*注意*
 長文すぎる長文です。
 読み終えることができた方には感謝状を贈りたいくらい。

 エリザベートの魂を、瀕死の彼女が埋葬されたいと望んだ地・ギリシアのコルフ島へ連れて行けたらいいのに。オーストリア皇后として棺に閉じ込めるのではなく、解き放てたらいいのに。
 どうして彼女は心臓を刺されているのに平然と歩き続けたのでしょうか?
 この本が示してくれた1つの答えは、彼女がとうに異界の住人だったから、というものでした。確かに、自分が死にそうだというのに慌てている周りの人に「何事です」と尋ねるだなんて奇妙です。痛い、とも刺された、とも言わずに次に乗るべき船へ向かって歩き続けた彼女・・・。オーストリア皇后という日々から逃れるため、わざと病気になるよう体を傷つけたり美貌を損うよう自分を痛めつけた彼女だから、早く死んでしまいたくて歩き続けたのかもしれません。或いは刺されたことに無関心で、痛みにも無関心で、自分が死ぬということにも大して心が動かなかったのかもしれません。
 彼女が自分を刺した男に恩赦が与えられるよう要請したのはなぜなのでしょうか?
 突然現れたその男が自分を刺したことで、自分は間違いなく死に至るだろうというのに。彼女はその男が自分に死を与えてくれたことに感謝していたのでしょうか? 愛する人たちが去ってしまったこの世界から自分も去りたかったのでしょうか? 彼女はこの世界で苦しみばかりを感じていたのでしょうか?
 ・・・わたしはそうは思いません。まず1つめの、なぜ彼女が歩き続けたのかについて。彼女は船に乗って自分の居場所を探しに行きたかっただけだと思うのです。ずっと旅を続けていた彼女でしたが、どこへ行っても彼女は滞在中のオーストリア皇后エリザベートであり、ハンガリーに行けばハンガリー女王でありハンガリーの恋人エルジェーベトになれるけれど、「シシィ」と呼ばれていた昔の自由な自分に戻れる場所がわからなくなっていたのだと思います。生まれ育ったバイエルンに帰ってももう昔には戻れない。15歳のあの日から全てが変わってしまった。彼女の姉と結婚するはずだった23歳の皇帝フランツ・ヨーゼフは、見合いの席に同席した彼女に一目惚れし結婚を申し込んでしまった。断ることは許されない。乗馬が好きで詩を書くのが好きで空想が大好きで勉強が嫌いで行儀良くすることが嫌いで作り笑いも嫌いだった彼女は、厳しい皇后教育をされ皇后として振る舞うことだけを求められ綺麗なドレスを着せられ微笑みを求められた。それらから逃げるために自分を傷つけ、その代償に旅に出られるようになった彼女。彼女は「シシィ」を殺してしまった、とこの本には書かれています。・・・でも、それは違うと思います。「シシィ」が「オーストリア皇后エリザベート」に殺されてしまったのなら、彼女が旅に出る必要なんてない。「シシィ」を生かし続けるために、彼女は歩き続けたのだと思います。「シシィ」が生きられる場所を求めて。
 2つめの、なぜ彼女が自分を刺した男に恩赦が与えられるよう望んだのかについて。それは彼女がマイノリティとされる人々を愛していたからだと思います。身体障害者、負傷兵、政治亡命者、コレラ患者、危篤患者、精神病者(P124から引用)、この本には書かれていないけれど知的障害者や同性愛者や犯罪者にも彼女は共感と理解を示しました。彼女はオーストリア皇后でありハンガリー女王ではあったけれど君主制を嫌う熱烈な共和主義者でもありました。ソルフェリーノ戦争の際救護所を作り早く戦争を終わらせるよう皇帝に働きかけたり、普墺戦争(プロイセンとオーストリアの戦争)の際看護婦として病院を慰問して回りマリア・テレジアを彷彿とさせるパフォーマンスを行いハンガリーの支援を勝ち取ったり、そしてその支援の見返りにハンガリーを独立させることまで成し遂げました。精神病院を慰問した際など、彼女に向かって「なんて無礼な女なの。その女は偽者です。わたしがエリザベートです」と精神病を患う女性が言い放った時、彼女はその女性に労わりの言葉をかけたそうです。彼女は自分と同じように何かに苦しんでいる人を更に苦しめるようなことはしませんでした。その人が少しでも幸せになれるよう自分に出来ることをしたいと思っていたのです。そんな彼女だから、自分を刺してしまった男の恩赦を願ったのは当然だとわたしは思うのです。皇后であり女王である彼女を殺してしまったら、その男が死刑か終身刑になるのは目に見えていますから。結局彼女の死後、彼女のその要請は叶わず男は終身刑になってしまったのですが、彼女自身は男が救われることを願っていた・・・とわたしは思わずにはいられないのです。
 真実は彼女にしかわかりません。彼女の気持ちは彼女だけのものですから。
 なんだか少々この本の悪口を言ってしまったようですが、勿論この本に感謝もしていますよ。悪く評されがちな彼女の姑・ゾフィーの名誉を回復させる文章を紹介してくれましたし、皮肉なことに生涯美貌を保った彼女の写真も絵も沢山見ることが出来ましたし、彼女が自己嫌悪を持ちつつも自己愛もちゃんと持っていたことを教えてくれました。皇帝が彼女に寄せた友情と愛を感じることができました。そして皇帝以外に彼女を女王以上の存在として愛した人たちの存在を知ることができました。それから・・・エリザベートが最期に言った言葉を知ってわたしは不謹慎にも嬉しくなったのです。
 ああ、彼女には留まりたいと思える場所があったのだ、と。
