昨日は後輩のお葬式に行きました。
 まるで眠っているような顔をしていても、それでももう彼女は亡くなった人でした。亡くなったと知らされたのは一昨日の朝、昨日出棺の見送りもしたのに、それでも校内を歩いていると「先ぱーい」と声が聞こえてきそうで・・・。胸が痛みます。
 誰が聞いても、先生方から返ってくるのは「病死」「急死としか知らない」「わからない」の返事ばかり。死因など知らなくとも彼女の死を悼むことは出来るけれど、わたしたちは知りたい。何が彼女の命を奪ったのかを。彼女の魂に語りかけたい。
 わたしが棺の中に入れたのは、きれいな紫色の花でした。訃報を知ってから葬儀の時まで不思議に涙は出なかったのに、出棺の時は涙で胸が苦しくて張り裂けそうでした。

 皆さんは命を大切にしてください。何があっても。悲しむ人がたくさんいるから。
 今日は悔しいことが二つ。

 自己採点をしてみて初めて気がついたのですが、現代社会の大問8の存在に気づいておりませんでした。当然あてずっぽうにも解答しておらず、10点分がフイに! 答えを見ずに今日解いてみたら全部合っていました・・・問題冊子をよく見ることは本当に大事ですね(><) そしてどの教科よりも時間を割いて頑張って勉強した日本史で点数を取れていない! 今まで授業もなく、全く勉強せず当日ぶっつけ本番で受けた現代社会(しかも大問8に気づいていない)の方が日本史より点数が高く、複雑な心境です。そして英語で失敗しました。なぜ失敗したのかは聞かないでください(泣)、大問2はほぼ全滅です・・・(><)

 そして更に悔しかったこと。
 仲の良かった後輩の女の子が亡くなりました。
 以前この日記にも書いた女の子です。
 先生方はわたしたちに「病気で」とおっしゃいましたが、病気ではないと思います。
 彼女の苦しみを取り除けなかったことが、とても悔しい。あんなに近くにいたのに。
 父の友人のお孫さんが亡くなりました。生後一ヶ月の女の子。お腹の中にいる時点で肝臓にガンが見つかり、予定日より一ヶ月早く生まれ、生まれた後は抗ガン剤治療を受け、彼女は生まれる予定だった時期に亡くなりました。
 今夜は御通夜。御通夜には今、両親が行っています。わたしは自宅の仏壇に手を合わせました。
 最近は「死」に触れる機会ばかり。「誕生」するということは「=いずれ死を迎える」のだとはわかっていても、運命と割り切るには余りに幼い人の死。
 御冥福をお祈りします。
 昨日あの子猫は死んでしまいました。
 バスから降りて、父の車に乗り換える時に父の表情が暗かったので、言われる前にわかりました。カラスにやられたようです。どんなに怖かったでしょう。つつかれて、おなかの中身を食べられて。父は夕方になって見つけたそうで、わたしに許可を取ってから死体を片付けようと思ったとのこと。父に片付けてくれるように頼みました。いつもあの子猫が居た、そして死んだ場所に死体は埋められました。辛い気持ちになりながら、少しだけカラスに感謝してしまいました。あのまま餓死していくよりは良かったかも、と・・・。死んだ子猫自身は生きたかったのに。
 メス猫を飼っていて、子猫が生まれては困るのに避妊手術をしていない人は、どうか早く手術をしてやってください。
 「保健所に連れて行けば確実に死ぬけど、捨てるだけなら誰か親切な人が拾ってくれたり、自分の力でたくましく育つかも」なんて思ってたんでしょうか、あの子猫を捨てた人は。
 子猫を拾って育てられる環境にある人ってどのくらいいるんですか?生まれて何ヶ月も経っていない子猫に、どんな獲物が獲れるっていうんですか?
 確かに動物は保険が利かない分、普通の病院費も高額です。避妊手術は2万程度にはなる。でも、お金を払って手術をして、悲劇を最初から生まないようにするのと、お金をケチって子猫たちを殺すのと。どっちがいいですか?はっきり言います。後者を選ぶ人はろくでなしです。その人自身もそんな目に遭えばいいと思う。せっかく生まれてきたのに。せっかく生まれてくるのに!
 子猫のことを忘れようとして、明日・明後日は実力テストだというのに街へ買い物に出てみましたが・・・。結局耐え切れなくて、夕方帰って来てすぐ子猫用に牛乳をアレンジして(250ミリリットルの牛乳+茶さじ4杯の砂糖+卵黄)、外でまだ鳴いていた子猫にあげてみました。昨日のそのまんまの牛乳よりは飲んでくれましたよ^−^ でもお皿に入れた牛乳は食べ物だと認知しないらしく(?)て、計量カップで直接飲んでた・・・(つまりわたしは計量カップの中にアレンジ牛乳を作った。アホ!)。昨日は計量皿、今日は計量カップ。ケイちゃんと名付けようかな?(笑)さすがに計量カップをそのまま外に置いておくわけにもいかないので、作った分全てをお皿に入れて置いて来ましたが・・・そのうち腐る。(汗) 明日から学校が始まるし、わたしはもう世話は出来ない。あー困った・・・。生物の生死にはどこまで関わっていいんですか? 近しい知り合いの中に猫を飼える環境にある人はいないし、貰い手を捜すパワーまでは無いです、わたし。それにあの子猫、まだ生きてるけどもう蝿がたかりはじめてる・・・。(単に蝿のいる場所にいるだけ?) 子猫を捨てた人よりわたしの方がひどい奴なんじゃないかと思えてきます、もしかしたら生き長らえるかもしれないのに、諦めているから(><) 捨てた人はろくでなし、諦めてるわたしは人でなし。死んだら地獄行きを希望して閻魔様に相応の罰を与えて貰おうっと。親鸞様なら救ってくださるだろうか、悪人正機説の御人だから。しまった、バカは死んでも治らないんだった。(汗)

