NHKドラマとして以前放送された『ご縁ハンター』の脚本をノベライズした小説。

 婚活を市場経済そのものとして捉えたストーリーが展開するため、読んでいて「うっ。美人な主人公さえこの扱いなら、わたしは婚活市場でどれくらいの値がつくんだろう。少しでも早く叩き売るしかないのだろうか」と、何やら冷たいものが胸にぐさっぐさっと突き刺さってきました。
 けれど、婚活においては自分が相手を選ぶだけでなく、相手に自分を選んでもらわないといけないので、シビアなのは当然なんですよね…。

 さて、この作品、美人で仕事をバリバリしている女性が主人公なのですが、容姿が十人並み以下で性格もパッとしない男女が脇役として登場します。
 男性のほうは、はっきり言っておしゃれ感ゼロだし恋愛にも慣れておらず、でも親には早く結婚するよう期待され、デート相手さえ居ないという現実に打ちのめされ、意を決してのぞんだ婚活では失敗続き。
 女性のほうは、こちらもまた容姿に恵まれているとは言えず、派遣社員で一人暮らしなので経済的な面から言ってもパートナーを見つけたくて、若さ(20代)というたった一つの武器を失わないうちに結婚を!と焦る心とは裏腹になかなかご縁に恵まれない。
 そんな男女が出会い、デートをし、これで二人が結ばれてハッピーエンドかなと思いきや、そうもいかないのが妙にリアルなストーリー展開。
 相手に惹かれたわけではなく、結婚してくれる相手なら誰でも良かったのではないか? と、二人は気づいたのです。
 二人は別れてしまうけれど、未来を感じさせる別れ方で、それがとても印象に残りました。

 主人公はなんだかんだで一緒に居るとほっとする相手と出会えたのですが、わたしとしてはその男女の行く末が気になるところです。
 何が幸せなのかもわからないけれど、幸せになっておくれ!
 主人公の珠晶(しゅしょう)と一緒に旅をしているような気分で、考えながら悩みながらわたしはこの作品を読み終えました。

 珠晶はまだ十二歳の女の子だけれど、王になることを目指して蓬山へ登ります。
 珠晶が生まれた時には既に国には王がおらず、そのせいで民は苦しむ一方なのに、周りの大人は王になることに挑もうともしなかったから。
 自分はただ嘆くだけの大人にはなりたくない、自分はやるべきことをちゃんとやりたい、その一心で、珠晶は自分の足で蓬山へと向かっていきます。

 その旅の途中で珠晶はたくさんの人々と出逢います。
 見ず知らずの人々であっても、人が集まることで自然とグループが生まれ、リーダーが現れ、秩序が出来ていきます。
 珠晶がリーダーとして属するグループ以外にも、王を目指すリーダー的人物は居ます。
 しかし、その人物は、王になりたいと思ってはいても、自分の考えがこれで良いのかと悩んだりはしない。他人の意見を鵜呑みにする時はあるけれども、妙なところで思考停止していて、他人の心中まで理解しようとしない。それに、いざとなれば部下を見捨てる。そしてそれについて後悔しようとしない。

 でも、珠晶は懸命に自分で考えようとする。
 他人の意見にムッとすることはあっても、他人の意見を聞いてそれを自分なりに理解しようとする。
 そして何より、珠晶は他人を見捨てない。全員を助けるのは無理だと悟ってはいるけれど、犠牲を出すのが嫌でたまらず、少しでも誰かを助けたい、と実際に行動する。
 そして、誰かが傷つけば悲しむ。

 これが、リーダーとして相応しい人とそうでない人の違いかもしれないなぁ、とわたしは読んでいてしみじみ思いました。
 珠晶は、相応しい。
 実際に起きた様々な事件への取材を通して、ネットへの危機感の薄さゆえに親も子どもも被害者だけでなく加害者にもなりうる、ということについて警鐘を鳴らしている本です。
 そして、そのようなケースが多々報道されているにも関わらず、「自分は(或いは自分の子どもは)大丈夫」と甘く考えている人々が居ることも、この本の中で指摘されています。
 だから、わたしはこの本を読んでいて、まるで車酔いしたみたいに物凄く気分が悪くなりました。
 紹介されている事件ひとつひとつの壮絶さはもとより、自分の子どもを守るための努力を怠る親に対しての嫌悪感で、吐きそうになりました。

 この本の初版が出版されたのは2010年なので、2013年現在とは状況が随分違ってはいるけれど、それでも現在においてもネットにまつわる事件は発生し続けるばかり。
 ネットは現代人にとってもはや無くてはならないものだけれど、ネット上で出逢う人全てが善人だと思ったら大間違い。
 この本でも、「その「餌」に、釣り堀の中の魚のように男たちが群がる」(P49から抜粋)という表現が使われていて、わたしはこれは凄く巧い表現だなと思いました。
 現実世界においてもネットの世界においても、他人を喰いものにしようという輩は、性別も年齢も関係なく大勢居るのです。 
 一度ネット上に流れてしまった情報はコピーがコピーを生んでしまうため完全に消し去ることはほぼ不可能だし、他人になりすますことなんて容易に出来るし、フィルタリングをかけたとしても色んなサイトがその網目をくぐり抜けてしまうのです。
 
 どうか、親の立場にある人も、まだ子どもの立場にある人も、この本を読んでみてください。
 そして、ネットとの付き合い方について考える良い機会としてください。
 『深夜の魔術師』、『広東の鸚鵡』、『三代の桜』、『御朱印地図』、『砂漠の呼声』、『焰の漂流船』、『慰問文』、『神兵東より来る』、『玄米食夫人』、『大鵬丸消息なし』、『亜細亜の日月』を収録した、横溝正史の短編小説集。

 横溝節と言えばいいのでしょうか。どの作品も、絶妙な語り口で楽しませてくれます。
 けれど、どの作品も戦争の影響を受けています。

 例えば『慰問文』では、女学生が兵隊さんへ慰問袋(手ぬぐいなどの日用品を入れる)を贈るというエピソードが登場。
 女学生は「あたしいままで、戦争は兵隊さんたちにおまかせしておけばいいと思っていたのよ。でも、今度のことではじめて、その間違いがわかったわ。戦っているのはみんななのね。男も女も老人も子供も、みんなみんな戦っているのね。そして皆さん、ちゃんとその覚悟が出来ていらっしゃるのね。あたしそれがわかって嬉しいの」(P177から抜粋)と発言します。

