラ(ページを捲る音)…ンマー!」 と家族会議を開かれるまでには至らなくとも、どのページを読まれても、ヤ、ヤバイ。
 ストリッパーやトルコ風呂や競馬の話はともかく(ともかく!?)、『第四章 不良少年入門』の「上手な遺書の書き方」で遺書の書き方指導が、「自殺にふさわしい場所を選ぼう」で舞台装置の用意についてのことが、事細かく書いてあるのを見られたら…。…。…こりゃえらいこっちゃ!
 以上のように、中高生が読むには多少…いや大分リスキーなエッセイではありますが、大真面目に不真面目な寺山修司が少年時代のことを時折思い返すくだりは何だか胸にくるものがあるし、「われわれはどんなに長く昼寝をしてもーー(たとえ二十四時間、眠りっぱなしでいても)ガールフレンドを失うことはない。マイナスよりはゼロが得。これは、きわめて単純な算数の問題ではないか」(角川文庫P270から抜粋)など、なんだか彼氏または彼女がいない人をフォローしてくれるようなことも書かれているエッセイ。
 読んでいると不思議に励まされます。
 ※注意※ ネタバレしています!

 出産間近のローリを抱えて焦る一行は、偶然にも刑務所を発見。
 刑務所は塀に囲まれているし、建物も頑丈なので、一行は「これで産める」とひと安心。
 …ところが刑務所には先客が。
 囚人たちが生き残っていたのです。
 穏やかな相手なら新たな仲間に出来る可能性もありますが、世界が平和だった時代においてさえルールに違反した連中をもし仲間にしたら一行の秩序を乱すのは明らか。
 ローリは臨月だし、ハーシェルはウォーカーに右足を噛まれてしまい感染をくい止めるために膝下を切断したためもはや戦力にならない。
 そんな状況の中で囚人たちを受け入れる訳にはいきません。
 しかも囚人たちの一人は好戦的な性格で、事故に見せかけてウォーカーにリックを襲わせそうとしました。
 結果として、リックは好戦的な囚人を殺害、敵か味方かはっきりしない囚人のことはウォーカーに襲撃させ、大人しい囚人については生かしたまま刑務所に置き去りにしました。
 …ああ、ちゃんと裁判してくれる現実世界って平和だなぁ…。

 ローリは胎動のない赤ちゃんについて「もう死んでいるのでは? 既に感染していて、わたしのお腹を食い破るのでは?」「出産時にわたしが死んだらウォーカーになってリックやカールを襲うかも」と悩みます。

 マギーは生死の境をさまようハーシェルに「もう頑張らなくていいのよ。休んでいいのよ」と涙し、自分の父親が死ぬかもしれないだけでなくウォーカーになってしまうかもしれない恐怖と戦います。

 キャロルは、帝王切開になるかもしれないローリのために、子宮を傷つけずにお腹を切開する技を習得すべく、女性ウォーカーのお腹を切り裂いて手術の練習をします。
 …な、何やってんのキャロル!?
 まずはウォーカーに局部麻酔する練習からでしょう!?←わたしも何言ってんの!?

 日本刀っぽい見た目だけど、どんなに斬っても刃こぼれしていなさそうなスーパー武器でバッサバッサとウォーカーを斬りまくる人物も新たに登場し、安否が不明だったキャラクターも再登場。
 Season3になっても全然勢いが衰えないですね、このドラマ。
 続きを観るのが楽しみです。

 特にその新たな人物はとても興味深いです。
 ウォーカーの両腕を切り落として鎖で繋いで連れ歩き、その際にウォーカーに荷物を背負わせるなんて、斬新!
 ウォーカーを連れ歩くことで、他のウォーカーから襲われるリスクを減らすだけでなく、移動時に自らにかかる疲労を軽減するとは、なんというアイディア!
 是非真似したい。
 …いや、真似する機会があっちゃ困るわ。
 ドラマ『絶対零度』自体はまだ観たことがないのですが、偶然耳にしたメインテーマ「Absolute Zero -Main Theme」に一目惚れ、いや、一耳惚れしました。
 何て言ったらいいんでしょうね、この音楽。
 この、心の奥で何かがざわめく感じ。
 最近わたしにやたら「早く結婚せい」と言うくせに、わたしが土日に出かける時に「誰と出かけるの。男じゃないでしょうね」といちいち確認して小言を言う(わたしもう26歳なんですけど!?)、そんな母が「…これ読んでみて」とこの小説をすすめてくれました。

