「二重まぶた眼鏡」「鼻ばさみ」「あご矯正マスク」の3点セットが、韓国の小中学生の間で流行中の「整形3種の神器」だそう。

 ザ・韓国! といった印象を抱かせるニュースですが、似たような物なら日本にも売っているし、ませた子は日本でも小中学生の頃から使っていますよね。
 かく言うわたしも、『若草物語』のエイミーの真似をして、鼻を洗濯ばさみで挟んでいた、あほな子どもの1人でした。

 しかし韓国の場合は、そんなレベルを遥かに超えて、小中学生も真剣に美容に励んでいそうですね。
 将来への投資と信じて。
 どのみち大人になってから嫌というほど顔面格差を味わうことになるのだから、せめて小中学生の時くらいは、思いっきり遊んで子ども時代を満喫して欲しいものですが…。

 これが流行るということは、これを子どもに買い与える親がいる、ということを意味します。
 果たして親は整形済みなのでしょうか?
 …って、本題とやや逸れたことを考えてしまいました。

 「整形3種の神器」のうち、特に「あご矯正マスク」は、歯並びに悪影響をもたらさないか心配です。
 成長期にあまり顎を圧迫するのは良くないと思います。
 もちろん他の2つも成長の妨げになりそうですが。
 顎はいったん立派に育ってしまうと削るのが結構難しいパーツだから、とにかく顎を第一に考えて、歯並びは後からどうにでも抜いたり削ったり埋めたりしてサクッと矯正しちゃえばいいじゃん…という考えの商品なのかな…?

 美しくなるのを楽しむというよりも、美しくなるのが義務であるかのように捉えられているのだとすれば、なんだかとても悲しいなと思います。
 泰、芳、慶、才、奏の人々にまつわる短編集。
 どの国の話も、国を治めることの難しさについて書かれています。

 中でも才についての章「華胥」(かしょ)は、読んでいて辛かった…。
 
 玉座に座ってからというもの、才の王・砥尚(ししょう)は、善い王であろう、理想の国を作ろう、悪政をしいた先代の王・扶王(ふおう)とは違う政をしよう、と夢を抱いてきました。
 華胥の夢を。
 特に、王は、民へ課す税を軽くするなどの政策を行いました。
 先代の王が民に課した税が重かったため、自分の代ではそうすまいとしたから。
 ところが…、王は天に見放されました。
 才の麒麟は失道の病にかかってしまいました。
 これは王朝の終焉を意味します。
 けれども、王にしてみれば訳がわかりません。
 自分は決して先代の王とは逆の、理想の国つまり華胥の国を作ろうとしているのに、なぜ、と。
 みるみる衰弱していく麒麟に責められ、民や官吏に失望され、王は混乱し追い詰められていきます。
 そして王は、禅譲という形で位を退きました。
 …禅譲。それは、麒麟を生き残らせ、王だけが死ぬ退位の方法。
 …失道の病は放っておけばやがて麒麟を死に至らしめます。麒麟が死ねば王も死に、王のいない国は荒れてしまう。新しい麒麟が生まれて新しい王を選ぶまでには月日を要す。新しい王が立つまでの間に、国はどんどん荒れてしまう。
 …だから王は禅譲という道を選びました。
 「責難は成事にあらず」という遺言を残して。
 
 …王は、先代の王が行ったことを責めても何かを成す事は出来ない、先代の王とは違う政をと努力してきたけれどそれは自分なりに考え抜いた政ではなくただただ先代の政とは違う政を目指しただけのものだった、自分なりの政が出来なかったから自分は天命を失ったのだ、と王は気づいたけれど、気づいた時にはもはや手遅れだったのですね…。 
 王が死んでしまった後で、周囲の人々が語る「扶王の課した税は重かった。だから軽くすべきだと砥尚様は考えたわけですよね。すると国庫は困窮し、堤ひとつ満足に作ることができなくなりました。飢饉が起こっても蓄えがなく、民に施してやることもできなかった」(P289から抜粋)という話や、「税は軽いほうがいい、それはきっと間違いなく理想なんでしょう。でも、本当に税を軽くすれば、民を潤すこともできなくなります。重ければ民は苦しい、軽くても民は苦しい」(P290から抜粋)という話を読んでいて、折しも消費税増の話で持ちきりの日本という国に住むわたしは、やりきれない思いでいっぱいになってしまいました…。
 …才の王がもっと早くそれに気づけたなら良かったのに…。
 国同士で協力したことが無い。
 軍が国境を越える事、それ自体が罪。
 他国を助けようとして軍を派遣しただけで、その途端、王も麒麟も天に裁かれて絶命し、王がいなくなった自分の国の方が荒れてしまう。
 
