介護に携わっていない人にも必読の本。
 何故なら、生き続けていれば、人は必ず自分自身と他人の老いに向き合わざるを得ないから。
 いざ老いた時に現実を拒絶しないために、老いとは、介護とは何か、を考えるこの本が必要になると思います。
 
 一般的に、介護についての本は、「自立支援」「自己決定」など、聴こえの良い言葉ばかり並べます。
 けれど、この本はそれらについて疑問を投げかけていきます。
 誰かに依存しなければ生きられないから介護を受けるのであって、そもそも人間は若い頃も誰かに依存して生きているじゃないか、過度ではなく適切な依存が行われるべきだ、と。
 
 この本全体を通して、わたしには筆者がこう語りかけているように感じました、決して思考停止するな、と。
 この本は視野を広げてくれました。
 
 介護ロボットや外国人労働力受け入れについての筆者の見解も興味深いです。
 
 ナースコールについてのページは、実際に介護に携わる人にとっては少々耳が痛いかもしれません。
 余談ですが、わたし自身、社会福祉士として高齢者福祉に取り組んでいますが(今の職場ではしていませんが、以前の職場では介護職員も兼ねていました)、あちこちの施設で「同じ人に何度もナースコールを鳴らされて業務が進まないのでスイッチを切ったら、上司に注意を受けた。そんなこと言ったって業務が進まない」等と平気で話す介護職員や看護職員に出会いますので…。確かに忙しいのはわかるのですが、ナースコールは命綱ですから、下手したら高齢者が死にます。
 この本のナースコールについてのページには、「用がない、あってもたいした用ではないナースコール。でもそれがもっとも大事。名づけて“純粋ナースコール”。~(中略)不安な老人には、呼べば応えてくれるナースコールは自分が世界とつながっていることを確認する唯一のものなのです」(P52から抜粋)と書かれています。
 せめてこのページだけでもいいから、全ての介護関係者に読んで欲しいです。
 短編集。
 京極さんの綴る言葉たちには不思議な風情があるので、わたしは何度も何度もこの本を読み耽り、その世界に浸ってしまいました。

 わたしは、1つ目の短編『手首を拾う』で主人公が庭を観ている時の描写(P28)を特に気に入りました。その理由を上手く言えないのですが、激しい音の鳴る状況から、全く音の無い状況に変わるまでの移り変わりの書き方が、美しいなと思って。
 手首の正体が結局何なのかは、この作品の中でハッキリと説明されないのですが、わたしは多分この手首は主人公のかつての妻の象徴だろうなという気がします。手首だけしか無いということは、主人公に罵声を浴びせることも、主人公を突き飛ばすことも出来ないのですから。手首だけしかないから、手首は、主人公を拒否しない。それは見方を変えれば、体のほとんどが主人公を拒否しているとも捉えられますが…。
 「私は七年振りに手首を拾った。ああ、久しぶりだね。手首を頬に当てる。冷たい女の体温。生きているね。良かった」(P37から抜粋)という主人公のモノローグが、酷く悲しく、けれど美しいので、何故か涙が、零れそうになります。

 2つ目の短編『ともだち』は、主人公と喫茶店のマスターが、幽霊なんて居ないさと言いながらも、お互いに主人公の友達の幽霊の姿を見ていて、その幽霊について冷静に話し続けている…という、ちょっと変わった雰囲気の話です。
 3つ目の短編『下の人』は、主人公のベッドの下に幽霊が棲みついてしまったため、最初主人公は幽霊の存在を迷惑だと感じていたけれど、その幽霊の姿が余りに奇妙だし無力な様子なので、主人公はだんだん幽霊を気の毒に思い始め、しまいには主人公から自発的に幽霊に触れて助けようとする…という、これもまた奇妙な話です。
 4つ目の短編『成人』は、人に成れなかった者のことを書いた作品です。これはあくまでわたしが読んでいて思ったことなので、もしかしたら違うかもしれませんが、多分、銀色の缶に入っていたのは、いわゆる水子なのではないでしょうか。けれど何かの理由でその家族はその水子を葬らず(ちなみに、その家族の1人が「まだいるんだから」と話しています)、それどころか毎年雛人形を飾ってやったり、もし人に成れていたら成人式に出るのに晴着が必要だっただろうからという理由なのか着物を用意してやっているのだ…と思います。家族が目に狂気を浮かべて「二十年もよ、二十年も面倒みたのによ」と呟きながら雛人形を壊すくだりは、読んでいて少々寒気がしました。

