リー・ダニエルズ監督 『プレシャス』
2011年11月11日 映画
娘として母親に愛されることも、女の子として彼氏と恋することもすっ飛ばして、2人の子の母親になってしまった16歳の少女。
1人目の子の父は少女自身の実の父親の子、2人目の子の父は義理の父親の子。
少女は母親と暮らしているけれど、母親からは「わたしの男を盗りやがって!」「お前なんて誰も相手にしない」「ビッチ!」と罵られ殴られる。十分に食べさせて貰えず、食べ物を店から盗むこともある。母親が「学校なんて行かなくていい!生活保護もらってりゃいいんだ!」と怒鳴ることと、恵まれた環境とはいえない場所(ハーレム)で育ったことから、少女は読み書きも満足に出来ない。
少女は「プレシャス」という名前を与えられていながら、ちっとも大切にはされていない。
そんなテーマを扱った映画だから、鑑賞中気分が重くなるのを覚悟した上でわたしはこの映画を見始めました。
けれど、確かに父親によるレイプシーンや、母親による罵倒・暴力シーンは目を背けたくなったけれど、見るのをやめることはありませんでした。
プレシャスの子どもたちへの愛情に、月並みな表現ですが感動したからです。
プレシャスにとっては、たとえ犯されて孕んだ子であっても、子どもたちは大切な我が子。たまらなく愛しくて、離れていると苦しくて、抱きしめたらプレシャス自身も優しい笑顔になる。
本当は、プレシャスは母親に抵抗出来るはず。体重100kgを超える巨体を持ち、走ることも踊ることも出来る力があるのだから。でも、プレシャスは母親が自分を傷つけるのをただ悲しそうに受け入れながら、母親に食事を作ってあげている。それは、「虐待がそうさせているのだ」と言ってしまえばそれまでだけれど…、「娘として愛されたい」という思いがそうさせているように思えました。
プレシャスはフリースクールに通い始め、家を出てからも、母親が求めれば面会に応じましたから。
そこには、「もしかしたら母さんは変わってくれるかも」という期待もあったかもしれない。
けれど、母親は身勝手だった。
ラストシーン手前になって、母親はプレシャスの誕生日すら覚えていないことを露呈したし、「お前があの男に黙ってヤラせたから悪いんだ」と極めて愚かなことを言いました。
まるで自分が被害者だと主張するような口ぶりに、わたしは眩暈を覚えました。
確かに、母親もある意味被害者なのかもしれない、でもそこにプレシャス自身の非はまっっっったく!!ありません。
プレシャスは、娘として愛されたいという未練を断ち切りました。
プレシャスは言いました。「またテストを受けた。点数が上がってた。進む道は自分で決める。やっと母さんのことが理解できた。わたしが馬鹿だったからこれまで知ろうとしなかった。もう母さんとは会わない」と。
わたしはラストシーンを見て、雲がスーッと過ぎ去って空が明るくなるような感覚になりました。
プレシャスが、2人の子どもたちと歩き始めるラストシーン。
救いがたいラストシーン、と受け取る人もいると思います。なぜなら、プレシャスは父親にレイプされた際にエイズに感染してしまっているし、子どものうち1人はダウン症だし、シングルマザーだし、まだ10代だし、…と数え切れない大変さを抱えているのですから。
けれど、わたしはあの結末を好ましく思いました。
「2人の子の母親」としてしっかりと歩き始めるプレシャスを見ることが出来たから。
1人目の子の父は少女自身の実の父親の子、2人目の子の父は義理の父親の子。
少女は母親と暮らしているけれど、母親からは「わたしの男を盗りやがって!」「お前なんて誰も相手にしない」「ビッチ!」と罵られ殴られる。十分に食べさせて貰えず、食べ物を店から盗むこともある。母親が「学校なんて行かなくていい!生活保護もらってりゃいいんだ!」と怒鳴ることと、恵まれた環境とはいえない場所(ハーレム)で育ったことから、少女は読み書きも満足に出来ない。
少女は「プレシャス」という名前を与えられていながら、ちっとも大切にはされていない。
そんなテーマを扱った映画だから、鑑賞中気分が重くなるのを覚悟した上でわたしはこの映画を見始めました。
けれど、確かに父親によるレイプシーンや、母親による罵倒・暴力シーンは目を背けたくなったけれど、見るのをやめることはありませんでした。
プレシャスの子どもたちへの愛情に、月並みな表現ですが感動したからです。
プレシャスにとっては、たとえ犯されて孕んだ子であっても、子どもたちは大切な我が子。たまらなく愛しくて、離れていると苦しくて、抱きしめたらプレシャス自身も優しい笑顔になる。
本当は、プレシャスは母親に抵抗出来るはず。体重100kgを超える巨体を持ち、走ることも踊ることも出来る力があるのだから。でも、プレシャスは母親が自分を傷つけるのをただ悲しそうに受け入れながら、母親に食事を作ってあげている。それは、「虐待がそうさせているのだ」と言ってしまえばそれまでだけれど…、「娘として愛されたい」という思いがそうさせているように思えました。
プレシャスはフリースクールに通い始め、家を出てからも、母親が求めれば面会に応じましたから。
そこには、「もしかしたら母さんは変わってくれるかも」という期待もあったかもしれない。
けれど、母親は身勝手だった。
ラストシーン手前になって、母親はプレシャスの誕生日すら覚えていないことを露呈したし、「お前があの男に黙ってヤラせたから悪いんだ」と極めて愚かなことを言いました。
まるで自分が被害者だと主張するような口ぶりに、わたしは眩暈を覚えました。
確かに、母親もある意味被害者なのかもしれない、でもそこにプレシャス自身の非はまっっっったく!!ありません。
プレシャスは、娘として愛されたいという未練を断ち切りました。
プレシャスは言いました。「またテストを受けた。点数が上がってた。進む道は自分で決める。やっと母さんのことが理解できた。わたしが馬鹿だったからこれまで知ろうとしなかった。もう母さんとは会わない」と。
わたしはラストシーンを見て、雲がスーッと過ぎ去って空が明るくなるような感覚になりました。
プレシャスが、2人の子どもたちと歩き始めるラストシーン。
救いがたいラストシーン、と受け取る人もいると思います。なぜなら、プレシャスは父親にレイプされた際にエイズに感染してしまっているし、子どものうち1人はダウン症だし、シングルマザーだし、まだ10代だし、…と数え切れない大変さを抱えているのですから。
けれど、わたしはあの結末を好ましく思いました。
「2人の子の母親」としてしっかりと歩き始めるプレシャスを見ることが出来たから。
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