 …この巻に至って、我々の世界と十二国記の世界がいかに違うかがよく分かってきました。
 我々の世界だと、良くも悪くも軍が国境を越えてばかりですけどね…。
 十二国記の世界では、天が定めた条理に守られながらも縛られている…。
 十二国記の世界においても、これまで人々は神を見たことさえなかったのですが。
 「天が人を救うことなどあるはずがない」「人は自らを救うしかない」(P171から抜粋)という陽子の言葉は、我々の世界にも共通しており、心にグサリと刺さりました。

 そんな十二国記の世界に在っても、陽子たちは呼びかけ合い、各国の王たち・麒麟たちとうまく協力し合って、どうにか泰麒を探し出しました。
 …ところが、それでめでたしめでたしとはいきません。
 陽子の真意を理解出来ず、「これほど他国の王が出入りするのは何故か。あなたは慶を他国に譲り渡すおつもりか」(P218から抜粋)と、陽子を暗殺しようとする者たちが現れたからです。
 むしろ民と国のためを思って、善い王になろうとしてこれまで努力してきた陽子は、こう言われてすっかり虚脱してしまい、「…当の民がいらないと言うのなら、在り続けようとしても仕方がない」(P220から抜粋)と、抵抗さえしませんでした。
 幸い、景麒が駆け込んできて陽子は救われるのですが…。
 …暗殺者たちは浅はかだけれど、陽子のことを愚かな王だと誤解したその気持ちは分からなくはないし、民がいらないと言うのならわたしは要らないのだという陽子の考えも分からなくはないし、…なんだか読んでいてとても複雑な気持ちになる巻でした、この『黄昏の岸 暁の天〈下〉』は。

 さて。
 泰麒は見つかったけれど、泰王は見つかりません。
 わたしがまだ読んでいない『魔性の子』に何かヒントがあるのでしょうか? 或いは、『魔性の子』にまさに泰王その人が現れるのでしょうか?
 『魔性の子』をどのタイミングで読むべきか、とても悩みます…。
 子どもの頃ファミコンやセガサターンをやっていた!という世代にはたまらない「たまクエ編」収録。
 わたしはこの巻を観た後すぐプレイステーション1のゲームを始めました。プレイステーション2でも3でもない、3です!
 もしファミコンが残っていればわたしは間違いなくファミコンをやったでしょう、けれどファミコンは遠き日々の彼方、嗚呼あの素晴らしいゲームをもう一度! せめてスーパーファミコンがあればっ…! くぅ!
 銀ちゃんの「最近のやつは、ダラダラ長ったらしいCGムービー垂れ流しやがって。俺たちは映画が観たいのか? 違うだろう? ゲームがやりたいんだろうがァァァ!」という魂の叫びによって、わたしの素朴なゲームがやりたいスイッチが入りました(←そんなスイッチどこにあった!?)

 さて、この「たまクエ編」のストーリーは以下の通り。
 超高度な科学技術によって作られた、からくり家政婦「たま」がコンピューターウイルス(作中では「電脳ウイルス」と表現)に感染。
 たまはそれにより、いつもの美しい姿からポリゴンへ変貌を遂げ、ついにはファミコンレベルのドット絵まで退化してしまいました! 何てこった、カニ歩きしか出来ないじゃないですか! セリフも「たまはおつかいをおえた けいけんち230をかくとく 300Gをうしなった」など初代ドラクエ仕様になってしまいました! 
 よろず屋一行はたまを救うべく、たまの体の中に入り、白血球の王さま通称「白血球王」と共に、ウイルスを駆逐するため闘います。

 …これを観ている間、「こうしてこれを観ている間にも、わたしの体の中で白血球や赤血球たちなど色んなものが24時間体制で働いてくれているんだよな~。心臓とか胃とか腸とか腎臓とか沢山のものたちが、毎時間毎分毎秒休むことなく…。…今この瞬間、サボっているのはわたしだけ…。…ぐさっ!! わたしって…マるでダめなオとな!!」と激しいショックを受けました。

 白血球王に「兄弟」と呼びかける銀ちゃんはほんといい男。
 そしてわたしはマダオ。自分にがっかり!