 …と、どの短編もそれぞれ独特の世界観なので読み応えがあるのですが、わたしが一番気に入ったのは、7つ目の短編『知らないこと』。
 …やられた! と、この短編を読み終えてすぐ、膝を打つ思いがしました。
 どの短編でも幽霊のことを書いているけれど、この短編においては生きた人間のことが書かれています。
 読んでいると、狂っている人間の混乱した思考を仮体験しているかのような気分になり、乗り物酔いとはまた違う、何といえばいいのでしょうか、文章酔いしていると言えばいいのでしょうか、とにかく嫌~な気分になりました。
 まるで、「どうだ、幽霊より余程、生きている人間の方が怖いだろう?」という京極さんに問われたかのような気がしました。本当にそういう意図があるかどうかはわかりませんが、
もしそうだとしたら、敢えてこの本のタイトルを『幽談』にした京極さんのセンス、堪りません!

 この短編集を読んでいると、異国を旅したくなるというより、まさにその地にてこの短編集を読んでいるような気分になります。
 熱気や匂い、喧騒が伝わってくるかのよう。
 特にわたしはP20の、「永遠でなく、持続する刹那に生きるのだ」という表現を気に入りました。ああ、そういう世界を実際に感じてみたい、と、旅に出かけたくなりました。また、P131の、「ふっと薄笑いを浮かべたこの世の全てから、見放されていくような喪失感を」という表現も好き。

 この本には8つの短編が収録されていますが、わたしの心に一番残ったのは8つめの「夜は戦場で眠りたい」。
 他の短編は…はっきり言って性行為の話ばかりが出てくるので余り友達には勧められないけれど、この短編については読んでみてと勧めたいです。
 この短編に出てくる、「百年前に会っていれば、同じ船に乗る。千年前にも会っていれば、同じ寝床に入る」という物語を読んで以来、もっと人とのご縁を大切にしようと思うようになったから。
 だからこそ、この短編にひっそりと書かれた「おそらく次の世で、僕達はもう会わない」という一文は、何度読み返してもひどく悲しいです。
 この短編の最後に出てくる、名前のわからない南洋の白い花と赤い花は、わたしには何故だか彼岸花のように思えました。南洋にも咲くのかはわからないけれど…彼岸花は、彼岸と此岸とを繋ぐ花だから…。それとも蓮でしょうか…。蓮は南洋にも咲いているのかなあ…。

 さて、この短編集、それぞれの短編の登場人物同士が知り合いになるわけでも、国が同じなわけでもないので、悪く言えば書きっぱなしといった印象ですが、「あの人たちのその後はどうなったの?」とかえって想像を掻き立てられました。
 実際に旅をしてみると、旅先で出会った人のその後なんて何にもわかりっこありませんしね。

 それにしても、どの短編にも、悲惨な境遇に置かれている女性たちが登場しました。
 余談ですが、わたしはこの本を読んだ後にたまたまプランジャパンのBecause I am a girlというプロジェクトの存在を知りました。
 そのプロジェクト内容と、この短編集に出てくる女性たちの境遇のイメージが不思議と重なります。
 わたし自身決してお金に余裕はないし、今のところ日本の被災地への支援をわずかながら続けているのですが、いずれはそういった海外への支援もしたい、と検討中です。
 何千という遺体を検死してきた方が書いた本。
 
 第1章では自殺した方の遺体の状態について述べられているのですが、その描写たるや、もう…、生々しくって、この本を読んで自殺を思いとどまる人がいるかもしれないと思うほどグロいです。
 特にわたしが悲鳴をあげそうになったのは、P36の、転落死についての描写。もし足から転落したらまず大腿骨頚部が折れ、骨盤や腰の骨が折れ、頭がガクンと前のめりの状態になるため首の骨が折れ、体がエビのように折れ曲がって肋骨が折れる…と。想像するだけで痛い。痛いです。
 こんな調子で、どんな死に方をすると遺体がどんな状態になる(首絞め、感電死など様々)、ということが書いてあるので、わたしはこの本を読んでいてすっかり血の気が引いてしまいました。楽な死に方なんて無いのだなとつくづく考えさせられ、と同時に、これまでにわたしが経験してきた身近な人たちの死を想うと、涙が止まらなくなりました。みんなが最期に感じたであろう恐怖、痛みを、今になって自分も感じたような気がして…。
 
