何千という遺体を検死してきた方が書いた本。
 
 第1章では自殺した方の遺体の状態について述べられているのですが、その描写たるや、もう…、生々しくって、この本を読んで自殺を思いとどまる人がいるかもしれないと思うほどグロいです。
 特にわたしが悲鳴をあげそうになったのは、P36の、転落死についての描写。もし足から転落したらまず大腿骨頚部が折れ、骨盤や腰の骨が折れ、頭がガクンと前のめりの状態になるため首の骨が折れ、体がエビのように折れ曲がって肋骨が折れる…と。想像するだけで痛い。痛いです。
 こんな調子で、どんな死に方をすると遺体がどんな状態になる(首絞め、感電死など様々)、ということが書いてあるので、わたしはこの本を読んでいてすっかり血の気が引いてしまいました。楽な死に方なんて無いのだなとつくづく考えさせられ、と同時に、これまでにわたしが経験してきた身近な人たちの死を想うと、涙が止まらなくなりました。みんなが最期に感じたであろう恐怖、痛みを、今になって自分も感じたような気がして…。
 
 さて、同じく第1章には、借金苦に苦しみ、愛する家族に保険金を遺すため、事故に見せかけて自殺した方たちについても書かれています。
 先述の通り、読んでいて胸が苦しくなりました。この方たちは本当は生きていたかっただろうに…どれだけ無念だっただろうか…どれだけ怖かっただろうか…と。
 けれど、事故死した遺体と自殺した遺体の違いは結局見抜かれてしまい、遺族には保険金は下りず、遺族には後悔だけが残ることに…。
 せっかく死んだのに、と言えば語弊があるかもしれませんが…、読んでいて何ともやりきれない気持ちになりました。
 かといって、自殺した方の気持ちや遺族の気持ちを汲んで「事故死です」と嘘の報告をするわけにはいきませんから、それが検死に携わる方の辛いところだな、とお察し致します。この本にはそこまで書かれていませんが、多分、検死に携わる方は遺族から詰られることも全くないわけではないでしょうし、遺体の持ち主が夢に出てきて恨み言の一つや二つ言うこともあるのではないでしょうか。
 けれど真実は明らかにされねばなりません。他殺が間違って事故死や病死として処理されてはいけないのと同じように、自殺もまた自殺として扱われねばなりません。
 もしこの仕事をなさっている方に会う機会があったら、わたしは心から「お疲れ様」と言いたいです。
 
 以上のように、この本はわたしの心にひどく焼き付いたのですが、実はこの本に対していくつか疑問があります。
 例えば、P75~P84に書かれているピストル強盗が犯した殺人についての描写は、まるで小説のようによく書けているのですが、筆者自身が「犯人は未だに捕まっていない」と述べているし、目撃者がいたとも書かれていないのに、どうして筆者はここまで詳細に犯人の「おとなしくしろ。いいな、静かにしてろよ」(P77から抜粋)というセリフや、殺された女性店員の「私は、開け方を知らないんです」(P78から抜粋)というセリフを書けるのでしょうか? もしこのページの前後にでも「これらの描写はあくまでわたしの想像だが」などと述べてくれていたら読み手も納得できるし、もし監視カメラが作動していて一連の人物たちの動きやセリフを読唇術などから証明出来るのならば、監視カメラがあったとこの本に書いておくべきではないでしょうか。それなのに筆者は「とくに店員さんは、「逃げるな」と脅されて逃げる途中」(P83から抜粋)などと、さもそれが事実であるかのような誤解を招く描写をしています。逃げたということは遺体の状況からしてわかるのでしょうが、本当に「逃げるな」と脅されてのことだったと100%断言できない以上、専門職として安易にこのような描写をすべきではないのではないでしょうか。読み手の中には、筆者が書いたこの小説めいた内容を、実際に起きたこととして「へえ、犯人はこうやって脅したんだな」と素直に受け止めてしまう人がいるかもしれません。
 P97~P101に書かれている殺人についても同じようなことが言えます。筆者は「慌てた犯人は、これ以上騒がれては大変だと、寝床にあった布団を彼女に被せた。「騒ぐな」と言って足と手を縛った。そして、さらに口も塞ぎ、おとなしくなったところで、犯人はあらためて室内を物色しにかかった」(P99~P100から抜粋)などと、目撃者はいないはずなのになぜか詳細に状況を描写しているのですが、この殺人については筆者はしっかり「これが私の見解だった」(P100から抜粋)と添えています。
 どうして筆者は、P75~P84の殺人については「これが私の見解だった」という一文を添えることが出来なかったのでしょう。
 P75~P84の間であるP80に「その時の法医学的な見解は以下のようなものだった」という一文が出てきた時は、わたしは「あ、これでちゃんとフォローしてくれるのかな」とホッとしたのですが、よくよく読んでみると、それは犯人や女性店員のセリフを筆者の想像によるものだ、と示す一文ではなく、その一文はあくまで、犯人が相当な銃の使い手であるという見解を示すものに過ぎませんでした。
 きっとわたしの読解力が足らないからこそわたしがこういう疑問を抱くのでしょうが…、もし遺族が筆者が書いたセリフを読んだら、「これが娘の最期の言葉か」と涙する可能性があります。
 ただの想像なら想像とはっきり添えるべきであって、こういう本においては専門職として脚色を極力省くべきではないかとわたしは思うのですが…。わたしが間違っているのでしょうか…。
 わたしが読んだのはこの本の第一刷発行本なので、それ以降刷られたものについては加筆修正されていることを願います。
 