シギ『輝いた』

2013年9月16日 音楽
 「体交われど 血は交われず
  僕等いつもひとりぼっちに涙してた」

 という出だしがグサリと心に刺さる曲。

 「もう前には進めないと決めつけて
  目隠ししていたのはいつも自分だった」

 という歌詞にもハッとさせられます。

 久しぶりにこんなひたむきな曲を聴きました。

 本当は、多感な思春期のうちにこの曲と出逢いたかったけれど、出だしの歌詞に思い当たる節がある大人ならではの味わい方もある曲なのかもしれません。 

 

 
 10年以上前にテレビで観た、ふる~い映画のタイトルが思い出せません。
 思い出せないとなおさら気になってしまって、気になって気になって仕方ありません。
 ところが、映画好きの友人に聞いても、ネットで検索しても出てきやしない。
 だんだん、「そもそも本当にテレビで放送されていたのか? 夢でも見たのではないか?」と自分を疑い始めつつあります…。

 さて、
 その映画の内容ですが、

 ・確か洋画である。
 ・少なくとも10年以上前の映画。もっと前かも。
 ・主人公は男。確かおじさん。
 ・その主人公が不思議な世界に迷いこんだ。はず。
 ・その不思議な世界では、太陽と月が夫婦である。太陽が夫、月が妻。
 ・月が主人公をそこから逃がしてくれる。
 ・確か髪の毛をロープのように伝って逃げられるようにしてくれた。
 ・月は太陽をごまかすために、自分の頭と身体を分離させる。頭が男を逃がしてくれる。
 ・しかし主人公が逃げている途中で、月の頭と身体が分離している=月が男を逃がしていることに、太陽が気付いてしまう。
 ・太陽が激怒する。

 という内容です。

 …うーん、覚えている内容が少なすぎる…。汗。
 間違って覚えているかもしれないし…。滝汗汗。
 もうちょっとちゃんと覚えていたら、教えてgooとかYahoo!知恵袋で聞いてみようと思うのですが、いかんせん情報量が少なすぎるし曖昧すぎる…。

 激怒した太陽がその後どんな行動を取ったのかが気になっています。
 太陽は主人公を追いかけてきたのか?
 それとも、月の髪の毛をチョッキンしたのか?
 気になります。

 「映画のタイトルを知ったからってどうなるの? それ、生活に何か役立つわけ?」と思う人が居ると思います、わたしも第三者の立場だったら絶対そう思うでしょう、でも、気になる気になるっ。

 この映画のタイトルをご存知の方、どうか教えてください!


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 <9月8日追記>
 Diary Noteで親切な方に2ちゃんねるを教えていただき、
 2ちゃんねるでは親切な方々に作品名を教えていただきました!

 テリー・ギリアム監督の『バロン』(1989年)

 だそうです!
 早速検索してみたら、まさにこれでした!
 しかも、太陽だと思ってたら、正確には「月の王」だったらしいです…赤っ恥!

 めちゃめちゃ有名な監督じゃないですか…。
 監督の作品のひとつ『パルナサスの鏡』を以前観たことがあったのに、ぜんぜんピンとこなかった自分の鈍さにびっくりします。

 キャストも有名な俳優さんばかり…。
 月の王はロビン・ウィリアムズが演じているらしい。なんという大御所。
 しかもこの映画、ユマ・サーマンの乳首も見られるらしい!←なぜそこに反応する!?

 おかげさまでスッキリしました~!
 ありがとうございました!
 
 
 泰王が殺されたとの嘘を伝えられ、自らもまた裏切り者に斬られてしまい、麒麟の象徴たる角を抉られてしまった泰麒。
 泰麒があげた悲鳴によって鳴蝕が発生、その鳴蝕に乗って、泰麒は蓬莱まで逃げ延びる…、という怒濤の展開でこの『黄昏の岸 暁の天』上巻は始まります。

 蓬莱は、かつて泰麒が子ども時代を過ごした場所。
 自分が本当は蓬莱へ流されてしまった麒麟であるということなど知る由もなく、自分は高里要という名前の人間の子どもだと信じて日々を過ごした世界。
 周囲の人々は泰麒が普通の子どもとは違うことを本能的に察し、疎んでいたから、泰麒は決して幸福に満ちた子ども時代を蓬莱で送れたわけではありません。
 しかし、意識的にしろ無意識的にしろ、とっさの逃げ場所として泰麒が選んだのが蓬莱であり、しかもかつての生家だったことに…、読んでいて複雑な気分にさせられました。
 これまでの境遇がどうであったとしても懐かしい故郷へ帰れたのだから、喜ぶべきなのか。
 それとも、そこしか逃げ込める場所がなかったのだ、と哀れむべきなのか。
 
 恐ろしい体験をしたせいなのか、それとも麒麟の象徴たる角を大きく損なってしまったせいなのか、泰麒は麒麟としての記憶をすっかり失ってしまいました。
 そのため、泰麒…つまり高里要は、神隠しにあっただけでなく神隠しから帰ってきた子どもとして扱われることに。
 しかし、最初は高里要の帰還を喜び、同情してくれた人々が、気味悪がって物を投げてくるようになるには、たいして時間はかかりませんでした。