 他の作品についても、日本軍の行いを正義と言ったり、日本軍の御用船を神兵とか称したり、イギリス軍のことを悪く言ったり、「欲しがりません勝までは」という標語を紹介したりしています。

 …この時代の作家は、創作の制限を受けていたので、どうしてもこういう内容の作品を書かざるを得なかったんでしょうね…。
 
 けれど、そういった状況のもとでも、横溝正史が『三代桜』のような作品を書いたのには驚かされました。

 『三代桜』も、一見、当局受けを狙った作品のように思えます。
 「ああして出征なされても、あとには奥さんが残っていなはる。奥さんのお腹には子供さんも宿っている。何も思い残すことはあらしまへん」(P107から抜粋)とか、「わたしは配偶(つれあい)を国に捧げました。息子を、孫を皇国(みくに)に捧げました。わたしはそれを少しも悲しいとは思いまへん」「差し上げますわ。奥さま、差し上げますわ。征一はあなたの曾孫です。大きくなったらきっと奥さまの志をついで、お国のために働いてくれますわ」(P118から抜粋)といった言葉が登場するので。
 ところが、きちんと読んでみれば、決してそうではないことがわかります。

 『三代桜』は、戦地で命を落とした男性にまつわるエピソード。
 その男性は生前、こんなことをしました。
 戦友の妊娠中の奥さんが「やがて生まれてくる子供のために、名前をつけてくれ」と戦友へ宛てて手紙を送ってきたけれど、残念ながら戦友は重傷を負っていて手紙を読むことすら出来ない有様。
 だから男性は、この状況を妊娠中の奥さんに正直に告げるわけにはいかない、と思い、戦友の代筆という名目で、男の子が生まれたら征一と命名せよ、と返事を書きました。
 ところが。
 戦友は戦死したというのに、しばらくして戦友の奥さんからまた戦友宛てに手紙が届いてしまいました。
 どういう事情があったのかわかりませんが、戦友の奥さんへ戦死通知が届かなかったようなのです。
 戦友の奥さんから戦友へ宛てた手紙には、赤ん坊を抱いた写真が入っていました。
 やがて男性はこんな手紙を自分の祖母へ送りました。
 「お祖母さん、僕はちかごろ毎日この写真を胸に抱いて戦っています。この坊やに名前をつけたのはかくいう僕です。僕は坊やの写真を見るたびに、だんだんこの坊やが自分の子供であるような気がして参りました。写真の中から回らぬ舌で、お父さん、お父さんと呼んでくれるような気がします。僕も征一や、征一やと呼んでやります。お祖母さん、そういうわけで僕はいまとても楽しく軍務にはげんでいます」(P116から抜粋)と。
 
 …楽しく軍務にはげんでいます、と結んだことで、一見、当局受けを狙ったエピソードのように見えるのですが、実際は違うようにわたしは思います。
 軍務が楽しかったのは、軍務が終わって日本に帰ったら征一に会えると思ったからではないでしょうか。
 自分が名付け親となった、この世でたった一人の赤ちゃんに。
 写真を通してではなく、実際に征一に会って、名前を呼んでやりたかったから。
 それが楽しみで、だからこそ自然と軍務も楽しくなったのではないでしょうか。
 …それなのにこの男性も、戦友同様、戦地で命を落としてしまいました。
 征一に会えることなく。
 これを悲劇と呼ばずして何と呼びましょう。
 
 …この『三代桜』という作品、戦争の悲惨さがはっきりと書かれているように思えます。
 男性のお祖母さんや、戦友の奥さんのセリフによって、うまくカモフラージュしてあるけれど。
 この作品は、横溝正史の、戦争や、戦争を肯定する人々への精一杯の抵抗だったのではないでしょうか。
 まるで水戸黄門を観終わった時のような読後感の一冊。
 この紋所が目に入らぬか! なんて、十二国記の登場人物たちは勿論言わないけれど。
 上巻で登場した三人の少女たちが自分たちの身分を明かし、誰もが畏れおののく瞬間は、読んでいてスカッとします。
 三人の少女それぞれの成長ぶりが眩くて、特に結末は胸にグッときました。

 けれど…、彼女たちの勝利のかげには、命がけで御璽を守り、そして命を落としたもう一人の少女の存在もあることを忘れてはなりません。
 華々しい勝利の中では、ついつい英雄のことばかり語られがちだけれど、勝利をもたらすために沢山の命が失われていったことを決して忘れてはならないのだ…と、わたしはそんなメッセージを感じながらこの一冊を読み終えました。

 また、
 「(中略)前を向いて歩いていかないと、穴の中に落ちてしまうよ」
 「穴の中?」
 「自分に対する哀れみの中」(以上、P22から抜粋)
 という会話の流れをわたしはとても気に入りました。
 わたしもその穴に落ちてしまいそうになったら、この言葉を思い出したいと思います。
 清秀という、この上巻にしか登場しない、…と言うよりもう登場したくても出来ない少年の台詞が、この上巻のテーマのような気がします。
 清秀は言います。
 「誰かが誰かより辛いなんて、うそだ。誰だって同じくらい辛いんだ」(P233より抜粋)と。
 
 この上巻では、それぞれ立場の違う3人の少女が登場します。
 
 1人目は、度重なる苦難を乗り越えて王となり、けれどどう政を行えば良いかわからず葛藤、そして国について学ぼうと努力する。
 
 2人目は、今まで住んでいたところとは全く違う世界に流されて、言葉もわからず孤独に苛まれ、なんとか職を得て必死に働くけれど、雇い主の無理難題に耐えかね、自分の身の上を哀れむ日々の中で、きっと自分の不幸を理解してくれるであろう1人目の少女によって救ってもらうシンデレラストーリーを頭の中で描いて現実逃避し、やがて雇い主のもとから脱出、けれど親切にしてくれた別の人の真意を知ろうとせず「あなたにはわからない」とかえって我が身を哀れみ、1人目に会えることを夢見て旅立ち、…やがて清秀と出逢う。