 彼女を本当にそこへ連れて行くことは不可能です。だからわたしは彼女が愛した、想像という手段によって彼女を連れて行きましょう。コルフ島の海辺へ。わたしは想像します。彼女が鳥になって自由に飛んでいる姿や(どんな鳥でもいいけれど、ハプスブルクのシンボル・双頭の鷲だけは嫌ですよ)、乗馬を思いっきりしている姿、風変わりな父親と彼女がツィターやマンドリンを弾いて笑っている姿、彼女がコルフ島に埋葬され棺が朽ち彼女が土と同化できることなどを。・・・所詮はただの想像でしかないのですけれど。実際は彼女の遺体は彼女が嫌ったオーストリア皇后の遺体としてお墓にあるのです。けれど無力さを感じても、ついついわたしはそんな想像をしてしまうのです。わたしは彼女が大好きですから。
 歳を取る=老化するではないのだなぁと、読んでいてしみじみ思いました。歳を取ることは歳を取ることでしかなく自分を老けさせたり若くするのは自分しかいない・・・。自分が美しくないのを顔の造作や体つきのせいにするのも間違いで、「自分」は自分自身がクリエイトするもの。
 そう気づいて俄然やる気が出てきました。今までの自分とこれからの自分を肯定する為にも、美容に励もうと思います。手間をかけ、時間をかけて。
 中村うさぎさんの本を読んでいると高校時代の友達からのメールを読んでいるような気分になります。似ているのです、文体が。その理由は超シンプル。その友達自身が中村さんの熱烈な読者なのでございます。
 エルメス、カルティエ、シャネル、ディオール、ティファニー、フェンディ、色々買って中村さんの年間の服飾費は2千万円(この本が出た当時)。都民税を滞納、保険料を滞納、電気代も水道代も滞納。税務署の人の訪問に怯え、オカルトグッズを購入し「追加徴税をゼロに・・・・・・」と呪文を唱えるも失敗、追徴課税に喘ぐ結果に。国民健康保険課から保険証を差し押さえられた挙句(正しくは納税課から、でしょうか)、国民年金も滞納(将来年金もらえるのでしょうか。心配)。友人から「お金を貸して」と頼まれると「お金がないと思われたくない」という理由でラララむじんくんからお金を借りて来て、さも自分のお金であるかのように貸す。シャネルのファッションショーの後、服を注文するマダムたちに対抗して負けじと自分も注文し、1日に130万円も使う。欲しいからというよりも「買えないと思われたくないから」買う。ううむ、ここまでくると潔い。
 ブランドものを買い漁り、通販などの変テコ商品も買いたい分だけバンバン買うのに、保険証を差し押さえられクレジットカードの支払いに汲々とする日々・・・。それってお金持ちなの? それとも貧乏なの? 買いさえしなけりゃお金持ちなのに。しかしそれこそ買い物依存症。買うことに意味があるのです。
 まるでマリー・アントワネットのよう。国の財政が苦しくても欲しいだけドレスを買い宝石を買い、買ったらまたすぐ次が欲しくなる。母マリア・テレジアや兄ヨーゼフ2世の助言や注意や警告も耳には入らず、いや入ってはいるのだけれど贅沢をやめられない。最後にはその贅沢が首を絞めた・・・いや、首を切ったのですね。恐ろしや。
 この本の第1刷が1999年。2007年となった現在、中村さんの懐の具合は果たして!?

 -----------
 P119の「まったくねぇ、靴と男は、見てくれで選ぶと痛い目に遭うよ」という言葉に非常に共感いたしました。全くです。
 パッと開いたページに太字で「活動するマッチョ」と書いてあったので、わたしは静かにこの本を閉じました・・・。マッチョ。活動するマッチョ。大質量密小ハロー天体(MAssive Compact Halo Object)、略してMACHOだそうです。海パン刑事が100人くらい宇宙で笑っているのを想像しちゃいました。間違いで良かった。
 18世紀のインドに「カルカッタのブラックホール」と呼ばれる定員3名の牢獄があって、その中に146人の人が詰め込まれたという話は壮絶。大勢の方が窒息や熱射病、圧迫などで亡くなったそうです。詰め込まれた人数については46人とする説や70人とする説もあり、亡くなった方の人数についても123人とする説もあれば24人とする説もあり50人とする説もあり・・・、規模の真相はわからないのですが、いずれにせよ恐ろしい。念のため書かせていただきますが、この話が宇宙に存在するとされるブラックホールの名前の由来になったわけではありません。しかしこの事件はブラックホールの性質を表していると思います。一度入ったら抜け出せない、一方通行の空間。ブラックホールにはホワイトホールという出口があるとされているのですが、「カルカッタのブラックホール」にはホワイトホールが無かったのですね・・・。(><)
 P26、27のブラックホールに穴を開けて空間をつなげるという話はどこでもドアを連想させ、P28、29の宇宙と地球とでは時間の流れが違うという話はタイムマシンを連想させ、夢を与えてくれました。わたしが特に関心を引かれたのはP38、39。メビウスの輪を知って以来ずっと考えてきたことを表してもらえた、と嬉しくなりました。それは、わたしたちがブラックホールの中に住んでいるという着想。それは、一方通行であり脱出できないけれど、いずれ元の場所に戻るというもの。ビッグバンが起こる→宇宙が膨張し冷えて、銀河ができる→銀河が互いに離ればなれになる→銀河間の距離が非常に大きくなるまで宇宙が膨張(今の宇宙はこの途中であるとされています)→膨張が止まる→重力が効き始め、宇宙が収縮→銀河が互いに近づく→銀河が衝突し合い、宇宙全体の温度が上がる→ビッグバン。この着想についてもっと知りたいです。ビッグバンが起こる前宇宙で何があったのか? すごく気になります。神様がいた、なんて説よりも宇宙があった、という説の方が納得できるのです。ではその宇宙の前には何があったのか? やっぱり宇宙かも。