 高里要として生きていくのが幸せなのか。
 泰麒としての記憶を取り戻すべきなのか。
 泰王は本当に反逆者によって命を落としたのか。

 続きが気になるのですが、続きを知ってしまうのがなんだか怖いので、しばらく日を置いてから下巻を読みたいと思います。
 セーラー服、タカラジェンヌ、茶摘み娘など、18種類にも及ぶ扮装体験エッセイ。
 「コスプレ」ではなく、敢えて「扮装」と銘打ったのは、三島由紀夫のエッセイ『扮装狂』にインスパイアされての事であるようです。
 わたしは「三島由紀夫って、筋肉&ふんどし&切腹フェチよね。変態だわっ」と顔を赤らめるフリをしつつも、なんだかんだで『春の雪』あたりを愛読書棚に置いていて時折読み返してはその日本語の美しさににやついている、にわか三島由紀夫ファンでございますれば、この本の中に三島由紀夫のエピソードが出てくる度に思わずにやにやしてしまいました。
 この本、それぞれの扮装について、その成り立ちなどの色んな雑学を織り交ぜて説明してくれている中で、たまーにですが三島由紀夫についての話題が出てくるのです。
 それゆえ、わたしは「ウォーリーをさがせ!」ならぬ「三島をさがせ!」としてもこの本を楽しみました…すみません、でもこれも一興でしょ?

 さて、肝心の、酒井さんの扮装については、それぞれの章ではイラストが、巻末では写真がすごろく状に掲載されています。
 写真は全てモノクロですけれど。涙。
 カラーで見たかったし、すごろく状にそれぞれを小さく載せるのではなくて、1つにつきどーんと1ページ使って載せて欲しかったけれど、そこは印刷の都合及び大人の事情なのでしょうか。
 個人的には、特に、18番めの扮装にあたる、十二単の写真をカラーで見せて欲しかったです。モノクロではその色合いの美しさがいまいち伝わらず、残念…。
 【画像】小学館ビル取り壊し前に人気漫画家が落書き 文化財レベル
 http://matome.naver.jp/odai/2137604199906076101

 す、す、すごい!
 取り壊す予定のビルに、こんな豪華メンバーでイラストを描くなんて…!
 粋なことするなぁ…!

 もはやこれ、落書きの域を超えている…。

 特にわたしは浦沢直樹先生の大!大!大!ファンなので、
 「えっ!! 浦沢先生がイラストを描いた建物を壊すって言うの?」と、
 まるで『紅の豚』でフィオ嬢が「あんなきれいな艇を斧で壊すって言うの?」と空賊のおっちゃんたちを責める時のような気持ちでいっぱいです!

 壊すのが勿体ない…。
 壊されるのが前提の建物であるが故に描かれたものであるのは百も承知、けれどそれでも惜しいものは惜しいっ!

 かと言って、イラストが描かれた部分だけ取り除いて保管、というのもお金と手間がかかるんだろうなぁ…。

 ああ、でも、せめてテンマだけでも救出出来ないものかなぁ…。

 …と思ったら喪黒福造も居たあぁぁ!
 オバQも居たあぁぁ!
 ケロロ軍曹まで何してんすか軍曹ー!!!!!

 何ちゅう夢のコラボレーション!!!!!!!

 ………取り壊すの止めませんか?
 NHKドラマとして以前放送された『ご縁ハンター』の脚本をノベライズした小説。

 婚活を市場経済そのものとして捉えたストーリーが展開するため、読んでいて「うっ。美人な主人公さえこの扱いなら、わたしは婚活市場でどれくらいの値がつくんだろう。少しでも早く叩き売るしかないのだろうか」と、何やら冷たいものが胸にぐさっぐさっと突き刺さってきました。
 けれど、婚活においては自分が相手を選ぶだけでなく、相手に自分を選んでもらわないといけないので、シビアなのは当然なんですよね…。

 さて、この作品、美人で仕事をバリバリしている女性が主人公なのですが、容姿が十人並み以下で性格もパッとしない男女が脇役として登場します。
 男性のほうは、はっきり言っておしゃれ感ゼロだし恋愛にも慣れておらず、でも親には早く結婚するよう期待され、デート相手さえ居ないという現実に打ちのめされ、意を決してのぞんだ婚活では失敗続き。
 女性のほうは、こちらもまた容姿に恵まれているとは言えず、派遣社員で一人暮らしなので経済的な面から言ってもパートナーを見つけたくて、若さ(20代)というたった一つの武器を失わないうちに結婚を!と焦る心とは裏腹になかなかご縁に恵まれない。
 そんな男女が出会い、デートをし、これで二人が結ばれてハッピーエンドかなと思いきや、そうもいかないのが妙にリアルなストーリー展開。
 相手に惹かれたわけではなく、結婚してくれる相手なら誰でも良かったのではないか? と、二人は気づいたのです。
 二人は別れてしまうけれど、未来を感じさせる別れ方で、それがとても印象に残りました。