 さて、同じく第1章には、借金苦に苦しみ、愛する家族に保険金を遺すため、事故に見せかけて自殺した方たちについても書かれています。
 先述の通り、読んでいて胸が苦しくなりました。この方たちは本当は生きていたかっただろうに…どれだけ無念だっただろうか…どれだけ怖かっただろうか…と。
 けれど、事故死した遺体と自殺した遺体の違いは結局見抜かれてしまい、遺族には保険金は下りず、遺族には後悔だけが残ることに…。
 せっかく死んだのに、と言えば語弊があるかもしれませんが…、読んでいて何ともやりきれない気持ちになりました。
 かといって、自殺した方の気持ちや遺族の気持ちを汲んで「事故死です」と嘘の報告をするわけにはいきませんから、それが検死に携わる方の辛いところだな、とお察し致します。この本にはそこまで書かれていませんが、多分、検死に携わる方は遺族から詰られることも全くないわけではないでしょうし、遺体の持ち主が夢に出てきて恨み言の一つや二つ言うこともあるのではないでしょうか。
 けれど真実は明らかにされねばなりません。他殺が間違って事故死や病死として処理されてはいけないのと同じように、自殺もまた自殺として扱われねばなりません。
 もしこの仕事をなさっている方に会う機会があったら、わたしは心から「お疲れ様」と言いたいです。
 
 以上のように、この本はわたしの心にひどく焼き付いたのですが、実はこの本に対していくつか疑問があります。
 例えば、P75~P84に書かれているピストル強盗が犯した殺人についての描写は、まるで小説のようによく書けているのですが、筆者自身が「犯人は未だに捕まっていない」と述べているし、目撃者がいたとも書かれていないのに、どうして筆者はここまで詳細に犯人の「おとなしくしろ。いいな、静かにしてろよ」(P77から抜粋)というセリフや、殺された女性店員の「私は、開け方を知らないんです」(P78から抜粋)というセリフを書けるのでしょうか? もしこのページの前後にでも「これらの描写はあくまでわたしの想像だが」などと述べてくれていたら読み手も納得できるし、もし監視カメラが作動していて一連の人物たちの動きやセリフを読唇術などから証明出来るのならば、監視カメラがあったとこの本に書いておくべきではないでしょうか。それなのに筆者は「とくに店員さんは、「逃げるな」と脅されて逃げる途中」(P83から抜粋)などと、さもそれが事実であるかのような誤解を招く描写をしています。逃げたということは遺体の状況からしてわかるのでしょうが、本当に「逃げるな」と脅されてのことだったと100%断言できない以上、専門職として安易にこのような描写をすべきではないのではないでしょうか。読み手の中には、筆者が書いたこの小説めいた内容を、実際に起きたこととして「へえ、犯人はこうやって脅したんだな」と素直に受け止めてしまう人がいるかもしれません。
 P97~P101に書かれている殺人についても同じようなことが言えます。筆者は「慌てた犯人は、これ以上騒がれては大変だと、寝床にあった布団を彼女に被せた。「騒ぐな」と言って足と手を縛った。そして、さらに口も塞ぎ、おとなしくなったところで、犯人はあらためて室内を物色しにかかった」(P99~P100から抜粋)などと、目撃者はいないはずなのになぜか詳細に状況を描写しているのですが、この殺人については筆者はしっかり「これが私の見解だった」(P100から抜粋)と添えています。
 どうして筆者は、P75~P84の殺人については「これが私の見解だった」という一文を添えることが出来なかったのでしょう。
 P75~P84の間であるP80に「その時の法医学的な見解は以下のようなものだった」という一文が出てきた時は、わたしは「あ、これでちゃんとフォローしてくれるのかな」とホッとしたのですが、よくよく読んでみると、それは犯人や女性店員のセリフを筆者の想像によるものだ、と示す一文ではなく、その一文はあくまで、犯人が相当な銃の使い手であるという見解を示すものに過ぎませんでした。
 きっとわたしの読解力が足らないからこそわたしがこういう疑問を抱くのでしょうが…、もし遺族が筆者が書いたセリフを読んだら、「これが娘の最期の言葉か」と涙する可能性があります。
 ただの想像なら想像とはっきり添えるべきであって、こういう本においては専門職として脚色を極力省くべきではないかとわたしは思うのですが…。わたしが間違っているのでしょうか…。
 わたしが読んだのはこの本の第一刷発行本なので、それ以降刷られたものについては加筆修正されていることを願います。
 