 星に帰った王子さまは、きっと薔薇と仲良く暮らしている。
 王子さまは薔薇に、遠い星・・・地球で出逢った友人たちの話をするだろう。「地球には綺麗な薔薇がたくさん咲いていたよ。でも、僕にとって1番綺麗なのは君なんだ。君は1人しかいなかったんだ。だから僕は帰ってきたよ」なんて言うのかもしれない(注:実際はこの本にこんなは台詞はありません。似ているものをくっつけて作ってみました)。
 薔薇は王子さまが行った星を知らない。王子さまの友人たちを知らない。自分以外の薔薇を知らない。薔薇は王子さまにとって自分がどんなに綺麗かを知らない。だからまた2人は喧嘩することがあるかもしれない。
 けれどもう王子さまが星を出て行くことはない。たとえ薔薇に想いが伝わらなくても、大切だと気づいたから。
 そして王子さまは地球の友人の1人・・・羊の絵を描いてくれたパイロットにもう1度この言葉を言うだろう。パイロットが「もしかしたら星に帰った王子さまは泣いているかもしれない」なんて、地球から王子さまを心配しているから。?When you look up at the sky at night,since I’ll be living on one of them,since I’ll be laughing on one of them,for you it’ll be as if all the stars are laughing.You’ll have stars that can laugh!? そしてこの言葉も付け加えるかもしれない。友人たちへ向けて、そして薔薇へも向けて。?I won’t leave you.?と。

 サン=テグジュペリ自身も、きっとそう言っただろうから。空への憧れも、美しい薔薇・・・つまり妻コンスエロへの想いも、どちらも本物だったから彼は飛行機で旅立ったのでしょうから。「君を星の王女さまにした物語を書くよ」と告げたまま。

 -----------------
 以前からわたしは薔薇を好きでしたが、「高慢な花」「弱すぎる花」というイメージがあり、心から好きとは言えませんでした。例えばわたしはマリリン・モンローの写真や映画を見る時に「美しいけれど悲しい人」と思ってしまい、その美に見惚れると同時に人間の寂しさを思い知らされ打ちのめされるのですが・・・薔薇に対しても同じように思っていました。
 心から好きになっても、薔薇は弱い花。長くは生きてくれない。大事に大事に育てても、虫や病気にすぐやられてしまう繊細な花。心から好きになるのが怖かった。好きになったのに失うのが怖かった。
 でもこの物語のおかげで以前より少しだけまっすぐに、薔薇を愛せるようになりました。
 漫画『ガラスの仮面』でマヤが美登利を、桜小路くんが信如を演じているのを読んで以来、わたしにとって『たけくらべ』は特別な作品でした。
 ゆくゆくは遊女になる美登利とゆくゆくは僧侶になる信如。お互い好き合っていても恋心を口に出せない、初恋のいじらしさを描いた作品だ、と思っていました。けれどわたし自身も大人になった今、この作品が持つのは「初恋のいじらしさ」だけではないと気づきました。
 子ども時代との別れ。大人にならなければならないという事・・・自分の意思とは関係なく育っていく身体。「一年も以前へ帰りたい」と美登利は涙を流します(なんだかわたしはRaphaelの曲『Evergreen』を思い出してまいりました。「過ぎていく時の中で今が過去になる その現実を受け止めれず一人で泣いた夜」という歌詞が、もう・・・)。『たけくらべ』という題名が表す通り、自分だけでなく周りの子どもたちも大人になっていく。大人たちも歳を取ってゆく。もう以前とは違う。もう誰も過去へ戻ってこない。
 けれど信如が去る前に美登利の家の格子門に水仙の作り花をさしたように、人は過去へは戻ってこないけれど想いは未来にも残ります。なぜなら信如が水仙の生花ではなく作り花をさしたから。香りも無くいつか色褪せていくものだとしても、決して枯れない花だから。
 美登利は信如からのその花を一輪ざしに入れます。きっと、美登利はいつか遊女となった時もその花を愛しく見ていることでしょう。もしも「どうして作り花を一輪ざしに入れているの」と新造さん(上級の遊女の世話をする遊女)に尋ねられたとしたら・・・「それは秘密」と微笑んでいることでしょう。
 ※注※ 推理ものであるにも関わらず、完全にネタバレしています。まだこの作品を読んでいない方はご注意ください。

 大好きな亜希お兄ちゃんが死んでしまって、幼い弟2人は悲しんだ。
 自分1人が悪者になればみんな幸せになれるから、と他人の罪を背負い込む亜希お兄ちゃん。父親は息子の真実に気づかない。父親はただ息子を恥じ、疎んだ。ある日亜希が友達と行方不明になり友達はみんな惨殺死体で見つかったのに亜希だけが無事に帰ってきた時・・・亜希のリュックの中から友達の首が見つかった時・・・父親は疑うことなく亜希が殺したのだと決め付けて、亜希を家に閉じ込めた。世間には未だ亜希は行方不明だと通して。亜希は家から逃げ出そうとして窓から落ちて死んでしまったが、父親は病院に連れて行くことも警察を呼ぶこともせず使用人に亜希を埋めさせた。