 その他に関しては、同じ場所から白骨遺体とミイラ遺体が発見される謎や(白骨=夏に亡くなった、ミイラ=冬に亡くなった)、同じ状況下において家族間に死亡時間の差が生じた際の遺産相続問題についてのこと(例えば10~30分の差があったとしてもトラブルを避けるため同時死亡として扱われる)など、勉強になっただけに、尚更そういった脚色が惜しまれるところです。
 「わたしだったらエドワードよりジェイコブを選ぶわ~」と、この映画を見ていてしみじみ思いました。
 でも、ベラとしては、自分がいなくても生きていけそうな男(ジェイコブ)よりも、自分がいなければ生きていけない男(エドワード)を選びたかったのかな…。
 それが女心ってやつなんでしょうか…。
 とは言え、現実世界で「自分がいなければ生きていけない男」を選ぶと、ヒモやDV男やモラハラ男に当たるリスクが極めて高いので、気をつけないといけませんね~。

 また、この映画を見ていて衝撃を受けたことが一つあります。
 吸血鬼のアジトにて、ベラは吸血鬼のエサとして連れて来られた人間たちとすれ違います。
 その人間たちは、まさか今から自分たちが殺されるとは夢にも思っておらず、観光ツアーに連れて行って貰えるものと思いワクワクしています。
 この人間たちの中には子どももまじっていたのに、ベラはそのまま通り過ぎてしまいました。
 そしてみんな殺されてしまいました。
 …なんか、もう、ベラは人間じゃない気がします…。一応、良心の呵責からなのか、子どもとすれ違った時の夢をベラが見たような描写はありましたが…。吸血鬼たちの能力がベラには効かないのですが、それはベラが吸血鬼でも狼族でも人間でもないおかしな存在だからなのかも…。

 全体的に言うと、この映画は少女漫画っぽいというか、メロドラマ展開をニヤニヤ楽しめるので気に入りました。
 1巻の感想→http://20756.diarynote.jp/201206240128565113/
 2巻の感想→http://20756.diarynote.jp/201206272213437710/

 3巻が最も好きです。
 「他人をどう葬るか。自分はどう死ぬか」が3巻のテーマだと思います。

 まず、他人を葬ることについて。
 グレンが「仲間は埋葬する! 燃やしたりしない!」と叫ぶのも印象的ですが、やはりアンドレアが妹エイミーにしたことが最も鮮烈に目に焼きつきます。
 これまでエイミーの誕生日はいつも忙しくて傍にいてやれず、やっと一緒に誕生日を祝えると思った最中、突然エイミーはウォーカーに襲われて死んでしまいます。
 アンドレアはエイミーの遺体に、誕生日プレゼントとして渡すはずだったネックレスを着けてやります。
 誰もが、エイミーがウォーカーとなって皆を襲うのを恐れ、エイミーの遺体を処理(頭部を潰す)しようとしますが、アンドレアは首を縦に振りません。
 アンドレアは、エイミーの遺体が徐々にウォーカーへと変化していくのを、傍らで見つめ続けました。
 エイミーの瞳の色は変化し、元々真っ白だった肌からは更に血の気が引いていきます。
 そしてついに、姉であるアンドレアに食いつこうとしました。
 アンドレアは「愛してるわ」と言い、かつては妹だった哀れなウォーカーの頭を撃ちます。
 …愛しているからこそ、自分の手で葬るのですね…。他の誰でもない、自分の手で。
 アンドレアにとって妹は他の誰よりも大切な存在なのに、その頭を撃ちぬかなくてはなりません。本当はとうに死んでいるけれど、今は目を開き、手足も動かしている妹に、とどめを刺さなくてはなりません。愛しているから。
 たとえもう妹に自分の声が届かなくても、最期に「愛してるわ」と伝えずにはいられなかった。
 …このシーンは強烈です。見ていて涙が出ました。

 次に、自分がどう死ぬかについて。
 これについては、やがて自分がウォーカーになるのを予期して皆から離れたジムの行動も考察したいところですが、やはりCDC(疫病対策センター)にて自殺したジェンナー博士の心理状態が興味深いです。
 他の研究員たちがウォーカーに襲われたり、絶望して自殺してしまったため、地下にてたった一人で研究を続けてきたジェンナー博士。
 主人公リックが、もうモーガン(1巻で登場する、かつての妻を撃てなかった男)が聴いていないかもしれないのにトランシーバーに向かって話さずにはいられなかったのと同じように、ジェンナー博士もまた、もう誰も聴いていない・見ていないかもしれない画面に向かって、研究の進行状況や自分の心情を語り続けずにはいられませんでした。
 そうしないと正気を保っていられなかったのでしょう。けれど、リックたちがCDCに到着した時、ジェンナー博士は既に正気ではなくなっていました。
 ウォーカーに襲われて、やがて自分もウォーカーになるか。或いは、極めて苦痛の少ない方法で自殺するか。
 ジェンナー博士は後者を選びました。しかも、自分だけではなく、リック達をも道連れにしようとしました。
 必死の抵抗により、なんとかリック達はCDCから逃げ出せましたが、仲間の1人が自分の尊厳を守るため「ウォーカーになりたくない」と言い、ジェンナー博士と共に自殺しました。
 …自分だったらどちらを選ぶのか…。考えさせられました。映画『バイオハザード』なら、変異した後も人格を保っていられることがあるのですが、この『ウォーキング・デッド』の場合、ウォーカーに噛まれたら身も心もウォーカーになりきって、かつて愛した人まで襲ってしまうのが悲劇ですよね…。だから、ジェンナー博士の出した結論は間違いとは言えません。けれど、わたしだったら多分最期まで頑張るかも。みっともなくてもいい、苦しくてもいいから、最期まで、与えられた命を生き抜こうとするかも。