 3人目は、王を諫めることの出来る地位にあったにも関わらず、王が定めた過酷な法律によって罪無き国民が大勢殺されていることを知ろうとさえせず、ついに叛乱が起きると叛乱を起こした者のことを「簒奪者」と恨み、己の無知を責められれば「わたくしは何も知らなかった」と開き直り、更には、1人目の少女の噂を聞いて、1人目の少女とは会ったこともないばかりかそもそも住んでいる国自体が違うというのに「わたしがこんな暮らしをしているのに。許せない」と逆恨みし、身柄を引き受けてくれた人の財産を盗んで逃走し、1人目の少女から王位を奪おうと企む始末。

 …2人目は清秀と出逢ったことで大事なことに気づくことができた。…その代償は余りに大きかったけれど。…それでも気づくことが出来た。清秀の言葉の意味に。

 3人目は楽俊(『月の影 影の海』の下巻に登場した心優しき人物)と出逢ったことで、楽俊に八つ当たりしながらも、楽俊のおかげで大事なことにようやく気づくことが出来た。国のこと、国民のことを思うことの大切さに。

 自分の不幸に酔ってしまっているうちは、他の人と助け合うことなんて出来ないのです。
 でももしそれに気づけたら、それから生き方を変えればいいのです。
 気づくのが遅すぎた、と反省したら、そこからはただ進むだけ。
 …と言ってくれているような気がする一冊です、この上巻は。 

 この3人の少女が今後どうなるのか気になるので、わたしは早速、続きにあたる下巻を読もうと思います。
 が、清秀が迎えた最期を思うと…、なんだか下巻を開くのを躊躇してしまいます。
 すぐには下巻を開けそうにありません。
 清秀は小説の登場人物の1人に過ぎない、とわかってはいるけれど、それでもやっぱり、悼みたい。
 わたしは思春期の頃よくカヒミ・カリィさんの曲を聴いてはそのウィスパー・ボイスに癒されていたのですが、カヒミさんいつの間にか母親になっていたんですね。おめでとうございます!
 このエッセイを読んで初めて知りましたが、カヒミさんはずいぶん幼い頃にお母様を亡くしていらっしゃったんですね…。
 カヒミさん自身が母親になった今、「母が抱いていたであろう、大切な幼い子ども二人を育て上げられずに自分の命を失う無念さ、その気持ちを思うと、私の心は深く痛み、けれども同時に、何故か心の底からゆっくり癒されていくように感じる。どんな状態の時でも、きっと、母は眠る私を見つめていた時、いま私が娘を見つめる時と同じような温かい気持ちだったのではないだろうか。~(中略)私が母を愛する時、私は母から愛されているような気持ちになるのだ」(P10から抜粋)とおっしゃっているのが凄く素敵だし、亡くなったおばあさまのことを思い出して「祖母のことを思うと涙が止まらなくなることがある。けれど、その時の涙はいつもより温かい。それは娘がポロポロと泣いて、抱きしめた時に私の頬に感じる温かさと一緒なのだ」(P31から抜粋)という感性も優しくて綺麗。
 愛って受け継がれていくものなんですね…。
 カヒミさんの子育てについての考え方も好き。「〝子を育てている〟というよりも、〝育っている子のお世話をしている〟という方がしっくりくる」(P11から抜粋)、わたしもいつか子どもを産むことがあったらそんな想いを抱い
た母親になりたいなぁ!

 それと、この本の中で、カヒミさんは河合隼雄さんがおっしゃったことについて紹介しています。
 「「--のぞみはもうありません」と面と向かって言われ、私は絶句した。ところがその人が言った。「のぞみはありませんが、光はあります」なんとすばらしい言葉だと私は感激した。このように言ってくださったのは、もちろん、新幹線の切符売場の駅員さんである--『考える人2008年冬号』(新潮社)」(P178から抜粋)
 オチの決まり方が素晴らしいったらない。
 何よりとっても良い言葉。
 望みはもうありません。望みはありませんが、光はあります。…言った駅員さん本人がビックリするかもしれないなぁ。
 「わたしが王になったら善政を敷こう…」と、国を治める予定なんてたぶん来世でもありはしないのに、わたしは泣きながらこの巻を読みました。
 
 貧しくてひもじくて明日の命も危うい人々が口減らしのために小さな子供たちを捨てるくだりが冒頭から続いたので、正直言うと、読み進めるのが辛かった…。
 かつてそうして捨てられた子供二人が成長し…、片方は「自分のような子供を作りたいのか!?」(P268から抜粋)ともう片方の暴挙を止めようとし、問われた方は「国が傾くのが怖いか? 荒廃が怖いか、死が怖いか。楽になる方法を教えてやろうか」「全部滅びてしまえばいいんだ」(P269から抜粋)と答える、というこのくだりには戦慄を覚えました。

 どうしてこんなことになってしまうのでしょうか?
 
 そもそも、この『十二国記』の世界において、王は麒麟が天帝による天意によって選ぶもの。
 王が玉座にいないだけで国は荒れる。
 けれど、王が玉座に居ても国が乱れることもある。
 麒麟に選ばれた王が必ずしも善い政をするとは限らないから。
 「諸神は悪を雷で打つという。ならば麒麟が病むのを待たずとも、王が道を誤った瞬間に雷で打てばよろしかろう。~(中略)不遜だというのなら、今ここで雷罰を下していただこう」(P120~121から抜粋)と笑う者が居ても、天帝は現れない。
 天意はわからない。
 苦しむのはいつだって民。

 …酷い。

 そんな中でも民は王に期待を寄せる。 
 臣もまた、死を命じられるのも覚悟の上で「どれだけの民が死んだか、その目で確かめろ」(P32から抜粋)と死んだ民の戸籍を王へ投げつける臣もあれば、興す王と滅ぼす王どちらの謚がお好みか、と王に問う臣もあり、また、王のために麒麟を逃がそうと自らの命を代償にしてしまう臣もあり…、臣は懸命に働いている。

