森田芳光監督 『海猫』
2008年4月23日 映画
*注*このレビューは結末の完全ネタバレを含みます。
以下はこの映画のあらすじです。
主人公は薫という女性。薫はロシア人と日本人のハーフです。けれどそのことを抜きにしても、薫は他の人とは異質。生身の女ではないかのような人なのです。潮騒にとけて消えてしまいそうな・・・。
薫は漁師のもとへ嫁ぎます。恋愛結婚ではありましたが、薫と夫は似たところがありません。夫はいかにも生身の男。絵も音楽も本も愛さない。夫は薫とどう接すれば良いのかわかりません。2人一緒に昆布漁をしたり毎日同じ家の中で暮らして同じ風景を見ているはずなのに、見えているものが違う。夫は薫を支配する手段をセックス強要しか思いつきませんでした。けれど体は手に入っても、薫の心は手に入らない。薫は夫の手が自分に触れそうになると、ビクッと怯えるようになってしまいます。
夫の弟、つまり薫の義弟は薫に恋していました。薫も義弟が自分と同じ世界を愛する人間だと気付きます。けれど2人がお互いの気持ちに気づいた頃には、既に薫は夫の子を妊娠していました。義弟は愛する薫の中で薫と兄との子が育っていく様子も生まれてくる光景も見守り続けました。
薫は義弟との子も妊娠、そして出産。薫はこの子を産んだ後急激に体が弱くなりました。夫は自分の浮気相手から(夫だって浮気していたのです)、新しく生まれた子が誰の子か疑わしい事実を知らされます。夫は薫に詰め寄ります。「誰の子だ?」と。薫は言います。「わたしたちの子どもです」と。わたしたち、に夫は含まれない。夫はそのことに気づき、激しい嫉妬から相変わらずセックスを強要。その上、夫は薫が逃げないようにと薫の足首を縛って家の中に閉じ込めてしまいました。
薫と義弟は夫の目を盗み、子ども2人を連れて逃げだします。しかしすぐ夫に見つかってしまいました。夫は包丁を持って追いかけて来ます。包丁を持つ夫と義弟が揉み合うのを見て、薫は「もういいの! もう、やめてください」と叫び、崖から飛んでしまいました。飛び降りるのではなく、薫は飛んだのです。海猫のように。
以下は考察です。
なぜ薫は死んだのでしょうか。
わたしには、薫はこの世でやりたかったことを全て終えてしまったから死んだのだ、と思えてなりません。人を愛し、愛され、その人との子どもを生むこと(薫の場合はその人たちとの、だったわけですが)。・・・薫の望みはそれらともう1つのことだけだったのかもしれません。もう1つのこととは「どこかへ飛んでいくこと」。どこかへ。
そのこの世ではないどこか、がどこであるのか。わたしは、この映画に薫の母や子が登場するという事実がその場所を示すと考えます。2人目の子どもを産んだ後薫が急激に弱ったという事実も。薫の義弟が、赤子を抱いて微笑む薫の絵を描いたという事実も。この映画の最後のシーンで、薫がその絵に似た微笑みを浮かべた事実も。
きっと薫は生身の女というよりも「母」だったのです。
この世で生むべき子どもを全て生み、その子たちを育ててくれる人がこの世にいるから、飛んでいったのでしょうね・・・。
この映画を観た後、わたしはわたしを生んでくれた沢山の人たちを想いました。母。その母。その母。その母・・・一体何百人の母たちがいるのでしょう。お母さんたち。生きる場所をくれてありがとう。
以下はこの映画のあらすじです。
主人公は薫という女性。薫はロシア人と日本人のハーフです。けれどそのことを抜きにしても、薫は他の人とは異質。生身の女ではないかのような人なのです。潮騒にとけて消えてしまいそうな・・・。
薫は漁師のもとへ嫁ぎます。恋愛結婚ではありましたが、薫と夫は似たところがありません。夫はいかにも生身の男。絵も音楽も本も愛さない。夫は薫とどう接すれば良いのかわかりません。2人一緒に昆布漁をしたり毎日同じ家の中で暮らして同じ風景を見ているはずなのに、見えているものが違う。夫は薫を支配する手段をセックス強要しか思いつきませんでした。けれど体は手に入っても、薫の心は手に入らない。薫は夫の手が自分に触れそうになると、ビクッと怯えるようになってしまいます。
夫の弟、つまり薫の義弟は薫に恋していました。薫も義弟が自分と同じ世界を愛する人間だと気付きます。けれど2人がお互いの気持ちに気づいた頃には、既に薫は夫の子を妊娠していました。義弟は愛する薫の中で薫と兄との子が育っていく様子も生まれてくる光景も見守り続けました。
薫は義弟との子も妊娠、そして出産。薫はこの子を産んだ後急激に体が弱くなりました。夫は自分の浮気相手から(夫だって浮気していたのです)、新しく生まれた子が誰の子か疑わしい事実を知らされます。夫は薫に詰め寄ります。「誰の子だ?」と。薫は言います。「わたしたちの子どもです」と。わたしたち、に夫は含まれない。夫はそのことに気づき、激しい嫉妬から相変わらずセックスを強要。その上、夫は薫が逃げないようにと薫の足首を縛って家の中に閉じ込めてしまいました。
薫と義弟は夫の目を盗み、子ども2人を連れて逃げだします。しかしすぐ夫に見つかってしまいました。夫は包丁を持って追いかけて来ます。包丁を持つ夫と義弟が揉み合うのを見て、薫は「もういいの! もう、やめてください」と叫び、崖から飛んでしまいました。飛び降りるのではなく、薫は飛んだのです。海猫のように。
以下は考察です。
なぜ薫は死んだのでしょうか。
わたしには、薫はこの世でやりたかったことを全て終えてしまったから死んだのだ、と思えてなりません。人を愛し、愛され、その人との子どもを生むこと(薫の場合はその人たちとの、だったわけですが)。・・・薫の望みはそれらともう1つのことだけだったのかもしれません。もう1つのこととは「どこかへ飛んでいくこと」。どこかへ。
そのこの世ではないどこか、がどこであるのか。わたしは、この映画に薫の母や子が登場するという事実がその場所を示すと考えます。2人目の子どもを産んだ後薫が急激に弱ったという事実も。薫の義弟が、赤子を抱いて微笑む薫の絵を描いたという事実も。この映画の最後のシーンで、薫がその絵に似た微笑みを浮かべた事実も。
きっと薫は生身の女というよりも「母」だったのです。
この世で生むべき子どもを全て生み、その子たちを育ててくれる人がこの世にいるから、飛んでいったのでしょうね・・・。
この映画を観た後、わたしはわたしを生んでくれた沢山の人たちを想いました。母。その母。その母。その母・・・一体何百人の母たちがいるのでしょう。お母さんたち。生きる場所をくれてありがとう。
芝山努監督 『映画ドラえもん のび太と鉄人兵団』
2008年3月11日 映画
*注*結末に関する完全ネタバレがあります。
以下はあらすじ。
宇宙にロボットだけの文明を築いている星がありました。その星のロボットたちは「神は我々を宇宙の支配者として創った」と信じ、地球の人間を奴隷にしようと企みます。奴隷捕獲の拠点とするため、ロボットたちは地球に基地を建てることにしました。基地を建てるために、リルルという人間型ロボットがまず地球へ派遣されました。リルルは人間がいない北極でジュドーというロボットを組み立てようとしました。しかし偶然北極へやって来たのび太がジュドーの部品を見つけ、「とりあえず持って帰ろう」と自宅へ持ち帰ってしまいました。リルルはジュドーがいなければ基地建設に取り掛かることができません。リルルは部品を探して東京都練馬区までやって来ます。部品はリルルに自分の所在を知らせる信号を送ろうとしますが、その度にのび太のママが「近所迷惑でしょ!」と部品をぶっ叩いて阻止。グッジョブです、ママ。リルルがのび太を探し当てた時には既にのび太がジュドーを自分の好きなように組み立ててしまった後でした。のび太はリルルの目的を知らなかったため、リルルに部品を持ち帰ったことと勝手に組み立てたことを謝り、ジュドーを返した上秘密道具も貸してしまいました。リルルは秘密道具で作った鏡面世界で、ジュドーと共に基地建設を始めました。のび太とドラえもんは人間捕獲作戦に気づきますが、それをリルルに悟られ、リルルに追われます。のび太とドラえもんはうまく逃げ切り、その際リルルは負傷。のび太とドラえもんは計画を阻止するためジャイアン、スネ夫に協力を頼みます。しずかちゃんも計画阻止に賛同しましたが、しずかちゃんは負傷したリルルを直そうとします。ジャイアンとスネ夫はリルルを直すことに反対しましたが、しずかちゃんは譲りません。リルルはしずかちゃんの行動を理解できず戸惑います。しずかちゃんはリルルを懸命に介抱し、リルルはどんどん直っていきました。リルルには、自分でも気づかないうちに人間のような心が芽生えていきました。裸の胸を隠そうとする、自分を破壊しようとするのび太に「いいわ。撃って!」と言う、「だめだ」と言ったのび太を非難する、上官ロボットの命令を拒否する、けれど人間の味方にもロボットの味方にもなれない。そんな自分に驚いて、リルルは「自分の心がわからない」と泣きます。しずかちゃんは秘密道具を使って、リルルと共に、最初のロボットを創った「神」に会いに行きます。「神」は人間でした。「神」は話を聞き、最初のロボットに他人を思いやる心を植え付けようとしました。最初のロボットに思いやりの心が備われば、今のロボットたちにもその心が備わるはずだからです。しかし「神」は植え付け作業の半ばで倒れてしまいました。リルルは「神」の代わりに作業を引き継ぎます。作業は完了し、歴史が変わり、リルルは消えていきました。しずかちゃんの手を握りながら。
以下感想。
リルルはアシモフの三原則、すなわち「人間に危害を及ぼさない」「人間の命令に逆らわない」「自己を破壊しない」を全て超えたのですね・・・。リルルはほとんど人間だったと思います。自殺と言えるのかもしれません。けれどリルルの消えゆく姿は、哀しくて綺麗でした。
わたしはこの映画についてもう1つ考えることがあります。もしもリルル以外のロボットが「神」が人間だったと知ったらどんな反応をしただろう・・・と。自分たちが奴隷にしようとした人間と、自分たちを創った神が同じものだったと知ったら。人間を奴隷にしてはいけない、と思ったでしょうか? それとも神に失望したでしょうか? ・・・人間がこれと似たような問題に突き当たった場合、人間はこれまでの神を廃して新たな神を擁立することが出来るわけですが・・・この映画のロボットたちはどうなのか。想像を掻き立てられます。
以下はあらすじ。
宇宙にロボットだけの文明を築いている星がありました。その星のロボットたちは「神は我々を宇宙の支配者として創った」と信じ、地球の人間を奴隷にしようと企みます。奴隷捕獲の拠点とするため、ロボットたちは地球に基地を建てることにしました。基地を建てるために、リルルという人間型ロボットがまず地球へ派遣されました。リルルは人間がいない北極でジュドーというロボットを組み立てようとしました。しかし偶然北極へやって来たのび太がジュドーの部品を見つけ、「とりあえず持って帰ろう」と自宅へ持ち帰ってしまいました。リルルはジュドーがいなければ基地建設に取り掛かることができません。リルルは部品を探して東京都練馬区までやって来ます。部品はリルルに自分の所在を知らせる信号を送ろうとしますが、その度にのび太のママが「近所迷惑でしょ!」と部品をぶっ叩いて阻止。グッジョブです、ママ。リルルがのび太を探し当てた時には既にのび太がジュドーを自分の好きなように組み立ててしまった後でした。のび太はリルルの目的を知らなかったため、リルルに部品を持ち帰ったことと勝手に組み立てたことを謝り、ジュドーを返した上秘密道具も貸してしまいました。リルルは秘密道具で作った鏡面世界で、ジュドーと共に基地建設を始めました。のび太とドラえもんは人間捕獲作戦に気づきますが、それをリルルに悟られ、リルルに追われます。のび太とドラえもんはうまく逃げ切り、その際リルルは負傷。のび太とドラえもんは計画を阻止するためジャイアン、スネ夫に協力を頼みます。しずかちゃんも計画阻止に賛同しましたが、しずかちゃんは負傷したリルルを直そうとします。ジャイアンとスネ夫はリルルを直すことに反対しましたが、しずかちゃんは譲りません。リルルはしずかちゃんの行動を理解できず戸惑います。しずかちゃんはリルルを懸命に介抱し、リルルはどんどん直っていきました。リルルには、自分でも気づかないうちに人間のような心が芽生えていきました。裸の胸を隠そうとする、自分を破壊しようとするのび太に「いいわ。撃って!」と言う、「だめだ」と言ったのび太を非難する、上官ロボットの命令を拒否する、けれど人間の味方にもロボットの味方にもなれない。そんな自分に驚いて、リルルは「自分の心がわからない」と泣きます。しずかちゃんは秘密道具を使って、リルルと共に、最初のロボットを創った「神」に会いに行きます。「神」は人間でした。「神」は話を聞き、最初のロボットに他人を思いやる心を植え付けようとしました。最初のロボットに思いやりの心が備われば、今のロボットたちにもその心が備わるはずだからです。しかし「神」は植え付け作業の半ばで倒れてしまいました。リルルは「神」の代わりに作業を引き継ぎます。作業は完了し、歴史が変わり、リルルは消えていきました。しずかちゃんの手を握りながら。
以下感想。
リルルはアシモフの三原則、すなわち「人間に危害を及ぼさない」「人間の命令に逆らわない」「自己を破壊しない」を全て超えたのですね・・・。リルルはほとんど人間だったと思います。自殺と言えるのかもしれません。けれどリルルの消えゆく姿は、哀しくて綺麗でした。
わたしはこの映画についてもう1つ考えることがあります。もしもリルル以外のロボットが「神」が人間だったと知ったらどんな反応をしただろう・・・と。自分たちが奴隷にしようとした人間と、自分たちを創った神が同じものだったと知ったら。人間を奴隷にしてはいけない、と思ったでしょうか? それとも神に失望したでしょうか? ・・・人間がこれと似たような問題に突き当たった場合、人間はこれまでの神を廃して新たな神を擁立することが出来るわけですが・・・この映画のロボットたちはどうなのか。想像を掻き立てられます。
中田秀夫監督 『L change the World』
2008年3月6日 映画 コメント (2) *注*あらすじ紹介なし。感想・・・のはずなのですが感想と呼べないかもしれません。かなり脱線しております。脱線に付き合ってくださる方のみ以下をお読みください。
この映画を観たおかげで、『DEATH NOTE』の世界に神(天国の)が登場しない理由がわかったような気がします。
『DEATH NOTE』の世界に神が存在するとするならば、なぜ神は死神リュークが人間界にDEATH NOTEを持ち込むのを止めなかったのでしょうか?
それはきっと、神は「これは正しい」「これは間違っている」と決める存在ではないから。
犯罪者にも、キラにも、死神にも干渉しない。この映画で指摘される、自然環境を破壊し間違いを繰り返す人間たちに対しても・・・干渉しない。
「これは正しい」「これは間違っている」と決めるものは神にはなれないし、神であり続けることも出来ないでしょう。
天使ルシフェルが神を超えようとして堕ちていったように。
ルシフェルも夜神月同様、傍観者的な神に代わって「正しい」世界を創ろうとしたのかもしれません。
けれどそれは自分が「正しい」と思う世界でしかありません。自分が「間違っている」と思う存在を否定してしまうことになります。
だからルシフェルも夜神月も新世界の神になることは叶わなかった。
神は助けない。神は殺さない。そうやって神は世界の全てを愛しているのでしょう。
だからLは少しだけ世界を変えることができた。
Lがいなくても明日がいい日になる、そんな世界に。
Lは人間だったから。
―――――――――――――
<以下は感想をメモしたもの>
F・・・KLMN・・・と続くからには潔くZまでスピンオフしちゃってくださいっ! 果てしなく続くネバーエンディングストーリーとして・・・!(無理)
原作のLより松山Lの方が好きだと気付きました。生きている感じがする、というレベルを超えました。
バスの運転手がタクシーの運転手になった経緯を知りたいです。
Lに人間の進化と逆進化の過程を見た♪
なんちゃんがFBIにどうやって受かったのか知りたい。Lの任務に参加出来て光栄だった的なことを言っているなんちゃんに「あなたクレープの車で走り回ってただけでしょ〜がっ♪」とツッコミを入れたくてたまらない。それから・・・クレープ1つくださいな♪
瀬戸朝香さんと工藤夕貴さんの滑舌の違いにショックを受けました。
なぜなのでしょう。あれだけ感染力が強くて致死率も高いウイルスがなぜもっと変異しなかったのでしょう? 抗ウイルス薬が効かなければ映画として収拾がつかなくなるのはわかるのですが、わたしがウイルスなら感染過程で他のウイルスと混ざってもっと変異し宿主を殺さず増殖する方法を見出します(←人でなし!)。
ワンピースを着た一見清楚なお姉さんの今後の人生が心配です。映画公開から当分の間はコンビニやホームセンターの店員は彼女に包丁を売ってくれないかもしれません。怖いよ〜!