 祈りたいです。神様は願いを叶えてくれる存在ではないけれど。せめて人間の無力さを憐れんでください、と・・・。
 人でなしが言うのも何ですけど子猫を捨てたろくでなしを見つけたらピコピコハンマーでひっぱたいてやりたい!!(注:暴行罪に当たります。良い子はしてはいけません) ←悪い子は?(テレビ番組で「良い子は真似しないでね」と出る度に「ふーん悪い子は真似していいのか」とテレビ局の大人をからかってました、昔・・・。やな子ども(笑)。

 とにかく今度その子猫を見かけたら牛乳(もちろんアレンジしたやつ)をあげるか否か悩んでいます。人間が判断出来ることではないと分かっていても悩まずにはいられない・・・。徒然草の考え方が出来るほど大人になれません(><)

 浦沢直樹氏の「MASTER キートン」に、子どもの頃狩りでウサギを撃った男の人の話が出てきます。その男の人の心境とわたしの心境は似ています。とどめをさすべきなのか手当てをしてやるべきかわからないというところが。わたしの場合の「とどめ」は子猫を放してその後関知しないこと。「手当て」は保護。・・・生物の生死にどこまで関わって良いのか。答えを出すこと自体が間違い、「とどめ」をさすことも「手当て」をすることも、どちらも間違いのような気がしてなりません・・・。
 今、家の外で例の子猫が鳴き続けています。口元を牛乳で濡らしてやる、子猫が口を舐める、を繰り返して、出来る限りのことをしてから外に放しました。トイレは刺激しなくても自分で出来るみたいです。最後に少しだけ牛乳を飲んでくれたのが印象的でした。でも、本当に少しだけ。死んでしまう。わたしには何も出来ない。母猫にしかあの子を生かすことは出来ない。目の前の子猫一匹救えない自分の無力さに泣けてきます。
 放したのは自分勝手なエゴ。先が短いとわかりきっていても、家に置いておくことくらい出来るはずです。学校が始まって、家に誰もいなくなるにしても置いておくことくらい出来るはず。でもわたしはその可能性を、あの子の命を、諦めて放した。ひどいことをしたと思います。あの子の死体を見たくない、そんな傲慢な毒にわたしは心を冒されているんです。子どもの頃、仲の良かった野良猫たちの死を幾つも見ました。既に白骨化してしまっているのを見つけたり、蛆に死体を喰い荒らされているのを見たり。でも一番ひどかったのはこのケースです。小学校5年生くらいの頃だったと思います。学校から帰ってみると、勝手口近くのドブに老猫が浸かっていました。ぐったりして、ドブから這い出す元気すらもなく、死が目前なのは明らかでした。思い切ってドブの中に手を入れて出してみると、立つことも出来ない様子で、ハエがたかり始めていました。せめて死ぬまで傍にいてやりたかったのに、母は「親戚の集まりに行く、その猫を海に捨てに行くよ」と言ったんです。帰って来てから死体を片付けるのは面倒だから、という理屈なのだとあの時の子どもの自分にも分かりました。嫌だ、行かずにこの猫の傍にいる、と口では抵抗したものの、なぜか体に力が入らなくて。まるで、頭の中が痺れたようで。結局母にくっついて海まで行き、母がその猫を岩の上に置くのをじーっと見ていました。もう夕方、徐々に潮が満ちてくる時間帯でした。車に乗って親戚の集まりに行って、談笑したり食事をしたり、従姉妹がわたしに読ませる為に作ってくれたお話を読んだりして、・・・でも頭の中にはずっと、最後に見たあの猫の顔がありました。こっちを見てるあの猫の顔が。