 なのにだからといって民の暮らし向きがすぐ良くなるわけではない。
 反乱分子は生まれる。
 そうなれば血が流される。

 国とは?
 王とは?
 臣とは?
 民とは?
 と、この巻は読み手の心を雷で打ちます。

 わたしはこの巻を読んだ後、ニュースや新聞を以前よりじっくり読むようになりました。
 自分の住む国、他の国、それらが今どうなっているのかを知りたくて。
 わたしも以前ブラックな職場に勤めていて、あまりに人が足らないので社会人1年目なのに主任となり日付が変わるまでの残業も休日出勤もひたすらこなしてしかし手当0、退職願いも退職届けも何度も何度も上司に破られ「妊娠するか、交通事故を起こして大怪我でもしないと受理しない」と言われ、20代女性なのに体重が31キロまで落ち「このままでは娘が死んでしまう」という両親の直談判のもとようやく辞められた…という実績(?)があります。
 だから、ブラック企業川柳を集めたこの本を、涙なしには読めなかったです。
 例えば、
 
 「「目を覚ませ!」
  両親おしかける
  子の会社」(P15から抜粋)
 
 という川柳には、共感というより懐かしさを覚えたし、
 この本のサブタイトルになっている、
 
 「残業代
  出たら年収
  一千万」(P36)
 にも大きく頷いてしまいました。
 そして泣いた。

 他にも、
 
 「この世にも
  地獄があると
  知った春」(P57から抜粋)
 とか、

 「家賃無駄
  年の半分
  仮眠室」(P114から抜粋)
 とか、

 珠玉の(?)川柳が載っています…。

 こういう川柳がそもそも生まれてこない、労働者にとって優しい世の中にしたいですね…。
 麒麟がどう生まれてどう育ってどう王を選ぶのかが、この巻には書かれています。
 この十二国記の世界が、この巻のおかげで、少しずつですが理解出来てきました。
 泰麒が景麒から折伏(しゃくぶく)の仕方を教えてもらう場面においては、「名前」は繋いでくれるうえ守ってくれる鎖であるという考え方や(これって元々はどこの国が起源の考え方でしたっけ?)、易や遁甲や風水や気功といった中国の考え方や、日本の密教の九字呪言の考え方などもミックスされています。
 十二国記独自の世界観にそれらが加わることで、なんとも不思議な世界観に仕上がっています。

 泰麒の愛らしさは勿論のこと、泰麒の乳母兼指令である汕子(さんし)にわたしは心を打たれました。
 この十二国記の世界において、子どもは母親の体からではなく、枝になった実から生まれるものですが、それでも汕子にとって、泰麒は我が子そのもの。
 突然襲ってきた蝕のせいで泰麒を失った際の汕子の悲痛な叫びは、まるで、お腹の子を失った母親のそれを思わせます。
 だからこそ、汕子が泰麒と再会するくだりでは、読んでいて涙が出るほど嬉しかったです。
 その後の、汕子が泰麒を慈しんで育てるくだりもまた然り。
 読み進めれば読み進めるほど、わたしまで、我が子の成長を見守る母親のような気分になりました。
 読む、書く、読む、書く…のスタイルが確立している方の読書内容はさすがに違うな、と感心しながらわたしはこの本を読みました。
 面白い本を、だいたい1ページごとに紹介してくれているので、わたしは「読書メーター」にログインした状態のスマホを片手にこの本のページを捲り、「おっ! これも読みたい!」と心に引っかかった本を見つける度に、その本を「読書メーター」の「読みたい本」に登録していきました。おかげさまでわたしの「読みたい本」の冊数が一気に増えました。

 「読書日記」とサブタイトルにはあるけれど、この本は日々の細かな記録というよりも、その月に読んだ本とその月に起きた出来事をまとめて「○月某日」ごとに紹介しているので、エッセイとしても読みやすかったです。
 特に、「わたしには霊感がないけど、もしなにかへんなものを見ても、性格的にぜんぜん気づかないかもな、と思ったことがあった。ちいさな緑色のおじさんが壁を這ってても、知らずに本を読んでるかもしれないし、風呂の湯の下から長い髪の女が顔を出しても、本読んでるかもしれない」(P83から抜粋)という一文には、大いに笑わせていただきました。

 さて、桜庭さんのこの「読書日記」はシリーズもののようですが、この本に収録されているのは、2010年8月~2011年12月の内容。
 …3.11の地震についての記述は、2011年4月のページから始まります(一ヶ月遅れずつの掲載ですので)。
 桜庭さんが東京でその大きな揺れを体験したまさにその時の心境や、地震から一週間ほど経ってTVアニメ(ちなみに桜庭さん自身の『GOSICK』のアニメ)が3.11の前みたいにいつも通り元気よく始まった途端これまでせき止めていた緊張・怒り・悲しみが決壊して大声で泣いてしまい「ここは被災地じゃないのに」「恵まれているのに」「東京で働きながら泣くなんて自分勝手すぎるぞ」と思ったが泣くのを止められなかった…(P144から抜粋)という記述を読んでいると、胸が痛くなりました…。
 …東北の人は泣いていいけど東京の人は泣いちゃいけない、なんて事はわたしは無いと思うし、東京の人だって余震に怯えたり、節電によっていつもよりずっとずっと暗い街の様子を恐れたり、色々あったんだから、泣いていいよとわたしは思ってしまうけれど…。…でも、東北で作った電気を東京の人が使ってきたのは事実だからこそ、自分だって地震の被害に遭っているのに、どこか罪悪感を抱いてしまったのでしょうね、きっと…。励ます言葉が見つからず、わたしもこのページをもって、この本を読むのを一時中断してしまいました…。
 それ以降のページを捲っていくと、桜庭さんが被災地を歩いて現地の人たちと交わした会話や(P193~P198掲載の「六月十八日」)、福島県南相馬市で保護された野良犬の里親になった時の話が書かれていて…(P219~P224掲載の「七月二十二日」)。
 その後のページでもその犬との触れ合いや3.11に関することが少しずつではあるけれど書かれていて、その中でも桜庭さんが本を読むこと・本を書くことと向き合っていて…、でも暗くはならず、ユーモアを織り交ぜながら書いてくれていて…。

 だから、桜庭さんの「書くことだけじゃない。読むこともまた、人の祈りの声に耳を澄ます行為で、同時に、なにかを強く願うこと」(P192から抜粋)という一文が、わたしの心に強く響きました…。
 東日本大震災における復元ボランティアで有名な、復元納棺師さんの本。
 