 弟たちは兄の死を信じられなかった。兄の死体はとても綺麗で、弟たちには兄がまだ生きているように見えた。弟たちは兄の死体を棺の中から出し、秘密の場所に運んだ。やがて弟たちは気づく。兄の死体が腐らないことに。弟たちは思う。やっぱりお兄ちゃんは死んでなんかいない。お兄ちゃんが読んで聞かせてくれた絵本に出てくる王子さまのように、お兄ちゃんは魂と体とを離されてしまっているだけ。だってその証拠に、お兄ちゃんの魂は時々僕たちの体の中に入ってきて、4つの品を集めるよう指示してくる。4つの品を集めて、いい魔法使いにお願いすれば、お兄ちゃんは生き返る。早く悪い魔法使いの呪いを解かなくちゃ。
 弟たちは死体の髪を切る。白い服を着ている雪女の黒髪。弟たちは死体の目玉をえぐる。若い女性を襲う人狼の目玉。弟たちは死体の爪を剥ぐ。魔女の真っ赤な爪。これで3つが揃う。弟たちは最後に母親を、兄の死体を置いている秘密の場所へ連れて行く。兄が死んだ時ショックで声を失くした人魚の涙。弟たちは、これで4つ揃いました、お兄ちゃんを生き返らせて、といい魔法使いに頼む。
 いい魔法使いはただの人間だったが・・・その絵本のお話を考えたのは他ならぬそのいい魔法使い自身だった。自分が考えたお話が幼い兄弟たちに恐ろしいことをさせてしまった、といい魔法使いは自分ができる精一杯のことをするために秘密の場所へ向かう。
 だが悪い魔法使い・・・つまり父親も秘密の場所に現れた。父親は埋めたはずの息子の死体を見つけて恐怖する。亜希だけでなく他の息子たちも異常になってしまった、と恐怖する。父親はこれは死体だ、生き返ったりしない、と言って亜希の死体ををめちゃくちゃに壊してしまう。もうお兄ちゃんが生き返れない、と弟たちは悲鳴をあげる。そして・・・秘密の場所が崩れ落ちて、父親も弟の1人も死んでしまった。
 3人いた兄弟は1人だけとなり、だが残った1人は他の2人の死を信じない。誰にも知られぬよう、弟は兄たちにそっと囁きかける。お兄ちゃんたちの魂が僕の中で生きていることは3人だけの秘密、と。暗闇は心の中に。

 そんな物語です。
 読み手が最初亜希を異常だと思うように、途中から父親を異常だと思うように、最後にはどちらが正常で異常なのかわからない・・・と思うように構成されています。正常と異常の境目なんてどこにもない。自分の住む世界こそ正常で他人の住む世界は異常だと思い込んでいるだけだ、と言いたいのだと思います(わたしは亜希や弟たちに感情移入してしまい、父親を異常と見なしてしまいました。修行が足りませんね)。
 亜希が友達を殺したのかどうか、という真実はわからないまま。殺したのかもしれないし、本当は殺していなくて、仲の良い友達の首を持ち帰ることであたかもまだその友達と一緒にいるかのような気持ちになり独りでいる寂しさをまぎらわせただけなのかもしれない。けれど真実はわからないまま暗闇の中に・・・。
 図書館は司書さんが本探しを手伝ってくれるから心強いですよね。「〜という分野の〜に関して〜な姿勢をとって書かれている本が出版されているかわからないけど、もし出版されていたら読みたい」という場合に適してる。
 ネットだと既にその本が出版されている或いは出版予定であることを前提とした検索しか出来ないし、もし幸運にもその本が出版されていたとしても検索に失敗したら当然見つけられなくて、もはや出版されていないも同じ。書店でも「こういう本はありませんか」と探してもらうことは可能ですが、その書店の他店舗でも在庫切れの上その本が既に絶版になっている場合それ以上のことができません。
 図書館なら他の図書館と連絡を取って探してもらったり(書店はやっぱり営利目的なのでライバル店は紹介してもらえませんよね)、もしめぼしい図書館にその本がなくても国立国会図書館にならある可能性はかなり高いですし。
 また、図書館でもネットを使ってテーマ別に本を調べることはできますが、例えば闘病記を探す際「死を受け入れる姿勢を取っている本」「生き続けようという姿勢を取っている本」「自分と同性で年齢が近く配偶者の有無など境遇の似た人が書いた本」などを見つけ出すのはなかなか難しいです。勿論そこまで条件に合うものを探すのは闘病記を専門に扱う書店さんでも難しいそうですが・・・図書館の司書さんは本探しにおいてプロなので、素人の自分よりはかなり調べられるはず。心強いです。
 本探しで困った時は図書館へ行こうと思います。
 純文学の主人公って案外しょうがない。武者小路実篤の『友情』の野島は付き合ってもいない女性との結婚を思いつめるストーカー気質だし、谷崎潤一郎の『痴人の愛』の譲治は自分が養ってきた少女が悪女となり自分を蔑ろにするようになったのを喜ぶマゾ下僕。
 書き手の文豪も、案外しょうがない。柴門ふみさんは『金色夜叉』でまさかの夢オチを使った尾崎紅葉に「まるで行き詰まった「少○ジャ○プ」の漫画家みたいではないか、どうしたんだ尾崎紅葉」とツッコんでいます。わたしもそう思います。
 読書感想文の課題で何を読もうかお困りの学生さん、純文学なぞいかがでしょうか。アブノーマルな方向にですが、人生観が変わるかもしれません。
