今日で無事に今回の「100冊読書」を達成しました!
 が! しかし!
 …タイトルの「?」にはまる数字をカウントする勇気、わたしにはまっっったくございません!
 「本を100冊読みます!」と宣言してから実際に100冊目に到達するまでに、一体何年要してんのって話ですよ。

 本を読むスピードが遅すぎてビックリする…。
 もっと知的好奇心を持たねば!

 でも、「346冊目」がちょうど100冊ごとの節目にくるという、このキリの悪さって何なのでしょうか。
 「100冊読書」を始めたのが、146冊目とか246冊目とか、そういう中途半端な時期だったせいですが…。
 
 …うーん。どうしよう。

 …そうだ、ではあと54冊を出来る限り早く読んで、400冊の大台に乗っけましょう!

 …で、で、で、出来るだけはやくっ…。
 
 わたしは思春期の頃よくカヒミ・カリィさんの曲を聴いてはそのウィスパー・ボイスに癒されていたのですが、カヒミさんいつの間にか母親になっていたんですね。おめでとうございます!
 このエッセイを読んで初めて知りましたが、カヒミさんはずいぶん幼い頃にお母様を亡くしていらっしゃったんですね…。
 カヒミさん自身が母親になった今、「母が抱いていたであろう、大切な幼い子ども二人を育て上げられずに自分の命を失う無念さ、その気持ちを思うと、私の心は深く痛み、けれども同時に、何故か心の底からゆっくり癒されていくように感じる。どんな状態の時でも、きっと、母は眠る私を見つめていた時、いま私が娘を見つめる時と同じような温かい気持ちだったのではないだろうか。~(中略)私が母を愛する時、私は母から愛されているような気持ちになるのだ」(P10から抜粋)とおっしゃっているのが凄く素敵だし、亡くなったおばあさまのことを思い出して「祖母のことを思うと涙が止まらなくなることがある。けれど、その時の涙はいつもより温かい。それは娘がポロポロと泣いて、抱きしめた時に私の頬に感じる温かさと一緒なのだ」(P31から抜粋)という感性も優しくて綺麗。
 愛って受け継がれていくものなんですね…。
 カヒミさんの子育てについての考え方も好き。「〝子を育てている〟というよりも、〝育っている子のお世話をしている〟という方がしっくりくる」(P11から抜粋)、わたしもいつか子どもを産むことがあったらそんな想いを抱い
た母親になりたいなぁ!

 それと、この本の中で、カヒミさんは河合隼雄さんがおっしゃったことについて紹介しています。
 「「--のぞみはもうありません」と面と向かって言われ、私は絶句した。ところがその人が言った。「のぞみはありませんが、光はあります」なんとすばらしい言葉だと私は感激した。このように言ってくださったのは、もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである--『考える人2008年冬号』(新潮社)」(P178から抜粋)
 オチの決まり方が素晴らしいったらない。
 何よりとっても良い言葉。
 望みはもうありません。望みはありませんが、光はあります。…言った駅員さん本人がビックリするかもしれないなぁ。
 「わたしが王になったら善政を敷こう…」と、国を治める予定なんてたぶん来世でもありはしないのに、わたしは泣きながらこの巻を読みました。
 
 貧しくてひもじくて明日の命も危うい人々が口減らしのために小さな子供たちを捨てるくだりが冒頭から続いたので、正直言うと、読み進めるのが辛かった…。
 かつてそうして捨てられた子供二人が成長し…、片方は「自分のような子供を作りたいのか!?」(P268から抜粋)ともう片方の暴挙を止めようとし、問われた方は「国が傾くのが怖いか? 荒廃が怖いか、死が怖いか。楽になる方法を教えてやろうか」「全部滅びてしまえばいいんだ」(P269から抜粋)と答える、というこのくだりには戦慄を覚えました。

 どうしてこんなことになってしまうのでしょうか?
 