 彼女自身もご家族も被災しているにも関わらず、睡眠時間を極限まで削って、ひたすら安置所を回って下さったのだそうです。
 津波、震災からきた火災…、亡くなった方たちの死因は様々。
 日が進めば進むほど遺体の状態は悪くなるばかりなのに、藻や砂やウジ虫を取り除いたり、瓦礫で負った傷を修復したり、遺体をマッサージしたりお化粧したりを繰り返しながら、300人以上もの方を、在りし日の姿に復元し続けて下さったのだそうです。
 しかも、遺族の想いにも寄り添って下さった。
 彼女自身も被災者なのですから、辛かったでしょうに…。

 せっかく苦労して復元しても、火葬されてしまえば骨しか残りません。
 けれど、遺族にとっては、いえ、故人にとっても、ちゃんとお別れするために、復元は必要なのです。
 直視出来ないほど腐敗或いは損傷を受けた遺体を前にしても、遺族は死を受け入れがたいのです。
 遺体にかつてのおもかげが蘇れば、その方が亡くなったのだという、受け入れたくない、でもいずれは受け入れなければならない現実を、自分なりに受け止められるのです。

 この本の前半には、震災以前に行ってきた納棺のエピソードも紹介されています。
 どのエピソードも、遺族が死を悼み、故人へ感謝しているものばかり。
 それらが、女性らしい優しい視点で描かれています。

 そしてこの本の後半には、東日本大震災で復元ボランティアをした日々が綴られています。
 そのエピソードの全てが、悲しいとか、辛いとか、切ないといった言葉では言い表せないものばかり。
 多分、言葉で言い表してはいけないんだと思います。
 中でも、身元不明者の遺体を復元してあげられなかった、と自らを責める著者の気持ちが…、読んでいて胸に重く迫りました。
 身元不明者の遺体に触れてはいけないという法律ゆえに、技術もあるし道具も揃っているのに、目の前に居る故人を、元の姿に戻してあげられなかった、と…。
 そして、身元不明の子どもの遺体の横に、やはり身元不明のおばあさんの遺体が居るのに気づいて、「おばあちゃん、ごめんなさいね。となりにね、小さなお子さんが一人でいるの。あの世に旅立つときは、一緒に手をつないで行ってあげてもらえませんか」(P208から抜粋)と手を合わせたというエピソードには…、例えようのない気持ちになりました。

 この本は、どんなに我慢しようとしても、ページを捲る度に涙が溢れてきます。
 この本は、命とは? 死とは? を考えるきっかけになったと共に、自分も何か復興のお手伝いがしたいという気持ちを強くしてくれました。
 この本は、タイトルにこそ「謎」という言葉を使っていますが、フェルメールの「同時代から無視された孤高の天才」などのイメージについては異を唱えています。
 その理由は、まず、17世紀の画家にしてはフェルメールについての当時の記録が少なくないこと。最年少にして聖ルカ組合の理事を務めるなど、同時代の周囲の人々から評価されていたこと。また、フェルメールについて「忘れられた画家だったが再発見された」というイメージを定着させた美術評論家トレ=ビュルガーには画商としての顔もあり、自分の持つフェルメール作品の価格高騰を狙って大げさな論文を書いたのだろう…とする説があること。
 しかし、フェルメールが本当にカメラ・オブスキュラを使ったかどうかハッキリしないことや(ちなみに著者は否定派)、フェルメール作品には非真作・贋作が多いこと、かつて専門家が真作であると絶賛した作品が後に別人が描いた絵であったことが判った例が決して少なくない…ということにもこの本は言及しています。
 ハン・ファン・メーヘレンによる贋作事件についても、P85~P90でその事件の経緯が述べられています。フェルメールの名作として誉れ高かった「エマオのキリスト」を含む数点の作品が、実はハン・ファン・メーヘレンという贋作者によるものだった、という驚きの事件です!
 …ということはつまり、口に出すのも恐れ多いことではありますが、現在真作として美術館に飾られているような絵も、本当は違うかもしれない可能性が無いわけではない…というわけですよね…。
 特に著者は、1673年~1674年に描かれたとされる「ギターを弾く女」については辛辣なコメントを述べています。「画面からは微妙な色の階調が完全に失われている。~(中略)全盛期のフェルメールとは大違いだ」(P72から抜粋)と。また、1675年に描かれたとされる「ヴァージナルの前に座る女」に至ってはけちょんけちょんで、著者は「生き生きとした光の反射や、微妙な質感はまったく見られない。これが本当にあのフェルメールなのか?」「もしフェルメールに弟子がいたら、そいつの作品じゃないかと思うくらいです」(共にP73から抜粋)と批判しています。
 …余談ですが、個人的にはわたしもそう思うんです…。特に「ギターを弾く女」は、フェルメールがよく描いた、白の毛皮縁付きの黄色いサテンのガウンを描くことによってフェルメールっぽさを出すことをあざとく狙って別人が描いた絵のような気がしてならなくって…。もちろん断定は出来ませんが…。
 著者もまた、「これらの作品は、フェルメールの“模索”を示しているのではないでしょうか?」(P73から抜粋)と言い添えることで、これら2つの作品を非真作と断定することを避けています。もし断定してしまったらおおごとですものね…。
 しかし、著者は「ダイアナとニンフたち」、「赤い帽子の女」、「フルートを持つ女」、「聖女プラクセデス」、以上の4作品については、フェルメールの作品ではないだろうという推測をほとんど確信として持っていることをP78~P81で述べています。
 いずれにしても、やはりフェルメールについては、未だハッキリと判っていないことが多いです。
 だからこそ、この本のタイトルには「謎」という言葉を敢えて用いねばならなかったのでしょうね。

 ページを捲れば捲るほど面白い本です。
 フェルメールの絵(とされる絵、と申し添えた方がいいのかな? と、なんだか怖くなってしまいますね。笑)がカラーで載っているので、ページを捲っているだけでも目の保養になります。
 また、文章は専門用語を多用しておらず、非常に読みやすいです。
 絵と文章によって、フェルメールの生涯、画風の移り変わり、フェルメールの絵の盗難史までもを知ることが出来ます。
 なお、巻末にはフェルメール作品を所蔵している世界中の美術館一覧も載っているので、興味とお金と時間のある方は、この本を片手に世界旅行をするのも粋かと存じます。…ああ、もしそんな方が居たら、羨ましくって噛みついてやりたいっ!(笑)
 孤独死、自殺、殺人など、様々な事件があった家や部屋へ行き、遺体から溢れ出た血液・体液・糞尿・虫・匂いを取り除いたり、余りにダメージが酷い場合はリフォームもしている方が書いた本。
  