 そして、わたしが3巻で一番いいシーンだと思ったのは、ジェンナー博士と共に自殺しようとしているアンドレアをデールが説得するシーン。
 アンドレアは本気で死ぬつもりでした。妹を失い、唯一の希望だったCDCが機能停止していることを知り、完全に絶望していたから。
 デールはそんなアンドレアにこう言うのです。「君が死ぬなら僕も死ぬ」と。アンドレアは驚いて、「あなたは逃げて」と言うのですが、デールは動こうとしません。だから仕方なくアンドレアは生きることにしたのです。
 …こういう自殺の思いとどまらせ方があるんですね…。実際に使うにはかなりハイリスクな言葉だけれど(逆に相手を完全なる失望に追いやり「嘘つき!」と言われた後自殺されるかも)、どんな薄っぺらい言葉で偽善的に説得するよりも、ガツンと心にきます。

 
 1巻の感想はこちら。http://20756.diarynote.jp/201206240128565113/

 2巻も見ました。

 例の凶暴な男…名前はメリルというんですが、メリル役の俳優さんの演技、いいですね!
 ドラッグが効いている間は、軍で下士官を殴って懲罰房に入れられた話なんかを、誰もいないのにペラペラ自慢げに一人で喋っていたのだけれど、ドラッグが切れて正気になった途端パニックに陥り、神に助けを求め始めるのです。けれどそのうち「どうせ助けちゃくれないんだろ! 自分で何とかするさ!」と開き直ります。その心境が変化していく演技と、「どうせ助けちゃくれないんだろ!」というセリフに実感が妙にこもっているようで、記憶に残りました。

 また、夫からDVを受けている仲間を守ろうとする女性たちの姿と、夫に口の中が切れるほど殴られたのにそれでも夫を守ろうとする妻の姿も印象的でした。

 一番心にグサリと来たのは、妹エイミーを失った姉アンドレア役の女優さんの演技。
 あの、肉親を失った時の、世界が止まっちゃう感じ。
 演技なのに、見ていて本当に辛かった…。 

 さて、2巻収録のエピソードのテーマは、「コミュニティ」だったように思います。
 自分たちのコミュニティに誰を入れるか、誰を出すか、ということに主人公たちは悩んでいたようです。
 主人公たちの形成しているコミュニティは、人種も年齢も性別もバラバラで、単純に、生きた人間に出会ったら仲間にしている感じです。特にリーダーはいません。規則もありません。だから揉め事も起こるし、今後の方針も決めづらいです。みんなの気持ちはバラバラ。

 そのため、主人公たちは、自分たちとは別のコミュニティに出会った時、自分たちとの違いに愕然とします。
 その別のコミュニティは、はっきりとリーダーが定められており、リーダーの指示のもと統率された動きをしています。リーダーが「道に落ちていた銃を取って来い」と命じれば、ウォーカーたちがうろつく危険地帯にも赴くのです。
 そのコミュニティの特徴は、いわゆるチンピラたちが、介護の必要な高齢者たちを守っていること。言い方は悪いですが、高齢者というのは、ただでさえ弱い存在です。仲間にしたところで、働き手にもならないし、一緒に戦ってくれるわけでもありません。たとえウォーカーに食べられなくとも、死期が近い存在です。けれどチンピラたちは高齢者を見捨てず、高齢者を守るために、病院をねぐらとして、薬などの必要物資を手に入れようとしているのです。定住型コミュニティなので、みんなの結束が強いし、慣れない介護にも皆で取り組むなど士気も高いです。そして、そうした彼らのコミュニティを襲撃し物資を奪おうとする者たちと戦う体制をも整えています。

 多分、主人公たちのコミュニティは、そんな風にはなれないでしょう。
 主人公たちのコミュニティは移動型コミュニティ。あちこち移動するので土地勘も掴めないし、みんなの気持ちも動きもバラバラなので、いざウォーカーに襲撃されるとその脆弱さを露呈し、何人もの仲間を失います。

 だから、多分Season2あたりでは、誰がリーダー格になるか? という話になってきそうな予感がします。
 ぬいぐるみを拾う、石でガラスを割るなど、ある程度の知能を残しているゾンビたちとの戦いを描く、アメリカのTVドラマ『ウォーキング・デッド』。
 1巻だけ見ましたので、ひとまず1巻についての感想を。