明日もいい日にできますように。
この映画を観たおかげで、『DEATH NOTE』の世界に神(天国の)が登場しない理由がわかったような気がします。
『DEATH NOTE』の世界に神が存在するとするならば、なぜ神は死神リュークが人間界にDEATH NOTEを持ち込むのを止めなかったのでしょうか?
それはきっと、神は「これは正しい」「これは間違っている」と決める存在ではないから。
犯罪者にも、キラにも、死神にも干渉しない。この映画で指摘される、自然環境を破壊し間違いを繰り返す人間たちに対しても・・・干渉しない。
「これは正しい」「これは間違っている」と決めるものは神にはなれないし、神であり続けることも出来ないでしょう。
天使ルシフェルが神を超えようとして堕ちていったように。
ルシフェルも夜神月同様、傍観者的な神に代わって「正しい」世界を創ろうとしたのかもしれません。
けれどそれは自分が「正しい」と思う世界でしかありません。自分が「間違っている」と思う存在を否定してしまうことになります。
だからルシフェルも夜神月も新世界の神になることは叶わなかった。
神は助けない。神は殺さない。そうやって神は世界の全てを愛しているのでしょう。
だからLは少しだけ世界を変えることができた。
Lがいなくても明日がいい日になる、そんな世界に。
Lは人間だったから。
―――――――――――――
<以下は感想をメモしたもの>
F・・・KLMN・・・と続くからには潔くZまでスピンオフしちゃってくださいっ! 果てしなく続くネバーエンディングストーリーとして・・・!(無理)
原作のLより松山Lの方が好きだと気付きました。生きている感じがする、というレベルを超えました。
バスの運転手がタクシーの運転手になった経緯を知りたいです。
Lに人間の進化と逆進化の過程を見た♪
なんちゃんがFBIにどうやって受かったのか知りたい。Lの任務に参加出来て光栄だった的なことを言っているなんちゃんに「あなたクレープの車で走り回ってただけでしょ〜がっ♪」とツッコミを入れたくてたまらない。それから・・・クレープ1つくださいな♪
瀬戸朝香さんと工藤夕貴さんの滑舌の違いにショックを受けました。
なぜなのでしょう。あれだけ感染力が強くて致死率も高いウイルスがなぜもっと変異しなかったのでしょう? 抗ウイルス薬が効かなければ映画として収拾がつかなくなるのはわかるのですが、わたしがウイルスなら感染過程で他のウイルスと混ざってもっと変異し宿主を殺さず増殖する方法を見出します(←人でなし!)。
ワンピースを着た一見清楚なお姉さんの今後の人生が心配です。映画公開から当分の間はコンビニやホームセンターの店員は彼女に包丁を売ってくれないかもしれません。怖いよ〜!
明日もいい日にできますように。
ダニー・デビート監督 『おまけつき新婚生活』
2008年2月4日 映画
もうすぐ不動産を買って大家になるよ、という方に観ていただきたい映画です。そういう方にとってこの映画は恐怖映画です。「大家になったら自分も貸借人にこんな目に遭わされるかも・・・」と御覚悟を。
アレックス役はベン・スティラー、ナンシー訳はドリュー・バリモア。中でもバリモアの演技が印象的です。夫人に冷静に接しようとするバリモアの固まった表情や、夫人の死に様を想像するバリモアの微笑みを見ていると・・・。思わずこちらまで夫人の死に様を想像してニヤリとしてしまいます。
*注*完全ネタバレの上、詳しく書きすぎて恐ろしい長文になってしまいました。m(><)m
新婚カップルのアレックスとナンシーは家を探していました。2人は不動産屋に「掘り出しものですよ」と導かれて、ある家を見に行きます。
外装も内装もクラシックな家です。2階建て。年数を経た木の内装の色と香りが、アンティーク好きの心をくすぐります。大きな本棚が備え付けられており、暖炉が3つあり、黒い廻階段が1つあります。黒い廻階段はなめらかな曲線を描き、薔薇の花と葉を思わせるような細工が施されています。浴室の壁にはオリジナルのタイルが嵌められています。リビングには大きな窓があって日の光がよく入るうえ、窓の1つには孔雀を描いたステンドグラスが使われていて勿論このステンドグラスからも光が差し込みます。家の広さは167平米とはいえ、2階建てで2階にも浴室がついているので将来子どもが生まれても部屋に困りません。周辺は交通量も少なく、近くには児童公園やお店もあります。
2階にはコネリー夫人という100歳近い女性が1人で住んでいます。賃貸法により、もし2人がこの家を買って大家になったとしても、夫人を追い出すことは出来ません。その場合2人は大家としての義務を果たさねばならないのです。1階に大家である2人が住み、2階に賃借人である夫人が住むという形で。とはいえ不動産屋は「優しいおばあさんです。それに夫人は体が弱い」と言いました。アレックスとナンシーがコネリー夫人に会ってみると実際夫人の人柄は良さそうでしたし健康状態は思わしくないようでした。2人は2〜3年もしたら子どもが欲しいと思っていたので、ちょっと意地悪な考えではありますが、その頃にはコネリー夫人は亡くなったり施設に行ったりしているだろうから2階を使えるようになるだろう、と考えました。不動産屋が提示したこの家の値段は2世帯住宅としては考えられないほど安く、しかも不動産屋は「(あなたたちが早く決めないと)この家にはすぐ他に買い手がつく」と言ったので・・・。
2人はこの家を買い、夫人の大家になってしまいました。
そう。なってしまった、のです。2人は1階に住み始めてすぐ後悔し始めます。
まず後悔したのは音のことでした。クラシックな家なので2階の音が1階にはっきり聞こえてしまうのです。夫人は高齢で耳が遠いためテレビの音量を上げるのですが、夜だろうとお構いなしに大音量でテレビを観るのです。日常的に。それに夫人は音楽を好むため、大音量で音楽も聴くし演奏もします。ダンスもします。1階で眠ろうとしている2人は全然眠れません。2人が「静かにして」と頼んでも、夫人はお構いなし。
次に困ったのは、夫人が雑用をひっきりなしに頼んでくること。大家の義務を超えた雑用ばかりです。ごみ出しを頼んだり、買い物に付き合わせたり、ペットを捕まえさせたり、ただのレーズンを「ネズミのふんでしょ?」としつこく聞いてきたり。とにかくしょっちゅう声をかけてくるのです。2人が「2人とも働いているから、緊急の困りごとの時だけ声をかけて」と頼んでも、夫人はお構いなし。
最も2人にストレスを与えたのは、夫人が2人に感謝や謝罪をしないこと。前述したように夫人は2人の頼みごとを聞いてくれません。それなのに夫人は自分の頼みごとは叶えられて当然と思っているのです。例えばこんなことがありました、夫人が喉にチョコレートを詰まらせたので2人が夫人を救命した、ということが。アレックスが夫人にチョコを吐きださせて人工呼吸を施し、ナンシーは心臓マッサージを施したのです。それなのに夫人は「(2人がチョコレートに薬を仕込んでいて)わたしはチョコレートを食べたら気を失った」「気を失っている間(アレックスに)強姦されかけた。キスもされた」「ナンシーは(夫の強姦を助けるために)わたしを押さえつけていた」と警察に訴えたのです。その上、ごみ出しを頼まれた時ごみの中から夫人の下着が飛び出してしまってそれをアレックスが拾い上げただけなのに、夫人は「(アレックスは)わたしの下着を盗んで匂いを嗅いだ」と警察に訴えたのです。そんな稀少なフェチいるんかいな? ・・・否、いるかも。年上好みと下着愛好を極めし者が。しかも100歳以上をストライクゾーンとする猛者が!・・・話が逸れました。しかし夫人は「とても良い夫婦だから」となぜか告訴はしませんでした・・・。その後も夫人は2人にこういった行為を続けたのです。
2人は、夫人が死んでくれればいいのに、と願います。夫人の死にざまを想像する時の2人の顔は輝いています。2人は色々考えました。階段から落ちる夫人。生きたまま袋に入れられて海に落とされる夫人。他にも首を折る、ショック死させる、殴り殺す、首を切る、溺死させる、小さく切り刻むなど様々な殺し方をお互いに話しては想像し合って、「お互いに悪魔ね」と夫婦の絆を強くしました。2人はこの段階ではただ夫人の死を想像して楽しむだけでした。
しかし夫人は、アレックスが書いた完成原稿が入った(アレックスは作家です)パソコンを火の燃えている暖炉に投げるということまでやってしまいました。燃えるパソコン・・・燃える原稿・・・燃える・・・燃える・・・あああああああ。ついに2人は決意しました。夫人を殺そう、と。夫人にインフルエンザをうつそうとしたり、電気ショックを与えようとしたり、ガス爆発を起こそうとしたり・・・、でも全て大失敗。それどころか自分たちだけがひどいインフルエンザに苦しみ、電気ショックを受け、ガス爆発で顔にひどいヤケドを負いました。2階を水漏れさせることで床材を腐らせ夫人ごと床を落とそうとも試みましたが、これも大失敗。
思い余ってアレックスは銃を買ってきましたが、夫人を撃つ前にアレックスの股間が撃たれてしまいました(銃が暴発したのです)。とうとう2人は殺し屋を雇いました。殺し屋を雇うための料金は思った以上に高かったため、2人は全ての家具を売り払うしかありませんでした。しかし夫人を殺せると考えると家具を売り払うのも楽しいもの。かくして2人は殺し屋を雇いました。しかし夫人はなぜかモリ銃を所持しており、モリで殺し屋の胸をぐっさり刺しました。殺し屋はモリが刺さったまま逃げ去ったのでその後どうなったか不明。亡くなっていないと良いのですが・・・。当然まだまだ夫人は生きています。
2人は決意しました。この家を売ろう、と。もう十分戦った、と。2人は買った時より非常に安い値段で不動産屋にこの家を売り、この家には新たな買い手がつきました。2人が別れを言うため夫人を訪問すると・・・。なんと夫人は、椅子に座ったまま動きませんでした。息もしていませんでした。不動産屋は夫人の首や手首に手を当てて脈をはかり、「夫人が亡くなっている」と2人に告げました。2人は大ショックを受けました。まさか! あれだけ自分たちが殺そうとしても死ななかった夫人なのに! 2人はショックを受けつつも、この家を後にしました。
・・・しかし当然この映画には続きがあります。2人がこの家を去った後、2階では夫人と不動産屋と警察官(夫人が2人の行いを訴えた警察官)の3人がお茶を楽しんでいました。ぴんぴんしている夫人は言いました、「今度からはもっとわたしの取り分を多くしてくれよ」。不動産屋は言いました、「でもママ。今だって随分渡してるだろう?」。
アレックスとナンシーは詐欺被害に遭ったのです。大家がこの家を買い値より安く売れば売るほど儲かる仕組み。新しい大家はすぐ決まるのですから。何たってこの家はとても魅力的なのです。けれど詐欺被害に遭ったことを知らないまま2人はこの家を去りました。きっと、夫人と不動産屋と警察官はこれからも、次の大家をカモにして詐欺を続けていくのでしょう・・・。
初見の時は気づかなかったのですが、わたしは2回目にこの映画を観た時あるシーンに釘付けになりました。問題のシーンはかなり前半の方、2人が大家になったばかりの時にあります。なぜわたしは初見の時に気付かなかったのでしょう、アレックスが夫人に「困った時は声をかけて」と言った時夫人が不気味に笑っていたのを・・・。
アレックス役はベン・スティラー、ナンシー訳はドリュー・バリモア。中でもバリモアの演技が印象的です。夫人に冷静に接しようとするバリモアの固まった表情や、夫人の死に様を想像するバリモアの微笑みを見ていると・・・。思わずこちらまで夫人の死に様を想像してニヤリとしてしまいます。
*注*完全ネタバレの上、詳しく書きすぎて恐ろしい長文になってしまいました。m(><)m
新婚カップルのアレックスとナンシーは家を探していました。2人は不動産屋に「掘り出しものですよ」と導かれて、ある家を見に行きます。
外装も内装もクラシックな家です。2階建て。年数を経た木の内装の色と香りが、アンティーク好きの心をくすぐります。大きな本棚が備え付けられており、暖炉が3つあり、黒い廻階段が1つあります。黒い廻階段はなめらかな曲線を描き、薔薇の花と葉を思わせるような細工が施されています。浴室の壁にはオリジナルのタイルが嵌められています。リビングには大きな窓があって日の光がよく入るうえ、窓の1つには孔雀を描いたステンドグラスが使われていて勿論このステンドグラスからも光が差し込みます。家の広さは167平米とはいえ、2階建てで2階にも浴室がついているので将来子どもが生まれても部屋に困りません。周辺は交通量も少なく、近くには児童公園やお店もあります。
2階にはコネリー夫人という100歳近い女性が1人で住んでいます。賃貸法により、もし2人がこの家を買って大家になったとしても、夫人を追い出すことは出来ません。その場合2人は大家としての義務を果たさねばならないのです。1階に大家である2人が住み、2階に賃借人である夫人が住むという形で。とはいえ不動産屋は「優しいおばあさんです。それに夫人は体が弱い」と言いました。アレックスとナンシーがコネリー夫人に会ってみると実際夫人の人柄は良さそうでしたし健康状態は思わしくないようでした。2人は2〜3年もしたら子どもが欲しいと思っていたので、ちょっと意地悪な考えではありますが、その頃にはコネリー夫人は亡くなったり施設に行ったりしているだろうから2階を使えるようになるだろう、と考えました。不動産屋が提示したこの家の値段は2世帯住宅としては考えられないほど安く、しかも不動産屋は「(あなたたちが早く決めないと)この家にはすぐ他に買い手がつく」と言ったので・・・。
2人はこの家を買い、夫人の大家になってしまいました。
そう。なってしまった、のです。2人は1階に住み始めてすぐ後悔し始めます。
まず後悔したのは音のことでした。クラシックな家なので2階の音が1階にはっきり聞こえてしまうのです。夫人は高齢で耳が遠いためテレビの音量を上げるのですが、夜だろうとお構いなしに大音量でテレビを観るのです。日常的に。それに夫人は音楽を好むため、大音量で音楽も聴くし演奏もします。ダンスもします。1階で眠ろうとしている2人は全然眠れません。2人が「静かにして」と頼んでも、夫人はお構いなし。
次に困ったのは、夫人が雑用をひっきりなしに頼んでくること。大家の義務を超えた雑用ばかりです。ごみ出しを頼んだり、買い物に付き合わせたり、ペットを捕まえさせたり、ただのレーズンを「ネズミのふんでしょ?」としつこく聞いてきたり。とにかくしょっちゅう声をかけてくるのです。2人が「2人とも働いているから、緊急の困りごとの時だけ声をかけて」と頼んでも、夫人はお構いなし。