 もしかしたら文豪たちは恋物語を書く時、意識せずとも自分自身の倒錯した恋愛観を物語に込めてしまうものなのかもしれませんね。・・・じゃあ、谷崎潤一郎って一体・・・(そんなタニザッキーが好きw)。
 決めました。わたし、自分への20歳の誕生日プレゼントとしてシェーカーを買います。そして誕生日の夜「Kiss In The Dark」を作って飲もうと思います。Kiss In The Darkはジンをベースにした真っ赤なカクテル。アルコール度数39で味は少し甘め。ドライ・ジンとチェリー・ブランデーとドライ・ベルモットのカクテル。名前といい色といい材料といい、どこか吸血鬼を彷彿とさせませんか? 闇の中のキス。ジュード・ロウ似の吸血鬼がニコール・キッドマン似の女性の艶やかな首すじに・・・(妄想でお送りしております)。もしKiss In The Darkに微炭酸を加えれば、惨劇の舞台は霧深き真夜中のロンドン! ・・・あ、だめです切り裂きジャックを思い出しました。美女を切り裂いてはいけませんっ、舞台はトランシルヴァニアにしておきましょう。配役も変更。映画『ドラキュラ』のラストシーンを変えて、ゲイリー・オールドマン扮するドラキュラ伯爵がウィノナ・ライダー扮する女性・ミナに「共に生きよう」と不死の洗礼を・・・。うっとりと見つめ合う2人。ミナの婚約者・ジョナサンにはどっか行ってもらいます。ひどい! ・・・お酒ってどんどん想像を豊かにしますね。お酒には魔力が。
 Kiss In The Darkの他にも素敵なカクテルを沢山見つけました。White Lady、Cinderella、Around The World、Red Eye、Million Dollar、Kami-kaze、Golden Friend、God-Fatherなど。実家で次にパーティーをやる時は特に格上のおじ様にGod-Fatherをふるまいたいです。Red Eyeは赤くて美しいだけでなく体にも良さそうなので(トマトジュース入り)、美食家ゆえ痛風持ちとなった我が父に。
 バーで飲めば雰囲気にも酔えるけれど、自宅で自分の作ったカクテルを飲むのはまた違う味わいがあるでしょうね。
 失礼ながら、まずはふと思ったことについて書かせていただきます。P34で『アンティーク・きものブティック一笑』の店主さんが「孫が祖母の着物を着こなす--こんなに素敵な文化の継承ってないでしょう」とおっしゃっているのを読んで、このことに気づいたのです・・・わたしの祖母たちは第二次世界大戦中に着物を食べ物に換えてしまっているので、わたしには継承できる祖母の着物というものがないのです。母の着物を着ることはできても。戦争は文化を失わせるものなのだ・・・と改めて気づいた次第です。
 さて。着物すなわち高価、というイメージをこの本はきれいに拭ってくれました。5000円台や1万円台で買える着物を扱っているお店が紹介されており、その中から気に入ったお店を数店見つけることができました。その中にはネット通販ができるお店もあるので、早速素敵な着物を手に入れたいと思います。そして今年のお花見は着物を着て参ります♪
 この本では京都で着物を着て仕事をしている人、着物を着て行きたい京都の随所も紹介されています。紹介されている場所の一つに河井寛次郎記念館があるのですが、昨年わたしが行った時に着物を着ておられる女性をお見かけしました。この本の初版は2005年発行。もしかするとこの本を読んで来られた方では?とわたしは勝手に想像して喜んでいます。
 シャネルが女性たちをコルセットから解放しそのおかげで女性が活動しやすくなったように、日本女性が着物ではなく洋服を普段着とするようになったのは当然のこと。この本の趣旨とは違ってしまいますが、帯で体をきつく締める着物を普段着とするのは(きつく締めないものもありますが、それはどうしてもカジュアル)、いくら安い着物があっても、洋服で務められる仕事や生活をしている人にはどうしても難しいもの。しかし時には着物を着て、「ああ、これがわたしの着たいものだ」と心を潤わせることはとてもお洒落ですね。この本の題に『〜atキョウト』とあるのは京都が最も着物を普段着のように着ることができるところ、という意味合いがあるのでしょうが、今後京都以外の土地でも着物が若い人たちに時々できるお洒落(成人式や結婚式などの機会にではなく、「着たい」と思った時に着れるような)として受け入れられていくと良いなと思います。
 詩集のような雰囲気を持つ小説なんて、久しぶりに読みました。漢字って美しいものなんだ、日本語って美しいものなんだ、と読んでいてしみじみ思いました。現代日本を書いているのに現代日本の生臭さは無い・・・ひたすらに透明美。
 聞けばこれはシリーズもので、完結編だそうです。けれど完結編だけ読んでもここに繋がる過去の物語を想像することができました。
 少年の持つ危うさや毀れやすさ、美しさ・・・何だか嫉妬してしまいます。どうしてわたしは男性に生まれず、少年時代というものを経験できなかったのかと。もし男性に生まれ変わったら凛一くんのような少年になって、有沢さんみたいな少年と出会ってはがゆく切ない恋をするのだ。
 専門書ではなく恋愛本といった具合。