 わたしはあの時と同じなんですね。何も出来やしない。いえ、あの時の方がマシだったでしょう。あの時は死を看取る覚悟が出来た、でも今は出来ない。怖い。死体になってしまっているのを見たくない。今、我が家には飼い猫がいますが、その子の死すら看取る勇気はない。死体を見て、葬ることは出来ない。最低ですね。家族にその役目を押し付けて、自分だけ逃げようとしている。辛いのはみんな同じなのに・・・。
 今もまだあの子猫は鳴いています。明日にはもう止むでしょう。片手で持って歩けるサイズ、黒くてしっぽは半端な長さ、先っぽがホウキみたいに広がっています。今日になって少しだけ見れた黒い左眼は相変わらず目ヤニに覆われていて、鼻の周りも細かいゴミが複雑に絡み合って、目ヤニやゴミを取ってやろうと引っ張ると痛そうな顔をします。母猫を求めていつまで経っても鳴きやまず、しゃがんでいるわたしの背中によじ登ってくる。撫でてやると嬉しそうにしている。手足も顔も痩せていて小さくて、ちっとも重くない。そういう子猫でした。
 わたしは絶対忘れない。何か出来る人間になってみせる。
 お風呂に入ろうと思ってお風呂場に行ったら、外からミュウミュウと子猫の声が。普段なら「あ、子猫がいるんだな」と認識する程度なのですが、今日は違いました。「この声の感じでいくと生後三ヶ月前後くらいだろう」→「深夜から明日の朝くらいまでに、この辺りには物凄く強い大型台風、16号が」→「子猫の声が聞こえる所は広い空き地で、猫が雨や風を凌げる場所はない」→「このままにしておく=子猫は危険」。お風呂に入るのをやめて、わたしは空き地に出て行きました。牛乳とお皿を持って。(後に計量皿だったことが判明/笑) 出てはみたものの広い空き地な上、草がぼうぼうなので子猫がどこにいるかわからず。声を頼りに捜すうちに雨が降ってきてずぶ濡れに。やっと発見したものの、当然相手は猫の声真似をしながら自分に近づいてきた怪しい人間を怪しむわけです(泣)。それでもわたしは猫の声真似をしながら牛乳を入れたお皿を相手の前に突き出すわけです。そんなこんなで30分以上濡れてました。じーっと見つめ合っているうちに相手が近づいてきたので、捕獲! 抱っこしながら家に駆け込みました。(でもその時計量皿と牛乳パックを現場に置いて来てしまったので、雨の降るなか取りに戻ることに・・・) 母の第一声、「あんた子猫を家に入れたね」。怒られると思いきや意外にも「ダンボールに入れて車庫のとこに置いて来なさい(注:シャッターがあるので雨や風を凌げます)」と一言。ちょうどムトウのダンボールがあったので新聞紙を急いでビリビリに裂いて、うちの飼い猫の突き刺すような視線を背中に感じながら子猫を車庫へ移しました。でも・・・やっぱり牛乳は飲んでくれません。(><) 細い子で、左眼が目やにでびっちり覆われてしまっているので(もしや左眼は無い・・・?)余り生きないと思います・・・。猫は多産の生き物なのに(猫は育ちにくいのでたくさん生まれる)周りに兄弟猫がいなかったのを考えると、捨てられたのかもしれません。母猫もいなかった。