 そもそも、この『十二国記』の世界において、王は麒麟が天帝による天意によって選ぶもの。
 王が玉座にいないだけで国は荒れる。
 けれど、王が玉座に居ても国が乱れることもある。
 麒麟に選ばれた王が必ずしも善い政をするとは限らないから。
 「諸神は悪を雷で打つという。ならば麒麟が病むのを待たずとも、王が道を誤った瞬間に雷で打てばよろしかろう。~(中略)不遜だというのなら、今ここで雷罰を下していただこう」(P120~121から抜粋)と笑う者が居ても、天帝は現れない。
 天意はわからない。
 苦しむのはいつだって民。

 …酷い。

 そんな中でも民は王に期待を寄せる。 
 臣もまた、死を命じられるのも覚悟の上で「どれだけの民が死んだか、その目で確かめろ」(P32から抜粋)と死んだ民の戸籍を王へ投げつける臣もあれば、興す王と滅ぼす王どちらの謚がお好みか、と王に問う臣もあり、また、王のために麒麟を逃がそうと自らの命を代償にしてしまう臣もあり…、臣は懸命に働いている。

 なのにだからといって民の暮らし向きがすぐ良くなるわけではない。
 反乱分子は生まれる。
 そうなれば血が流される。

 国とは?
 王とは?
 臣とは?
 民とは?
 と、この巻は読み手の心を雷で打ちます。

 わたしはこの巻を読んだ後、ニュースや新聞を以前よりじっくり読むようになりました。
 自分の住む国、他の国、それらが今どうなっているのかを知りたくて。
 わたしも以前ブラックな職場に勤めていて、あまりに人が足らないので社会人1年目なのに主任となり日付が変わるまでの残業も休日出勤もひたすらこなしてしかし手当0、退職願いも退職届けも何度も何度も上司に破られ「妊娠するか、交通事故を起こして大怪我でもしないと受理しない」と言われ、20代女性なのに体重が31キロまで落ち「このままでは娘が死んでしまう」という両親の直談判のもとようやく辞められた…という実績(?)があります。
 だから、ブラック企業川柳を集めたこの本を、涙なしには読めなかったです。
 例えば、
 
 「「目を覚ませ!」
  両親おしかける
  子の会社」(P15から抜粋)
 
 という川柳には、共感というより懐かしさを覚えたし、
 この本のサブタイトルになっている、
 
 「残業代
  出たら年収
  一千万」(P36)
 にも大きく頷いてしまいました。
 そして泣いた。

 他にも、
 
 「この世にも
  地獄があると
  知った春」(P57から抜粋)
 とか、

 「家賃無駄
  年の半分
  仮眠室」(P114から抜粋)
 とか、

 珠玉の(?)川柳が載っています…。

 こういう川柳がそもそも生まれてこない、労働者にとって優しい世の中にしたいですね…。
 1997年に発売されたこのゲームのテーマは解離性同一性障害。(当時は「多重人格」と表現されていました)
 ジャンルはテキストアドベンチャー。
 発売されてから15年以上年も経つのに、時々棚から引っ張り出してプレイしたくなる、不思議な味のある作品です。
 
 名作、と呼ぶには余りに癖があるけれど。
 プレイヤーを怖がらせるべきシーンよりも、何気ない日常を描いているだけのはずのシーンが妙に怖いからです。
 そもそもポリゴンが怖い。
 …それを言っちゃおしまいだけれど、でも、ポリゴンで描かれたキャラの目が…、全員はなから死んでいる感じがする。
 とは言えポリゴンだからこそ、人間らしさが排除された、まるで人形のような冷たい美しさというか…、ヒロインであるマリアの持つ、不幸な女性だけが纏ってしまう美しくも哀しいオーラなど、そういうものが伝わってくる気がします。
 
 マリアは沢山の人格を作り上げてしまいました。
 そうしないと自分自身が壊れてしまいそうだったから。
 けれどマリア本人には、自分の中に他の誰かがいるという自覚も、彼らを生み出すきっかけとなった或る事件の記憶も無い。
 その記憶は心の奥底にしまい込んだから。
 けれど、重要な記憶を無理矢理しまい込んでしまったために、心が何通りにもひび割れてしまった。
 マリアの意識は、ブツ、ブツ、と何度も途切れて、その度に別人格が活動を始めてしまいます。
 一番救いを求めているのはマリア自身なのに、その苦しみに蓋をした、せざるを得なかったマリアは、自分でも気づかぬうちに、ただ静かに…完全なる崩壊、すなわち死を待つばかり。
 自分で望んでいるわけでもないのに、死に誘われてしまう。
 