 その他に関しては、同じ場所から白骨遺体とミイラ遺体が発見される謎や(白骨=夏に亡くなった、ミイラ=冬に亡くなった)、同じ状況下において家族間に死亡時間の差が生じた際の遺産相続問題についてのこと(例えば10~30分の差があったとしてもトラブルを避けるため同時死亡として扱われる)など、勉強になっただけに、尚更そういった脚色が惜しまれるところです。
 「『ロボジー』のDVDはまだ出んのか! けしからんっ!」と、何だかお年寄りっぽい口調および気分で購入した一冊。

 わたし、映画『ロボジー』、すごく好きなんです。職場の後輩に「映画館で見たけど面白くなかったですよ」と言われて、実際に映画館で観たら面白くて、思わず「面白かったじゃないの!」と職場で後輩を注意しそうになりました(笑)。
 わたしの職場が介護施設ということもあり、わたし、お年寄りが主人公になっていて、尚且つ、お涙頂戴じゃなくて単純に爆笑できて、しかもラストは「このじいさん、ちょっと花さかじいさんっぽいじゃ~ん。やるじゃん、じいさん」とニンマリできる、そんな映画が作られたことがとても嬉しいのです。
 若者がお年寄りに頼みごとをするなんて滅多に無いこの時代ですが、この映画ではお年寄りが主人公。また、お年寄りが周りの人に「認知症になったんじゃないか」と疑われて悔しい思いをする様子もよく描けていました。
 余談ですが、いくつかの介護施設職員と症例発表会を行った際、ある施設の介護職員が「足が痺れる」と何度も訴えるお年寄りについて、「普段はしっかりなさっているのですが、『足が痺れる』と何度も訴える、という認知症状があります」とキッパリ言い切ったことがありました。「認知症じゃなくて本当に痺れてるんじゃないですか? 例えば腰部脊柱管狭窄症とか」と指摘したら、慌ててその介護職員がそこの施設の看護師に確認を取り始め、本当に腰部脊柱管狭窄症だった…ということがありました。介護施設で働いているプロすら認知症についてよくわかっていない事もあるのだから(そもそも看護師も、知ってるなら教えといてやれよ!)、家族なんて尚更わからないですものね。
 この映画でも、「最近怒りっぽいですよね」という理由で、お年寄りが認知症を疑われています。…怒りっぽいのは元からかもしれないのに。更に余談ですが、うちの施設に入居申し込みをしに来る家族には、お年寄りがどういう認知症を持っているか確認するのですが、その際「お金に細かくて、年金の管理をわたしたちに任せてくれず、勝手に銀行にお金を下ろしに行く」「家の中でテレビばかり観て、食べたら寝る生活。やる気を出して欲しい」「夜中に冷蔵庫を開けて、お菓子を食べる。夜中に何か食べるなんて」といった話を聞くこともあります。…それ、認知症じゃないと思いますよ…。元々お金に細かいんだろうし、元々ぐうたらなんだろうし、元々夜中に小腹が空いて何かつまんでたんだと思いますよ…。と思って本人たちに聞いたら「昔からこうしていた」とおっしゃいましたもん。
 さて、映画の話に戻りますが、ロボットが投身自殺(?)するシーンも衝撃的で笑えるし、冒頭で男3人ぐうすか寝ててヨダレが美しいツララの如く流れているし、と、笑い所満載でとにかく楽しめる映画でした。吉高由里子ちゃん演じる葉子の変態っぷりも良い。二次元の嫁を認めるなら、ロボットとの結婚を夢見るのもアリなのか? アリなのかぁぁぁぁ…。
 ということで(どういうこと?)、これだけ語るほど好きなので、早くこの映画のDVDを出して欲しいんですけどまだ出ない! けしらん! ということでこの小説を読みました。

 やっぱり小説版も面白いです。
 「小林は、あまりの展開に脳味噌がゆであがりそうな気分だった。見ると太田の汗腺は決壊し、その隣では長井がゲロを吐いていた」(P110から抜粋)ですって。この一文だけで、映画のワンシーンが鮮やかに脳裏によみがえります。…食事前にはよみがえって欲しくないですけど、ね。コミカルな文章表現って好き。
 また、映画を見て、「なんであのじいさん、インタビューの練習なんてしてたんだ?」と首を傾げてしまった人には、是非この小説を読んで欲しいです。「ああ、そういうことか、じいさん!」と納得できるはずですから。