 今、猛烈に頭痛いです・・・。受験生なのにアホなことしたと思いますけど自分的には満足です。今、我が家の周りはどす暗くなっています。台風が来ている時特有の暗さです。もし自分が子猫を放置していたとしたら、今頃どんなに悔いていたかわからないから。特に明日の朝なんて。賢い人より義理人情を解する人になりたいです、わたしは・・・(頭痛のせいか変なこと言ってますね)。明日、台風が過ぎたら外に放すつもりです。なつかれないように明日の朝まで車庫に会いに行かない方針です(頭痛のせいでやっぱり変な言い方^^; ダンボールの中に牛乳を入れたお皿を置いてあります)。もうなつかれたようでわたしの顔見るとひときわ大きな声でミャウミャウ言ってますけど・・・。うちはもう飼い猫がいるからあなたを飼えないんだよ〜、ごめんね(><;)  
 捨てた奴出て来い!!

 ・・・お風呂に行く前は、呑気にVOGUEのバックナンバー(5月号)を注文してました。まさかこんなことが起こるとは。
 よくよく見てみれば子猫は生後三ヶ月どころか二ヶ月いっているかいないかの大きさ。だから牛乳も、牛乳でふやかしたキャットフードも食べないのは当たり前。母親って本当に偉大な、唯一無二の存在なんだなぁと痛感しました。母親でなければ出来ないことがある。わたしではあの子猫を助けてあげられない。
 好きなアーティストを見る度に思うんです。
 「本当はどんな人なのかな?」と。
 ここでいうアーティストとは、ミュージシャンや作家や画家に限らず俳優などクリエイティブな仕事をしている様々な人を指すのですが、「アーティスト」って一種の職業名ですよね。何を当たり前のことを言っているんだと言われそうですが(笑)、自分を曝け出しながらも違う自分を作り上げていく、特異な人々ということです。
 想像を絶するような深い悩みを抱えているんじゃないかと思って。このことは前々から考えていたのですが、改めて文章にするのは初めてです。自分は自分、「違う自分」も確かに自分ではあるのに、いつの間にか「違う自分」が「本当の自分」として一人歩きしていくというか、成り代わられる恐怖があるというか・・・・・・。
 影がくっついてくれないピーターパンを思い浮かべるとわかりやすいと思います。ウェンディと出逢えなかったら、ピーターパンはどうなってしまっていたんでしょう? ネバーランドを理想の世界として捉える人もいますが、わたしはそうは思わない。「じゃあなぜピーターパンはその理想郷からわざわざ居心地の悪い現実世界に来たりするんだ」って突っ込みたいんです。ネバーランドでのピーターパンは「ヒーロー」という偶像に過ぎず、皆が彼をヒーローとして見ている。フック船長でさえも。彼は現実世界で、束の間普通の少年になっていたのではないかと思います。もしその時間がなければ・・・・・・行き着く先は廃人ではないかと思われます。

 アーティストにも普通の人間に戻れる時間は必要です。
 街などで好きな芸能人を見かけたとしても「〇〇だ〇〇だ!」と騒いだり追いかけたりしてせっかくの休日をブチ壊すのはやめましょう。その人が「その人」である時にそんな風に扱うのは、その人の人格や人権を否定しているのと同じ。監禁にも等しい。なので思いきって気づいていない振りをするか、話したいのであれば「応援してます頑張ってください」と声をかける程度で。