 だから、わたしは何度も何度もこのゲームをプレイしているにも関わらず、やっぱり何度も何度もマリアを救いたくなってしまいます。
 マリアが死亡するエンディングは見たことがありません。
 多分これからも見ることはないでしょう。
 
 わたしは仕事柄、解離性同一性障害の方と時々出会いますが、その度にこのゲームのことを思い出します。
 幼かった頃のわたしに、精神医学等への興味を抱くきっかけの一つをくれたゲームだから。
 「There’s only two types of people in the world
  The ones that entertain,and the ones that observe
  Well baby I’m a put on a show kind of girl
  Don’t like the backseat,gotta be a first」

 とBritneyが歌うから…、わたしは映画『ヘルタースケルター』を観てからというもの何度も何度もこの曲を聴いています。
 別に主題歌ってわけじゃないのに、何だか連想してしまって。
 
 この世には2つのタイプの人間しかいない、
 1つは楽しませる側の人間、
 もう1つはそれを楽しむ人間。
 わたしはショーを見せる側の女の子。
 バックシートみたいに目立たないのは嫌、一番になりたい。

 って意味の曲だからこそ、Britneyの腹をくくった潔さみたいなものが伝わってくるし、中毒性があります…。

 Britneyって凄いですよね…。
 ゴシップ好きの人間のことも、ダンス好きや音楽好きの人間のことも楽しませて、稀有なエンターテイナー。
 現実と非現実とがしっちゃかめっちゃかで、なんだか不思議の国のアリスの物語のよう。
 けれど、りりこという名のこのアリスは、不思議の国ではなく悪夢に迷い込んでしまった。
 極彩色の悪夢へと。
 
 もはや現実へ帰れなくなったこの醜く美しいアリスは、「首をお切り!」とトランプたちに命ずるハートの女王の如く君臨し、いつだって退屈で、いつだって周りの人々を傷つけ、その度にかえって自分の孤独に気づいて打ちひしがれている。
  
 その上まるで白雪姫の物語に出てくる魔女のように美貌にすがりついて「鏡よ鏡…」と繰り返す様は、とても哀れ。
 違法な美容整形という名の毒林檎をかじり続け、毒が全身をかけ巡っていくのに、呪いを解いてくれる王子様は、りりこには現れない。

 そんな残酷な世界に在っても、りりこが「見たいものを見せてあげる」と道を全うしたのは見事。
 美容整形を加えていない、元のままのパーツ…即ち目玉を破壊することで、りりこはりりことしての自分を殺した。
 …民衆は美貌の女王に陶酔するものだけれど、それ以上に、民衆はかつて栄華を誇った者が墜ちていくのを見るのが好きだから。
 ギロチンで首を切断されるか(マリーアントワネットは正確には女王ではなく王妃だけれど)、目玉を失うか、いずれも本質は特に変わらない。
 女王以上に民衆は気まぐれで、残酷で、退屈している。
 民衆は他人の不幸が好きなのだから…、カメラの前でどん底をさらけ出したりりこは、ある意味において最高のエンターテイナーと言えるのかもしれません。

 これからも強かに生き続けていくであろう最後のりりこの姿は、醜悪なはずなのに、ぞっとするほど妖しく美しかったです。
 アルバム『GALAXY』収録。


 カタギじゃない感がまるで煙草の煙をくゆらせるが如く漂う曲。

 「なぜ別の生き方を選べなかった?」
 「頭に巡るのは坊やの笑顔」
 「そばにいてやれないパパでごめんね」
 という歌詞が哀しい。

 たぶん…、
 この曲の主人公は、
 ちゃんとした病院には運ばれていない。
 「目覚めるとそこは暗い病室」
 「赤い血の滲んだ白い包帯」
 という歌詞から…、
 適切な縫合が成されていないような気がします。
 闇医者のところに運ばれた、
 運ばざるを得なかった、
 そんな気がします…。

 生きろー! 坊やが待ってるぞー! と主人公に叫んでやりたいけれど…、
 たぶん…、
 主人公はもはや死に往く人なんだろうな…。

 取り返しのつかない、真っ黒な傷を負って。
 「錬金術師のアトリエって、こんな感じなのかもしれない…!」と、実際に錬金術師に会ったこともないのにわたしは好奇心でゾクゾクわくわくしながらこのDVDを観ました。