 主人公はなんだかんだで一緒に居るとほっとする相手と出会えたのですが、わたしとしてはその男女の行く末が気になるところです。
 何が幸せなのかもわからないけれど、幸せになっておくれ!
 主人公の珠晶(しゅしょう)と一緒に旅をしているような気分で、考えながら悩みながらわたしはこの作品を読み終えました。

 珠晶はまだ十二歳の女の子だけれど、王になることを目指して蓬山へ登ります。
 珠晶が生まれた時には既に国には王がおらず、そのせいで民は苦しむ一方なのに、周りの大人は王になることに挑もうともしなかったから。
 自分はただ嘆くだけの大人にはなりたくない、自分はやるべきことをちゃんとやりたい、その一心で、珠晶は自分の足で蓬山へと向かっていきます。

 その旅の途中で珠晶はたくさんの人々と出逢います。
 見ず知らずの人々であっても、人が集まることで自然とグループが生まれ、リーダーが現れ、秩序が出来ていきます。
 珠晶がリーダーとして属するグループ以外にも、王を目指すリーダー的人物は居ます。
 しかし、その人物は、王になりたいと思ってはいても、自分の考えがこれで良いのかと悩んだりはしない。他人の意見を鵜呑みにする時はあるけれども、妙なところで思考停止していて、他人の心中まで理解しようとしない。それに、いざとなれば部下を見捨てる。そしてそれについて後悔しようとしない。

 でも、珠晶は懸命に自分で考えようとする。
 他人の意見にムッとすることはあっても、他人の意見を聞いてそれを自分なりに理解しようとする。
 そして何より、珠晶は他人を見捨てない。全員を助けるのは無理だと悟ってはいるけれど、犠牲を出すのが嫌でたまらず、少しでも誰かを助けたい、と実際に行動する。
 そして、誰かが傷つけば悲しむ。

 これが、リーダーとして相応しい人とそうでない人の違いかもしれないなぁ、とわたしは読んでいてしみじみ思いました。
 珠晶は、相応しい。
 実際に起きた様々な事件への取材を通して、ネットへの危機感の薄さゆえに親も子どもも被害者だけでなく加害者にもなりうる、ということについて警鐘を鳴らしている本です。
 そして、そのようなケースが多々報道されているにも関わらず、「自分は(或いは自分の子どもは)大丈夫」と甘く考えている人々が居ることも、この本の中で指摘されています。
 だから、わたしはこの本を読んでいて、まるで車酔いしたみたいに物凄く気分が悪くなりました。
 紹介されている事件ひとつひとつの壮絶さはもとより、自分の子どもを守るための努力を怠る親に対しての嫌悪感で、吐きそうになりました。

 この本の初版が出版されたのは2010年なので、2013年現在とは状況が随分違ってはいるけれど、それでも現在においてもネットにまつわる事件は発生し続けるばかり。
 ネットは現代人にとってもはや無くてはならないものだけれど、ネット上で出逢う人全てが善人だと思ったら大間違い。
 この本でも、「その「餌」に、釣り堀の中の魚のように男たちが群がる」(P49から抜粋)という表現が使われていて、わたしはこれは凄く巧い表現だなと思いました。
 現実世界においてもネットの世界においても、他人を喰いものにしようという輩は、性別も年齢も関係なく大勢居るのです。 
 一度ネット上に流れてしまった情報はコピーがコピーを生んでしまうため完全に消し去ることはほぼ不可能だし、他人になりすますことなんて容易に出来るし、フィルタリングをかけたとしても色んなサイトがその網目をくぐり抜けてしまうのです。
 
 どうか、親の立場にある人も、まだ子どもの立場にある人も、この本を読んでみてください。
 そして、ネットとの付き合い方について考える良い機会としてください。
 だ、誰か、嘘だと言って…。
 このニュースは誤報だ、と誰か言ってください…。
 
 焼却なんてされたら、もはや修復のしようもない…!