 まず言いたいことは。
 馬がかわいそう!!!
 たぶん「主人公が保安官だから馬に乗せたい」という制作サイドの思惑で、主人公は馬に乗り、ゾンビたち(以下「ウォーカー」)が巣くう都市アトランタに行くのだけれど、主人公だけ助かって、馬は生きたままウォーカーたちにむっしゃむっしゃ食べられてしまう!!
 「やい! コラ、主人公! せめて馬を銃で撃ってとどめを刺してやれよ!!」とわたしは本気でTVドラマに怒ってしまいました…。
 もちろん、撮影に使われた馬が実際に生きたまま食べられたわけではない、とはわかっているのですが…。
 それに、現実世界でも人間が馬だけでなく牛、豚、鶏、魚、ありとあらゆる食べ物を殺して食べているわけだし、みんな楽に死ねるはずなんてなく苦しみ抜いて死んでいくのだし、特に毛皮を剥ぐのなんて残酷極まりないのだけれど…。
 馬が死んでいくのを見て、悲しくなってしまった。
 この悲しみさえも人間のエゴだ。

 しかしゾンビものなのですから、グロいのは当たり前ですね。
 このTVドラマも、相当グロいです。
 なんたって、主人公たちの行動がグロい。
 ウォーカーたちをやり過ごすために、自分たちが倒したウォーカーの体を斧でバラバラに切断し、自分たちの服にウォーカーの血を塗りたくり、更に、ウォーカーの手・足・腸を、まるでお守りのように首からぶら下げ、さも自分たちもウォーカーであるかのように装ったのですから。
 当然ウォーカーは元々は生きた人間だったので、主人公たちはウォーカーの財布の中身から生前の名前などを読みあげ、その死を悼んだ後、「彼はドナー登録者だ」と前置きしてから体をバラバラにするのですが…。
 遺体を傷つけてまで人は生きねばならぬのでしょうか。
 けれど、非常時においては、生きたいという本能の方が、倫理より遥かに強烈なエネルギーを生むのでしょうね…。

 うーん。
 馬の件については動物愛護団体から、遺体を傷つけた件については宗教団体から苦情がきそうなTVドラマです。

 けれど、良いところも沢山あるTVドラマだと思います。
 人間の心理をしっかり描けているから。
 まず、妻がウォーカーになり、肉を求めて街を彷徨うようになったため、ひと思いに殺して楽にしてやりたいと思ったけれど、いざ妻を銃で撃つ段階になったら妻との思い出が溢れてきて、妻を撃てなくなった男の心理。
 次に、夫の同僚と不倫する妻の心理。ちなみにこの妻は主人公の妻です。生きるか死ぬかの状況下では、人間の性欲は平常時より増幅するのです。
 次に、非常時であるにも関わらず、「誰がリーダーか決めよう」と言い出し、他の仲間に暴力を奮う凶暴な男の心理。どんな時にも暴力で他人を支配しようとする人間はいるのです。生きている人間=安全、とは限りません。むしろ生きている人間の方がよっぽどたちが悪いことだってあるのです。
 そして、その凶暴な男を連れて逃げるかその場に捨て置くかという判断を委ねられた男の心理。この男は、凶暴な男を助けに戻ります。立派。…でも、助けられませんでしたけどね。もしかしたらDVDの2巻で助けるのかもしれません。

 それと、わたしは別の面にも注目しました。
 言葉ってすごい力を持っているなぁ、と今更ながら感心させられたからです。

 このTVの冒頭で、主人公は映画『バイオハザード』のように病院で目覚めるのですが、病院のドアに誰かが「DON’T OPEN.DEAD INSIDE(開けるな。中に死者がいる)」と書いてくれていました。
 それを読んだから、主人公は不用意にドアを開けずに済みました。
 その言葉を書いてくれなかったら、主人公は早々にウォーカーに食べられていたかもしれません。
 それを書いた人はとっくに死んでいるという設定なのだろうけれど、言葉によって主人公は救われた。
 言葉って、すごい…。
 人は、死んでからも、人を救うことが出来るのです。

 また、主人公は途中で立ち寄った民家で、心中の現場を目撃します。
 たぶん、ウォーカーになりたくないが為に夫が妻の頭部を銃で撃ち、自分の頭も撃った現場。
 その民家の壁には「GOD FORGIVE US(主よ我らを赦したまえ)」と書いてありました。
 キリスト教では自殺は禁じられていますからね。
 けれど、そうせねばならぬほどその夫婦が追い詰められたことが、その言葉によって読みとれるのです。
 たとえ、主人公が生前のその夫婦と何の関わりも持っていなくても。

 言葉って、すごい。 
 「かけがえのない」という言葉は、正直、青臭くてあまり好きじゃない。
 でも、当麻と瀬文の関係は、「かけがえのない」という言葉が最も相応しい。
 お互いに「バカ」「バカ」と言い合ってるけど、も。
 恋愛感情や上下関係ではなく、信頼で繋がっている。
 そんな2人が、とても羨ましい。
 
 昨夜パソコンを確かにシャットダウンしたはずなのに、朝起きたらいつの間にかパソコンが再起動されていて。
 「おかしいな」と思って画面を覗いたら、何故だか勝手にYahoo!のページが開かれていて。
 Yahoo!のトピックス中に、懐かしい名前があって。
 目を疑いました。

 「V系・Raphaelが12年ぶり復活!  華月さん13回忌ライブで“決着”」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120406-00000373-oric-ent