 このDVDには、ナレーションなどの装飾が施されていません。
 音楽とは呼べないほどわずかな効果音があるのみ。
 だからこそ、クリアに観ることが出来ます。
 音楽は、ただ調理する際に奏でられる音たちで十分。

 このDVDを観ていると、まな板も包丁もフライパンも鍋も、未知の実験器具に見えてきます。
 この不思議は一体何なのでしょうか。
 出てくる料理のどれもこれもが、見た目だけでは、味も食感も予測がつきません。
 フェラン・アドリア率いるこのレストラン『エル・ブリ』では、料理を作るということ以外は特にしていないはずなのに…、レストランではなく、まるで錬金術師のアトリエに見えてきます。
 意外性・感動・新しい食感を求めて、実験、記録、実験、記録、実験、記録、実験…の繰り返し。
 簡単に(もちろんこの方たちにとっての「簡単」)思いつくレシピはすぐにボツになるし、なんと言っても「この店ではまったく新しいものを作る」という言葉に、このレストランのスタンスが集約されているように感じます。
 
 毎年6か月ものあいだ休業して、その間、次シーズンのレシピを創造してきた、スペインの伝説のレストラン『エル・ブリ』。
 創造してきた、と過去形にしてしまった理由は、このレストランが完全閉店してしまったから。
 けれど『エル・ブリ』の挑戦は続きます。
 財団となった後の動向にも期待しています。
 NHK『仕事ハッケン伝』パリコレSPを観ました。
 
 平山あやちゃんがVOGUE NIPPONの記者としてパリコレを取材して記事を書く、って企画で。
 アナ・ウィンターなどなど著名な人たちにどんどん声をかけていく平山あやちゃんの度胸を見習おうと思ったし、一つの記事をみんなで作り上げていく行程を知れて素直に感動しました。

 「リスクを恐れないで大胆になることが大事だ」とか、
 「コンセプトが形にならないとダメ」とか、
 「もっと感覚的に」とか、
 なんかこう、
 いろんな言葉が、
 グサ!グサ!グサ!と、心の中の、感性を高めるツボに的確に突き刺さっていくような感じで…。

 この回がDVDになったらいいなー。
 お妃教育がどんな風に行われるのかと楽しみにしていたのに、意外にもあっさりと、ヒロインは王子様と結婚してしまいました!
 けれど「未成年だから」という理由で、初夜の儀式は行われず。
 そりゃ確かに、ヒロインも王子様も高校生という設定なので、結婚したからといっても、性描写はなかなか難しいのかもしれません。
 それに、結婚したのにプラトニックな関係、というのは面白いかもしれませんね。
 形だけの夫婦だからこそ、ヒロインと王子様の関係が今後どう変化していくのか気になります。

 それにしても、ヒロインの両親がヒロインに戒めの言葉を説く結婚式のシーンは、心にグッときました。
 
 もしも現代の韓国が立憲君主制だったら、という、もしもボックスから飛び出したような有り得ない設定だけれど、面白いドラマです。
 普通の女子高生が突然王子様と政略結婚することになった、という、少女漫画的王道ストーリーも、「もしも本当に現代の韓国が立憲君主制だったらこんなのもあり得たりして…?」と思わせることで、何倍も楽しめます。
 皇太后がテレビで韓国ドラマを見ているシーンもあって、「なるほど、きっと皇太后も韓国ドラマに夢中になるものね」とわたしは妙に感心させられました。
 
 ヒロイン自身がシンデレラストーリーを望んだわけではない、というのも見どころの一つ。
 ヒロインが王子様のことを全く好きではない、というのは、この手のドラマとしては珍しいですよね。
 ヒロインはデザイナーになりたいという夢を抱いていたのに、金銭的に困窮している実家を助けるために、「わたしは孝女沈清なのよ」と言って嫁ごうとするのです。
 何だかけなげ…。
 
 ※孝女 沈清とは※
 盲目の父親を治そうとして海に身を投げた女性。

 では王子様の方はどうかというと、王子様の方も全くヒロインのことを好きではないのです。
 これもこの手のドラマとしては珍しいですよね。
 王子様には実は好きな女の子がいるのですが、その好きな女の子には「世界的なバレリーナになるという夢を諦めたくない」と振られてしまいました。
 王子様は「愛する女性を宮中に閉じこめたくない」と決意し、ヒロインと結婚しようとするのです。 