 こんなのは母の愛とは言わない。
 こんなの間違ってる。


 『深夜の魔術師』、『広東の鸚鵡』、『三代の桜』、『御朱印地図』、『砂漠の呼声』、『焰の漂流船』、『慰問文』、『神兵東より来る』、『玄米食夫人』、『大鵬丸消息なし』、『亜細亜の日月』を収録した、横溝正史の短編小説集。

 横溝節と言えばいいのでしょうか。どの作品も、絶妙な語り口で楽しませてくれます。
 けれど、どの作品も戦争の影響を受けています。

 例えば『慰問文』では、女学生が兵隊さんへ慰問袋(手ぬぐいなどの日用品を入れる)を贈るというエピソードが登場。
 女学生は「あたしいままで、戦争は兵隊さんたちにおまかせしておけばいいと思っていたのよ。でも、今度のことではじめて、その間違いがわかったわ。戦っているのはみんななのね。男も女も老人も子供も、みんなみんな戦っているのね。そして皆さん、ちゃんとその覚悟が出来ていらっしゃるのね。あたしそれがわかって嬉しいの」(P177から抜粋)と発言します。

 他の作品についても、日本軍の行いを正義と言ったり、日本軍の御用船を神兵とか称したり、イギリス軍のことを悪く言ったり、「欲しがりません勝までは」という標語を紹介したりしています。

 …この時代の作家は、創作の制限を受けていたので、どうしてもこういう内容の作品を書かざるを得なかったんでしょうね…。
 
 けれど、そういった状況のもとでも、横溝正史が『三代桜』のような作品を書いたのには驚かされました。

 『三代桜』も、一見、当局受けを狙った作品のように思えます。
 「ああして出征なされても、あとには奥さんが残っていなはる。奥さんのお腹には子供さんも宿っている。何も思い残すことはあらしまへん」(P107から抜粋)とか、「わたしは配偶(つれあい)を国に捧げました。息子を、孫を皇国(みくに)に捧げました。わたしはそれを少しも悲しいとは思いまへん」「差し上げますわ。奥さま、差し上げますわ。征一はあなたの曾孫です。大きくなったらきっと奥さまの志をついで、お国のために働いてくれますわ」(P118から抜粋)といった言葉が登場するので。
 ところが、きちんと読んでみれば、決してそうではないことがわかります。

 『三代桜』は、戦地で命を落とした男性にまつわるエピソード。
 その男性は生前、こんなことをしました。
 戦友の妊娠中の奥さんが「やがて生まれてくる子供のために、名前をつけてくれ」と戦友へ宛てて手紙を送ってきたけれど、残念ながら戦友は重傷を負っていて手紙を読むことすら出来ない有様。
 だから男性は、この状況を妊娠中の奥さんに正直に告げるわけにはいかない、と思い、戦友の代筆という名目で、男の子が生まれたら征一と命名せよ、と返事を書きました。
 ところが。
 戦友は戦死したというのに、しばらくして戦友の奥さんからまた戦友宛てに手紙が届いてしまいました。
 どういう事情があったのかわかりませんが、戦友の奥さんへ戦死通知が届かなかったようなのです。
 戦友の奥さんから戦友へ宛てた手紙には、赤ん坊を抱いた写真が入っていました。
 やがて男性はこんな手紙を自分の祖母へ送りました。
 「お祖母さん、僕はちかごろ毎日この写真を胸に抱いて戦っています。この坊やに名前をつけたのはかくいう僕です。僕は坊やの写真を見るたびに、だんだんこの坊やが自分の子供であるような気がして参りました。写真の中から回らぬ舌で、お父さん、お父さんと呼んでくれるような気がします。僕も征一や、征一やと呼んでやります。お祖母さん、そういうわけで僕はいまとても楽しく軍務にはげんでいます」(P116から抜粋)と。
 
 …楽しく軍務にはげんでいます、と結んだことで、一見、当局受けを狙ったエピソードのように見えるのですが、実際は違うようにわたしは思います。
 軍務が楽しかったのは、軍務が終わって日本に帰ったら征一に会えると思ったからではないでしょうか。
 自分が名付け親となった、この世でたった一人の赤ちゃんに。
 写真を通してではなく、実際に征一に会って、名前を呼んでやりたかったから。
 それが楽しみで、だからこそ自然と軍務も楽しくなったのではないでしょうか。
 …それなのにこの男性も、戦友同様、戦地で命を落としてしまいました。
 征一に会えることなく。
 これを悲劇と呼ばずして何と呼びましょう。
 
 …この『三代桜』という作品、戦争の悲惨さがはっきりと書かれているように思えます。
 男性のお祖母さんや、戦友の奥さんのセリフによって、うまくカモフラージュしてあるけれど。
 この作品は、横溝正史の、戦争や、戦争を肯定する人々への精一杯の抵抗だったのではないでしょうか。
 一昨日、ヴァニラさんのことを書いていて思い出したのですが、海外の女性たちもスゴイですよね。
 何がスゴイって、自らの容姿に対して一切の妥協を許さないところが。
 もはや、美意識、というより、根性、と表現すべき、飽くなき美の追求。
 例えるなら、みんなが最高速度80キロしか出せない道を、300キロくらいの速さでぶっちぎっちゃったような感覚。

 特にスゴイのは、やっぱりウクライナのヴァレーリヤ・ルカノワさんだと思います…。

 ヴァニラさんはフランス人形を目指しているけれど、ヴァレーリヤさんの場合はザ・リアルバービー人形。

 アナスタシア・シパジナさんもスゴイ。
 アニメ風のメイクを自らに施すことによって、ブライスちゃん並みの目力を手に入れています。
 なお、知らない方のために解説すると、ブライスは顔の2分の1を目が占めると言って過言ではないくらい目の大きなお人形です。

 ヴァレーリヤ・ルカノワさんとアナスタシア・シパジナさんのツーショット写真に至っては、もう、見た瞬間に目が点になります。
  そして自分の家の鏡を全て割りたくなります。 ←早まるな! 割ったって自分の10人並み以下の容姿は変わらない!