 うまくいっているカップルの容姿が似ているという謎が解けました。それはただ単に長い時間一緒にいて相手の顔を見たり同じ経験をしているからというだけでなく、女性が妊娠した際相手の男性がその女性と近い化学構造をしていれば女性は胎児を子宮内に宿すことが楽になるから。しかし稀に相手の男性の遺伝子に拒絶反応としか言いようのない症状を出す女性もいるようですね。皮膚が腫れあがったり(本当に医師に「拒絶反応」と診断された海外でのケース)。そこまでいかなくとも、やはり出産はつつがなく終えられる方が良い。それは女性の命にも胎児の命にも関わること。そのために自分と容姿や性格が似たパートナーを探すのはとても重要。性格は後天的なものだけれど先天的なものがないわけではありませんから。
 一目惚れが強烈な理由、恋心が持続しない理由についても楽しく読めました。特にわたしは現代人が長生きするようになったおかげで愛するための時間を手に入れたと書いているのを好ましいです。恋心は持続しないけれど(長く持っても4年が限界らしいです。男女が出会って子どもが生まれてしばらく育てるくらいの期間ですね・・・。子どもが生まれるなどの条件が整うと、ドーパミンとノルエピネフリンがオキシトシンとバソプレシンの分泌を刺激し、恋を鎮静化させる。代わりに相手に対し愛着の感情が芽生える)愛する心は死ぬまで持っていられますものね。
 大恋愛をしている人や大失恋した人の頭をfMRIでスキャンしているのも面白い。
 絵本のような大きさ。薄さ。野いちごを思わせる、赤なのに甘い色の裏表紙。
 装丁からしてビビビときました。
 蜷川実花さんが栗山千明さんを撮った写真集となれば「夢のコラボレーション!」とわたしはページを捲りました。
 青空がとってもあたたかな日。外で、分厚くて古い英語の本を読んでいた栗山千明さんはそのまま眠ってしまいます。まるでアリスのように、本の世界の中へ!
 本の世界の中で、栗山さんは様々な女の子に変身します。シンデレラ、白雪姫、赤ずきん、眠り姫、人魚姫、かぐや姫・・・「これって本当に1人の同じ女の子なの?」と思わせるほど、栗山さんの表情は変幻自在。1人の女の子の中にはたくさんの女の子が棲んでいて、それは栗山さんだけではなく他の普通の女の子も同じだよ、と言ってくれているように感じます。
 シンデレラの涙のつぶや、白雪姫が齧る毒りんごの毒を青・銀・薄ピンクのスパンコールで表現したこと、かぐや姫の唇にハート形に口紅を引いているなど、細部まで丁寧にこだわって撮ってあることに好感を持ちました。作り手が楽しく作ったことが伝わってきます。
 栗山さんしか登場せず(7人の小人や狼は登場しますけどね)そのお話の文章も出てこないのに、写真を見るだけでストーリーやセリフが頭に浮かんできました。女の子へのプレゼントにぴったりの写真集だと思います。
 表紙を見て「だ、誰!?」と思いました。中村うさぎさんですね。この本が出た当時はまだ胸はいじってらっしゃらない。
 中村うさぎさんは元々ブスではありません。ブスではないのにプチ整形と整形をなさいました。他人が思う「自分」と自分が思う「自分」が一致しないから。丸顔で目が大きい、いわゆる童顔なうさぎさんは、可愛くあるよりも格好良くなりたかったそう。P148でうさぎさんは『私が「カメラの前で動じなくなった」理由は、整形によって「もはや自分の顔を自我や内面の延長と考えなくてすむようになったから」ではないか?』と書いてらっしゃって、そうであれば良いなぁとわたしも思いました。
 しかし・・・、うさぎさんが理想とする「自分」と実際やってらっしゃることはかなりずれている! 話すことも書くこともずれている! P145で『〜(中略)術後、両耳をバンソウコウで厳重に封じた上に、白いバンデージを巻く。耳切り落としたゴッホみたいな姿。両耳だからゴッホの2倍キ○ガイだ。素晴らしい』なんて書いちゃってるあたり、3枚目キャラ。エド・ゲインに興味もおありのよう。全ては皮のせい。フフ。
 顔が理想の「自分」としても実際の自分は? うさぎさんのどの著作を読んでも、わたしは「うさぎさんはむしろ自己を分裂させたがっているのではないか」と考えてしまいます。

 これからプチ整形や整形をしたいと考えてらっしゃる方には、うさぎさんと精神科医の春日武彦さんの対談は必読でしょう。適度に後押ししてくれます。他にもビューティエキスパートの大高博幸さんとマッド高梨さん(注:タカナシクリニック院長のこと)の対談もかなり本音が出ていて刺激的です。
 最近テレビで、P81に載っている「ニューラル・プロステティクス(神経補綴学)」が紹介されているのを見ました。この本の記述通りに説明すると、ニューラル・プロステティクスは「身体の代わりになる機械を神経を通じて操縦する手法を研究する分野」(P81より抜粋)。もし研究が進めば、より性能の良い義肢の開発にも繋がるでしょうね。今後が楽しみです。
 慶応義塾ニューヨーク学院高等部の生徒に対して著者が行った講義内容をまとめたのがこの本。
 読んでみてわかったのは、脳というものは未だに謎に包まれていて、その謎を解明するのは非常に難しいということ。それでも、いえ、だからこそ脳は面白い。前頭葉、側頭葉など脳には様々な部位がありますが、同じ脳というものであるにも関わらず役割がそれぞれ違うというのがとても不思議です。