 そのうちヒロインが王子様を、もしくは王子様がヒロインを好きになることがあるのでしょうか?
 麒麟がどう生まれてどう育ってどう王を選ぶのかが、この巻には書かれています。
 この十二国記の世界が、この巻のおかげで、少しずつですが理解出来てきました。
 泰麒が景麒から折伏(しゃくぶく)の仕方を教えてもらう場面においては、「名前」は繋いでくれるうえ守ってくれる鎖であるという考え方や(これって元々はどこの国が起源の考え方でしたっけ?)、易や遁甲や風水や気功といった中国の考え方や、日本の密教の九字呪言の考え方などもミックスされています。
 十二国記独自の世界観にそれらが加わることで、なんとも不思議な世界観に仕上がっています。

 泰麒の愛らしさは勿論のこと、泰麒の乳母兼指令である汕子(さんし)にわたしは心を打たれました。
 この十二国記の世界において、子どもは母親の体からではなく、枝になった実から生まれるものですが、それでも汕子にとって、泰麒は我が子そのもの。
 突然襲ってきた蝕のせいで泰麒を失った際の汕子の悲痛な叫びは、まるで、お腹の子を失った母親のそれを思わせます。
 だからこそ、汕子が泰麒と再会するくだりでは、読んでいて涙が出るほど嬉しかったです。
 その後の、汕子が泰麒を慈しんで育てるくだりもまた然り。
 読み進めれば読み進めるほど、わたしまで、我が子の成長を見守る母親のような気分になりました。

Waking Dead Season2 6巻

2013年3月20日 TV
 ※ネタバレ注意!

 グレンがかつてデールに教えてもらった方法で車を修理してみせるシーンでは、なぜか観ているこっちまで涙が浮かんできました。
 若者にちゃんと技術を引き継いでいたデールは本当に偉大。
 みんながデールを悼みました。

 でも、シェーンは変われなかった…。
 変われなかったどころか、シェーンはまたしても鬼畜なことをやらかしました。
 おまけにやり口が甘い! 
 シェーンの小細工など、リックにもダリルにもお見通し。

 …そして物語はより悪い方向へ。

 沢山の仲間がウォーカーに喰い殺されただけでなく、みんな帰る場所まで失いました。

 それどころか、みんな重大な新事実を知ってしまいました。
 ウォーカーに引っかかれたり噛まれなくても、死んだだけでウォーカーへと変貌してしまうということが。
 この事実は、よりみんなを追い詰めることになるでしょう。
 …法律なきこの世界で、みんなを人間たらしめていたもの。
 それは、死者を弔うこと。
 死者を埋葬し、葬式をし、丁重に葬ることが、みんなに残された人間らしさでした。
 …でも、ウォーカーに引っかかれたり噛まれていなくても、ただ死んだだけでウォーカーになってしまうということは…、たとえ家族であっても友人であっても死んでしまったら必ず頭を潰さないといけない、ということを意味しています。
 そうしなければウォーカーと成り果てて、人を襲うようになってしまうから…。
 …なんて惨い…。

 でも、Season2の終わりが、ほんの少しだけれど希望を感じさせるものだったので、わたしは少し安堵しました。

 これからもこのドラマは悲惨な展開になりそうだけれど、それでも、Season3に期待します。

Waking Dead Season2 5巻

2013年3月16日 TV
 ※ネタバレ注意!

 ようやく本音を語り合えるようになったリックとシェーン。
 シェーンがウォーカーたちに襲われた際、リックはシェーンを見捨てることも出来たのに、助けに戻りました。
 世界がこんな風に壊れてしまうまでは二人が親友だったのだ…と思わせるシーンです。
 でも、壊れたものが元に戻らないのと同じように、リックとシェーンは昔のようには戻れない、ということも描いているシーンです。

 今後何を希望として生きていけばいいのか?という問いが各々の心の中に生まれ、みんなの溝は深まるばかり。
 
 そんな折、
 …ついにデールが…!

 唯一の良心、
 絶対善の象徴たる、
 デールが…。
 
 嫌な予感しかしないまま、Season2の最終巻となる6巻の視聴へと続きます。
 

Waking Dead Season2 4巻

2013年3月14日 TV
 ※ネタバレ注意!