 帰る場所を用意しても、華月くんは永久に天使の檜舞台には戻らない。
 これは、みんなの為のステージ。
 けれど、そのことが、とても嬉しい。
 みんな、良い意味でも悪い意味でも、華月くんの死に囚われ続けてきた。
 奇しくも今日は華月くんの誕生日。
 これは、華月くんからみんなへのプレゼントなのかもしれない。
 「さよなら」は、決して悲しいだけの言葉じゃない。 
 「『ロボジー』のDVDはまだ出んのか! けしからんっ!」と、何だかお年寄りっぽい口調および気分で購入した一冊。

 わたし、映画『ロボジー』、すごく好きなんです。職場の後輩に「映画館で見たけど面白くなかったですよ」と言われて、実際に映画館で観たら面白くて、思わず「面白かったじゃないの!」と職場で後輩を注意しそうになりました(笑)。
 わたしの職場が介護施設ということもあり、わたし、お年寄りが主人公になっていて、尚且つ、お涙頂戴じゃなくて単純に爆笑できて、しかもラストは「このじいさん、ちょっと花さかじいさんっぽいじゃ~ん。やるじゃん、じいさん」とニンマリできる、そんな映画が作られたことがとても嬉しいのです。
 若者がお年寄りに頼みごとをするなんて滅多に無いこの時代ですが、この映画ではお年寄りが主人公。また、お年寄りが周りの人に「認知症になったんじゃないか」と疑われて悔しい思いをする様子もよく描けていました。
 余談ですが、いくつかの介護施設職員と症例発表会を行った際、ある施設の介護職員が「足が痺れる」と何度も訴えるお年寄りについて、「普段はしっかりなさっているのですが、『足が痺れる』と何度も訴える、という認知症状があります」とキッパリ言い切ったことがありました。「認知症じゃなくて本当に痺れてるんじゃないですか? 例えば腰部脊柱管狭窄症とか」と指摘したら、慌ててその介護職員がそこの施設の看護師に確認を取り始め、本当に腰部脊柱管狭窄症だった…ということがありました。介護施設で働いているプロすら認知症についてよくわかっていない事もあるのだから(そもそも看護師も、知ってるなら教えといてやれよ!)、家族なんて尚更わからないですものね。
 この映画でも、「最近怒りっぽいですよね」という理由で、お年寄りが認知症を疑われています。…怒りっぽいのは元からかもしれないのに。更に余談ですが、うちの施設に入居申し込みをしに来る家族には、お年寄りがどういう認知症を持っているか確認するのですが、その際「お金に細かくて、年金の管理をわたしたちに任せてくれず、勝手に銀行にお金を下ろしに行く」「家の中でテレビばかり観て、食べたら寝る生活。やる気を出して欲しい」「夜中に冷蔵庫を開けて、お菓子を食べる。夜中に何か食べるなんて」といった話を聞くこともあります。…それ、認知症じゃないと思いますよ…。元々お金に細かいんだろうし、元々ぐうたらなんだろうし、元々夜中に小腹が空いて何かつまんでたんだと思いますよ…。と思って本人たちに聞いたら「昔からこうしていた」とおっしゃいましたもん。
 さて、映画の話に戻りますが、ロボットが投身自殺(?)するシーンも衝撃的で笑えるし、冒頭で男3人ぐうすか寝ててヨダレが美しいツララの如く流れているし、と、笑い所満載でとにかく楽しめる映画でした。吉高由里子ちゃん演じる葉子の変態っぷりも良い。二次元の嫁を認めるなら、ロボットとの結婚を夢見るのもアリなのか? アリなのかぁぁぁぁ…。
 ということで(どういうこと?)、これだけ語るほど好きなので、早くこの映画のDVDを出して欲しいんですけどまだ出ない! けしらん! ということでこの小説を読みました。

 やっぱり小説版も面白いです。
 「小林は、あまりの展開に脳味噌がゆであがりそうな気分だった。見ると太田の汗腺は決壊し、その隣では長井がゲロを吐いていた」(P110から抜粋)ですって。この一文だけで、映画のワンシーンが鮮やかに脳裏によみがえります。…食事前にはよみがえって欲しくないですけど、ね。コミカルな文章表現って好き。
 また、映画を見て、「なんであのじいさん、インタビューの練習なんてしてたんだ?」と首を傾げてしまった人には、是非この小説を読んで欲しいです。「ああ、そういうことか、じいさん!」と納得できるはずですから。

 けれど。
 ひとつ引っかかったことがあります。
 もしかしたら、映画でも触れられていたのかもしれません。
 それを、わたしが聞き逃してしまっただけなのかもしれません。
 …けれど。
 ロボットの機能について説明する一文が、どうしても引っかかってしまいました。
 「走りながら本を速読したり」(P279から抜粋)って何なんだっ?
 新時代のロボットは、走りながら本を速読する機能を搭載せにゃならんのかっ?
 桜を愛した貴方が、桜舞うこの季節、何故この世にいないのでしょう。

 乱れ舞い散る花びらよ、どうか彼岸まで飛んで行ってください。
 その淡く優しい色を見て、一志さんが再び笑えるように。
 自分の愚かさを認めるのは恐ろしい。
 でも、いつかやらなければならない。
 自分に向き合わなければならない。
 そしてわたしは開きました、禁断の箱を…。
 そう、このブログの「テーマ別日記一覧 読書(13)」を…。

 …ぎゃっ!!