最も2人にストレスを与えたのは、夫人が2人に感謝や謝罪をしないこと。前述したように夫人は2人の頼みごとを聞いてくれません。それなのに夫人は自分の頼みごとは叶えられて当然と思っているのです。例えばこんなことがありました、夫人が喉にチョコレートを詰まらせたので2人が夫人を救命した、ということが。アレックスが夫人にチョコを吐きださせて人工呼吸を施し、ナンシーは心臓マッサージを施したのです。それなのに夫人は「(2人がチョコレートに薬を仕込んでいて)わたしはチョコレートを食べたら気を失った」「気を失っている間(アレックスに)強姦されかけた。キスもされた」「ナンシーは(夫の強姦を助けるために)わたしを押さえつけていた」と警察に訴えたのです。その上、ごみ出しを頼まれた時ごみの中から夫人の下着が飛び出してしまってそれをアレックスが拾い上げただけなのに、夫人は「(アレックスは)わたしの下着を盗んで匂いを嗅いだ」と警察に訴えたのです。そんな稀少なフェチいるんかいな? ・・・否、いるかも。年上好みと下着愛好を極めし者が。しかも100歳以上をストライクゾーンとする猛者が!・・・話が逸れました。しかし夫人は「とても良い夫婦だから」となぜか告訴はしませんでした・・・。その後も夫人は2人にこういった行為を続けたのです。
2人は、夫人が死んでくれればいいのに、と願います。夫人の死にざまを想像する時の2人の顔は輝いています。2人は色々考えました。階段から落ちる夫人。生きたまま袋に入れられて海に落とされる夫人。他にも首を折る、ショック死させる、殴り殺す、首を切る、溺死させる、小さく切り刻むなど様々な殺し方をお互いに話しては想像し合って、「お互いに悪魔ね」と夫婦の絆を強くしました。2人はこの段階ではただ夫人の死を想像して楽しむだけでした。
しかし夫人は、アレックスが書いた完成原稿が入った(アレックスは作家です)パソコンを火の燃えている暖炉に投げるということまでやってしまいました。燃えるパソコン・・・燃える原稿・・・燃える・・・燃える・・・あああああああ。ついに2人は決意しました。夫人を殺そう、と。夫人にインフルエンザをうつそうとしたり、電気ショックを与えようとしたり、ガス爆発を起こそうとしたり・・・、でも全て大失敗。それどころか自分たちだけがひどいインフルエンザに苦しみ、電気ショックを受け、ガス爆発で顔にひどいヤケドを負いました。2階を水漏れさせることで床材を腐らせ夫人ごと床を落とそうとも試みましたが、これも大失敗。
思い余ってアレックスは銃を買ってきましたが、夫人を撃つ前にアレックスの股間が撃たれてしまいました(銃が暴発したのです)。とうとう2人は殺し屋を雇いました。殺し屋を雇うための料金は思った以上に高かったため、2人は全ての家具を売り払うしかありませんでした。しかし夫人を殺せると考えると家具を売り払うのも楽しいもの。かくして2人は殺し屋を雇いました。しかし夫人はなぜかモリ銃を所持しており、モリで殺し屋の胸をぐっさり刺しました。殺し屋はモリが刺さったまま逃げ去ったのでその後どうなったか不明。亡くなっていないと良いのですが・・・。当然まだまだ夫人は生きています。
2人は決意しました。この家を売ろう、と。もう十分戦った、と。2人は買った時より非常に安い値段で不動産屋にこの家を売り、この家には新たな買い手がつきました。2人が別れを言うため夫人を訪問すると・・・。なんと夫人は、椅子に座ったまま動きませんでした。息もしていませんでした。不動産屋は夫人の首や手首に手を当てて脈をはかり、「夫人が亡くなっている」と2人に告げました。2人は大ショックを受けました。まさか! あれだけ自分たちが殺そうとしても死ななかった夫人なのに! 2人はショックを受けつつも、この家を後にしました。
・・・しかし当然この映画には続きがあります。2人がこの家を去った後、2階では夫人と不動産屋と警察官(夫人が2人の行いを訴えた警察官)の3人がお茶を楽しんでいました。ぴんぴんしている夫人は言いました、「今度からはもっとわたしの取り分を多くしてくれよ」。不動産屋は言いました、「でもママ。今だって随分渡してるだろう?」。
アレックスとナンシーは詐欺被害に遭ったのです。大家がこの家を買い値より安く売れば売るほど儲かる仕組み。新しい大家はすぐ決まるのですから。何たってこの家はとても魅力的なのです。けれど詐欺被害に遭ったことを知らないまま2人はこの家を去りました。きっと、夫人と不動産屋と警察官はこれからも、次の大家をカモにして詐欺を続けていくのでしょう・・・。
初見の時は気づかなかったのですが、わたしは2回目にこの映画を観た時あるシーンに釘付けになりました。問題のシーンはかなり前半の方、2人が大家になったばかりの時にあります。なぜわたしは初見の時に気付かなかったのでしょう、アレックスが夫人に「困った時は声をかけて」と言った時夫人が不気味に笑っていたのを・・・。
マーク・フォースター監督 『主人公は僕だった』
2008年1月29日 映画
この映画は、ラストをどう解釈するかによって自分の性格が良いか悪いかわかってしまう映画でもあります。
*注*以下は完全ネタバレを含むあらすじです。
この映画の主人公はハロルド・クイック。端整でもなく不細工でもない容姿(失礼な・・・)の中年男性で、職業は国税庁の会計検査官。独身で一人暮らし、恋人もいない生活をずっと続けてきました。
彼はある日突然、自分にしか聞こえない女性の声に気付きます。女性の声は「〜彼は知る由も無かった」などと、小説の三人称の語り口で彼の人生を語り続けるのです。女性の声は、彼の行動全てを忠実になぞって描写していきます・・・。女性の声は、彼がじき死ぬということさえほのめかしました! 彼は危機感を持ちます。「僕はもしかすると小説の登場人物なのかもしれない」「そして、筋書きで僕は死ぬことになっているのかも・・・」。そう恐れた彼は文学の研究家のもとを訪ね、「自分は本当に小説の登場人物なのか」「もしそうであるとしたら、その小説はハッピーエンドで終わるのか」「一体その小説家を書いているのは誰なのか」を探っていきます。
探っている間に、彼には恋人ができました。恋人は、ケーキ屋を経営している女性アナ・パスカルです。出会いのきっかけは、アナが店の税金を「税金を戦争に使わないで」と政府に主張するため滞納していたこと。アナが彼女のお店へ税金の調査に行ったことが二人の出会いでした。アナは美味しいお菓子が人生を楽しくしてくれることを知っている女性です。彼はアナといる時人生で初めての安らぎを感じました。彼はよりいっそう「死にたくない」という思いを強くしました。
そしてついに、なんと彼は自分の生きているのと同じ世界(小説家が作り出した異世界ではない)に生きている女性小説家を見つけ出します。彼女はこれまで執筆してきた小説全てで、結末には必ず主人公を死なせてきた小説家。全ての主人公に対して「非常に好ましい人物」と親愛の念を抱いていながらも、ずっと死なせ続けてきたのです。なので彼女はこの小説でも、いつものように主人公を死なせようとしていました。しかし彼女の目の前にハロルド・クイックが現れます。ハロルドは彼女に訴えます、「僕を殺さないでくれますよね?」と。
まさか自分が執筆している小説の主人公の人生と実在の人物の人生がリンクしているとは思いもよらなかったため、彼女は驚愕。「その目・・・その口・・・」彼女はハロルドを見て微笑みました。まるで生みの母親と息子が初めて会ったかのようなシーン。彼女はハロルドに「僕を殺さないでくれますよね?」と聞かれる以前から彼を死なせたくないと思っていたため、この時彼女の心は彼を死なせない方向に大分傾きます。
しかし彼女は強い恐れを感じます。現在執筆中のこの小説は彼が死ななければ最高傑作にはなり得ません。彼女は小説家として、どうしても彼を死なせなければならないのです。彼を生かしてしまえば作品の出来が落ちてしまう。けれど主人公を死なせれば、実在するハロルドまで死んでしまう。彼女は迷い続け、ぶるぶる震えながら「彼は死・・・」とまで書いてしまいました。けれど「彼は死んだ」とまでは書けず、彼女は苦しみます。苦しんだ末、彼女はこんな結末を書き終えました。彼は交通事故に遭ってしまったけれど奇跡的に生還し、以後恋人と共に幸せに暮らした・・・と。結末が書き終えられたことによって、小説の主人公とハロルドを繋いでいたものは切れ、ハロルドは自由の身になりました。もはや彼は小説家によって殺されはしないのです。
この結末によって小説の出来はぐんと落ちてしまいましたが、小説家は言います。「だってこれは、自分が死ぬと知らずに死んでいく男の話よ」。「細部を書きなおすわ」。
*注*「良かった、ハロルドが死ななくて」とホッとしたあなたは性格が良いと言えます。以下の文を読むことはおすすめできません。
「あれ? なんか腑に落ちない」と思ったあなたはわたしと同類! どうぞ以下の文へ。
-------------------
以下はわたしが解釈した、この小説家の考えです。彼女の「細部を変える」という選択をこう解釈するか否かで、この映画にブラックな要素を感じるか否かが分かれると思います。
(ハロルドは自分が死ぬかもしれないと知っていた。自分が小説の登場人物かもしれない、ということ気づいていた。気づいている上で、今まで何日間も生活してきたしこのわたしを探し当て、わたしに殺さないでくれと言った。自分が死ぬと知らずに死んでいく普通の男の話より、こっちの方が面白い小説になるわ!)
彼女は以上のように考えたのではないでしょうか? 小説家であれば誰しも作品の出来を何より大切にするものです。もちろん小説家も人間ですから、人によっては違うでしょうが・・・。人の命か作品の出来かならば、作品の出来。だからこそ彼女はハロルドが実在の人物だと知った時すぐに結末を変えたりはしなかったのです。彼女が細部を変えるという素晴らしいアイディアを思いつかなければハロルドは・・・(><) 殺されていたでしょうね。そして彼女の小説は、自分が死ぬと知らずに死んだ普通の男を主人公にした最高傑作になった。そう思うとこの映画にブラックな要素を感じざるを得ません。
*注*以下は完全ネタバレを含むあらすじです。
この映画の主人公はハロルド・クイック。端整でもなく不細工でもない容姿(失礼な・・・)の中年男性で、職業は国税庁の会計検査官。独身で一人暮らし、恋人もいない生活をずっと続けてきました。
彼はある日突然、自分にしか聞こえない女性の声に気付きます。女性の声は「〜彼は知る由も無かった」などと、小説の三人称の語り口で彼の人生を語り続けるのです。女性の声は、彼の行動全てを忠実になぞって描写していきます・・・。女性の声は、彼がじき死ぬということさえほのめかしました! 彼は危機感を持ちます。「僕はもしかすると小説の登場人物なのかもしれない」「そして、筋書きで僕は死ぬことになっているのかも・・・」。そう恐れた彼は文学の研究家のもとを訪ね、「自分は本当に小説の登場人物なのか」「もしそうであるとしたら、その小説はハッピーエンドで終わるのか」「一体その小説家を書いているのは誰なのか」を探っていきます。
探っている間に、彼には恋人ができました。恋人は、ケーキ屋を経営している女性アナ・パスカルです。出会いのきっかけは、アナが店の税金を「税金を戦争に使わないで」と政府に主張するため滞納していたこと。アナが彼女のお店へ税金の調査に行ったことが二人の出会いでした。アナは美味しいお菓子が人生を楽しくしてくれることを知っている女性です。彼はアナといる時人生で初めての安らぎを感じました。彼はよりいっそう「死にたくない」という思いを強くしました。
そしてついに、なんと彼は自分の生きているのと同じ世界(小説家が作り出した異世界ではない)に生きている女性小説家を見つけ出します。彼女はこれまで執筆してきた小説全てで、結末には必ず主人公を死なせてきた小説家。全ての主人公に対して「非常に好ましい人物」と親愛の念を抱いていながらも、ずっと死なせ続けてきたのです。なので彼女はこの小説でも、いつものように主人公を死なせようとしていました。しかし彼女の目の前にハロルド・クイックが現れます。ハロルドは彼女に訴えます、「僕を殺さないでくれますよね?」と。
まさか自分が執筆している小説の主人公の人生と実在の人物の人生がリンクしているとは思いもよらなかったため、彼女は驚愕。「その目・・・その口・・・」彼女はハロルドを見て微笑みました。まるで生みの母親と息子が初めて会ったかのようなシーン。彼女はハロルドに「僕を殺さないでくれますよね?」と聞かれる以前から彼を死なせたくないと思っていたため、この時彼女の心は彼を死なせない方向に大分傾きます。
しかし彼女は強い恐れを感じます。現在執筆中のこの小説は彼が死ななければ最高傑作にはなり得ません。彼女は小説家として、どうしても彼を死なせなければならないのです。彼を生かしてしまえば作品の出来が落ちてしまう。けれど主人公を死なせれば、実在するハロルドまで死んでしまう。彼女は迷い続け、ぶるぶる震えながら「彼は死・・・」とまで書いてしまいました。けれど「彼は死んだ」とまでは書けず、彼女は苦しみます。苦しんだ末、彼女はこんな結末を書き終えました。彼は交通事故に遭ってしまったけれど奇跡的に生還し、以後恋人と共に幸せに暮らした・・・と。結末が書き終えられたことによって、小説の主人公とハロルドを繋いでいたものは切れ、ハロルドは自由の身になりました。もはや彼は小説家によって殺されはしないのです。
この結末によって小説の出来はぐんと落ちてしまいましたが、小説家は言います。「だってこれは、自分が死ぬと知らずに死んでいく男の話よ」。「細部を書きなおすわ」。
*注*「良かった、ハロルドが死ななくて」とホッとしたあなたは性格が良いと言えます。以下の文を読むことはおすすめできません。
「あれ? なんか腑に落ちない」と思ったあなたはわたしと同類! どうぞ以下の文へ。
-------------------
以下はわたしが解釈した、この小説家の考えです。彼女の「細部を変える」という選択をこう解釈するか否かで、この映画にブラックな要素を感じるか否かが分かれると思います。
(ハロルドは自分が死ぬかもしれないと知っていた。自分が小説の登場人物かもしれない、ということ気づいていた。気づいている上で、今まで何日間も生活してきたしこのわたしを探し当て、わたしに殺さないでくれと言った。自分が死ぬと知らずに死んでいく普通の男の話より、こっちの方が面白い小説になるわ!)
彼女は以上のように考えたのではないでしょうか? 小説家であれば誰しも作品の出来を何より大切にするものです。もちろん小説家も人間ですから、人によっては違うでしょうが・・・。人の命か作品の出来かならば、作品の出来。だからこそ彼女はハロルドが実在の人物だと知った時すぐに結末を変えたりはしなかったのです。彼女が細部を変えるという素晴らしいアイディアを思いつかなければハロルドは・・・(><) 殺されていたでしょうね。そして彼女の小説は、自分が死ぬと知らずに死んだ普通の男を主人公にした最高傑作になった。そう思うとこの映画にブラックな要素を感じざるを得ません。
ジョー・ダンテ監督 『グレムリン』
2007年12月25日 映画
以前はよくクリスマスの時期に『グレムリン』がテレビ放送されていたものですが。ここ数年は放送されていないような気がします。動物愛護の意味合いから放送されなくなったのでしょうか。・・・単にわたしが放送されていることに気づいていないだけなのかも?