 この小説の主人公は父子家庭の父。
 娘視点で書かれたページも折々に挟まってくるけれど、主体となっているのは父。
 主人公は、娘の結婚が決まって動揺。
 主人公は、相手が良い青年であることは間違いないのでホッとするけれど、相手の母親に何か問題があるのでは…と心配し続けます。

 親からの子どもへの愛が詰まった小説、という印象を受けました。
 親にとって、子どもはいつまでもいつまでも子どもで、可愛くて心配でならないものなんだな、と読んでみて思いました。

 と同時に、わたしの母がわたしに「…これ読んでみて」とすすめてきた理由が、何となくわかったような、わからないような、くすぐったい気分になりました。
 わたしもいずれ誰かの親になったら、子どもに「…これ読んでみて」とすすめたりして。
 先日報じられた、皇后陛下の「くまモンはおひとりでやっているのですか?」というお言葉も、ほっとする話題でしたが…、それに続いて、また微笑ましいニュースが報じられました。

 くまモンが、トレードマークのまぁるい真っ赤なほっぺを失くしてしまったそうです。

 熊本県にとってみれば笑えないニュースでしょうけれど(勿論、話題作りのネタとしてはバッチリですが)、なんだか可愛らしいですねー。

 「ただのクマになっちゃった!」と困っているくまモンも、これはこれでキュート!

 くまモンったら、ほっぺを両方とも落とすほど美味しいもの食べたのかなー? 
 さいきん…、

 facebookなどで、

 同級生や、

 友人や、

 元職場の同僚が、

 なにか突然吹っ切れたかのように、

 己の性をカミングアウトしていっています。

 ニュースフィードを見ていると、

 はっきり言って混乱してしまいます。 

 「えっと、○○君は身体も中身も男なんだけど彼氏が居てしょっちゅうデートしててそのことは○○君の家族公認なのね。○○さんは身体は女で中身は男なんだけど彼氏が居て、その彼氏は身体が男で中身は女なのね? え、○○くんは身体は男で中身は女で…え? え? え? どういうこと?? もうわたし訳ワカンナイ、ここは誰わたしはどこ?」

 と、混乱につぐ混乱を重ねる今日この頃であります。

 同級生の男の子が今では巨乳美女になってたりするのを見ると、

 「ちょっとその胸を分けてくれません?」

 とおかしな懇願をしてしまいそうになります。←切実!  

 なんかものすごく混乱してしまうけれど、

 でも、

 自分の性を隠さなくていい時代になったんだな~とびっくり。

 いや、もちろん、完璧に大っぴらにする人は珍しいんだろうけど。

 facebookで公表する皆の勇気はすごいと思う…。 

 facebookでは、友人や家族とも繋がっている場合が多いので、例えば男性が「今、彼氏とデート中♪」という近況を投稿すると、自動的に家族もその投稿を見るというのに。

 でも、家族も、変に隠し事されるよりは、あっけらかんとしていて逆に受け入れやすいのかも…しれないなぁ。

 実際に、同級生(男性)がfacebookでよく彼氏とのラブラブデートぶりを画像付きで実況しているけれど、同級生(男性)の家族も好意的なコメントを書いてくれているし(とはいえ父はまだ認めていないらしい。妹、母には応援されているらしい)、われわれ友人たちも、「ラブラブで羨ましいわ~」と普通に「いいね!」したりコメントしたりしています。

 最初はびっくりするけど、大変なのは最初だけで、慣れればもうそれが普通になるんだろうなぁ。

 …けど…、こうなってくると、「そもそも普通って何?」という疑問を抱かざるを得ません。

 そもそも普通って何ぞや? 

 わたし自身、自分のことをノーマルだと思い込んでいるけれど、本当は自分もノーマルじゃなかったりして?