 華月が整然「ファンに追いかけられて、お店の人にも迷惑をかけたし嫌な思いをした」と言っていたのを思い出して無神経なファンに腹が立ったので(苦笑/まぁわかる気もしますけどね、大好きなアーティストが目の前にいたら)、唐突にこんなことを書きました。

 好きなアーティストを暖かく応援しましょうよ♪
 今後も良い作品を作って欲しいじゃないですか^0^

四十九日

2004年4月24日 命について
 先日亡くなったハトコの四十九日に行って来ました。
 遺影の前で手を合わせた瞬間、「ああ、もう〇〇には会えないんだなぁ」とうっかり思ってしまい、泣きそうになりました。
 運命というものに対し大変な憤りを感じます。
 御両親に「また来てね」と言われて、その顔が何とも優しくて、また泣きそうになってしまったのですが・・・。
 出棺も、無事に終了しました。
 一人息子の遺体を焼くというのはどんな気持ちがするのでしょう。想像したくないし経験したくもありません。しかしハトコの両親は今日それを感じ、悲しみと一生付き合っていかねばならないのです。御通夜の時もそうでしたが、御両親とは今日も話せませんでした。それが当たり前だし、話しかけなくて良かったのだとも思います。ハトコという遠い親戚であるわたしでさえ彼の交通事故と死は余りにもショックで、一体御両親はどれだけの思いを感じられているのでしょうか・・・・・・。もしわたしが人の親になり、子供がこんな形で死んでしまったら、たとえ自分の子供が100パーセント悪かったとしても、相手のトラック運転手を一生許せないと思います。きっと、耐えられない。出来るなら、少しでも彼の御両親の支えになれたらと思います。
 普通は即死の大事故。2トントラックとバイクでぶつかって後頭部を強打し、耳からは1リットル以上もの出血、左の骨盤はグチャグチャに骨折、足も骨折し、肺も潰れて・・・・・・。最初は微かに自力で呼吸出来ていたけれど、すぐに呼吸出来なくなり脳死状態に。
 それでもハトコは生きていた。一週間以上、正確に言うと十日間。戻って来ようと頑張った。結局はその状態に耐え切れず脳自体がダメになり、亡くなってしまったけれど。
 ハトコを尊敬しています。尊敬するところじゃないとは分かっていますが(苦笑)、十日間の頑張りは凄いと思います。生きる勇気を貰いました。どんなに苦しくても何かを成し遂げる為には、決して諦めてはいけないのだと教えられました。
 十日間お疲れさま、もういいんだよ、と彼に言いたい。そして来世でもまた、同じ御両親の下に生まれて欲しい。そして今度こそ交通事故に気をつけるように言いたい!!また事故しようもんならひっぱたいてやるから!!両親より祖父母より先に死ぬな〜!!そして彼女を作りなさい(唐突/笑)。なんと生涯彼女がいなかったらしいじゃないか(余計なお世話)。よく知らないくせにこんなこと言うけど(苦笑)。野球と漫画漬け(ジャンキーのレベル。小・中・高・大学と野球をやり続け、本棚は漫画でビッシリ)だったねキミは(笑)。何ならわたしが彼女になってやってもいいんだぞ〜(爆/笑)。
 来世こそ長生きしてください。頼むから。
 通夜に行って来ました。
 ひどい事故だったというのにハトコの顔はとてもきれいで、本当に眠っているかのようでした。
 彼の両親とは一言も話せず、頭を下げるしか出来ませんでした。彼の近しい親戚たち・友人たちとも。しかし涙を堪えて彼らに挨拶をする御両親の姿よりも、もっと胸に突き刺さるものがありました。彼の祖母にあたる人が、彼の遺体から離れようとしないのです。目を真っ赤にしながら孫が小さかった頃の思い出話を語る、その姿は余りにも愛に満ちていて、余りにも寂しそうだった。
 「自分が代わってやりたかった」。
 そう言う人たちは何人もいたけれど、代われないのが現実。
 失われた命は、決して戻ってきはしない。
 たとえその死がどんなに不条理な死であろうとも。