グレムリンは人間にとって悪い悪戯をする妖精。
モグワイは水に濡らしたり太陽の光に当てたり12時以降に餌をやってはいけない小さな生き物の種族名。宇宙からやってきた生物、という設定があるようです(宇宙から地球にやってきたモグワイをチャイナタウンのおじいさんが拾って云々)。水に濡れるとモグワイの体はぶくぶく膨らみ始め、モグワイの体からポン! ポン! ポン! と新しいモグワイが一度に数匹も飛び出してきてしまいます。太陽の光に当てるとモグワイは死んでしまいます。しかし一番やってはいけないことは、12時以降に餌をあげるという行為。12時以降に餌をあげてしまうとモグワイは蛹になり、蛹の中で変態(変化という意味の変態ですよ)して凶悪なモグワイになってしまうのです。この凶悪なモグワイがグレムリンとして街を引っ掻き回すのです。
ギズモは、この映画の主人公ビリーの父がモグワイのうちの1匹につけた名前。もこもこの毛並み。体は大人なら片手で持てるサイズ。大人しい性格で、歌うのが好き。映画鑑賞も好き。ラッパをぷぷぷぷぷっぷーっ、と吹くこともあります。飼いたいぃぃ。
しかしビリーの不注意でギズモに水がかかってしまい(正確に言うとオレンジジュースですが)モグワイが増えてしまいました。それだけに留まらず、ビリーは再び不注意なことをやらかしました。時計の針が止まっていることに気づかず、12時前だから大丈夫だ、と思って・・・。ビリーはもう12時を過ぎているというのに、増えたモグワイに餌を与えてしまったのです! 増えたモグワイは蛹になって、凶悪なグレムリンになってしまいました。グレムリンたちは目が赤く、体毛がなく、体は黒っぽい緑で、鋭利な牙を持っています。グレムリンたちはビリーの部屋から出ていきます。ここで食い止めなければグレムリンたちが家の外へ出てしまい、街が大変なことになってしまうでしょう。
ここでビリーのママがまさかの大活躍。普通の主婦のはずなのですが。家の中に何かいる・・・! 異変を察知したママは、刺身包丁のような細長い包丁(ペティナイフ?)を握り締めながら、慎重に慎重に家の中を歩き、グレムリンたちの居所を探します。ママは凶悪なグレムリンがキッチンを荒らしているのを発見。グレムリンはママが焼いたクリスマスクッキーをむしゃむしゃ食べていました。あいつわたしのクッキー食べてるわ・・・! ママの頭の中で何かが切れちゃった模様。ママはグレムリンをミキサーにかけました。仲間を殺されて怒った他のグレムリンがママに皿を投げつけてきます。ママは素早くキッチンに置いてあった折りたたみ式テーブル(?)を盾にし、皿投げ攻撃を防ぎます。グレムリンが皿を投げる度にお皿が割れていきます。こんなに割っちゃってどうしてくれるのよ! ママは攻撃を防ぎながらもグレムリンとの距離を素早く詰め、包丁でグレムリンをめった刺しにしました。これにまた他のグレムリンが怒り、ママに残りのクッキーを投げつけてしまいました。何という命知らず。ママはクッキーを焼き直さなくてはなりません。ママはこのグレムリンの顔に何かのスプレーを噴射して怯ませた後、レンジに入れてチンしてしまいました。グレムリンはレンジの中で弾けてしまいました。・・・次にクッキーを焼く時はこのレンジを使わないで欲しいですね。グレムリンの香りがほのかに香るクッキーになってしまいますもの。更にママは、まだ他の奴が残っているはずだわ・・・、と包丁を持ってリビングに移動。リビングで息を潜めていたグレムリンはママに向かってツリーを倒し、ママの動きを封じました。しかしママは動きを封じられながらも包丁で応戦! ・・・ママの経歴を知りたいです。
テレビ放送がされていないのはママの功績に因るところが大きいのではないでしょうか。グレムリンが太陽の光で溶けるシーンの気色悪さもさることながら・・・、ママ最強☆
結局ビリーがグレムリンのリーダーを取り逃がして、街を引っ掻き回されることになるのですが。
グレムリンは「悪い悪戯をする妖精」。この悪戯が微笑ましいものばかりなので、これから『グレムリン』観るよー、という方は是非注目してみてください。勿論ママにも。(^皿^) また、この映画の中で、スティーブン・スピルバーグが特に意味もない感じにカメオ出演しているのでその辺にも注目を。
グレムリンは人間にとって悪い悪戯をする妖精。
モグワイは水に濡らしたり太陽の光に当てたり12時以降に餌をやってはいけない小さな生き物の種族名。宇宙からやってきた生物、という設定があるようです(宇宙から地球にやってきたモグワイをチャイナタウンのおじいさんが拾って云々)。水に濡れるとモグワイの体はぶくぶく膨らみ始め、モグワイの体からポン! ポン! ポン! と新しいモグワイが一度に数匹も飛び出してきてしまいます。太陽の光に当てるとモグワイは死んでしまいます。しかし一番やってはいけないことは、12時以降に餌をあげるという行為。12時以降に餌をあげてしまうとモグワイは蛹になり、蛹の中で変態(変化という意味の変態ですよ)して凶悪なモグワイになってしまうのです。この凶悪なモグワイがグレムリンとして街を引っ掻き回すのです。
ギズモは、この映画の主人公ビリーの父がモグワイのうちの1匹につけた名前。もこもこの毛並み。体は大人なら片手で持てるサイズ。大人しい性格で、歌うのが好き。映画鑑賞も好き。ラッパをぷぷぷぷぷっぷーっ、と吹くこともあります。飼いたいぃぃ。
しかしビリーの不注意でギズモに水がかかってしまい(正確に言うとオレンジジュースですが)モグワイが増えてしまいました。それだけに留まらず、ビリーは再び不注意なことをやらかしました。時計の針が止まっていることに気づかず、12時前だから大丈夫だ、と思って・・・。ビリーはもう12時を過ぎているというのに、増えたモグワイに餌を与えてしまったのです! 増えたモグワイは蛹になって、凶悪なグレムリンになってしまいました。グレムリンたちは目が赤く、体毛がなく、体は黒っぽい緑で、鋭利な牙を持っています。グレムリンたちはビリーの部屋から出ていきます。ここで食い止めなければグレムリンたちが家の外へ出てしまい、街が大変なことになってしまうでしょう。
ここでビリーのママがまさかの大活躍。普通の主婦のはずなのですが。家の中に何かいる・・・! 異変を察知したママは、刺身包丁のような細長い包丁(ペティナイフ?)を握り締めながら、慎重に慎重に家の中を歩き、グレムリンたちの居所を探します。ママは凶悪なグレムリンがキッチンを荒らしているのを発見。グレムリンはママが焼いたクリスマスクッキーをむしゃむしゃ食べていました。あいつわたしのクッキー食べてるわ・・・! ママの頭の中で何かが切れちゃった模様。ママはグレムリンをミキサーにかけました。仲間を殺されて怒った他のグレムリンがママに皿を投げつけてきます。ママは素早くキッチンに置いてあった折りたたみ式テーブル(?)を盾にし、皿投げ攻撃を防ぎます。グレムリンが皿を投げる度にお皿が割れていきます。こんなに割っちゃってどうしてくれるのよ! ママは攻撃を防ぎながらもグレムリンとの距離を素早く詰め、包丁でグレムリンをめった刺しにしました。これにまた他のグレムリンが怒り、ママに残りのクッキーを投げつけてしまいました。何という命知らず。ママはクッキーを焼き直さなくてはなりません。ママはこのグレムリンの顔に何かのスプレーを噴射して怯ませた後、レンジに入れてチンしてしまいました。グレムリンはレンジの中で弾けてしまいました。・・・次にクッキーを焼く時はこのレンジを使わないで欲しいですね。グレムリンの香りがほのかに香るクッキーになってしまいますもの。更にママは、まだ他の奴が残っているはずだわ・・・、と包丁を持ってリビングに移動。リビングで息を潜めていたグレムリンはママに向かってツリーを倒し、ママの動きを封じました。しかしママは動きを封じられながらも包丁で応戦! ・・・ママの経歴を知りたいです。
テレビ放送がされていないのはママの功績に因るところが大きいのではないでしょうか。グレムリンが太陽の光で溶けるシーンの気色悪さもさることながら・・・、ママ最強☆
結局ビリーがグレムリンのリーダーを取り逃がして、街を引っ掻き回されることになるのですが。
グレムリンは「悪い悪戯をする妖精」。この悪戯が微笑ましいものばかりなので、これから『グレムリン』観るよー、という方は是非注目してみてください。勿論ママにも。(^皿^) また、この映画の中で、スティーブン・スピルバーグが特に意味もない感じにカメオ出演しているのでその辺にも注目を。
トム・ティクヴァ監督 『パフューム ある人殺しの物語』
2007年12月16日 映画
*注*ネタバレあり。
あらすじより考察重視で書いています。
申し訳ありませんがあらすじを知りたい方には参考にならないと思います。
わたしには「このラストは本当のラストではない」と思えてなりません。
嗅覚によって世界を感じる男性、グルヌイユ。
彼はもし「五感のうち感覚を1つか残せない」と言われたなら間違いなく嗅覚を選ぶでしょう。
背後から果物が飛んでくることに嗅覚で気づき、果物と自分との距離を素早く察知してよけることが出来る。
1人1人の体臭を嗅ぎ分け、目標の人物を何キロでも追える。
嗅覚によって人間の体調や気分までも察知することができる。
彼自身には体臭がないため、犬に吠えられることを恐れずにどんな場所へも侵入できる。
グルヌイユ、あなたは刑事になればきっと偉大になれたでしょうに・・・。
彼は香水調合師になってしまいました。
彼は「最高の香水を作りたい。最高の香りを保存したい」という望みを追及した結果、女性たちを殺して女性たちの体臭を集めてしまうようになりました。
人間の体臭を吸い取る脂を女性たちの遺体に塗り、ミイラを包むようにして布で遺体を包んで脂の効能を上げる。
より体臭を集めるため遺体の髪の毛もきれいに剃って、脂まみれになった髪の毛を手で絞る。
布を剥いでいき、遺体についている脂をヘラのような道具で丁寧に集めていく。
布には脂が残っているので、布も絞る。
そうして彼は女性の体臭をたっぷり吸い込んだ脂を手に入れるのです。
しかし1人分の脂から抽出できるオイルはごくわずか。
彼は最高の香水を作り出すために13人もの女性を殺しました。
殺す必要はなかったのに。
女性の体に脂を塗ってしばらく置いた後、脂を集めれば良いだけなのですから。
むしろ彼にとっては、生きている女性から脂を取った方が死臭の混じるリスクを減らせるので都合が良かったはず。
遺体には性的暴行を加えることなく、髪や布と一緒に土に埋めていましたし。
脂さえ集めれば良いだけだったのです。
けれど彼は、良い体臭の女性を見つける度に殴り殺していました。
なぜ? 理由は色々考えられます。
1つは、女性にどうお願いすれば了承してもらえるのかわからなかった、ということ。
ある時彼はどうしていいのかわからず女性を殺してしまったことがあり、その時初めて脂を集めることに成功したので・・・それがクセになってしまったのでしょう。
どうすれば殺さずに済むのかわからないけれど、ともかく殺してしまえば確実に脂を取れる、ということに気づいてしまったのでしょう。
2つめには、恐怖は悪臭を放つから、ということ。彼は女性たちが彼に対して恐怖を抱く前に殺す必要があったのでしょう。脂を集めさせて欲しい、と頼んだら確実に女性は「なにこの人?」と恐怖を抱きます。恐怖による悪臭を混じらせるくらいなら、遺体から死臭が出る前に脂を集めてしまえばいい、と彼は考えたのかもしれません。殴り殺すという殺し方も、全ては体臭を出来るだけ良い状態で集めるためなのかも(クセになったからかもしれませんが)。ナイフで刺したりすれば血の臭いが混じってしまうから。
彼には「殺人犯になりたくない」「死刑になりたくない」などという考えはありません。彼は他の人間と比べて全く異質なのです。彼が初めて女性を殺した時のことを例に挙げて、彼の異質さを説明しましょう。ある時彼は良い体臭の女性を見つけ、彼女をどこまでも追いかけて体臭を嗅ぎ続けました。当然彼女は悲鳴をあげようとしました。彼は慌てて彼女の口を塞ぎ、・・・恐らくは鼻まで塞いでしまったのです。事故といえば事故。殺すつもりは無かったのですから。女性を殺してしまった彼は悲しげな顔をしました。けれどそれは女性の死を哀れんだからではありません。女性が死んでしまうことによって体臭が消えてしまうからです。実際彼女の体臭はどんどん消えていってしまい、死臭ばかりが強くなっていき、彼は泣きました。彼はこの出来事をきっかけに最高の香水作りに没頭するようになりました。それ以降は故意の殺人を続けたのです。
香りこそ彼の全て。最高の香りを嗅ぎ続けたい。最高の香りを失いたくない。それが彼の望み。
以下、結末に関わるネタバレをします。
完全ネタバレではありませんが、ご注意を。
だからこそわたしはこの映画のラストを本当のラストではない、と感じました。彼の望みは「人に愛されたい」「人に自分のことを忘れないでいて欲しい」「人に自分のことをすごい存在だと思って欲しい」ではないのですから。ましてや「自分のことを愛せるようになりたい」という望みもないような気がします。彼にとって重要なのは彼自身ではないから。重要なのは香り。彼自身には体臭がない、という設定があのラストに至るとも考えにくいです。「この世のあらゆるものには匂いがあるのに、自分には体臭がない」ということにはショックを受けたでしょうが、彼の興味は良い香りを嗅ぐこと。自分や誰かに良い香りをつけることより、嗅ぐことに重点を置いているのです。だから彼が自分に体臭がないことで自暴自棄になったとは考えにくいです。むしろ自分に体臭がないことで、自分の体臭に邪魔されず香りを嗅ぐことができる、と彼ならば考えるはず。また、「最高の香り(初めて殺した女性の)は結局永遠に失われたのだ」ということにはショックを受けたでしょうが・・・彼は世の中には良い体臭の女性が沢山いることを知っているのですから、また探せばいい、という発想に至る可能性が高いと思います。そもそも一滴一滴のオイルを大事に扱う彼があんな無駄使い(これはラストのネタバレになってしまうので詳しく書けません)をするはずがないのです。
本当のラストはこういったものかもしれません。彼は最後のオイルを抽出し、いよいよ最高の香水を完成させようとしていました。しかしその時、殺された女性の父が彼を発見。女性の父は彼に襲いかかりました。2人がもみ合ううちに調合器具が倒れ、完成間際の香水が地面にこぼれていきます。彼は香水を守ろうとして体勢を崩し、女性の父の剣が彼を貫きます。女性の父は娘の仇を討ちました! 香水が全て地面にこぼれるのを嗅覚で感じながら、そのむせかえるような香りに包まれながら、彼は絶命。辺りは香水の香りが包まれます。女性の父はその香りに何故か娘を思い出し、その場から立ち去れなくなる。・・・というラスト。
しかしそれだと映画として面白くないんですよね。正式なラストは彼のラストらしくはないけれど、映画としては正しいと思います。強烈ですもの。
あらすじより考察重視で書いています。
申し訳ありませんがあらすじを知りたい方には参考にならないと思います。
わたしには「このラストは本当のラストではない」と思えてなりません。
嗅覚によって世界を感じる男性、グルヌイユ。
彼はもし「五感のうち感覚を1つか残せない」と言われたなら間違いなく嗅覚を選ぶでしょう。
背後から果物が飛んでくることに嗅覚で気づき、果物と自分との距離を素早く察知してよけることが出来る。
1人1人の体臭を嗅ぎ分け、目標の人物を何キロでも追える。
嗅覚によって人間の体調や気分までも察知することができる。
彼自身には体臭がないため、犬に吠えられることを恐れずにどんな場所へも侵入できる。
グルヌイユ、あなたは刑事になればきっと偉大になれたでしょうに・・・。
彼は香水調合師になってしまいました。
彼は「最高の香水を作りたい。最高の香りを保存したい」という望みを追及した結果、女性たちを殺して女性たちの体臭を集めてしまうようになりました。
人間の体臭を吸い取る脂を女性たちの遺体に塗り、ミイラを包むようにして布で遺体を包んで脂の効能を上げる。
より体臭を集めるため遺体の髪の毛もきれいに剃って、脂まみれになった髪の毛を手で絞る。
布を剥いでいき、遺体についている脂をヘラのような道具で丁寧に集めていく。
布には脂が残っているので、布も絞る。
そうして彼は女性の体臭をたっぷり吸い込んだ脂を手に入れるのです。
しかし1人分の脂から抽出できるオイルはごくわずか。
彼は最高の香水を作り出すために13人もの女性を殺しました。
殺す必要はなかったのに。
女性の体に脂を塗ってしばらく置いた後、脂を集めれば良いだけなのですから。
むしろ彼にとっては、生きている女性から脂を取った方が死臭の混じるリスクを減らせるので都合が良かったはず。
遺体には性的暴行を加えることなく、髪や布と一緒に土に埋めていましたし。
脂さえ集めれば良いだけだったのです。
けれど彼は、良い体臭の女性を見つける度に殴り殺していました。
なぜ? 理由は色々考えられます。
1つは、女性にどうお願いすれば了承してもらえるのかわからなかった、ということ。
ある時彼はどうしていいのかわからず女性を殺してしまったことがあり、その時初めて脂を集めることに成功したので・・・それがクセになってしまったのでしょう。
どうすれば殺さずに済むのかわからないけれど、ともかく殺してしまえば確実に脂を取れる、ということに気づいてしまったのでしょう。
2つめには、恐怖は悪臭を放つから、ということ。彼は女性たちが彼に対して恐怖を抱く前に殺す必要があったのでしょう。脂を集めさせて欲しい、と頼んだら確実に女性は「なにこの人?」と恐怖を抱きます。恐怖による悪臭を混じらせるくらいなら、遺体から死臭が出る前に脂を集めてしまえばいい、と彼は考えたのかもしれません。殴り殺すという殺し方も、全ては体臭を出来るだけ良い状態で集めるためなのかも(クセになったからかもしれませんが)。ナイフで刺したりすれば血の臭いが混じってしまうから。
彼には「殺人犯になりたくない」「死刑になりたくない」などという考えはありません。彼は他の人間と比べて全く異質なのです。彼が初めて女性を殺した時のことを例に挙げて、彼の異質さを説明しましょう。ある時彼は良い体臭の女性を見つけ、彼女をどこまでも追いかけて体臭を嗅ぎ続けました。当然彼女は悲鳴をあげようとしました。彼は慌てて彼女の口を塞ぎ、・・・恐らくは鼻まで塞いでしまったのです。事故といえば事故。殺すつもりは無かったのですから。女性を殺してしまった彼は悲しげな顔をしました。けれどそれは女性の死を哀れんだからではありません。女性が死んでしまうことによって体臭が消えてしまうからです。実際彼女の体臭はどんどん消えていってしまい、死臭ばかりが強くなっていき、彼は泣きました。彼はこの出来事をきっかけに最高の香水作りに没頭するようになりました。それ以降は故意の殺人を続けたのです。
香りこそ彼の全て。最高の香りを嗅ぎ続けたい。最高の香りを失いたくない。それが彼の望み。
以下、結末に関わるネタバレをします。
完全ネタバレではありませんが、ご注意を。
だからこそわたしはこの映画のラストを本当のラストではない、と感じました。彼の望みは「人に愛されたい」「人に自分のことを忘れないでいて欲しい」「人に自分のことをすごい存在だと思って欲しい」ではないのですから。ましてや「自分のことを愛せるようになりたい」という望みもないような気がします。彼にとって重要なのは彼自身ではないから。重要なのは香り。彼自身には体臭がない、という設定があのラストに至るとも考えにくいです。「この世のあらゆるものには匂いがあるのに、自分には体臭がない」ということにはショックを受けたでしょうが、彼の興味は良い香りを嗅ぐこと。自分や誰かに良い香りをつけることより、嗅ぐことに重点を置いているのです。だから彼が自分に体臭がないことで自暴自棄になったとは考えにくいです。むしろ自分に体臭がないことで、自分の体臭に邪魔されず香りを嗅ぐことができる、と彼ならば考えるはず。また、「最高の香り(初めて殺した女性の)は結局永遠に失われたのだ」ということにはショックを受けたでしょうが・・・彼は世の中には良い体臭の女性が沢山いることを知っているのですから、また探せばいい、という発想に至る可能性が高いと思います。そもそも一滴一滴のオイルを大事に扱う彼があんな無駄使い(これはラストのネタバレになってしまうので詳しく書けません)をするはずがないのです。