 お二人の写真を勝手にここへ載せることは出来ないので、気になる方は是非検索してみてくださいませ。
 まるで水戸黄門を観終わった時のような読後感の一冊。
 この紋所が目に入らぬか! なんて、十二国記の登場人物たちは勿論言わないけれど。
 上巻で登場した三人の少女たちが自分たちの身分を明かし、誰もが畏れおののく瞬間は、読んでいてスカッとします。
 三人の少女それぞれの成長ぶりが眩くて、特に結末は胸にグッときました。

 けれど…、彼女たちの勝利のかげには、命がけで御璽を守り、そして命を落としたもう一人の少女の存在もあることを忘れてはなりません。
 華々しい勝利の中では、ついつい英雄のことばかり語られがちだけれど、勝利をもたらすために沢山の命が失われていったことを決して忘れてはならないのだ…と、わたしはそんなメッセージを感じながらこの一冊を読み終えました。

 また、
 「(中略)前を向いて歩いていかないと、穴の中に落ちてしまうよ」
 「穴の中?」
 「自分に対する哀れみの中」(以上、P22から抜粋)
 という会話の流れをわたしはとても気に入りました。
 わたしもその穴に落ちてしまいそうになったら、この言葉を思い出したいと思います。
 突然ですがブログのタイトルを変更しました。

 (変更前) rappeleR amE A La vie †氷の花†

 (変更後) G-darkの深読み&ネタバレ御免!

 変更後の方がやたらしっくりくるので不思議です(笑)
 今後ともよろしくお願いいたします!
 御免!
 最近わたしは図書館で小野不由美さんの小説『十二国記』シリーズを借り、読んではこのブログにレビューをアップロードし、図書館に返却しては続きを借り、…というのを繰り返しています。
 
 なお、わたしは友人から「『魔性の子』は番外編だから、『月の影 影の海』から読めばいいよ」と聞いていたので、その言葉を素直に聞いて『月の影 影の海』から読み始めました。

 よって、
 『月の影 影の海』の次は、
 『風の海 迷宮の岸』。その次は、
 『東の海神 西の滄海』。その次は、
 『風の万里 黎明の空(上)』。という順に読んできました。←今ここ

 『風の海 迷宮の岸』を返却したあたりから、
 わたしは気づきました。

 文庫本のコーナーに、わたしが次に読むべき『東の海神 西の滄海』を、司書さんが補充してくれていることに。

 やがて『東の海神 西の滄海』を読み終えて返却し、さあ次を探そう、と文庫本コーナーへ行くと、やはり『風の万里 黎明の空(上)』が補充されていました。

 そしてつい先日、『風の万里 黎明の空(上)』を返却しに行くと、この続きにあたる『風の万里 黎明の空(下)』と、その更なる続きである『図南の翼』が補充されていました。

 これは非常に驚くべきことなのです。

 「それって当たり前じゃない? 小野不由美は有名な小説家だし、十二国記なら誰でも読みたがるでしょ」と思う方が居るかもしれません。
 が、それは大規模な図書館の話。
 
 わたしがいつも利用している図書館はとても小さい規模の図書館で、書棚に本がびっしり!びっちり!と収納されていて、それでも収まりきらない本が多くて書庫にこれもびっしり!びっちり!と保管されている状況。
 ものすごく人気のあるシリーズの小説であっても続きは数冊ずつしか書棚には無く、よって、大人買いならぬ大人借り(そんな言葉あるんかいな?)したいなら、司書さんにお願いして書庫から本を取って来ていただかなければなりません。
 たいしてスペースを取らないであろう文庫本についてもそれは同じ。

 うまく説明出来たかはわかりませんが、以上のような理由で、同じ作家の同じシリーズの続きものが、なんと返却と貸出のタイミングにうまく合わせて、しかも何もこちらからお願いしていないのに、暗黙の了解というか阿吽の呼吸というか以心伝心というかテレパシーというか、とにかく、当たり前のように用意していただいている、というのは…、わたしがいつも行く図書館においては驚異的なことなのです。

 わたしの読書ライフは司書さんに支えられています。
 司書さんありがとう!