 むむむ。

 その時はその時じゃいっ。
 別れの季節に聴きたい曲。
 呟くような、囁くようなヴォーカルに乗せた歌詞が切ない。

 「花はまた咲くんだって
  気づく事もできなくて
  春を待てず
  君は消えた」

 「サヨナラも時が過ぎて
  擦れてしまうなら
  遠く遠く
  消え去って
  ただ
  花となれ」
 20代から80代までの方たちが詠んだ、歳を取ることの悲哀あり笑いありの川柳が載った本。
 一句一句が大きく印刷されているから祖母の読書用にいいわぁ~とパラパラ読んでいたら、「中身より 字の大きさで 選ぶ本」(P58から抜粋)なんて川柳もあって、大いに笑わせていただきました。
 早速うちの祖母にこの本をすすめたところ、祖母は「おじいちゃん 冥土の土産は どこで買う?」(P24から抜粋)が一番好きだそうです。
 ば、ばあちゃんはもう少しのんびりしてから冥土の土産買ってねっ。
 平民出身でありながらルイ十五世の寵姫となり、影の実力者として名を馳せたポンパドール公爵夫人ジャンヌ・アントワネット・ポワソンの生涯を描いた歴史小説。
 彼女の影響によってロココ様式が華開いていく様子や、『百科全書』の刊行支援、セーブル磁器事業のこと、オーストリア女帝マリア・テレジアとの同盟や、幼いアマデウス・モーツァルトの演奏のことなど、その時代ならではのことにあれこれ触れてあって、楽しく読めました。
 誰もが羨む寵姫の座をなぜ平民出身の自分が勝ち取れたのかという本当の理由を知って驚いたり、王と他の女性たちとの関係について悩んだり、彼女がいわゆる不感症であったため王と無理にベッドを共にしなくてもヴェルサイユでの地位を確立出来るように努力したり、などの彼女の心の揺れ動きをも垣間見れるような気がしつつわたしはこの本を読みました。
 ルイ十五世専用のハーレムのような館「鹿の苑」について、ポンパドール夫人がやり手ばばあのようである、と悪い印象を持っている方が少なくないようにわたしは思うのですが、この本においては、ポンパドール夫人は「鹿の苑」に居る女性たちが妊娠したら安心して出産してその後可能ならちゃんとしたところへ嫁げるようにフォローした、という風に好意的に書かれていたので、ポンパドール夫人好きのわたしとしては嬉しかったです。
 ポンパドール夫人からは、女性のしなやかな強さを感じます。
 
 2013年3月11日から同年4月11日までに撮られた、東日本大震災に関する写真集。
 
 この本の前半には震災直後の被災地の光景が、中間には福島第一原発の事故の経緯が、後半には希望を捨てず未来へ歩き出す被災地の方たちの様子がおさめられています。
 
 前半はページをめくる度に涙がこぼれました。
 どの方を写した写真も心に突き刺さってきたけれど、特に「愛娘たちの遺体が見つかった現場近くでお菓子やジュースをまく母親ら(3月14日、宮城県石巻市)」という写真を観た瞬間、どう表現していいかわからない感情が沸き起こりました。

 中間を読んでいたら無性に吐き気がしてきて一度吐き、その後もお腹がグルグル鳴っていました。
 
 後半のページをめくったら、これが本当に現実なのかと問いたくなるほどの瓦礫の山と、家族の安否が分からない方たちがいる状況においても、少しずつ子どもたちが笑顔を取り戻しているのが伝わってきて、少しだけ安堵しました。

 最後のほうは、震災後に福島県で咲いた桜の写真や、津波の被害を受けた教室でランドセルを手にする男の子の写真が載せられています。

 わたしは最後まで読んだらまた中間を読み返したくなり(読んだら吐き気がするのだけど。原発事故から随分経つのにいまだに問題は解決していないから…)、何度も中間と後半を往復して読みました。
 
 写真は本当に、寡黙にして雄弁ですね…。
 被災地にカメラを向ける行為自体は無神経だけど、どんな報告書を読むよりも、写真を見る方が、その場にいる方たちのまさにその時の感情を受け取れるような気がします…。

 わたしも出来る範囲でも構わないから、これからも被災地への支援を続けようと思います。
 『月の影 影の海』から『黄昏の岸 暁の天』上下巻まで読んでからこの『魔性の子』を読んで、本当に良かった。
 もし、「『魔性の子』は十二国記のサイドストーリーとして執筆された物だ。とはいえ、十二国記として最初に出版された訳だから、十二国記を読み始めるにあたっては、当然『魔性の子』から読むべきだ」とわたしが『魔性の子』から手に取っていたとしたら…。
 90%くらいの確率で、わたしは「な、な、なんじゃこりゃあぁぁ!」と某俳優のような叫び声を心の中で轟かせ、十二国記を読むこと自体に挫折していたに違いありません。

 なぜなら、『魔性の子』においては、あらゆる登場人物に向かって、これでもかこれでもかと不幸が押し寄せてくるから。
 怪我を負っただけで済んだ者はまだいい。
 大怪我を負った者や、無残に殺害された者も大勢いるのですから。
 だから、もしわたしが予備知識なしで『魔性の子』を読んでいたとしたら、なぜ高里が神隠しにあい、そしてなぜ神隠しから帰って来たのか、なぜ高里の守護者であるはずの者たちが高里の周りの人々を襲撃するのか、なぜ高里の家族が惨殺されたのか、高里を探してさまよっていた女性は何者なのか、何が何だかさっぱり分からなかったと思います。