 けれど。
 ひとつ引っかかったことがあります。
 もしかしたら、映画でも触れられていたのかもしれません。
 それを、わたしが聞き逃してしまっただけなのかもしれません。
 …けれど。
 ロボットの機能について説明する一文が、どうしても引っかかってしまいました。
 「走りながら本を速読したり」(P279から抜粋)って何なんだっ?
 新時代のロボットは、走りながら本を速読する機能を搭載せにゃならんのかっ?
 「今の女優について何を語れっていうのよ、おもしろいオンナがいないじゃな~い!」というマツコの嘆きが聴こえてくる一冊。
 マツコって女優について考察するのが好きですよね。女優について書く時、文章がいきいきとするもの。
 わたしは将来的に小池栄子が怪演女優に化けると予想しているので、マツコが「日本のソフィア・ローレンを目指してほしいのよ」(P141)と書いてくれていて、嬉しかった。
 でも、そうしてマツコが、「小池栄子がソフィア・ローレンのように使われる芸能界であってほしい」(P137)と書き、「日本にちゃんとした脚本家がいて、ちゃんとした演出家がいて、ちゃんとそれにお金を出すところがあれば、小池栄子がやる役ってゴマンとあるはず」(P140~P141)と書いている、まさにこの本の中で、奇しくもマツコ自身が「タレントを押さえてからドラマの内容を考えるというシステムがダメよ」(P191)などと断じざるを得ない、芸能界って一体何なんでしょうね…。
 特にこの業界のやりきれなさについて書いたのが、7章『業と純情の近似性-誰が彼女たちを追い詰めたのか-』。この章では、加護亜依、後藤真希、華原朋美のことが考察されています。彼女たちは、がむしゃらというよりもムチャクチャに働いたので、その分周囲の人間は稼いだし、面白がっていたのに、うまみが無くなった途端、無残なまでにソッポ向かれてしまった人たち。そうしてボロボロになるのは1つの有名税だ、と割り切ろうとする人もいるだろうけれど、やっぱり彼女たちは哀れ。今、人気の子役たちだって、将来は同じような運命を辿ってしまうかもしれない。末路、とは書きたくないです。加護亜衣も、後藤真希も、華原朋美も、生きている限りやり直しはきくんだから、応援したい。AKBからAV女優になってしまった中西里菜=やまぐちりこのことも、どうして周りは守ってあげなかったのかな。高橋みなみの件についても、本人は悪くないのだから、たとえ不自然な庇い方になろうとも守ってあげて欲しい。

 さて。なぜわたしが特にこの7章に注目したかというと、実は他にも理由があるのです。
 この章のP101で「あの島田紳助さん」とわざわざ『あの』も『さん』も付けて島田紳助の名前を登場させているのに、5章『男性司会者についての考察-ヒデちゃんという王道-』でみのもんたと中山秀征と関口宏については書いても、島田紳助については一切触れないことに、物凄く違和感を覚えるから。本当は書きたい、でも書いたらだめ、という葛藤が、まさにこのP101の僅かな一文「あの島田紳助さん」に集約されている気がする。いつかマツコに島田紳助について書いて欲しい。
 女太宰!
 この本の中でうさぎさん自身がそう自称してくれるまで、わたしはうさぎさんと太宰の共通点に気づきませんでした。
 贅沢に贅沢を重ねると共に借金を重ねまくって身を破滅させる。
 言われてみればまさに太宰ではありませんか。
 太宰は薬・酒・女に、うさぎさんはブランドものとホストにハマったという違いがあるだけで。
 でも、うさぎさんのいいところは、うさぎさん自身が話している通り、太宰のように自己憐憫に浸らないこと。
 うさぎさんは自分が便失禁した話までも(他の著書でですが)、何の躊躇いもなく書ける。
 太宰にはない才能です(褒めてええんか!?)。
 でも。その才能のために、うさぎさんは哀しい代償を払っているんですよね。
 何百万、何千万というお金をつぎ込んでも、満たされない。そんな叫びが聞こえそうで、この本を読んでいると何だか喉がカラカラに渇いてきました。
 でも、うさぎさんは同情なんて求めない。人並み外れて頭がいいからこそ、うさぎさんは色んなことに気づいたんだもの。
 買って買って買いまくって、買ったとたんに飽きて、部屋中に無残な「ブランドものの墓場」を築いていく。誰かが数点持ち去ったとしても気づきさえしない。買うことだけに意味があり、愛着は別段ないから。だから、ヴィトンのボストンバッグを猫用キャリーバッグとして使用して、ネコに便を漏らされたこともネタに出来る(物書きの哀しいサガか…)し、エルメスのコートをしわくちゃにして、それすらもネタに出来る。…なんと恐ろしい。元の顔だって十分きれいなのに、マッド高梨のもとで注射して切ってを繰り返して、もはや「うさぎさんの顔」ではなく「マッド高梨の作品」を体にくっつけて歩いている。でも、他人から見ればかーなーり破綻しているそれらのことも、全部うさぎさんの魅力なんですよね。どんな魅力かって、そりゃ~うまく言えないけど。
 うさぎさんファンのわたしとしては、是非とも、うさぎさんが「私は、人間失格だぁーっ!!!」と叫んでいるところを見てみたいです。
 P132に載っている2つのラブレターが好きです。
 沢さんという方は「花のような小雪になって 貴方の胸に積もりたい やがて 貴方の熱い吐息がとかすまで」と書いていて、坂本さんという方は「背中向け すねる仕草で 待ってみる 後ろからそう 抱いて欲しくて」と書いています。なんて可愛らしいんでしょうか。
 こういうピュアな気持ちをわたしも抱きたい(涙)。