 そこに書かれていたもの。
 それは、

 日付…2011年8月23日
 タイトル…『このままじゃいかん』
 内容…「2009年2月18日に「第3回100冊読書」の取り組みを始めて早2年半。…正直、あれからまだ45冊しか読めていません…。ぐはっ(吐血)。」

 ぐはって言っる場合じゃな~~~い!
 そもそも2011から半年以上経ってるのに、2012年3月24日現在、まだ100冊目に到達してないよ!
 もっと肝心なことを言うなら、2009年2月18日から丸3年以上経っているのに、まだ合計47冊しか読めてないよ!
 それって、2011年8月23日から今日に至るまでの間、2冊しか読んでない ってことじゃん!!!
 100冊読むこと自体を目的にするのはおかしいけど、それにしたってあんまりな数字!!
 人間としてどうなの!?
 人類としてどうなの!?
 …ぐはっ!!(嘔吐)
 …あ、「テーマ別日記一覧 読書(13)」が「テーマ別日記一覧 読書(14)」になった。

 とほほ。
 人間になりたいよぅ。
 「今の女優について何を語れっていうのよ、おもしろいオンナがいないじゃな~い!」というマツコの嘆きが聴こえてくる一冊。
 マツコって女優について考察するのが好きですよね。女優について書く時、文章がいきいきとするもの。
 わたしは将来的に小池栄子が怪演女優に化けると予想しているので、マツコが「日本のソフィア・ローレンを目指してほしいのよ」(P141)と書いてくれていて、嬉しかった。
 でも、そうしてマツコが、「小池栄子がソフィア・ローレンのように使われる芸能界であってほしい」(P137)と書き、「日本にちゃんとした脚本家がいて、ちゃんとした演出家がいて、ちゃんとそれにお金を出すところがあれば、小池栄子がやる役ってゴマンとあるはず」(P140~P141)と書いている、まさにこの本の中で、奇しくもマツコ自身が「タレントを押さえてからドラマの内容を考えるというシステムがダメよ」(P191)などと断じざるを得ない、芸能界って一体何なんでしょうね…。
 特にこの業界のやりきれなさについて書いたのが、7章『業と純情の近似性-誰が彼女たちを追い詰めたのか-』。この章では、加護亜依、後藤真希、華原朋美のことが考察されています。彼女たちは、がむしゃらというよりもムチャクチャに働いたので、その分周囲の人間は稼いだし、面白がっていたのに、うまみが無くなった途端、無残なまでにソッポ向かれてしまった人たち。そうしてボロボロになるのは1つの有名税だ、と割り切ろうとする人もいるだろうけれど、やっぱり彼女たちは哀れ。今、人気の子役たちだって、将来は同じような運命を辿ってしまうかもしれない。末路、とは書きたくないです。加護亜衣も、後藤真希も、華原朋美も、生きている限りやり直しはきくんだから、応援したい。AKBからAV女優になってしまった中西里菜=やまぐちりこのことも、どうして周りは守ってあげなかったのかな。高橋みなみの件についても、本人は悪くないのだから、たとえ不自然な庇い方になろうとも守ってあげて欲しい。

 さて。なぜわたしが特にこの7章に注目したかというと、実は他にも理由があるのです。
 この章のP101で「あの島田紳助さん」とわざわざ『あの』も『さん』も付けて島田紳助の名前を登場させているのに、5章『男性司会者についての考察-ヒデちゃんという王道-』でみのもんたと中山秀征と関口宏については書いても、島田紳助については一切触れないことに、物凄く違和感を覚えるから。本当は書きたい、でも書いたらだめ、という葛藤が、まさにこのP101の僅かな一文「あの島田紳助さん」に集約されている気がする。いつかマツコに島田紳助について書いて欲しい。
 前向きに振舞う=良いこと、とは限りません。
 時には、負の感情を吐き出すことで救われることもあるから。
 けれど、そうと知りながらも、他人に嫌われたくないが故に、人は「善い人間」を装います。
 いつもニコニコして、無理をし過ぎて、細い神経の糸1本でなんとか正気を保っているような状態になる。
 そしてある日プツンと、切れてしまう。

 ムックの『大嫌い』は潔いです。
 果たしてここまで「キライ、キライ、キライ、キライ、キライ、キライ…」と叫び続ける曲が他にあるでしょうか。
 「あなたが大嫌いです」「ずっと知ってると思ってました」「そんなに驚くことないでしょう」と歌う曲が他にあるでしょうか。
 この曲を聴いていると、なんともいえない背徳感に酔ってしまいます。醜い自分を赦されたかのような気分にさえなる。
 人間はもともとそんなにキレイなもんじゃないだろう、キライな奴くらいいるだろう? キライだってはっきり言えよ、と言わんばかりの、性善説を嘲笑うかのようなこの曲がたまらない。
 この曲を聴くと、亡くなった同級生たちを想わずにはいられません。
 卒業式の日。校庭では桜が咲いていました。あの桜は今もまだ学校にあります。あの桜は今年もきっと咲くでしょう。けれど、かつて卒業式でその花びらを見てくれた人たちを、あの桜は既に数人失ってしまいました。
 彼岸の世界に、桜はあるのでしょうか。あって欲しい。そして、咲いていて欲しい。