 ハッキリ言って、この本は同業他社の方が書いた本より(なお、この本において著者は、同業他社のいい加減な仕事ぶりに苦言を呈しています)、極めて描写がグロいです。
 ウジ虫そのもののみならず、ハエのサナギを踏み潰す感触についてのくだりや、腐敗した遺体にガスが溜まってやがて腹部から噴出するというくだりまでは、まだ我慢して読めるとしても…、体から溢れてちょうど人の形になった体液の写真や、自殺した方の遺書の写真が載っている上その写真のページに「写真の遺書は遺族に引き取りを拒否され、神社で焼かれた」(P49から抜粋)とどこまでも孤独を感じさせるコメントが添えられているのも、読んでいてとても悲痛な気分になりました。
 けれど、そうした物たちも、故人が遺していった物。遺体から流れ出た血液の汚れや匂いさえも、故人がその場所で亡くなったという、ある意味ではメッセージ。
 わたしはこの本を読んでいて、だんだん、怖いというより、故人がどんな想いで亡くなっていったのかと想像して悲しくてたまらなくなりました。
 
 だからこそ、著者が言う、「私は、いろいろな死の形をこれまで見てきましたが、近頃はこう考えるようになってきています。孤独死は現代においては一つの死のスタイルであって、それ自体決して悪いことではないということです。一人でないとできないことはたくさんあり、それをするために一人で生きる道を選んだ人もいるので、最後の最後が孤独死だったとしても不憫に思うこどなどないはずです」(P211から抜粋)という言葉には、深く考えさせられました。
 確かに、一人で亡くなったこと自体はさほど悲しいことではないのかもしれません。施設や病院ではなく最期まで自宅で…と望む方は少なくないのですから。悲しいのは、亡くなってから何ヶ月も何年も発見されなかったことや、死後のことで色んな人が揉めることなのです。
 となれば、すぐ異変に気づけるよう、定期的な安否確認のシステムを地域に根付かせたり、死亡後の遺品等の整理や家・部屋の清掃、それらに関する支払い等などをフォローしてくれる取り組みが重要ですね…。
 ※注※ このレビューには、この小説の結末に関するネタバレがあります。

 

 赤ちゃんを産むまでのプロセスを、愛情たっぷりに描いた小説。
 「遙か彼方にいる人達とも、すべてがへその緒を通してつながっているのだ」(P206から抜粋)、「自分のおへそからしゅるしゅるとへその緒が伸びて、宇宙へとつながっていくのを感じた」(P231から抜粋)といった表現が素敵!
 しかしこの小説は、話の核となる重要人物「小野寺くん」が唐突にいなくなり、唐突に登場したかと思えば、すぐ結末を迎えるので、読み手は肩透かしを食らったような気分になりかねません。
 
 けれどわたしはこう思うのです。
 「パーラーさすらい」のオーナーこそ、小野寺くんではないかと。

 『つるかめ助産院』のあらすじは以下の通り。
 
 主人公・小野寺まりあの夫「小野寺くん」が失踪。
 小野寺くんは、職場に辞表を出し、ケータイも含む全ての荷物を置いたまま、突然いなくなりました。
 まりあは、かつて小野寺くんと婚前旅行した南の島のことを思い出し、もしかしたらそこで小野寺くんに会えるかもしれない…と微かな期待を抱いて、その島を訪れます。
 まりあは島を歩いていた時、「つるかめ助産院」の院長・鶴田亀子に「もしかしてさすらいを探しに来た人? 『パーラーさすらい』っていうラーメン屋を探しに来た人かと思ったのよ」と声をかけられたことをきっかけに亀子と親しくなり、そして、まりあは自分が小野寺くんの赤ちゃんを身ごもっていることを知ります。
 まりあはつるかめ助産院で働き始めます。
 まりあは、亀子だけではなく、パクチー嬢や、サミーや、「マリリンの旦那、探して連れてきてやらんとなー」と言ってくれた長老(その後海で死亡)や、「育む人たち」(この小説では妊婦という表現をしないのです)等との出会いによって、少しずつ心がほぐれていきます。
 まりあは、自分のお腹の中の赤ちゃんがどんどん大きくなっていくことや、自分自身のこれまでの人生と向き合いました。
 まりあは出産前になってからようやく、亀子との出会いのきっかけとなった「パーラーさすらい」ののれんをくぐります。そこで出会った「パーラーさすらい」のオーナーは、女性の格好をした男性。性同一性障害なのかどうか等についてはハッキリと描かれないのですが、オーナーは濃い化粧をしており、いわゆるオネエ言葉で話します。オーナーは店内に、線の細い女性の写真を飾っています。オーナーはまりあのお腹に触れ、「うちのヨメにも、ガキを孕ませてやりゃあよかったのよね」と言いました。
 まりあはやがて出産。
 小野寺くんは、その出産に合わせて、突然まりあの元へやって来ます。
 まりあは小野寺くんに、どこに行ってたの、とか、どうして居なくなったの、といったことは聞きませんでした。
 まりあと小野寺くんは、「おかえりなさい」「ただいま」と短い会話を交わします。
 小野寺くんは、夢の中に現れた変なおじいさんに導かれてこの島に来た、と説明し、まりあは「長老が、私との約束を守って、本当に小野寺くんをこの島へと導いてくれたのだ」(P260から抜粋)と考えます。
 そして、まりあは小野寺くんと赤ちゃんと共に、船で島を離れます。
 それを、島のみんなが見送ってくれます。
 それでこの小説はおしまい。