本当のラストはこういったものかもしれません。彼は最後のオイルを抽出し、いよいよ最高の香水を完成させようとしていました。しかしその時、殺された女性の父が彼を発見。女性の父は彼に襲いかかりました。2人がもみ合ううちに調合器具が倒れ、完成間際の香水が地面にこぼれていきます。彼は香水を守ろうとして体勢を崩し、女性の父の剣が彼を貫きます。女性の父は娘の仇を討ちました! 香水が全て地面にこぼれるのを嗅覚で感じながら、そのむせかえるような香りに包まれながら、彼は絶命。辺りは香水の香りが包まれます。女性の父はその香りに何故か娘を思い出し、その場から立ち去れなくなる。・・・というラスト。
しかしそれだと映画として面白くないんですよね。正式なラストは彼のラストらしくはないけれど、映画としては正しいと思います。強烈ですもの。
ケヴィン・デニー監督 『ピノキオ・シンドローム【吹替版】』
2007年11月6日 映画 検索をかけてくださった方がいたので再UPしました。
『チャイルド・プレイ』を笑い飛ばせる方にしかおすすめしませんが・・・。
*注*ネタバレしております。
この映画に関しては吹替版をおすすめいたします。ピノキオの声がそれはそれは気色悪くてキャラクターにはまっているから(*注*声優さんを賞賛しています)。声質は違うのですが、例えば『ちびまるこちゃん』の藤木くんが「うおおおお」と言いながらナイフで襲いかかってくるのを想像していただくとわかりやすいかも。・・・コメディになっちゃった。
この映画は『チャイルド・プレイ』のピノキオ版と考えていただいて良いと思います。実際、パロディとして製作されたのだと思いますし。似たシーンが随所に溢れています。しかし『チャイルド・プレイ』より『ピノキオ・シンドローム』の方が怖さが上なのではないかとわたしは思います。『チャイルド・プレイ』の場合、チャッキーは殺人鬼の魂が人形の中に入っている、という正体が明かされています。チャッキーが人を殺す動機についても、衝動ゆえであったり快楽のためであるなど理由がはっきりしています。しかし、このピノキオの場合なぜ人形なのに動き回れるのか謎めいています。人を殺す理由もはっきりとは描かれていません。・・・ただ単に製作者が何も考えてなかったからかも? しかしチャッキーと違ってジョークを飛ばすこともなければ、頻繁にお下品な罵声も発すこともないピノキオは不気味です。
このピノキオにはゼペットじいさんもおらず、良心もありません。ピノキオは嘘をつき続けます。そして殺し続けます。ピノキオはこの映画の主人公に操り糸を切ってもらい、自由の身になってしまいました(このシーン怖いです・・・)。人間になれたわけではないのに。悪意の塊であるピノキオが野放しになったまま、映画は終了。チャッキーより始末が悪いです。腑に落ちなさも含めて、鑑賞後の気分は非常に良くないと言えましょう。
『チャイルド・プレイ』を笑い飛ばせる方にしかおすすめしませんが・・・。
*注*ネタバレしております。
この映画に関しては吹替版をおすすめいたします。ピノキオの声がそれはそれは気色悪くてキャラクターにはまっているから(*注*声優さんを賞賛しています)。声質は違うのですが、例えば『ちびまるこちゃん』の藤木くんが「うおおおお」と言いながらナイフで襲いかかってくるのを想像していただくとわかりやすいかも。・・・コメディになっちゃった。
この映画は『チャイルド・プレイ』のピノキオ版と考えていただいて良いと思います。実際、パロディとして製作されたのだと思いますし。似たシーンが随所に溢れています。しかし『チャイルド・プレイ』より『ピノキオ・シンドローム』の方が怖さが上なのではないかとわたしは思います。『チャイルド・プレイ』の場合、チャッキーは殺人鬼の魂が人形の中に入っている、という正体が明かされています。チャッキーが人を殺す動機についても、衝動ゆえであったり快楽のためであるなど理由がはっきりしています。しかし、このピノキオの場合なぜ人形なのに動き回れるのか謎めいています。人を殺す理由もはっきりとは描かれていません。・・・ただ単に製作者が何も考えてなかったからかも? しかしチャッキーと違ってジョークを飛ばすこともなければ、頻繁にお下品な罵声も発すこともないピノキオは不気味です。
このピノキオにはゼペットじいさんもおらず、良心もありません。ピノキオは嘘をつき続けます。そして殺し続けます。ピノキオはこの映画の主人公に操り糸を切ってもらい、自由の身になってしまいました(このシーン怖いです・・・)。人間になれたわけではないのに。悪意の塊であるピノキオが野放しになったまま、映画は終了。チャッキーより始末が悪いです。腑に落ちなさも含めて、鑑賞後の気分は非常に良くないと言えましょう。
ロバート・ゼメキス監督 『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3』
2007年10月16日 映画
クリント・イーストウッドはこの映画を観たのでしょうか。何の気なしに自宅のリビングでこの映画を観ていたクリント・イーストウッド、主人公のマーティが「僕の名前はクリント・イーストウッドだ」と言い出したのを聞いてびっくり! おまけに登場人物たちがマーティに向かって「おはようございますイーストウッドさん」「葉巻をどうぞイーストウッドさん」「イーストウッド!」などといちいち名前を呼ぶものだから、本物のイーストウッドもその度にあの渋い表情で「YES?」とついつい反応してしまう・・・なんてことが起こったかも。
登場人物の持ち物や行動の全てが伏線となるこのシリーズ。最終作となる今作で、マーティは『〜PART?』『〜PART?』で得た教訓を生かし過去も未来を変えてのけます(ネタバレになってしまうので詳しくは書きませんが、「極めて爽快」とだけ書いておきます)。最後にドクがマーティに言う言葉は、このシリーズの締めくくりに相応しい言葉でした。「人間の未来はそもそも白紙だ」。自分たちはデロリアンに乗って歴史を変えたり修正したりを繰り返したけれど、そもそも正しい歴史など無い。自分で作っていくのです。ああ、ネタバレになってしまうからこれ以上書けない。ラストシーンでは、年齢も全く違うドクとマーティの時を超えた友情を感じました。
やっぱりバック・トゥ・ザ・フューチャーは最高。
デロリアンに乗って高速道路で140キロ出してタイムスリップしたい(過去か未来へタイムスリップする前に天国か地獄へノンストップドライビングかも)。
登場人物の持ち物や行動の全てが伏線となるこのシリーズ。最終作となる今作で、マーティは『〜PART?』『〜PART?』で得た教訓を生かし過去も未来を変えてのけます(ネタバレになってしまうので詳しくは書きませんが、「極めて爽快」とだけ書いておきます)。最後にドクがマーティに言う言葉は、このシリーズの締めくくりに相応しい言葉でした。「人間の未来はそもそも白紙だ」。自分たちはデロリアンに乗って歴史を変えたり修正したりを繰り返したけれど、そもそも正しい歴史など無い。自分で作っていくのです。ああ、ネタバレになってしまうからこれ以上書けない。ラストシーンでは、年齢も全く違うドクとマーティの時を超えた友情を感じました。
やっぱりバック・トゥ・ザ・フューチャーは最高。
デロリアンに乗って高速道路で140キロ出してタイムスリップしたい(過去か未来へタイムスリップする前に天国か地獄へノンストップドライビングかも)。
芝山努監督 『映画ドラえもん のび太とブリキの迷宮』
2007年8月30日 映画
ドラえもんが拷問されたり、ドラえもんが壊れてしまったり、ドラえもんが海に捨てられたりと、色々怖い映画です。
上下感覚を狂わせる大迷宮や、ロボットに頼りすぎて1人では歩くこともできなくなった人間たちなど、大人にも怖さを感じさせる要素がてんこもり。
特に、人間たちを支配するロボットの親玉・ナポギストラーの最期はトラウマもの。
しかしこの映画、ツッコミどころもてんこもりです。異次元空間を扱うほどの技術があるのに、なぜかポンポン船で移動するガリオン家(派手な動きをしてナポギストラーに勘づかれないため、かもしれないけれど。もしかしたら速さより浪漫という価値観なのかもしれませんね。わたしも船酔いさえしなければ賛同するのですが・・・)。
両親と別れる際「お父さん! お母さ〜ん! お父さ〜ん! お母さ〜ん! お母さ〜ん!」とお父さんを順番通りに呼んでくれなかったサピオ(ガリオン家長男で、のび太たちをこの事件に巻き込んだ少年)。
大型自動車を運転したり飛行機を操縦できるスネオ。
のび太が何日も帰ってこないのにいつも通り何事もない様子の野比家。
同じく、しずかちゃんが帰ってこないのに静かな源家。
長い間会っていないし居場所すらわからない父が残したメッセージを最後まで聞こうとしないサピオ。
サンタさんがまだ目の前にいるのに、ついさっきサンタさんがくれたおもちゃを改造しようと話す子どもたち。
もともと自力で歩けないほど弱っていて、しかも長い間陽の差さない収容所に閉じ込められていたはずなのに、収容所を出る頃には元気いっぱいに歩いている人間たち。なんという回復力。収容所内でリハビリをしていたのでしょうか・・・? いや、でもつい昨日くらいまで自力で歩けなかったサピオまでしっかり自分の足で土を踏みしめていますよ。一体どうして・・・?? ハッ、もしやクララ(『アルプスの少女ハイジ』のキャラクターです)と同じ原理で、「立とうとしていないだけで、本当は立ち上がる力があるんだよ」というメッセージを孕んでいるのでしょうか? ・・・なのかなあ。
わたしは初めて観た時からこの映画の異色ぶりが大好きで、「怖いなあ」と思いながらも何十回と観たのですが、それはツッコミどころが多かったことで怖さを中和できたからかなと思います。
怖さと笑いの混在。これからこの映画観るよという方は是非ツッコミを入れつつご覧になってください。
ジャイアンの「どんなもんだ?」としずかちゃんの「ぱんつ!?」は最高。
上下感覚を狂わせる大迷宮や、ロボットに頼りすぎて1人では歩くこともできなくなった人間たちなど、大人にも怖さを感じさせる要素がてんこもり。
特に、人間たちを支配するロボットの親玉・ナポギストラーの最期はトラウマもの。
しかしこの映画、ツッコミどころもてんこもりです。異次元空間を扱うほどの技術があるのに、なぜかポンポン船で移動するガリオン家(派手な動きをしてナポギストラーに勘づかれないため、かもしれないけれど。もしかしたら速さより浪漫という価値観なのかもしれませんね。わたしも船酔いさえしなければ賛同するのですが・・・)。
両親と別れる際「お父さん! お母さ〜ん! お父さ〜ん! お母さ〜ん! お母さ〜ん!」とお父さんを順番通りに呼んでくれなかったサピオ(ガリオン家長男で、のび太たちをこの事件に巻き込んだ少年)。
大型自動車を運転したり飛行機を操縦できるスネオ。
のび太が何日も帰ってこないのにいつも通り何事もない様子の野比家。
同じく、しずかちゃんが帰ってこないのに静かな源家。
長い間会っていないし居場所すらわからない父が残したメッセージを最後まで聞こうとしないサピオ。
サンタさんがまだ目の前にいるのに、ついさっきサンタさんがくれたおもちゃを改造しようと話す子どもたち。
もともと自力で歩けないほど弱っていて、しかも長い間陽の差さない収容所に閉じ込められていたはずなのに、収容所を出る頃には元気いっぱいに歩いている人間たち。なんという回復力。収容所内でリハビリをしていたのでしょうか・・・? いや、でもつい昨日くらいまで自力で歩けなかったサピオまでしっかり自分の足で土を踏みしめていますよ。一体どうして・・・?? ハッ、もしやクララ(『アルプスの少女ハイジ』のキャラクターです)と同じ原理で、「立とうとしていないだけで、本当は立ち上がる力があるんだよ」というメッセージを孕んでいるのでしょうか? ・・・なのかなあ。
わたしは初めて観た時からこの映画の異色ぶりが大好きで、「怖いなあ」と思いながらも何十回と観たのですが、それはツッコミどころが多かったことで怖さを中和できたからかなと思います。
怖さと笑いの混在。これからこの映画観るよという方は是非ツッコミを入れつつご覧になってください。
ジャイアンの「どんなもんだ?」としずかちゃんの「ぱんつ!?」は最高。
ダグ・リーマン監督 『Mr.&Mrs.スミス』
2007年7月26日 映画
*注*完全ネタバレをしています。ご注意ください。
この2人の夫婦喧嘩はスケールが違います。
旦那さんは殺し屋で、奥さんも殺し屋で、しかしそれをお互い知らずに5年間暮らしてきたスミス夫妻。仕事中接触したことによって2人はお互いの正体を知ります。お互いライバル組織の一員であり、顔を知られたからには始末しなければならない、と。
ミセス・スミスは撃ちます。ミスター・スミスも撃ちます。家の中で銃撃戦を繰り広げ、5年間の思い出の品はぼろぼろ。家具も家もぼろぼろです。お互い笑いながら容赦なく撃ちまくる様は、日ごろの鬱憤を晴らす夫婦喧嘩のよう。
しかしマシンガンやナイフや拳で攻撃しても、「相手はうまくよけてくれる」という安心感をお互い持っています。きっと相手はまた攻撃してくる、どんな方法でくるかな、どうよけようか、どう反撃しようか、とワクワクしている。噛みつき合って遊んでいる肉食獣のカップルそのもの。闘っているうちに、どれだけ相手が強いのか、どれだけ自分と相性が良いのかわかって、スミス夫妻はこれまで5年間の結婚生活では知り得なかったお互いの過激な魅力に惚れるのです。殺したくても殺せない、と。
やがてスミス夫妻はお互いの組織が実は自分たちを始末するために今回の事件、2人が仕事中接触する事件を仕組んだことを知ります。最強の敵は最強の味方。2人が組めば怖いものなし。2人はお互いの組織と闘います。銃を持った何十人ものプロに囲まれても、そのプロたちと車でカーチェイスしても、必ず勝つ。2人に不利な状況などない。
アンジェリーナ・ジョリー演じるミセス・スミスはブラッド・ピット演じるミスター・スミスに言います。まっすぐに彼の目を見ながら。”There’s nowhere I’d rather be than right hire,with you.”。わたしが一番居たい場所はあなたのすぐ隣だ、と。ミスター・スミスは本当に嬉しそうに笑います。あの笑顔は本物。この映画をきっかけにアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットは夫婦になったのが、その証明です。お互い映画の世界で戦う者同士、夫婦というだけでなく良きライバルで良き味方という結びつきの強さを感じさせます。なんて格好いい夫婦。
ラストシーンで、事故車を通り越してもはやボロボロ車になった車に乗って、行き先もわからぬまま走る2人の表情はとっても晴れ晴れとしていました。
この映画、単に夫婦喧嘩をテーマにしたアクションコメディかと思いきや、倦怠期の夫婦がお互いの新たな魅力に気づきこれまでより強く結ばれる様子も描かれていました。むしろこちらの方が重点を置かれているように感じます(6:4くらいで)。5年間も一緒に暮らしてきたんだから言わなくても自分の気持をわかってよ、とついつい会話や夜の生活などの愛情表現を疎かにしてしまう描写。近くにいるのに距離がある。ホームパーティーの際近所の奥さんに赤ん坊をしばらく抱いていてくれ、と言われて仕方なく赤ちゃんを抱っこし、赤ちゃんが自分を見て笑ってくれたことに困惑しつつも心を揺らすミセス・スミスとそんな妻の表情と妻が赤ん坊を抱いている姿を見て何かを思っているミスター・スミス。
この映画を観るときは、是非ご夫婦揃ってどうぞ。でも銃撃戦はしないでくださいね。お皿を投げつけるとかなら死なないと思うのでどうぞ(危険です!)。
この2人の夫婦喧嘩はスケールが違います。
旦那さんは殺し屋で、奥さんも殺し屋で、しかしそれをお互い知らずに5年間暮らしてきたスミス夫妻。仕事中接触したことによって2人はお互いの正体を知ります。お互いライバル組織の一員であり、顔を知られたからには始末しなければならない、と。
ミセス・スミスは撃ちます。ミスター・スミスも撃ちます。家の中で銃撃戦を繰り広げ、5年間の思い出の品はぼろぼろ。家具も家もぼろぼろです。お互い笑いながら容赦なく撃ちまくる様は、日ごろの鬱憤を晴らす夫婦喧嘩のよう。
しかしマシンガンやナイフや拳で攻撃しても、「相手はうまくよけてくれる」という安心感をお互い持っています。きっと相手はまた攻撃してくる、どんな方法でくるかな、どうよけようか、どう反撃しようか、とワクワクしている。噛みつき合って遊んでいる肉食獣のカップルそのもの。闘っているうちに、どれだけ相手が強いのか、どれだけ自分と相性が良いのかわかって、スミス夫妻はこれまで5年間の結婚生活では知り得なかったお互いの過激な魅力に惚れるのです。殺したくても殺せない、と。
やがてスミス夫妻はお互いの組織が実は自分たちを始末するために今回の事件、2人が仕事中接触する事件を仕組んだことを知ります。最強の敵は最強の味方。2人が組めば怖いものなし。2人はお互いの組織と闘います。銃を持った何十人ものプロに囲まれても、そのプロたちと車でカーチェイスしても、必ず勝つ。2人に不利な状況などない。
アンジェリーナ・ジョリー演じるミセス・スミスはブラッド・ピット演じるミスター・スミスに言います。まっすぐに彼の目を見ながら。”There’s nowhere I’d rather be than right hire,with you.”。わたしが一番居たい場所はあなたのすぐ隣だ、と。ミスター・スミスは本当に嬉しそうに笑います。あの笑顔は本物。この映画をきっかけにアンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットは夫婦になったのが、その証明です。お互い映画の世界で戦う者同士、夫婦というだけでなく良きライバルで良き味方という結びつきの強さを感じさせます。なんて格好いい夫婦。
ラストシーンで、事故車を通り越してもはやボロボロ車になった車に乗って、行き先もわからぬまま走る2人の表情はとっても晴れ晴れとしていました。
この映画、単に夫婦喧嘩をテーマにしたアクションコメディかと思いきや、倦怠期の夫婦がお互いの新たな魅力に気づきこれまでより強く結ばれる様子も描かれていました。むしろこちらの方が重点を置かれているように感じます(6:4くらいで)。5年間も一緒に暮らしてきたんだから言わなくても自分の気持をわかってよ、とついつい会話や夜の生活などの愛情表現を疎かにしてしまう描写。近くにいるのに距離がある。ホームパーティーの際近所の奥さんに赤ん坊をしばらく抱いていてくれ、と言われて仕方なく赤ちゃんを抱っこし、赤ちゃんが自分を見て笑ってくれたことに困惑しつつも心を揺らすミセス・スミスとそんな妻の表情と妻が赤ん坊を抱いている姿を見て何かを思っているミスター・スミス。
この映画を観るときは、是非ご夫婦揃ってどうぞ。でも銃撃戦はしないでくださいね。お皿を投げつけるとかなら死なないと思うのでどうぞ(危険です!)。
ロバート・ゼメキス監督 『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』
2007年7月2日 映画
今自分が生きている現在は、この映画のマーティのように、過去の自分や未来の自分が懸命に与えてくれた現在なのかもしれない。
現在の自分にはそれを知る由はないけれど。もしかしたら現在の自分の後ろでは、過去或いは未来の自分が、現在の自分を見守ってくれているのかもしれない。
この映画のPART1のマーティも、まさか自分の後ろに未来の自分(PART2のマーティ)がいて、自分を応援しているなんて思いもよらない。PART2のマーティ自身も未来を変えるために頑張っている途中で、PART1のマーティを「俺も頑張ってるけど、あいつも頑張ってるんだな」と言っているかのような優しい目で見ている。
このシーン大好き。
過去の自分にとっても未来の自分にとっても、今自分が生きている現在って大事なんだな、と気づくことができるから。
そして、マーティにドクがいるように、自分にも自分の未来を心配してくれる人がいるということにも気づける・・・この映画大好きです。
悪役が毎回馬糞を浴びるのもスカッとしますし。(^皿^) アメリカ映画の良さがありますよね。悪役を追いかけたり逆に追いかけられて殺されそうになったりスリル満点で、何度も途方に暮れて・・・しかし最後には悪役が馬糞を浴びる!