 「時を刻むように 咲き乱れて
  君がいる場所にも 咲いてるのかな」

 「今もまだ君思うよ
  淡く儚く散っていくように」

 「桜吹雪いつまでも 消えない幻のように
  染まる春の陽 色づけてゆく
  あの日のように笑えるなら」

 イントロに痺れた。
 がつんとやられた。
 心を、奪われた。
 特に英語版の、刹那い切なさがたまらない。
 こういう曲が後世に残るべきであり、そして当然、残るだろう。
 
 「キノコ」の愛称で親しまれているフクナガが、なんと今回は参戦しない!
 そしてなんと、「金歯」と共に…、ライアーゲームを観戦する側に回った!
 なんてこった、ついにフクナガはライアーゲーム事務局の人間になったのかっ!?
 …という衝撃も手伝ってか、ナオがいないことへの不自然さは特に感じませんでした。

 逆に、新しいヒロインに好感が持てました。
 今回のヒロイン・篠宮優は、不安に駆られて、「秋山先生に裏切られてからじゃ遅いんです!」と間違った選択をしてしまいます。
 小池栄子演じるエミが「助けてください!」と叫んだ時も、ナオなら間違いなく無防備にニコニコしながら近づくものを、優は一瞬戸惑った後、ダーッと走って逃げてしまいます。
 けれど、それが逆に人間らしくて、逆に「正直者だな」と感じさせます。 

 桐生のキャラも気に入りました。
 いっちゃってる感じがするけれど、もろサイコパスなフクナガとは違って意外にまじめな感じがして好き。
 しかし!
 わたしは言いたい。
 なぜ、スタイリストさんはあの衣装を選んだの?と。
 髪も、タトゥー(まんまメイクな質感が残念だけれど…)も、上着も、せっかくアグレッシヴに決めているのに…なぜ足元がああなるの?と。
 あれは…あれはもしや…相葉丈っ…。
 更に注目すべきは、すね。
 「どうして桐生はすね毛をツルツルに剃ったんだろう? 秋山のライバル役なのに。やっぱり、船越さんが桐生の足にすがりつく、という演出をする以上は、船越さんの顔にすね毛が刺さるとマズかったのかな?」とわたしはいらん分析をして首を傾げてしまいました(笑)。
 だったら、最初から、たとえばゼブラ柄とかのパンツ(ズボンという意味の!)をはいていればいいじゃないの~。
 拍子抜けしちゃうよ~。

 落胆したポイントはまだあります。
 それは、小池栄子演じるエミに重点を置いて貰えなかったこと。
 原作のイス取りゲームにおけるアベ ユキヨと、エミは同じ要素を持つキャラクター。
 原作においては、アベの葛藤が一番重要なのに…。
 もし、エミが悩み抜いて、苦しみ抜いて、ついにカルト教団の教祖による支配から解き放たれる…という描写をしてくれていたら…。オセロの中島さんの件も手伝って、大きな話題になったに違いないのに…。
 それなのに。ただ単にゲームに怯えていた為にカモにされた女、としてしかエミが描かれないことが、とても残念です。
 絶対に、小池栄子は、原作のアベの孤独を演じる力を持っているのに。
 冒頭でエミが登場した瞬間、わたしは大いに期待しました。
 あの涙目を見て、誰かにすがらなければ崩壊してしまいそうなエミ(=アベ)の脆さを、小池栄子が的確に理解していたことがわかったから。
 ところがその期待はアッサリと裏切られました。小池栄子にじゃない、製作者にです。
 女優さんが、せっかく怪演する力を持っているのに…。
 なぜその芽をわざわざ摘んでしまうのでしょうか…。
 勿体ない…。

 他にも色々残念な点はあるけれど、総合的に見れば、映画館で見て損はない映画。
 音楽がたまらないから、というのが大きな理由。
 正直、前作よりも音楽が格好いい。
 中東っぽい妖しさに満ちていて。
 劇場の大音量で聞くべし。

3.11

2012年3月11日
 去年のこの日、テレビを見ていて、あれが現実の光景だと暫く信じられませんでした。
 知人に「家が全部流されたの。主人と連絡がつかないの」と告げられた時も、どこか現実でないような気がしました。(後でその方はご主人と会え、夫婦で仮設住宅に入りました)
 今年も、来年も、ずっとずっとこの日は、命について考える日にしたい。この日以外の日も、ずっとずっと。
 これは、非モテ・ネトオタ・デブの蛭田が、ミニスカートを履いたちょっと…否…だいぶエッチなショートカットの彼女と結ばれるまでの奇跡を描いた物語である。
 …という風にわたしはこの作品を解釈しました。
 主人公は土岐じゃない! 蛭田です。
 現実世界においては、蛭田がミクと付き合える可能性なんて万に一つもありません。
 蛭田は、もしミクと道ですれ違ったら、たぶん「なにあのキモデブ~」と笑われるようなタイプ。
 女性経験が皆無なのは明らか。
 しかし!
 異次元世界に飛ばされたという異常な状況による吊橋効果と、男たちによって性奴隷にされているミク(冒頭で寺沢にレイプされた際に精神崩壊し、なすがままになっている)を「天使」と崇め奉り、輪姦されそうなミクを助けようとしたが為にキャンプファイヤーの炎の中に投じられ焼死したその代償として、蛭田はミクの心をがっちりと手に入れました。
 現実世界に帰った後、周りの人間は誰もが首をひねったでしょう、「なんであいつにいきなり三次元の彼女が出来てんだ!」と。
 なぜならこれは蛭田のための物語だからです! と、わたしは断言しましょう。
 最後のコマで、蛭田は外見も改善しているし、間違いなくこの漫画の主人公は蛭田です。たぶんミクがファッション指導をしてくれているだけでなく、女性経験を得たことで自信もついたのでしょう。
 もはや蛭田はリア充!
 蛭田の勇者っぷりを読みたい人は、ぜひこの漫画を読みましょう。(ただし、エログロ描写が苦手な人を除く。また、くれぐれも蛭田を真似して女性に命を貢がないように!)