 …余りにもアッサリ終わるので、「小野寺くんがどこに行っていたのか、なぜ失踪したのか、どうして明らかにしないんだ?」と違和感を感じる読者は少なくないことでしょう。

 しかし、「パーラーさすらい」のオーナーと小野寺くんが同一人物だったとしたら?
 これは単に、わたしの勝手な想像なのですが…。
 もしも、亀子が「パーラーさすらい」に飾ってある、まだ妊娠しておらず線が細かった頃のまりあの写真(もちろん、実際にまりあの写真なのかどうかは分かりませんが)を見て、最初からまりあのことを知っていた上で、まりあをつるかめ助産院に導き、やがては「パーラーさすらい」へと導いたのだとしたら? 
 まりあが自分の夫を「小野寺くん」と、なぜか姓で呼び続け、一度も名前で呼ばないことに、深い理由があるのだとしたら? それは、単に夫婦の心に距離があることを示しているのかもしれませんが、もし、男性としての名前で呼ぶことに抵抗があったのだとしたら?
 小野寺くんが今までの、男性としての人生を捨て去りたくて、だからこそケータイも持たずに失踪したのだとしたら? そして以前婚前旅行で訪れた島に住み始めたのだとしたら?
 小野寺くんが、島の住人として最初から長老の存在を知っていた、或いは、本当に小野寺くんが長老の夢を見たのだとしても、そもそも島に居たからこそまりあの出産にジャストタイミングで駆けつけられたのだとしたら?
 …世の中には色んな人が居ます。単に女装が好きなだけで恋愛対象は女性だ、という男性も居るし、男性も女性も恋愛対象だという女装好きの男性も居るし…。性というのは、本当に人それぞれです。

 考え過ぎかもしれませんが、わたしは小野寺くんが「パーラーさすらい」のオーナーと同一人物だとしか思えないのです。

 これからこの小説を読む方には、二つの点に注意して頂きたいです。

 まず、一つ。
 この小説を読んでしばらくは、箱(匣)というものが怖くなるので、それを覚悟して読むこと。
 わたしは弁当箱におかずを詰めていた際、ふと「隙間が空いてるから、もっと何か詰めなきゃ」とうっかり独り言を言ってしまった自分に気が付いて食欲を失くしましたし、宅配便を受け取った際などは「もしやこの中に…あれが…」とごくりと生唾を飲んでからしかダンボール箱を開けられない、という状態に陥りました。

 二つ。
 読むなら、必ず最後まで読み通すこと。
 バラバラ殺人を描いたこの小説は、前半はまだマシなのですが、後半からどんどんエグくなっていきます。
 クライマックス直前という段階になってから或る人物が告白した所業などは、わたしは読んでいて本当に胃液がこみ上げてきて、「なるほどこれが『反吐が出る』って感覚なのか! 他の人はまだまともだ! この人こそ狂っている!」という堪らない嫌悪感に襲われ、あと少し読めばこの小説を読み終わるというのに、バタンと本を閉じてしまいました。
 けれど、「とにかく最後まで見届けよう…」と思い直して再びページをめくると、勿論或る人物に対する嫌悪は消えないけれど、この物語そのものの物悲しさが胸を打ち、涙さえ出ました。
 多分、他の作家がこの物語を書いたら、単に残酷でセンセーショナルな内容で終わったでしょう。例えば似たような匣については、大塚英志原作・田島昭宇画の漫画『多重人格探偵サイコ』第一巻にも登場し、あれはあれで好きな作品ですが、不快感が半端ではありません。
 京極夏彦が描いたこの匣は、勿論残酷極まりない代物であることに変わりはありません。けれど…、痛々しく、虚しく、哀れでありながらも、どこか奇麗。
 最後まで読んで良かった。

 また、この小説においては木場や榎木津といった人物たちの人気が高いようですが、わたしはやはり京極堂が好きです。
 関口と青木が、不幸な生い立ちの人について「屈折した性格になるのも頷ける」「これでおかしくならなきゃ嘘だ」「サイコキラー」などと話していた時、京極堂は怒って「生い立ちに遠因がないとは云わないし、幼児虐待を受けた者の多くがその人生に大きな傷を負うようなことは確かにあるが、だからと云ってそれが犯罪を犯す理由にはならない! ○○(ネタバレとなってしまうので名前は伏せます)と同じような悲惨な生い立ちをした者だって、まともに暮らしている人は大勢いるよ。~(中略)いいか、きっかけは必ずあるんだ。それさえなければ、○○だってこんなことしやしなかったさ!」(文庫版P834から抜粋)と言います。
 不幸な幼少期を送った=犯罪者になるリスクがある、と見なされかねない昨今の風潮を、わたしはずっと懸念してきました。だからこそ京極堂の言葉は、何だか嬉しかったです。

 余談ですが、この小説の中で頻繁に「生きている」という言葉が用いられることが、わたしの心に引っかかりました。
 「ああ、生きてゐる」とか、「この女は生きている」とか、とにかく目につきます。
 京極夏彦の他の作品(例えば『幽談』に収録されている短編『手首を拾う』など)に於いても、「生きている」という言葉はやはり効果的に使われています。
 京極夏彦にとって「生きている」という言葉がどういう意味を持つのか…、それを知る為にも、わたしは今後も京極夏彦の小説を読み続けたいと思います。
 「特に近年は、時間とお金と知恵を尽くして努力をすればするだけ外見レベルは向上するのであって、その努力を惜しむ人は人間としての魅力が足りない人、という価値観が広まっています」(P214)という一文を読んでいて、わたしは深く頷いてしまいました。
 
 綺麗な人自体は本当はそんなに多くないのかもしれないけれど、綺麗にしている人は非常に多い…とわたし自身も日ごろから感じています。
 今は様々な美容・ファッションの情報を誰もが吸収しているので、明らかに変!とびっくりするような人を見かけることは無くなりました。
 時々、その人が20代~30代だった頃に流行ったメイクやヘアスタイルを引きずっている人を見かけるけれど、そのことを本人に教えることは「自分自身を客観的に見る能力に欠けている」と言うのと同じように思えて、物凄く失礼な気がするので、言えません…。

 この本においては、美醜について悩むことのない「おたく」についての考察も成されています。
 「彼等はやはり揃って色白で、ジーンズメイトで売ってるっぽいチェック柄のシャツにジーンズを着用し、リュックを背負いつつも手には紙袋、といったいでたちなのです」(P85)、「彼等をよく見ていると、伸び気味の髪が何日間か洗っていない感じでペタッとしていたり、ズボンの裾が汚れていたりすることがよくある。しかしそのペタッとなった髪や汚れたズボンは、彼等に私が持っているような生臭い自意識がほとんど無いということを教えてくれるのです」(P87)、「混んだ電車の中でリュックを背負ったままにしていると自分がどう思われるか、などということに全く注意を払わずに浮き世離れした表情を続ける彼等が少し、羨ましくもなる」(同じくP87)と著者は語ります。