 特にアルツハイマー病についての章は、読んでいてドキドキしました。神経細胞を壊す(注:麻痺させるのではありません)βアミロイドを生み出すのはAPPという遺伝子。このAPPをプレセニリンというものが切り取る(おそらくこれは正常な脳でも少しずつ起こっている)。そのAPPの切れはしがβアミロイド。アルツハイマー病はプレセニリンがおかしくなってAPPを切りすぎてしまうために起こるのかもしれない。βアミロイドが溜まって神経細胞が壊されると脳に老人班ができる、・・・と。怖いです。
 ここでわたしが個人的にこの本に対して感じた不満点を一つ。
 1つは、わたしは映画『A.I.』や『アンドリューNDR114』を観て以来「人間とロボットの違いは何なのか?」ということを考えてきたのですが、この本には納得できる答えがなかったことです。勿論映画は映画ですから、現実に肉の体を持っているロボットは当分作ることはできないでしょう。でもわたしはもし作れたら、ということを考えてしまいます。この本ではそういうロボットを作れたとしてもそれは人間とは違う思考をするだろうから全く違う生き物だと言えるだろう、というようなことが書いてあり・・・、わたしは「う〜ん、本当かな? もし人間の脳の仕組みを解明しその仕組みを肉の体を持つロボットに用いて、人間と同じ体を持ち、同じように思考ができるロボットができたら?」と思ってしまいました。心が脳にあり、脳を持っているものには心があると認められても、それは人間ではないのでしょうか? それは脳科学ではなく哲学などの方で考えなければいけないのでしょうか? 勿論、人工心臓は作ることはできても人工の脳を作るのはほぼ不可能だと思いますし、万一そんなロボットを作ったとしてもそれはもはや人間なので(とわたしは思います)他の人間の命令に逆らうだろうから、そんなロボットを作る意味がないでしょうけれど。う〜ん。
 2つめは、この本に本文とは別に参考文献が記載されていないこと。本文中で、他の研究者の考えも用いて講義をした、と著者自身が仰っており、勿論その講義の部分ではどの研究者の考えなのかも書いているのですが、その研究者がその考えを何という本や文献に著したのかについてもしっかり明示し、できれば本文とは別に記載して欲しかったです。こういう科学系の研究は日々進歩すると同時に誤っていることもありますから、この本の内容をそのまま鵜呑みにして良いのか困ってしまいました。参考文献があるならその本や論文を、また、その本や論文について書いた本や論文を調べ、今現在その内容に誤りが見つかっているかいないか知ることができるので・・・。
 とはいえ総合的に見ると、非常にわかりやすく脳について説明している良書です。良書でなければ批判は出てきませんもの。この著者の本はわたしも2冊所有していますが、どちらも一般人が知りたい内容をわかりやすく説明してくれています。著者の今後の本または論文にも期待。
 二枚舌の物語。
 真実か嘘か。
 真実でもあり嘘でもあるのか。

 魔女たちはマクベスに「あなたは王になれる」と言い、バンフォーには「あなたは王の父親になる」と言う。
 マクベスは臣下の身。王にはなりたいが、今の王を尊敬している。王を殺す準備をしたものの、やはりやめようと思い直す。しかし、マクベス夫人はマクベスに、王を殺して王になるよう勧める。マクベス夫人は王を殺す手伝いをし、企みを王に悟られぬよう、王に「私どもは陛下のしもべ」とも言ってみせた。
 マクベスは王を殺して自らが王になる。殺したのは自分ではなく先王の王子たちだと偽って。その後マクベスはバンフォーを殺してしまう。バンフォーの子をも殺そうとしたが、子どもは逃げおおせた。だからその子がバンフォーを殺して逃げたのだ、と罪を着せた。マクベスは魔女たちが「マクダフに気をつけろ」と言うのでマクベスはマクダフを殺そうとするが、マクダフは逃げた。だからマクベスは代わりにマクダフの妻と子どもを殺してしまう。
 まんまと王になったマクベスとその妃マクベス夫人は、錯乱状態に陥る。自分が殺した者の亡霊を見て苦しむ。マクベス夫人は夢遊病になって、自分たちが殺したのだということを喋ってしまう。
 不安になったマクベスが予言を乞うと、魔女たちは「女から生まれたものはマクベスを倒せない」「バーナムの森が動かないかぎり安泰だ」と言った。その予言を信じ、マクベスはわずかに自信を取り戻す。
 バーナムの森は動かない。だが、枝を持って森に見せかけて進軍してくる者たちがいた。森は動かないが、動いたのだ。
 妻と子を殺されたマクダフが、マクベスの前に立つ。マクベスが自分は女から生まれたものには殺されない、と告げるとマクダフは「俺は母の腹を破って出てきた」と言った。マクダフはマクベスを殺す。その前にマクベス夫人は自殺。
 魔女の予言は確かに当たった。真実でも嘘でもなく、真実でもあり嘘でもあったが。確かにマクベスは王になれたのだ。

 この『マクベス』、シェークスピア作品の中でもかなり残酷な方だと思います。マクベスとマクベス夫人の最期がなんとも壮絶。
 人の言葉を鵜呑みしてはだめだ、自分の本心とは違うことを人に勧められたからといって行ってはだめだ、それが正しいことなのかどうかは自分が一番わかっているはずだ、というメッセージを感じます。
 顔は隠せない。マスクでもしないと覆えない。
 顔はその人の看板。顔はその人の表札。その人=その顔である、とその人以外の人は認識します。
 ではその人自身は? 自分の看板であり表札たる自分の顔に自信が持てなかったら果たしてそれを「自分です」と言えるでしょうか? それよりも「いいえ、これはわたしじゃない。これは本当のわたしの顔じゃない」と悲鳴をあげてしまう方が多いでしょう。