 『月の影 影の海』から『黄昏の岸 暁の天』上下巻まで読んできたからこそ、事情がわかる。
 わかるからこそ、この『魔性の子』の内容がなお辛い。
 心を抉る。
 『魔性の子』P326辺りにおいては、高里の母親が本来ちゃんと高里のことを愛していたことが書かれています。
 『黄昏の岸 暁の天』では、好き嫌いは良くない、と高里の今後の成長のことを思って、両親が高里に肉を食べさせるシーンが描かれています。まさか我が子が本当は麒麟で、肉を食べることは身体に良くないだなんて、両親は知る由も無かったから。…そのせいで、高里の守護者である白汕子(はくさんし)と傲濫(ごうらん)に「毒を盛られている」と敵視されるなんて…。
 悲劇、というありきたりな表現は使いたくないけれど、悲劇と言わずして何と言いましょうか。

 『魔性の子』から読むべし、という意見もあるかもしれませんが、もしこれから十二国記を読み始める方がいたら、是非、『月の影 影の海』から『黄昏の岸 暁の天』上下巻まで読んでから『魔性の子』を読むことをわたしはおすすめします。
 フィリップは首から下が麻痺した大富豪。ドリスは介護の知識や経験がなく前科はある若者。
 フィリップはドリスに給料をあげ、ドリスはフィリップに介護を提供している立場だけれど、二人は対等。
 フィリップはドリスの教養の無さをからかい、ドリスはフィリップの障害をからかいます。
 お互いの境遇について、一切同情をしていないのです。
 友人としての心配はします。
 困った時は助けるし、少々きつい助言だってする。
 けれど、同情はしない。
 だから良き友人であり最強の相棒になれる。
 
 驚くべきは、この映画が実話に基づいているということ。
 二人の絆を真に描こうとしているからこそ、大げさなお涙頂戴の演出は一切ありません。
 そんなものがなくても、二人の心の揺れ動きがまっすぐに伝わてきて、観ているこっちまで泣いたり笑ったりしました。

 世に映画は数あれど、この映画は観ないと損。
 こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、パニック映画を観るよりも、この本を読んでいる方が、ずっとずっと怖い。
 
 よく、原発について語る際に、「もし安全性が保証されるならば原発に賛成」という言い方をする方がいますが、この本を読んだら、そんな「もし」は簡単に言えなくなると思います。
 原発は人間の力で制御出来る、と言われていたのは、もはや遠い過去の話。
 この本には、原発の安全神話がいかにして崩れ去ったかがよく描かれています。
 
 原発で事故が起きたら、たとえ放射能を浴びながらであっても、原発で働く社員がその場でなんとか対処して、放射能が外部へもれるのを止めなければなりません。
 でも、作業をするのは、ロボットではなく生身の人間。
 未だかつて無い地震が起きて、そのすぐあとに大きな津波がきて、身内の安否がわからず、いつまた地震や津波が襲ってくるかわからない、ただそれだけでも想像を絶する恐怖だろうに、原発の電源喪失という前代未聞の事態に対するマニュアルが無く、どう対処していいかもはや誰も正しい答えを持っていない中で、でも途方に暮れることもパニックになることも許されずとにかくこの状況を何とかしなければならない…、という極限状態がこの本には描かれています。
 
 この本には、まさにその当時の社員の様子を写した写真がたくさん載っていますが、別にそれは、社員に写真を撮る余裕があったわけではありません。むしろその逆。
 この写真たちは、その場で実際に作業にあたった職員たちの遺書代わりとして撮られたもの。
 生きてこの場から帰れるかわからない、この場に居たという記録を残したい、という、写真の形態を取った遺書。
 家族の一人一人に宛てて遺書として書かれたメモもこの本では紹介されていますが、早く作業に戻らないと一刻を争うため長文は書けなかったようで、ごく短い文ずつしか書けていません。
 だから、放射能に冒される中で撮影された写真がこうして残っているんですね…。

 わたしは福島に知人が数人居て、みんな地震と津波で家族と家と仕事を失っただけでなく放射能によって故郷に帰れなくなったので、別にわたしは東電社員を擁護したいわけではありません。
 けれど、こうして現場で作業をした社員たちは、果たしていま無事なのか、家族に会えたのか、避難出来たとすれば東電社員ということで避難先に居辛くなったりしなかったか、PTSDの症状に悩んでいるのではないか、…と、わたしは読んでいて色々考え込んでしまいました。

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