 それに比べて土岐は…。
 こんな主人公って一体…。
 …土岐の気持ちはわからなくはありません。
 誰だって、人生の分岐点を思い返せば、「あの時もしああしていたら…」と後悔するものです。
 既婚者は、「もしかしたら初恋のあの人と結婚している人生が自分にもあったかもしれないのに」と、いまさら考えても仕方のないことをついつい妄想してしまうものだし。
 子どもが出来たことによって人生を縛られたような感覚に陥るのは、男も女も同じだし。
 だから土岐の気持ちは、物語の前半部分までは共感できました。
 …けど、後半の土岐。
 …なんじゃこりゃ!!
 父が1987年CBS版の『秘密の花園』を8ミリビテオ(懐かしい…)に撮ってくれたので、わたしは子供の頃、何度も繰り返し繰り返しこの作品を見ていました。近所の友達と秘密基地を作る傍ら、わたしはよく、鍵穴の開いたドアがどこか空き地の隅にでも無いか探したものです。今の子どもは世代的に『千と千尋の神隠し』のトンネルを探すのかな。
 でも8ミリビデオのテープが劣化して見られなくなり、かといってレンタルビデオ店にはコッポラ版の『秘密の花園』しかなく、ネットでイギリスにVHSがあることは知ったのですがわたしはVHSを持っていないし、わたしは「もう二度とあの作品を見ることは出来ないのだろうか…。コッポラ版も嫌いではないけれど、1987年CBS版の方が静謐な雰囲気で好きだったのに…」と悲しく思い続けていました。

 ところが今日。
 何となくYou-Tubeで「The Secret Garden 1987」と検索したところ…、出てきたではありませんかっ!
 わたしが以前検索した時はなかったのに。
 何よりのクリスマスプレゼントです!

 早速見ました。
 約20年ぶり。
 懐かしくて涙が出ました。

 http://www.youtube.com/watch?v=XFENt1ypdx0
 悩んでいる時に金爆を聴くとスカッとします♪

 バンドのはずなのに、歌っているのはヴォーカルだけ。
 他メンバーはそもそも楽器を弾けないどころか、ライブ中に楽器を置いて踊りまくる。
 でも、みんなめっちゃいい笑顔でパフォーマンスをしてくれる。
 観客もライブ中ゲラゲラ笑っている。
 そこが好き。
 同じ世界に生まれていたならば、一緒に居られたかもしれない。でも、そうではなかった。だから、お別れしなくてはいけない。
 小人と人間の、禁断の淡い初恋。
 この切ない物語を彩る、ケルト音楽の優しい音色に、涙さえ誘われます。
 心の震えと、弦楽器の響きが、とてもよく合っていて…。
 この映画は、音の使い方がとても上手。例えば、ショウがアリエッティに初めて触れるシーンでは、ふいに音が消えます。いかにその一瞬がお互いにとって特別なものか、伝わってきます。

 とはいえ、特筆すべきは家政婦ハルの存在です。
 小人を探し、捕らえ、「み~つけた!」とはしゃぐハル…。
 小人を「泥棒小人」と表現するハルの傲慢さに、わたしはショックを受けました。
 確かに、小人は人間の家から砂糖やティッシュなどを泥棒しています。けれど、人間だって自然に寄生して、小人よりよっぽど多くのものを自然から泥棒しているではありませんか。
 この映画の中では、絶滅した生き物についても語られます。好奇心に任せて小人を捕らえようとするハルの姿は、毛皮などを奪うために動物を狩ったり、木を伐採しまくって砂漠と化した、身勝手な人間の姿と重なります。
 小人たちは必要な分だけ取っていくけれど、人間の貪欲さは限度というものを知らない。
 自然から自分たちが物をもらうのは当然、と思っているからこそ、自分たちと同じように生きているはずの小人を「泥棒」なんて言えるのです。
 それでいて、ハルは自分が間違っていたと気づくと、まるで自分が被害者であるとでも言うかのようにわざとらしくフラついて見せる。

 アリエッティとショウの恋心が美しければ美しいほど、ハルの醜悪さが際立ちます。

 アリエッティは引っ越していったけれど、どんな土地でもきっと懸命に生きるでしょう。
 ハルは心臓の手術次第ではあるけれど、きっと生きていく。
 けれど、果たして「ハル=人間」はどうなのでしょう…。…きっと…。

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