 どうやらわたしは完全に、軽々しく自殺したがったり、殺人を犯す人を許せなくなってしまったようです。
 死に限らず、人を傷つけるあらゆることについても。
 人に限らず、他の生き物を傷つけるあらゆることについても。
 例えばその人にとってはその命が大したことの無い存在だったとしても、ある人にとっては本当に本当に大切で、失いたくない存在かもしれない。もしかしたら、ハトコと事故を起こした相手だって、「運が悪くてバイクとぶつかった」くらいにしか思っていないかもしれない。でも、わたしたちにとっては本当に大事だった。相手を責めるつもりは無いし、誰を責めるつもりもないけれど、死んで欲しくなかった・・・・・・。
 誰が生まれて誰が死ぬかなんて、神様にさえ決められない。
 神様気取りで殺人や動物・児童虐待、DVやってる人には即刻やめて欲しいですね。戦争を起こす政治家も!

 通夜の後、折りかけだった千羽鶴を従姉妹みんなで完成させました。
 「〇〇がちゃんと天国にいけるように」。
 千羽鶴に託す思いは、当初の「意識を取り戻して欲しい」から残念ながら変わってしまったけれども、みんなの思いがハトコに届けばいい、そう願っています。
 今朝、ハトコが亡くなりました。
 今夜は通夜に行って来ます。
 「安らかに」という言葉は、恐らく言えないと思います。
 余りにも若すぎた。
 今日、ほとんど親戚全員が(わたしは行けなかったのですが)ハトコが入院している福岡の病院へ行きました。
 母の話によると、ハトコは既に面会謝絶で、両親以外は会うことが出来なかったのですが、ハトコの父親が彼の名前を呼んだところ、ハトコは涙を流したとか・・・・・・。
 目に反応が戻ったのでしょうか?わたしは医者ではないのでよくわかりませんが、皆の気持ちを思うと、言葉では表現出来ない気持ちになります。運命の皮肉さとか命のはかなさとか、様々な言葉が頭の中に浮かんでは他の言葉にかき消されていく。

 ・・・・・・他の話になりますが。
 たった一人の命もこれだけ重いのに、何考えてんだブッシュ大統領!あんたのアホさのせいで何千人死んだと思ってるんだ?己を省みず恥じ入ることも出来ないなら、ケリー候補に大統領の座を大人しく渡せ!

 ハトコはあちら側とこちら側、どちらにもいるのかもしれない。どちらにもいないのかもしれない。この曖昧な状況に、悲しい終止符が訪れないことを祈っています。祈るだけで何も出来ない無力な自分が悔しくて堪らない。
 ハトコ(昨日の日記では「知り合い」と紹介していましたが、実はハトコでした!今日知りました/爆。本当です。全く知りませんでした)の意識は未だ回復しておりません。
 ヘルメットが吹っ飛び後頭部を打ち、左の骨盤はグチャグチャに骨折、足も骨折、肺にも穴が開いて血が・・・。最初は自力で呼吸していたのですが、今は人工呼吸器をつけ、ほぼ脳死状態です。けれど生きている。医者曰く「普通は即死している」だとか。そりゃー22歳で生きるのをそうそう簡単に諦めやしませんとも!!
 頑張って戻って来て欲しい。
 今年の9月にはイトコの結婚式があり、ハトコはそれに出席する予定。絶対に出席して欲しい。そして長生きして欲しい。
 戻って来るか来ないかは本人にも誰にも決められないこと、それでも祈らずにはいられません。
 知り合いが福岡で交通事故に遭い、意識不明の重体に!
 幼い頃から知っている相手だけに(遠い遠い親戚だけれど実家が近い)、周りが混乱状態になっています。
 電話が鳴るのが怖い・・・(++)
 早く意識を取り戻してくれればと思います。
 

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