 え?
 ブログに書かないで司書さんに直接お礼を言えよ、って?
 …自分…不器用ですから…。←高倉健みたいなことを言うな!
 清秀という、この上巻にしか登場しない、…と言うよりもう登場したくても出来ない少年の台詞が、この上巻のテーマのような気がします。
 清秀は言います。
 「誰かが誰かより辛いなんて、うそだ。誰だって同じくらい辛いんだ」(P233より抜粋)と。
 
 この上巻では、それぞれ立場の違う3人の少女が登場します。
 
 1人目は、度重なる苦難を乗り越えて王となり、けれどどう政を行えば良いかわからず葛藤、そして国について学ぼうと努力する。
 
 2人目は、今まで住んでいたところとは全く違う世界に流されて、言葉もわからず孤独に苛まれ、なんとか職を得て必死に働くけれど、雇い主の無理難題に耐えかね、自分の身の上を哀れむ日々の中で、きっと自分の不幸を理解してくれるであろう1人目の少女によって救ってもらうシンデレラストーリーを頭の中で描いて現実逃避し、やがて雇い主のもとから脱出、けれど親切にしてくれた別の人の真意を知ろうとせず「あなたにはわからない」とかえって我が身を哀れみ、1人目に会えることを夢見て旅立ち、…やがて清秀と出逢う。

 3人目は、王を諫めることの出来る地位にあったにも関わらず、王が定めた過酷な法律によって罪無き国民が大勢殺されていることを知ろうとさえせず、ついに叛乱が起きると叛乱を起こした者のことを「簒奪者」と恨み、己の無知を責められれば「わたくしは何も知らなかった」と開き直り、更には、1人目の少女の噂を聞いて、1人目の少女とは会ったこともないばかりかそもそも住んでいる国自体が違うというのに「わたしがこんな暮らしをしているのに。許せない」と逆恨みし、身柄を引き受けてくれた人の財産を盗んで逃走し、1人目の少女から王位を奪おうと企む始末。

 …2人目は清秀と出逢ったことで大事なことに気づくことができた。…その代償は余りに大きかったけれど。…それでも気づくことが出来た。清秀の言葉の意味に。

 3人目は楽俊(『月の影 影の海』の下巻に登場した心優しき人物)と出逢ったことで、楽俊に八つ当たりしながらも、楽俊のおかげで大事なことにようやく気づくことが出来た。国のこと、国民のことを思うことの大切さに。

 自分の不幸に酔ってしまっているうちは、他の人と助け合うことなんて出来ないのです。
 でももしそれに気づけたら、それから生き方を変えればいいのです。
 気づくのが遅すぎた、と反省したら、そこからはただ進むだけ。
 …と言ってくれているような気がする一冊です、この上巻は。 

 この3人の少女が今後どうなるのか気になるので、わたしは早速、続きにあたる下巻を読もうと思います。
 が、清秀が迎えた最期を思うと…、なんだか下巻を開くのを躊躇してしまいます。
 すぐには下巻を開けそうにありません。
 清秀は小説の登場人物の1人に過ぎない、とわかってはいるけれど、それでもやっぱり、悼みたい。
 ※このアルバムにこの曲は収録されていないのですが、イメージが伝わりやすいようにアルバムの画像を載せてみました。


 最初、「Shakiraかな?」と勘違いして聴き始めて、PVを観てわたしは度肝を抜かれました。

 『Haide Hopa』のPV
 http://www.youtube.com/watch?v=OLt8If39AjM&feature=youtube_gdata_player

 車から降りてきた美女に見とれた女の子が、手に持ってたソフトクリームをうっかり地面に落としちゃう、というシーンがPVの中にあります。
 わたしもこの女の子の立場だったら、おおげさじゃなく、ソフトクリーム落とすわ…。コーンごと。
 更に「ば、ば、バービー人形が歩いてるー!」と叫びます、わたしなら。

 すんごい目力、やや褐色の肌、まっすぐ伸びた金髪、ザ・スーパーモデル!なスタイルに、赤いドレスと赤い靴と赤いブレスレットと赤いショールを纏って。
 ザ・攻め!
 ザ・肉食!
 な雰囲気なのに、落ち着いた歌声なのが何とも堪らんです。

 ちょろっと調べてみたら、
 Andrea=ブルガリアの歌手
 Costi=音楽プロデューサー
 Sahara=AndreaとCostiのユニット
 らしいです。
 誰か詳しく知ってる人がいたら教えてください。
 
 正直言うと、そもそもこの曲が何て歌っているのかもチンプンカンプンなのですが、気に入ったので、これからYouTubeでSaharaの動画を探したいと思います。

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