 シェーンがデールのことを「道徳の化身だろ。それとも理性の声か?」と皮肉るシーンがあるけれど、言い得て妙とはまさにこのこと。
 デールはみんなのことをよく観察しているし、みんなも本心をデールになら打ち明けられます。
 グループ内においてデールは最年長者であり、戦闘には加わらないので、シェーンはデールに「おれは仲間を守ってきた。あんたは車を直し、銃を管理してただけ」と嫌味を言います。
 けれどデールこそ、グループ内で唯一の良心と言えるでしょう。
 だからこそ…、もしデールがこのグループ内から居なくなる日が来たら…、みんながバラバラになりそうで恐ろしいです。

 これまでモヤモヤと存在していた、誰がリーダーに相応しいのか?という腹の探り合いが、この巻に至って、いよいよ表に出てきました。
 リックもシェーンも、それぞれ言い分があります。
 シェーンはとっくに人殺しだったけれど(オーティスを囮にしたことです)、リックもまた人を殺してしまいました。ガラの悪い二人組の男に農場を狙われ、銃を向けられたため、反対に撃ち殺したのです。
 リックが犯した殺人と、シェーンが犯した殺人とでは、どちらが罪が軽くてどちらが罪が重いのか?なんて誰にも裁けないけれど、それでも、ウォーカーではなく人間を殺した者が居るという事実は、グループ内に波紋を生じさせました。
 リック派とシェーン派に、みんなの心が分かれていきつつあります…。

 それぞれの想いが入り乱れて、実に興味深いです。
 このドラマはゾンビものというよりも、まさに人間ドラマですね。
 ゾンビという非日常なものをテーマとして扱っているからこそ、人間の業を鋭く描けるのでしょう。
 続きを観るのが楽しみです。

Waking Dead Season2 3巻

2013年3月12日 TV
 ※ネタバレ注意!

 妊娠に戸惑うローリが、デールへ心境を打ち明けるシーンがあります。
 「生まれてくる子は成長して幸せに暮らせる? 目を見て答えて。赤ちゃんはあなたの年まで生きて幸せに死ねる? さあ答えてよ」
 …このシーンはわたしの心に突き刺さりました。
 ローリの抱くこの不安は、多かれ少なかれ、世の母親たちがみんな抱く想いかもしれません…。
 お腹の中の赤ちゃんがどんな人生を歩むのか、誰にも分からない。
 幸せになれるかもしれない。でも、違うかもしれない。
 特にこのドラマの場合、いつ誰がどこでウォーカーに襲われて命を落としてもおかしくない状況ですから、なおさらデールは言葉を失います。
 …自分がデールの立場だったら、きっとデールと同じように沈黙してしまうでしょう。

 …そして、やがてみんなが突きつけられる現実も…、これまた痛い…。
 ソフィア…。
 ムックの音楽を作り上げる人たちの、感性が好き。
 なんて骨太な音楽。
 こういう感性を持っている人たちと同じ国に生まれたことを、誇りに思います。



 特にこの『シャングリラ』は、
 聴けば聴くほど、
 自分自身の醜くて弱くてだめな部分を思い知らされているような、
 そんな感覚に追いつめられるけれど、
 聴けば聴くほど、
 もっと聴きたくなります。
 不思議です。
 とても。


 黒色というよりも、闇色が似合うような、たまらない感性。
 
 この疾走感がたまりません。

 イントロから頭をガツンとやられた感じ。

 英語の歌詞を自分なりに和訳して、この曲の意味を知り、更に好きになりました。

 ※和訳については、いろんな方が作成したものがネット上で公開されているので、是非探してみてください。
 アルバム『blues』収録曲。
 

 「誰かが言った この一週間は特別で
 私の人生を 左右する大事なもの
 それでも僕らの 街はいつもと同じような
 一日を七回繰り返すだけだったな」

 
 「いつでもそうなんだ どっかで誰か泣いていて
 そのとなりの部屋では 誰か笑っていて
 繰り返す日常と 二度と来ない特別な今日が
 同じ空の下 淡々と流れてゆく

 
 「もう価値がない
 必要ないと捨てられた彼の腕の温もりが
 こごえる誰かを暖める その日が来るのさ」


 こういう感性が、たまらなく好き。
 back numberの曲の中でも、特に心にしみる曲です。

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