でもそれでめでたしめでたし、とはいかないのです。新たな試練が待っているのです。
PART2で、ドクが誤って開拓時代にタイムスリップしてしまったのです。PART1でもPART2でも自分を救ってくれたドクを、今度はマーティが助けに行かなければなりません。デロリアンに乗って。
・・・でもデロリアン、故障しやすいからなあ。大丈夫かなあ。ドラえも〜ん、のび太よりマーティにタイムマシンを貸してあげて。
現在の自分にはそれを知る由はないけれど。もしかしたら現在の自分の後ろでは、過去或いは未来の自分が、現在の自分を見守ってくれているのかもしれない。
この映画のPART1のマーティも、まさか自分の後ろに未来の自分(PART2のマーティ)がいて、自分を応援しているなんて思いもよらない。PART2のマーティ自身も未来を変えるために頑張っている途中で、PART1のマーティを「俺も頑張ってるけど、あいつも頑張ってるんだな」と言っているかのような優しい目で見ている。
このシーン大好き。
過去の自分にとっても未来の自分にとっても、今自分が生きている現在って大事なんだな、と気づくことができるから。
そして、マーティにドクがいるように、自分にも自分の未来を心配してくれる人がいるということにも気づける・・・この映画大好きです。
悪役が毎回馬糞を浴びるのもスカッとしますし。(^皿^) アメリカ映画の良さがありますよね。悪役を追いかけたり逆に追いかけられて殺されそうになったりスリル満点で、何度も途方に暮れて・・・しかし最後には悪役が馬糞を浴びる!
でもそれでめでたしめでたし、とはいかないのです。新たな試練が待っているのです。
PART2で、ドクが誤って開拓時代にタイムスリップしてしまったのです。PART1でもPART2でも自分を救ってくれたドクを、今度はマーティが助けに行かなければなりません。デロリアンに乗って。
・・・でもデロリアン、故障しやすいからなあ。大丈夫かなあ。ドラえも〜ん、のび太よりマーティにタイムマシンを貸してあげて。
原恵一監督 『映画クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶジャングル』
2007年6月19日 映画
アクション仮面大活躍。
ヒーローは現実でもヒーローなのです。
前半ではかすかべ防衛隊が、後半ではしんちゃんも頑張っていたのに、わたしは最後のアクション仮面の戦いに目が釘付けになってしまいました。
いくら自分のファンである子どもたちが見ているからといっても、いかれた相手と自分の現実の力で戦い傷つきながらも諦めずに戦い続けるような、ヒーロー役の俳優さんは・・・いるのでしょうか?(いて欲しいな) 更に、ダイナマイトを持っている相手へ向かって猛然と空を飛んでいき、相手の空飛ぶ乗り物にしがみついて、落とされそうになりながらも懸命に耐え、最後には勝つなんて。しかも子どもの夢を壊さない。しんちゃんの願いがあったからとはいえ、アクション仮面は相手にとどめを刺すチャンスがあったのに相手を助けた。
すごいよ本当のヒーローだよ!
子どもの感性は本物を見抜きます。紛い物のヒーローにしんちゃんが魅了されるはずがない。アクション仮面も俳優さんも本物のヒーローだから、しんちゃんはアクション仮面に夢中。
…でもわたし、対照的なぶりぶりざえもんも好きです。色んなタイプのヒーローがいて、そのヒーローにしか対処できないことってありますよね。もしも今回の映画に出てきたのがアクション仮面ではなくぶりぶりざえもんだったら、とか、カンタムロボだったら、と想像すると面白いです。…ぶりぶりざえもんだったら「わたしは強い者の味方だ」と相手側についちゃったかも?
ヒーローは現実でもヒーローなのです。
前半ではかすかべ防衛隊が、後半ではしんちゃんも頑張っていたのに、わたしは最後のアクション仮面の戦いに目が釘付けになってしまいました。
いくら自分のファンである子どもたちが見ているからといっても、いかれた相手と自分の現実の力で戦い傷つきながらも諦めずに戦い続けるような、ヒーロー役の俳優さんは・・・いるのでしょうか?(いて欲しいな) 更に、ダイナマイトを持っている相手へ向かって猛然と空を飛んでいき、相手の空飛ぶ乗り物にしがみついて、落とされそうになりながらも懸命に耐え、最後には勝つなんて。しかも子どもの夢を壊さない。しんちゃんの願いがあったからとはいえ、アクション仮面は相手にとどめを刺すチャンスがあったのに相手を助けた。
すごいよ本当のヒーローだよ!
子どもの感性は本物を見抜きます。紛い物のヒーローにしんちゃんが魅了されるはずがない。アクション仮面も俳優さんも本物のヒーローだから、しんちゃんはアクション仮面に夢中。
…でもわたし、対照的なぶりぶりざえもんも好きです。色んなタイプのヒーローがいて、そのヒーローにしか対処できないことってありますよね。もしも今回の映画に出てきたのがアクション仮面ではなくぶりぶりざえもんだったら、とか、カンタムロボだったら、と想像すると面白いです。…ぶりぶりざえもんだったら「わたしは強い者の味方だ」と相手側についちゃったかも?
中島哲也監督 『下妻物語』
2007年6月2日 映画
冷めたロリータと純情なヤンキーのおはなし。
原作は嶽本野ばらさん。
本編が始まる前の画面にバーンと黄色い「和亜任愚」の文字が出てきました。ワーニング・・・ワーニングを当て字に? 暴走族が着る特攻服の刺繍風の書体で? 映画が始まる前のその注意事項は「どーぞなにゆえ、ご理解ください」とシメられてしまいました。はーい、ご理解致しました。
これは絶対面白い映画だぞ、遊び心あるぞ、とわくわくしているうちに本編スタート。
ふりふりのBABY,THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服を着た深田恭子さん、可愛いっ。BABYのお洋服はレースとフリルと刺繍が満載の、乙女のためのお洋服。そのお洋服が似合うくるくるの金髪をしている女の子、それが深田恭子さん演じる竜ヶ崎桃子。好きな音楽はヨハン・シュトラウス。好きなイラストレーターは高橋真琴(ですよね?)。趣味は刺繍。腕力も握力もないし泳ぐこともできません。体育はいつも見学。ちょっとしたことですぐ気を失うところなんて、ロココ時代の貴婦人のよう? 彼女の楽しみは、茨城県下妻から東京代官山のBABYのお店までお洋服を買いに行くこと。BABYの真っ白な靴で牛さんの落とし物を踏んでしまい落とし物を取ろうと一生懸命地面に靴をこすり付けているところ、下唇をぷくっと出して困った表情をしているところ、イチコの名前を知って作り笑いではなく心からニマッと笑っているところ、竜二が白いエナメルの靴を履いていることに気づき口をあんぐり開けている表情・・・可愛いところを挙げだしたらきりがありません。けれど彼女は冷めたロリータ。可愛いのにどこか残酷な香り。「人は一人じゃ生きられないなんて、だったらわたしは人じゃなくていい」と桃子は言います。友達はいないし友達を必要ともしません。彼女は全てを客観視しているようです。
長〜いスカートを穿きサングラスをかけ黒い口紅を塗り目を黒く濃く囲んだ土屋アンナさんは、純情なヤンキー・白百合イチコ役・・・でも本当はイチコじゃないんですよ(彼女の意思を酌んで「イチコ」と書き続けますね)。ばりばりに改造したバイク・・・ではなく原動機付き自転車でぱらりらぱらりらと御登場。ぶうんぶうんと砂埃をあげ、睨みを効かせ、ガムをくちゃくちゃ噛みながら気だるそうに歩みを進めるその姿。なんか格好いい!とわたしはうっかりキャーキャー言ってしまいました。「ならば桃子さんに、お引継ぎ、いただけますでしょうか」。・・・イチコ、日本語が不自由です。「〜コラァ!」「すっげえ」「〜ねえかよ!」。特攻服の背中には「御意見無様」の文字。・・・マジで無様っすアネゴっ・・・。髪の毛は金色と黒が混じっているいわゆるプリン状態で、所作もワイルド。白目もむきます。けれどイチコはとっても純情なのです。人なつっこいのです。熱いのです。はっきり言うと、転校生の女の子へ淡い恋心を抱いているガキ大将みたいなのです(わかりにくいたとえですねー)。自分と全然違うタイプの桃子に興味津々で、何かと桃子の家へ遊びに行っては自分の主義や夢について長々と語り、桃子に将来のことについてお説教をし、構ってもらえないとストローで飲み物に泡を立てたり桃子が音楽を聴いているのにヘッドフォンを取ったり自分の鼻の穴にタバコを入れて火をつけてみたりとちょっかいを出してばっかりで、頭突きやら蹴りやら暴力もふるいます。でもイチコの目はきらきらしています。パチンコ屋で尾崎豊の曲が流れてきたことにニヤリと笑い「負ける気がしねぇぜ☆」と挑んだのに惨敗してパチンコ台に倒れかかったところ、可愛かった。
育った環境も主義も服装も全然違う2人ですが、やがては仲良くなっていきます。
それはきっと、お互いがお互いの分身のような面を持っているから。
桃子にも気性の激しい面があるし、イチコにも女の子らしいウブな面がある。人に誤解をされることを恐れていない。極端な服装(桃子いわく「人は見ためだもの」。服装は本人を表すんですよね)。自分自身に正直。でも桃子は「ねじまがってまーす」と本人が言う通りやっぱりどこかが極端に曲がっていて、イチコはまっすぐ。
お互い同じ面がありつつも全然違うから惹かれ合うのだと思います。磁石のS極とM極みたいに。
けれど、もしこの2人が同性同士ではなく異性だったとしても恋愛には発展しそうにない感じがします。イチコは桃子に惚れまくりかもしれませんが、桃子は一生恋愛に興味を示すことがないかもしれませんから。だってロリータなのですもの。
以下は徒然なるままにつぶやきを書いていきます。
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高橋真琴さんの本『ロリータの一生』、実際に出版されていたらいいのに(あれって高橋真琴さんのイラストですよね?)。
桃子とパチンコ屋の店長と店員が偶然3人とも赤いチェック柄を着ていて、桃子だけがそれに気づいていたのには笑いました。桃子って、色んなことをよく見ているのですね。竜二の白いエナメルの靴にもすぐ気がついたし。
この映画のナレーターは深田恭子さん。甘い声なのに淡々と話すのが素敵。
竜二役の安倍サダヲさん、まさか1人2役をやっていたとは・・・。てっきり産婦人科医役は及川ミッチーかと。
BABYの社長さんが本当に岡田義徳さんが演じてらっしゃるような方(小指を立ててる感じ)だったら面白いのに。でも実際の磯部社長はごく普通の方だそうですよ。虚構と現実とはちゃんと区別しなくっちゃあね。
篠原涼子さん、せくしー!!
わたしも希林樹木さん演じる桃子の祖母のように、誰かに「おめの道を行け」と言えるようになりたいです。こういうこと言ってくれる人、なかなかいないですもの。わたしも誰かに言って欲しいですし。
あの八百屋さんどうなったのでしょ。野菜が結ぶ恋の行方は?