 そう考えると、少しおたくの人たちが羨ましくなります。容姿の悩みから解放されているなんて…。
 おたくの人々というのは、三次元(現実世界)の異性に恋愛感情を抱くことは滅多にありません。
 おたくの人々にとっては、二次元(架空)の異性こそが恋愛対象であり、いわゆる「○○は俺の嫁」。そういう「嫁」たちはおたくの人々の容姿も学歴も収入も一切咎めることはありません。今の技術においては「嫁」たちには自我が無いからです。「嫁」たちは、ただただ可愛らしく微笑んで、時には魅力たっぷりに怒っても見せる存在。
 おたくの人々は、異性に好かれるため外見を飾り立てるという、人間が何千年も昔から続けてきた生臭い煩悩から解き放たれた、ある意味での新人類なのです。それはある意味とても羨ましいことです。彼等は好きなキャラが、例えばいわゆるギャルゲーのキャラだとしたら、好感度パラメータを上げることだけに集中すれば良いのですから。
 男性に限らず、女性も二次元のキャラに夢中になっている人は沢山います。二次元のキャラは、すね毛も脇毛もないしオナラもしないし浮気もしないし金をせびりもしないし暴力もふるわないからです。老けることさえ、ない。
 男性も女性も、二次元のキャラ相手を好きでいる限り、異性に幻滅させられることはありません。わざわざ時間を割いてデートをセッティングしなくても、自分が好きな時に漫画やゲームなどそれぞれの媒体にアクセスすれば相手の姿を確認出来るのです、たとえば相手が架空の存在であっても。三次元の異性こそが架空の存在のようなものなのです。

 そのうち、おたくに限らず、ほとんどの人にとって三次元の異性が恋愛対象でなくなる、そんな時代がくるかもしれませんね…。
 その時「容姿の時代」は終焉を迎えるのかも。
 信じた人たちに裏切られ、飲み食いも出来ず、熟睡も出来ず、身体中傷つき、死をも覚悟していた陽子が、ついに信じられる人たちに出逢う下りでは、読み手であるわたしまで救われたような思いがしました。
 わたし自身は傷なんて負っていないのに、身体が癒えていくような気がしました。心があたたかくなりました。
 人は、信じられる人が居るというだけで、こんなにも救われるものなのでしょうか。

 中でも、楽俊は清々しいほど良い奴で、しかもいわゆる萌え要素を兼ね備えています。
 特に、陽子に抱きしめられた楽俊が(陽子は楽俊をはっきり言って喋るネズミの妖だと思っていて、まさか人間の男になれるとは知りませんでした)、「お前、もうちょっと慎みを持った方がいいぞ」と動揺する所なんかは、わたし、かーなーりニヤニヤしてしまいましたっ。ニヤニヤ頂きましたっ。ごちそーさまっ!
 わたしが陽子だったら間違いなく楽俊に惚れています。
 けれど、陽子はその性格からいって、簡単に惚れたりはしないんでしょうねぇ。そういうところも又、良いんですけどね。

 また、わたしは、下巻において登場した、胎果についての話も興味深く感じました。
 この十二国記の世界においては、子どもは親の身体からは生まれず、里木(りぼく)という木の実から生まれてくるのだそうです。(ただし、遊郭はこの世界にも存在します。純粋に、ただひたすら快楽を求める為の物なのでしょうね)
 胎児がなる実だから、胎果。
 子どもを欲しがっている夫婦がお供え物をして、願いを込めて里木の枝に帯を結ぶと、天がその夫婦に親となる資格があるか見定め、合格すれば里木の枝に胎実がなり、夫婦がその胎実をもぐと、一晩おいて実から子どもが生まれるのだそうです。
 逆に、天がその夫婦に親となる資格がないと判断すれば、いつまでも胎果はならないのだそうです…。
 …この方法なら、子どもは皆望まれて生まれてくるし、それはとても素晴らしいことなのですけれど、胎果がならない夫婦はたまったものではないでしょう。
 自分たちの何がどういけなくて胎果がならないのか、どうすれば胎果がなるのか、天が親切に教えてくれるはずもなく…、何だかそれが、現実世界で不妊治療を頑張っている夫婦に重なって思えて、わたしは切なくなりました。
 現実世界では、子どもを望んでいないのに安易な性行為で妊娠して子どもを産んでみたはいいものの虐待して殺してしまう人もあれば、子どもが欲しくて欲しくて不妊治療に励み続けているのに子どもを授かれない人もいて…、どうして世の中ってもっと上手くいかないのでしょうか。
 これを読んでいると、自分も陽子と同じ極限状態に苦しんでいるような感覚になります。
 陽子は、訳もわからぬまま異世界に連れ去られ、連れて来た当の本人たちは姿を消し、来たくてここへ来たわけでもないのに招かれざる「海客(かいきゃく)」としてまるで罪人であるかのように連行され、優しい顔をして温かい言葉をくれた人たちに裏切られ、食べるものもなく、熟睡もできず、野宿をしながら、毎日毎日昼も夜も妖魔と殺し合い、身体中に怪我をして、懐かしい我が家を想い続けます。
 …読んでいるうちに、何だか自分が陽子と同じように体力が尽き果てているような、常人ならとっくに絶望しているところを細い一本の糸だけで何とか正気を繋ぎ止めているかのような、そんな気分になります。
 だから(上)を読むのはしんどかったです。
 今から(下)を読みます。陽子にはどうか信じられる人と出逢って欲しいです。そうでないと、辛すぎるから。
 もし自分が「姑獲鳥」の正体たる人物だったら…と想像して読んだら、涙が止まらなくなりました。
 この「姑獲鳥」は化け物などではありません。
 悲しいほどに「母」なのです。
 我が子を奪われたが為に、気が狂い、「今度こそこの子を育てなくては」と他人の赤ん坊を攫うようになった、哀れな「母」…。
 わたしはまだ誰かの「母」になったことはありませんが、「母」から「子」を奪うのは何と残酷なことだろう、と、この小説を読み終えた今も胸が痛んでいます。
 いつかわたしが「母」になる時にもまた、この小説を読みたいです。
 たとえ子どもがどんな姿で生まれても、守り通せるように…。

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