 自己は理想の自己と現実の自己によって引き裂かれる。
 それに対し、美しい顔を持つ人は初対面の時点で他者に好意を抱いてもらえる上に自己愛も育つ。羨ましい。美人が羨ましいっ。美人と美貌は関係ないなんて嘘だ。
 しかし理想の自己も現実の自己も本当の自己もどこにもいないよ、整形しても更に引き裂かれ状態になったりするんだよ、じゃあどうしたらいいんだろう、・・・というところまで語るのがこの本。
 わたしは16章『整形』のところを読んでいてメイクアップアーティストのケヴィン・オークイン氏(故人)がおっしゃったことを思い出しました。「メイクは人を変えるものではなく、その人らしくするもの」。
 メイクでもプチ整形でも整形でも、どんな服を着てどんな靴を履いていてもそれを自分らしいと感じられたらいいのに。人にとって「本当の自分とは何ぞや」「今の自分は本当の自分ではない」というのは人生においてメインテーマだから難しいけれど。それでもいつか自分を受け入れられるようにならなきゃいけない。そしていつか、「作られた自分」をも受け入れられるようにならなきゃいけない。でなければずっと苦しいまま。
 この本では様々な方面で頑張っている不美人も紹介されていて、とても励みになります。
 編集者がどんな視点で本や雑誌を読むのか知ることが出来る本。
 例えば一冊の本を読む時その作者の今までの著作の傾向、どの出版社から多く出しているか、その時の社会情勢はどうだったか・・・などに着目すると読書がぐっと面白くなるのだということを、わたしはこの本に気づかされました。
 P37の、職業に合った服装は威圧感を生むという記述も面白い!
 これは10年以上前に発行された本なので、当時の出版界の動向について書いている後半部分は資料としてちょっと面白いです。ここで「伸びる」と予想された作家が本当に伸びていたり、消えていたり・・・当時政界を引退した人が現在日本のどこかの都知事をしていたり。「戦後派で残るのは遠藤周作だけ」というのは非常に当たっているように思います・・・いえ、個人的にわたしが遠藤周作さんの本を好きなだけなのですが(贔屓目ですみません。しかし作品によっては太宰治さんのより酷い精神的ダメージを被ります)。同じく戦後派の三島由紀夫さんも最近美輪明宏さんたちが紹介しているからか若い人が手にとっているのを目にします。高村薫さんは今も昔もすごい! ・・・団鬼六さんのSM緊縛小説も、映画『花と蛇』を観て昔を思い出した方(団鬼六さんの本が流行った世代、または読者という意味です。SMを昔していた方という意味ではありませんが、勿論そう取っていただいても結構です。笑)が読み返しておられるのではないでしょうか。
 P5には知識の系統化の仕方が書かれています。松本清張さん曰く「横に読め」。本の中に興味のある人や事件が出てきたら、それについての本を読め、と。・・・新しい世界の扉を開くべく、団鬼六さんの本を読もうかしら。爆。緊縛モノ以外も書いてらっしゃるみたいですし。
 この本を読んだ後、わたしはいくつか書店を回ってみました。どの書店でも江原啓之さんの本が積まれており、ある書店では高齢かと見られる男性が真剣な面持ちで江原さんの『スピリチュアル子育て』を立ち読なさっていました。時代ですねぇ。
 わたしも底辺女子高生でした。懐かしいなぁ。あの頃。この本を読むと思い出します。地味で自分に自信がなくて女の子とばかり喋って・・・勉強も人並み以下にしかできなかった。少しスカート丈を短くするだけでも「周りがどう思うか」「変じゃないか」とドキドキ。次の日には今まで通りの丈に戻して、残念だけど妙にホッとしてしまったり。
 底辺女子高生は幽霊にだってなれる! 男の子が自分に話しかけてくると、まるで「自分のことが見える人間にめぐり会った幽霊」のように驚いてしまう。勿論、うまく対応できない。特に相手が好きな男の子であったなら、とってもとっても言葉少なになってしまう。
 若かった。青かった。そんな頃を思い出させてくれるエッセイ集です。勿論底辺でない青春を過ごした方には「ふぅん」と思う程度でしょうけれど。また、底辺と言ってもそんなに暗くはないので、壮絶な青春を過ごした方にはいささか平凡に思えるかもしれません。
 作者である豊島さんの凄いところはやはり長距離の家出を決行したことなのですが、わたしは友達と「おやすみ」で別れられる幸福を書いているところが一番好きです。わたしも寮生活などをしてみたかったなぁ・・・(豊島さんは家出をした後、寮に入ったそうです)。このエッセイでは寮生活がどのようなものか少し知ることもできます。
 とはいえ豊島さんはお写真を拝見したところお顔は不細工ではないし、勉強もしっかりやっておられたそうです。わたしの考える底辺は「顔も不細工で勉強もできず地味」なのでこのエッセイはそもそも底辺女子高生はない、と思ってしまいます。
 わたしは御本人が描いたイラストが好きです☆
 イラストに結構なページ数が割かれています(^皿^)
 表紙の女の子の表情もタイトルにぴったり・・・。あらまぁ。

< 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19

 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索