それにしても「自分捨てなきゃ大人になれねぇんだったらアタイはガキのまんまでいいっすよ!」と啖呵を切った時のイチコ、格好良かったなあ。
原作は嶽本野ばらさん。
本編が始まる前の画面にバーンと黄色い「和亜任愚」の文字が出てきました。ワーニング・・・ワーニングを当て字に? 暴走族が着る特攻服の刺繍風の書体で? 映画が始まる前のその注意事項は「どーぞなにゆえ、ご理解ください」とシメられてしまいました。はーい、ご理解致しました。
これは絶対面白い映画だぞ、遊び心あるぞ、とわくわくしているうちに本編スタート。
ふりふりのBABY,THE STARS SHINE BRIGHTのお洋服を着た深田恭子さん、可愛いっ。BABYのお洋服はレースとフリルと刺繍が満載の、乙女のためのお洋服。そのお洋服が似合うくるくるの金髪をしている女の子、それが深田恭子さん演じる竜ヶ崎桃子。好きな音楽はヨハン・シュトラウス。好きなイラストレーターは高橋真琴(ですよね?)。趣味は刺繍。腕力も握力もないし泳ぐこともできません。体育はいつも見学。ちょっとしたことですぐ気を失うところなんて、ロココ時代の貴婦人のよう? 彼女の楽しみは、茨城県下妻から東京代官山のBABYのお店までお洋服を買いに行くこと。BABYの真っ白な靴で牛さんの落とし物を踏んでしまい落とし物を取ろうと一生懸命地面に靴をこすり付けているところ、下唇をぷくっと出して困った表情をしているところ、イチコの名前を知って作り笑いではなく心からニマッと笑っているところ、竜二が白いエナメルの靴を履いていることに気づき口をあんぐり開けている表情・・・可愛いところを挙げだしたらきりがありません。けれど彼女は冷めたロリータ。可愛いのにどこか残酷な香り。「人は一人じゃ生きられないなんて、だったらわたしは人じゃなくていい」と桃子は言います。友達はいないし友達を必要ともしません。彼女は全てを客観視しているようです。
長〜いスカートを穿きサングラスをかけ黒い口紅を塗り目を黒く濃く囲んだ土屋アンナさんは、純情なヤンキー・白百合イチコ役・・・でも本当はイチコじゃないんですよ(彼女の意思を酌んで「イチコ」と書き続けますね)。ばりばりに改造したバイク・・・ではなく原動機付き自転車でぱらりらぱらりらと御登場。ぶうんぶうんと砂埃をあげ、睨みを効かせ、ガムをくちゃくちゃ噛みながら気だるそうに歩みを進めるその姿。なんか格好いい!とわたしはうっかりキャーキャー言ってしまいました。「ならば桃子さんに、お引継ぎ、いただけますでしょうか」。・・・イチコ、日本語が不自由です。「〜コラァ!」「すっげえ」「〜ねえかよ!」。特攻服の背中には「御意見無様」の文字。・・・マジで無様っすアネゴっ・・・。髪の毛は金色と黒が混じっているいわゆるプリン状態で、所作もワイルド。白目もむきます。けれどイチコはとっても純情なのです。人なつっこいのです。熱いのです。はっきり言うと、転校生の女の子へ淡い恋心を抱いているガキ大将みたいなのです(わかりにくいたとえですねー)。自分と全然違うタイプの桃子に興味津々で、何かと桃子の家へ遊びに行っては自分の主義や夢について長々と語り、桃子に将来のことについてお説教をし、構ってもらえないとストローで飲み物に泡を立てたり桃子が音楽を聴いているのにヘッドフォンを取ったり自分の鼻の穴にタバコを入れて火をつけてみたりとちょっかいを出してばっかりで、頭突きやら蹴りやら暴力もふるいます。でもイチコの目はきらきらしています。パチンコ屋で尾崎豊の曲が流れてきたことにニヤリと笑い「負ける気がしねぇぜ☆」と挑んだのに惨敗してパチンコ台に倒れかかったところ、可愛かった。
育った環境も主義も服装も全然違う2人ですが、やがては仲良くなっていきます。
それはきっと、お互いがお互いの分身のような面を持っているから。
桃子にも気性の激しい面があるし、イチコにも女の子らしいウブな面がある。人に誤解をされることを恐れていない。極端な服装(桃子いわく「人は見ためだもの」。服装は本人を表すんですよね)。自分自身に正直。でも桃子は「ねじまがってまーす」と本人が言う通りやっぱりどこかが極端に曲がっていて、イチコはまっすぐ。
お互い同じ面がありつつも全然違うから惹かれ合うのだと思います。磁石のS極とM極みたいに。
けれど、もしこの2人が同性同士ではなく異性だったとしても恋愛には発展しそうにない感じがします。イチコは桃子に惚れまくりかもしれませんが、桃子は一生恋愛に興味を示すことがないかもしれませんから。だってロリータなのですもの。
以下は徒然なるままにつぶやきを書いていきます。
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高橋真琴さんの本『ロリータの一生』、実際に出版されていたらいいのに(あれって高橋真琴さんのイラストですよね?)。
桃子とパチンコ屋の店長と店員が偶然3人とも赤いチェック柄を着ていて、桃子だけがそれに気づいていたのには笑いました。桃子って、色んなことをよく見ているのですね。竜二の白いエナメルの靴にもすぐ気がついたし。
この映画のナレーターは深田恭子さん。甘い声なのに淡々と話すのが素敵。
竜二役の安倍サダヲさん、まさか1人2役をやっていたとは・・・。てっきり産婦人科医役は及川ミッチーかと。
BABYの社長さんが本当に岡田義徳さんが演じてらっしゃるような方(小指を立ててる感じ)だったら面白いのに。でも実際の磯部社長はごく普通の方だそうですよ。虚構と現実とはちゃんと区別しなくっちゃあね。
篠原涼子さん、せくしー!!
わたしも希林樹木さん演じる桃子の祖母のように、誰かに「おめの道を行け」と言えるようになりたいです。こういうこと言ってくれる人、なかなかいないですもの。わたしも誰かに言って欲しいですし。
あの八百屋さんどうなったのでしょ。野菜が結ぶ恋の行方は?
それにしても「自分捨てなきゃ大人になれねぇんだったらアタイはガキのまんまでいいっすよ!」と啖呵を切った時のイチコ、格好良かったなあ。
デイビッド・フランケル監督 『プラダを着た悪魔』
2007年5月23日 映画
働く女性たちへの強いメッセージだけでなく、映画として楽しませようという作り手の想いも感じられる映画。そして様々なファッションの中でも特別な存在として描かれているのが、靴。
高い高いヒールの靴で颯爽と歩く女性を、わたしは尊敬しています。歩きにくさや痛さなんて傍目からは微塵も感じさせず顔には笑顔さえ浮かべて、時にはその高い高いヒールの靴のまま走り回ることだって出来る。並大抵の体力・美意識・根性では不可能です。気を抜けばそのヒールの高さゆえに体はいつの間にか前傾姿勢を取ってしまうため、常に背筋を伸ばした姿勢でいる集中力も必要。『プラダを着た悪魔』にはそれらの力を備えた女性たちが登場します。高いヒールの靴が履いていて辛いものならば低いヒールの靴を履けばいいのに、という考えは不適切です。靴は人を今居る場所とは違う場所へ連れて行ってくれる物。もしその人が高いヒールの靴以外は相応しくない場所へ行くことを望み、更にその場所に居続けたいのであれば、高いヒールの靴は絶対に必要なのです。
『プラダを着た悪魔』はファッション誌の編集部を舞台にした映画。しかもただのファッション誌ではなく世界的に有名な雑誌という設定。それなのに主人公・アンドレアはおしゃれに疎いまま、その雑誌に目を通すこともしないまま、編集長付きアシスタントとして採用されてしまいました。スタイリッシュという言葉からどこまでも縁遠い服を着る彼女・・・。特に、編集部に面接のためやって来た時の彼女の髪は「ぼさぼさ」という言葉以外では形容しがたいです。そんなアンドレアを演じるのは天使のような魅力も小悪魔のような魅力も併せ持つアン・ハサウェイ。彼女はこの映画によって、どんなに元が美しい女性でもいい加減な格好をしていると内面までいい加減に見えるという教訓を示してくれました。アンドレアは中身が変わっていくと同時に、着る服も履く靴も髪型もメイクも変化していきます。その変化を観客が常に追えるようにこの映画のカメラワークは展開されています。
結末についてはきゅっと口を噤もうと思います。結末におけるアンドレアの変化も、観る人によっては非常に意見の分かれるものですし・・・。けれどこれだけは言わせてください。結末の、ある登場人物2人の表情に注目です。その2人もアンドレアと同様葛藤を抱えて生きてきて、アンドレアによって今その葛藤を少しでも自分なりに受け入れることが出来たのだ、と感じさせる表情。きっとその表情を見るだけで、この映画を観て良かったと思えますから。
高い高いヒールの靴で颯爽と歩く女性を、わたしは尊敬しています。歩きにくさや痛さなんて傍目からは微塵も感じさせず顔には笑顔さえ浮かべて、時にはその高い高いヒールの靴のまま走り回ることだって出来る。並大抵の体力・美意識・根性では不可能です。気を抜けばそのヒールの高さゆえに体はいつの間にか前傾姿勢を取ってしまうため、常に背筋を伸ばした姿勢でいる集中力も必要。『プラダを着た悪魔』にはそれらの力を備えた女性たちが登場します。高いヒールの靴が履いていて辛いものならば低いヒールの靴を履けばいいのに、という考えは不適切です。靴は人を今居る場所とは違う場所へ連れて行ってくれる物。もしその人が高いヒールの靴以外は相応しくない場所へ行くことを望み、更にその場所に居続けたいのであれば、高いヒールの靴は絶対に必要なのです。
『プラダを着た悪魔』はファッション誌の編集部を舞台にした映画。しかもただのファッション誌ではなく世界的に有名な雑誌という設定。それなのに主人公・アンドレアはおしゃれに疎いまま、その雑誌に目を通すこともしないまま、編集長付きアシスタントとして採用されてしまいました。スタイリッシュという言葉からどこまでも縁遠い服を着る彼女・・・。特に、編集部に面接のためやって来た時の彼女の髪は「ぼさぼさ」という言葉以外では形容しがたいです。そんなアンドレアを演じるのは天使のような魅力も小悪魔のような魅力も併せ持つアン・ハサウェイ。彼女はこの映画によって、どんなに元が美しい女性でもいい加減な格好をしていると内面までいい加減に見えるという教訓を示してくれました。アンドレアは中身が変わっていくと同時に、着る服も履く靴も髪型もメイクも変化していきます。その変化を観客が常に追えるようにこの映画のカメラワークは展開されています。
結末についてはきゅっと口を噤もうと思います。結末におけるアンドレアの変化も、観る人によっては非常に意見の分かれるものですし・・・。けれどこれだけは言わせてください。結末の、ある登場人物2人の表情に注目です。その2人もアンドレアと同様葛藤を抱えて生きてきて、アンドレアによって今その葛藤を少しでも自分なりに受け入れることが出来たのだ、と感じさせる表情。きっとその表情を見るだけで、この映画を観て良かったと思えますから。
デイヴィッド・エリス監督 『デッドコースター ファイナル・デスティネーション2』
2007年4月21日 映画
続編ものは面白くない、というセオリーをうまく壊してくれました。前作を観てからこの映画を観た方がより楽しめる(=怖い)という作りになっています。
※注意※
以下はかなりのネタバレをしています。ラストまでは明かしませんが、ネタバレが嫌いな方、残酷な描写が苦手な方には以下の文章をおすすめしません。
友人たちを乗せた車でハイウェイに入ろうとしていた主人公・キンバリーは、奇妙なイメージを見ます。自分たちがハイウェイを走っているとしばらくして貨物自動車が積んでいた材木が落ちてきて何台もの車が横転し玉突きする大事故が起こり、自分たちも大型自動車が突っ込んできて死ぬという、幻にしては余りに生々しいイメージを。彼女は以前、自分たちの乗る飛行機が事故に遭うという予知をした1人の乗客が他の乗客数人を連れ飛行機を降りたところ、その飛行機が飛び立った直後爆発したという180便のニュースを知っていたため(前作の映画『ファイナル・デスティネーション』の内容)、自分も予知をしたのだと確信。彼女はハイウェイ入り口の道路をふさぎ、自分の見たイメージで死んでいった人たちをハイウェイに入れないことで救おうとします。道路をふさいでいるわけですから当然警官がやって来て彼女に「どうしたのか」と尋ね、事情を聞くため彼女を車から降ろします。友人たちは車に残ったまま。その直後彼女が予知した、大事故を起こす原因となる貨物自動車がハイウェイを走っていき・・・予知は現実になりました。けれど、わたしたちは助かった、と安堵するのはまだ早い。大型自動車が突っ込んできて、車に乗っていた友人たちは死亡。結局、車から降りていた彼女は助かり、死ぬはずだった数人のたちも彼女が道路をふさいだおかげで助かるという結果になりました。・・・まるで180便の事故のように。
180便の事故には続きがあります。事故での死を免れた数人の乗客たちは、死ぬはずだった順番通りにその後不可解な死を遂げたのです。もしかしたら自分たちも・・・!? とハイウェイ事故の生存者たちは恐怖します。しかしハイウェイ事故の生存者たちは、死ぬはずだったのとは逆の順番に死んでいきます。なぜ逆の順番なのか? その理由を知ればもしかしたら助かるかもしれない、と残る生存者たちは考えます。
前作の180便の生存者が加わり(クレアしか生き残っていませんでした)、逆の順番の謎が明らかになっていくにつれて、この映画の持つ不気味さは増殖していきます・・・。
あわや焼死というところを頑張って何とか免れた人が死後に火葬されるシーンでは、「洒落た脚本だなあ」と感心してしまいました。こういうブラックコメディ的要素もこの映画の魅力の1つだと思います。
※注意※
以下はかなりのネタバレをしています。ラストまでは明かしませんが、ネタバレが嫌いな方、残酷な描写が苦手な方には以下の文章をおすすめしません。
友人たちを乗せた車でハイウェイに入ろうとしていた主人公・キンバリーは、奇妙なイメージを見ます。自分たちがハイウェイを走っているとしばらくして貨物自動車が積んでいた材木が落ちてきて何台もの車が横転し玉突きする大事故が起こり、自分たちも大型自動車が突っ込んできて死ぬという、幻にしては余りに生々しいイメージを。彼女は以前、自分たちの乗る飛行機が事故に遭うという予知をした1人の乗客が他の乗客数人を連れ飛行機を降りたところ、その飛行機が飛び立った直後爆発したという180便のニュースを知っていたため(前作の映画『ファイナル・デスティネーション』の内容)、自分も予知をしたのだと確信。彼女はハイウェイ入り口の道路をふさぎ、自分の見たイメージで死んでいった人たちをハイウェイに入れないことで救おうとします。道路をふさいでいるわけですから当然警官がやって来て彼女に「どうしたのか」と尋ね、事情を聞くため彼女を車から降ろします。友人たちは車に残ったまま。その直後彼女が予知した、大事故を起こす原因となる貨物自動車がハイウェイを走っていき・・・予知は現実になりました。けれど、わたしたちは助かった、と安堵するのはまだ早い。大型自動車が突っ込んできて、車に乗っていた友人たちは死亡。結局、車から降りていた彼女は助かり、死ぬはずだった数人のたちも彼女が道路をふさいだおかげで助かるという結果になりました。・・・まるで180便の事故のように。
180便の事故には続きがあります。事故での死を免れた数人の乗客たちは、死ぬはずだった順番通りにその後不可解な死を遂げたのです。もしかしたら自分たちも・・・!? とハイウェイ事故の生存者たちは恐怖します。しかしハイウェイ事故の生存者たちは、死ぬはずだったのとは逆の順番に死んでいきます。なぜ逆の順番なのか? その理由を知ればもしかしたら助かるかもしれない、と残る生存者たちは考えます。
前作の180便の生存者が加わり(クレアしか生き残っていませんでした)、逆の順番の謎が明らかになっていくにつれて、この映画の持つ不気味さは増殖していきます・・・。
あわや焼死というところを頑張って何とか免れた人が死後に火葬されるシーンでは、「洒落た脚本だなあ」と感心してしまいました。こういうブラックコメディ的要素もこの映画の魅力の1つだと思います。
トッド・ヘインズ監督 『ベルベット・ゴールドマイン』
2007年3月1日 映画
1970代のグラム・ロックシーンを生きたブライアン・スレイドを描いた映画。ブライアン・スレイドは実在したスターではありません。でもそれは大した問題じゃない。ブライアン・スレイドというスターが実在していても実在していなくても、そもそもスターというものはイメージだから。
言葉も衣装も行動も、全てがスターというイメージのもとに生み出されるもの。裏で何をしようと、イメージさえ守れば華麗なるスーパースター。
ブライアン・スレイドは人気絶頂の時に狂言自殺。ライブ中に撃たれて死ぬという筋書きで。ブレイアン・スレイドというイメージが一番きらめいている時に、そのイメージに相応しい死を。ブライアン・スレイドというスターはステージの上で死にました。本名トーマス・スレイドという青年は死ななかったからこれは狂言自殺ですが、ブライアン・スレイドというイメージはこの時死んでしまったのです。
もしかしたら1970年代そのものがイメージの時代だったのかもしれません。夢を見て、時には悪夢も見る、現実感のないモノクロと極彩の世界。その時代に光り輝いたブライアン・スレイドはその時代のうちに死ななければならならなかったのかも。まるで恒星が死にゆく時生涯で最も輝くように(超新星)、衝撃的な最期でそのイメージを焼きつけて。
わたしはこの映画を観ていてカート・コバーン(正しくはカート・コベイン)を思い出してしまいました。ブライアン・スレイドというイメージだけを死なせたトーマス・スレイドに対し、カートはイメージも素の自分も一緒に死なせた人ですが・・・。
言葉も衣装も行動も、全てがスターというイメージのもとに生み出されるもの。裏で何をしようと、イメージさえ守れば華麗なるスーパースター。
ブライアン・スレイドは人気絶頂の時に狂言自殺。ライブ中に撃たれて死ぬという筋書きで。ブレイアン・スレイドというイメージが一番きらめいている時に、そのイメージに相応しい死を。ブライアン・スレイドというスターはステージの上で死にました。本名トーマス・スレイドという青年は死ななかったからこれは狂言自殺ですが、ブライアン・スレイドというイメージはこの時死んでしまったのです。
もしかしたら1970年代そのものがイメージの時代だったのかもしれません。夢を見て、時には悪夢も見る、現実感のないモノクロと極彩の世界。その時代に光り輝いたブライアン・スレイドはその時代のうちに死ななければならならなかったのかも。まるで恒星が死にゆく時生涯で最も輝くように(超新星)、衝撃的な最期でそのイメージを焼きつけて。
わたしはこの映画を観ていてカート・コバーン(正しくはカート・コベイン)を思い出してしまいました。ブライアン・スレイドというイメージだけを死なせたトーマス・スレイドに対し、カートはイメージも素の自分も一緒に死なせた人ですが・・・。
ティム・フェイウェル監督 『ノーマ・ジーンとマリリン』
2007年2月22日 映画
この映画を観た後実際のマリリンの映画を見たら、彼女があんまり綺麗に笑うから涙が出ました。
マリリン・モンロー。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン。洗礼名ノーマ・ジーン・ベイカー。私生児として生まれ、母の精神病を理由に孤児院へ行き、その後里親の家を転々とし性的虐待及びネグレクトを受けて育つ。
「女優になりたい」。でも彼女は演技も歌も下手で、教養もなかった。彼女にあったのは、美。心は子どものまま成長していなかったけれど、大人の女性の顔と体を持っていた。何より「愛して欲しい。愛してもらえるならどんなことでもする」という気持ちが強かった。だから自分の顔と体を十分に利用した。
彼女は女優になった。でも世間は彼女を高級娼婦のように見た。彼女は演技を学び、徐々に演技派として認められつつあったけれど・・・妊娠、中絶(12回以上行ったとされる)、流産(少なくとも3回)、結婚、離婚を繰り返した彼女の精神は消耗し、お酒と薬なしでは耐えられなくなる。そして今まで彼女を支えてきた顔と体が加齢によって魅力を失った時、精神は限界に達する。「もう誰もわたしを愛してくれない」と。
「見捨てないで」。「独りにしないで」。「わたしを愛して」。彼女の悲痛な思いがこの『ノーマ・ジーンとマリリン』には本当にストレートに描かれていると思います。彼女がもう一人の自分ノーマ・ジーンの幻覚を見て、ノーマ・ジーンに語りかけたり語りかけられることによって。女優になったけれどボロボロの自分と、女優ではないけれどまだ希望を持っていた頃の自分の対話によって。
でも2人は和解できない。お互いを愛したいのに。彼女はラストシーンでノーマ・ジーンに「あんたなんて消えてしまった方がいい」と言われ薬を大量に飲み、救急車に運ばれていきます・・・でも彼女は安らかな顔なんてしていなくて、怯えている。もう彼女の傍にノーマ・ジーンはいない。マリリン・モンローもいない。
悲しい映画でしたが・・・、心の奥に残りました。
36年の生涯。
彼女の人生は誰も経験できないけれど、この映画に存在する孤独感、虚無感、そして自分の何によって生き抜いていくか選択しなければならないという経験は、多かれ少なかれ、誰もがするものだから。
マリリン・モンロー。本名ノーマ・ジーン・モーテンセン。洗礼名ノーマ・ジーン・ベイカー。私生児として生まれ、母の精神病を理由に孤児院へ行き、その後里親の家を転々とし性的虐待及びネグレクトを受けて育つ。
「女優になりたい」。でも彼女は演技も歌も下手で、教養もなかった。彼女にあったのは、美。心は子どものまま成長していなかったけれど、大人の女性の顔と体を持っていた。何より「愛して欲しい。愛してもらえるならどんなことでもする」という気持ちが強かった。だから自分の顔と体を十分に利用した。
彼女は女優になった。でも世間は彼女を高級娼婦のように見た。彼女は演技を学び、徐々に演技派として認められつつあったけれど・・・妊娠、中絶(12回以上行ったとされる)、流産(少なくとも3回)、結婚、離婚を繰り返した彼女の精神は消耗し、お酒と薬なしでは耐えられなくなる。そして今まで彼女を支えてきた顔と体が加齢によって魅力を失った時、精神は限界に達する。「もう誰もわたしを愛してくれない」と。
「見捨てないで」。「独りにしないで」。「わたしを愛して」。彼女の悲痛な思いがこの『ノーマ・ジーンとマリリン』には本当にストレートに描かれていると思います。彼女がもう一人の自分ノーマ・ジーンの幻覚を見て、ノーマ・ジーンに語りかけたり語りかけられることによって。女優になったけれどボロボロの自分と、女優ではないけれどまだ希望を持っていた頃の自分の対話によって。
でも2人は和解できない。お互いを愛したいのに。彼女はラストシーンでノーマ・ジーンに「あんたなんて消えてしまった方がいい」と言われ薬を大量に飲み、救急車に運ばれていきます・・・でも彼女は安らかな顔なんてしていなくて、怯えている。もう彼女の傍にノーマ・ジーンはいない。マリリン・モンローもいない。
悲しい映画でしたが・・・、心の奥に残りました。
36年の生涯。
彼女の人生は誰も経験できないけれど、この映画に存在する孤独感、虚無感、そして自分の何によって生き抜いていくか選択しなければならないという経験は、多かれ少なかれ、誰もがするものだから。
トム・ホランド監督 『チャイルド・プレイ』
2007年1月24日 映画
アデ〜ドュイ〜デンベラ〜(復活の呪文)。何度も死んでは復活し、復活してはまた殺される。チャッキーは働きものですねー(?)。
これは全ての始まりとなった第1作目。チャッキーがまだお顔がツギハギだらけじゃなかった頃のお話。今から10年以上前に制作された映画なのでチャッキーの動きはぎこちないですが、そのぎこちなさがかえってグッド・ガイ人形とチャッキーの魂とが馴染みきっていないことを表しています。
人形であるはずのチャッキーが電池なしで喋っていたと判明した時、わたしもサーッと血の気が引きました。刑事が自動車の中で攻撃されるシーン、母親が手をドア越しにナイフで傷つけられるシーン、こっちも「キャ〜ッ」と悲鳴をあげたくなります。
なんと『チャイルド・プレイ』1作目はホラーだったのです! しかし主人公・アンディにボディブローを決められたチャッキーが目を見開いてびっくりしているのを引いた画面で撮っているあたり、ブラックコメディの予感あり。チャッキーの体がプラスチックだったために火で焦げただけでなく所々溶けてしまうのも笑えました。
ここで是非とも取り上げたいのは、アンディ役の男の子のキュートさ! 白桃のようなふっくらほっぺ。舌ったらずな喋り方。潤んだ瞳。この子を攻撃できるということでチャッキーの残忍さが際立っていると思います。アンディがチャッキーの正体を大人に訴えても信じてもらえず泣いているシーンではこちらも非常にもどかしい気持ちになりました。「テレビの中に入れるなら、アンディは嘘を言っていないって弁護してあげたい!」と。怖いのに1人ぼっちにされて・・・。
アンディの母親もアンディが本当のことを言っているのだと知ってから刑事にそれを信じてもらうまでに時間がかかりました。信じてもらえないなら自分で何とかするわ!とスラム街に乗り込んで行ったり、生まれて初めて握ったであろう銃をチャッキーに向けてバァン! バァン! バアン! 何連発したんだろう。母は強し。
それにしても最後の、まだチャッキーがアンディをねばっこく見つめているような画面・・・これは『チャイルド・プレイ2』につながってきますね・・・気色悪い。
これは全ての始まりとなった第1作目。チャッキーがまだお顔がツギハギだらけじゃなかった頃のお話。今から10年以上前に制作された映画なのでチャッキーの動きはぎこちないですが、そのぎこちなさがかえってグッド・ガイ人形とチャッキーの魂とが馴染みきっていないことを表しています。
人形であるはずのチャッキーが電池なしで喋っていたと判明した時、わたしもサーッと血の気が引きました。刑事が自動車の中で攻撃されるシーン、母親が手をドア越しにナイフで傷つけられるシーン、こっちも「キャ〜ッ」と悲鳴をあげたくなります。
なんと『チャイルド・プレイ』1作目はホラーだったのです! しかし主人公・アンディにボディブローを決められたチャッキーが目を見開いてびっくりしているのを引いた画面で撮っているあたり、ブラックコメディの予感あり。チャッキーの体がプラスチックだったために火で焦げただけでなく所々溶けてしまうのも笑えました。
ここで是非とも取り上げたいのは、アンディ役の男の子のキュートさ! 白桃のようなふっくらほっぺ。舌ったらずな喋り方。潤んだ瞳。この子を攻撃できるということでチャッキーの残忍さが際立っていると思います。アンディがチャッキーの正体を大人に訴えても信じてもらえず泣いているシーンではこちらも非常にもどかしい気持ちになりました。「テレビの中に入れるなら、アンディは嘘を言っていないって弁護してあげたい!」と。怖いのに1人ぼっちにされて・・・。
アンディの母親もアンディが本当のことを言っているのだと知ってから刑事にそれを信じてもらうまでに時間がかかりました。信じてもらえないなら自分で何とかするわ!とスラム街に乗り込んで行ったり、生まれて初めて握ったであろう銃をチャッキーに向けてバァン! バァン! バアン! 何連発したんだろう。母は強し。
それにしても最後の、まだチャッキーがアンディをねばっこく見つめているような画面・・・これは『チャイルド・プレイ2』につながってきますね・・・気色悪い。
ロブ・マーシャル監督 『SAYURI』
2006年11月13日 映画
朱色が混じった金と、黒。これはわたしの花街のイメージです。ですからこの映画『SAYURI』のスタッフロールの背景としてこの色合いが使われていて、わたしはとても嬉しいです。朱色と金色は他の色と混ざることができ、他の色と混ざらなくても元々とても美しい色。それに対して、黒はどんな色とも交われない最も孤独な色でありながら最も誇り高い色。それはあたかも花街に生きる女性たちを表わしているようです。
密集して建っている置屋、格子窓、闇に浮かび上がる赤い提灯、白粉、紅、櫛、簪、きらびやかな着物、家具、扇、唐傘、おこぼ(履き物)。綺麗ですね。けれどそれらよりももっと綺麗なのが女性たち。
この映画の物語は、置屋に売られ女中をし辛い日々を過ごしていた千代という女の子が自分にかき氷を買ってくれた男性にもう一度会うために芸者「さゆり」になる、というもの。その出逢いのシーンでわたしはハッとしました。それまでは暗かった千代の表情が、渡辺謙さん演じる会長さんと出逢った後ぱっと明るくなるのです。それ以降顔つきが全然違うのです。生きる目的を持っている人特有の顔。この映画には「恩人」という言葉がよく出てくるのですが、千代にとって会長さんは紛れもない恩人なのです。
そんな目的を持ったチャン・ツィイーさん演じるさゆりがコン・リーさん演じる初桃より優位に立ったのは当然。さゆりはいつか会長さんに近づいてみせるという未来への希望を持っているのに対し、初桃は恋人と結ばれきれない現在を悲しんでいるのですから。この映画では「喪失感」という言葉も使われます。未来への希望を抱いている者と絶望を抱いている者、どちらが将来的に力を増すかは言うまでもありません。しかし、優位に立った時点で既にさゆりは「明日は我が身」と感じています。そして、やがてさゆりも初桃が感じていたような悲しみを味わうことになります。
置屋が燃えるシーンは映画『吉原炎上』を彷彿とさせました。女の情念は炎ということでしょうね。さゆりの情念は水なのですが。それに対して初桃は炎の女。水揚げを終えた後のさゆりのどこか現実でない世界に行きたがっているような、且つ「もう何も失うものはない」と言うかのようなどこかホッとしたような表情も説得力がありました。それ以降さゆりは以前のような明るい笑顔をしなくなっています。笑顔と引き換えに芸者の道を究めることができたのですが・・・。
そのような心模様を描くことができている映画ですので、わたしは好きです。日本人が作れば日本を描いた映画、外国人が作れば紛い物、などという風にはわたしは思いません。日本らしさは感じませんが(何だか中国のように見える箇所がいくつかあります)日本人が見落としがちな日本の美(その美は特に、外国よりも色が暗いことや季節によって空気が非常に冷たくなったり暑くなったりすることからきている)を教えてくれる映画だと思います。チャン・ツィイーさん、コン・リーさん、ミシェル・ヨーさんなど中国の美人女優を一つの映画で見ることができるという点においても注目すべき映画です。桃井かおりさんも置屋の気だるい女主人がよく似合っていました。
ただ、わたしは結末には納得はいかないのですけれど。結末を見て「ああ、ハリウッド映画だものね。こうなった方がハリウッド映画らしいものね」とがっかりしてしまいました。原作小説の通りにする必要はないし、結末がもっと違うものなら芸術性の高い映画になったと思いますのに・・・。だからこそ、冒頭で述べたスタッフロールの背景の色合いに救われる思いがしました。
最後に考えたいのは、なぜ会長さんが千代にかき氷を買い与えたのかということ。泣いている千代を見つけ、「うちにも君と同じくらいの女の子がいるんだ」と言って会長さんも一緒にかき氷を食べ、その後千代に「これで何かお食べ」と1か月分の食べ物が買えるくらいの大金を渡しています。・・・もしかしたら・・・会長さんは娘さんを亡くしたのかもしれないなぁ、とわたしは想像してしまいます。もう娘さんはいないのに「〜いるんだ」と言っているような気がして。勝手で申し訳ないのですけれど。
密集して建っている置屋、格子窓、闇に浮かび上がる赤い提灯、白粉、紅、櫛、簪、きらびやかな着物、家具、扇、唐傘、おこぼ(履き物)。綺麗ですね。けれどそれらよりももっと綺麗なのが女性たち。
この映画の物語は、置屋に売られ女中をし辛い日々を過ごしていた千代という女の子が自分にかき氷を買ってくれた男性にもう一度会うために芸者「さゆり」になる、というもの。その出逢いのシーンでわたしはハッとしました。それまでは暗かった千代の表情が、渡辺謙さん演じる会長さんと出逢った後ぱっと明るくなるのです。それ以降顔つきが全然違うのです。生きる目的を持っている人特有の顔。この映画には「恩人」という言葉がよく出てくるのですが、千代にとって会長さんは紛れもない恩人なのです。
そんな目的を持ったチャン・ツィイーさん演じるさゆりがコン・リーさん演じる初桃より優位に立ったのは当然。さゆりはいつか会長さんに近づいてみせるという未来への希望を持っているのに対し、初桃は恋人と結ばれきれない現在を悲しんでいるのですから。この映画では「喪失感」という言葉も使われます。未来への希望を抱いている者と絶望を抱いている者、どちらが将来的に力を増すかは言うまでもありません。しかし、優位に立った時点で既にさゆりは「明日は我が身」と感じています。そして、やがてさゆりも初桃が感じていたような悲しみを味わうことになります。
置屋が燃えるシーンは映画『吉原炎上』を彷彿とさせました。女の情念は炎ということでしょうね。さゆりの情念は水なのですが。それに対して初桃は炎の女。水揚げを終えた後のさゆりのどこか現実でない世界に行きたがっているような、且つ「もう何も失うものはない」と言うかのようなどこかホッとしたような表情も説得力がありました。それ以降さゆりは以前のような明るい笑顔をしなくなっています。笑顔と引き換えに芸者の道を究めることができたのですが・・・。
そのような心模様を描くことができている映画ですので、わたしは好きです。日本人が作れば日本を描いた映画、外国人が作れば紛い物、などという風にはわたしは思いません。日本らしさは感じませんが(何だか中国のように見える箇所がいくつかあります)日本人が見落としがちな日本の美(その美は特に、外国よりも色が暗いことや季節によって空気が非常に冷たくなったり暑くなったりすることからきている)を教えてくれる映画だと思います。チャン・ツィイーさん、コン・リーさん、ミシェル・ヨーさんなど中国の美人女優を一つの映画で見ることができるという点においても注目すべき映画です。桃井かおりさんも置屋の気だるい女主人がよく似合っていました。
ただ、わたしは結末には納得はいかないのですけれど。結末を見て「ああ、ハリウッド映画だものね。こうなった方がハリウッド映画らしいものね」とがっかりしてしまいました。原作小説の通りにする必要はないし、結末がもっと違うものなら芸術性の高い映画になったと思いますのに・・・。だからこそ、冒頭で述べたスタッフロールの背景の色合いに救われる思いがしました。
最後に考えたいのは、なぜ会長さんが千代にかき氷を買い与えたのかということ。泣いている千代を見つけ、「うちにも君と同じくらいの女の子がいるんだ」と言って会長さんも一緒にかき氷を食べ、その後千代に「これで何かお食べ」と1か月分の食べ物が買えるくらいの大金を渡しています。・・・もしかしたら・・・会長さんは娘さんを亡くしたのかもしれないなぁ、とわたしは想像してしまいます。もう娘さんはいないのに「〜いるんだ」と言っているような気がして。勝手で申し訳ないのですけれど。