 P154の、あずみさんという方のラブレターも素敵だなぁと思います。
 君が横にいても君が何を考えているかわからない、でも君の全部が気になって、一緒にいないとさびしい、という気持ちが素直な言葉で綴られていて。
 こういうラブレターを貰ったら嬉しいでしょうね。
 わざわざほとんどの言葉をひらがなで書いたのは、優しい雰囲気を出すための技法なのでしょうか。

 P157に載っている、柏原さんという方のラブレターもお気に入りです。
 この方、また24歳なのですが、「人生の最後、この身はさくらの花びらに、心はあなたの思い出に ふっさりとうもれて死ねたら 最高に幸せ。」ですって!
 西行を彷彿とさせるような…、その若さでその境地までいったのか、と何だか羨ましくなってしまいました。

 わたしが一番好きなのはP194の、あきさんという方のラブレター。
 手術前に書かれたラブレターです。どうもその手術は生存確率が低いようです。しかもこの方は妊娠していて、でも、その手術で母子共に死ぬかもしれない。怖くて堪らないはずなのに、「ありがとう」「幸せです」など感謝の言葉が繰り返され、最後に「短い間だったけど、私はとっても幸せだったよ!」と綴ってあります。
 …この方、結局どうなったのでしょうか…。
 気になって仕方ありません。
 中村うさぎと、濃ゆ~~い女たちの対談集。

 わたしが一番笑ったのは、岩井志麻子さんの話に出てくる、京極夏彦さんのエピソード。

 飲み会にて。岩井さんがごく自然にデブの乳首を触っているのを発見した京極さん。他の人に「岩井さんが乳首を…!」と知らせたら、他の人たちがいつものことだよと平然としていたので余計ビックリした…という話。(P59に載っています)
 妖怪研究家である京極さんが、現実の魔の物(と書いてしまうと、岩井さんに対して失礼ですが)に衝撃を受けている表情を想像すると、何だか妙におかしくて笑えてしまいます。

 京極さんがこの本を読んだら、果たしてどんな反応をするのでしょうか。
 マツコ・デラックスは「ソフィア・ローレンになりたい」と言っているし、うさぎさんはうさぎさんで「グレース・ケリーになりたい」ですって! 斉藤綾子さんに至っては男性の後ろをやりたいから男性器を造設したい、と…!
 …京極さん、失神しちゃうかな。

 それにしても、岩井さんのデブ話の濃さにはびっくりです。
 夜の接待で、「偉い人のために」と美女が調達されるのと同様に、岩井さんのために各社がデブを用意していたという話。デブを見たら胸を揉む。それが岩井さんにとってはごく当たり前だった、と。
 …どんだけデブが好きなんじゃ。
 それなのにその後岩井さんはベトナムのグエンくんへコロッと興味が移り、「もうデブを見ても、何も感じない」と断言。

 …女って、すごい。
 ついに死にかけた中村うさぎ!
 金策という意味で首が回らないだけでなく、本当に首そのものが回らなくなりお風呂で溺れ死にかけたところを、ゲイの夫に救出される。…凄い人生だなぁ。

 わたし、この本を読んで後悔しました。
 何に後悔したかって、中村さんの本を、順を追って読んでこなかったことに。
 今までバラバラに読んでいたせいで、話の経緯がわかりません。
 集めます! 中村さんの本。
 読みまくって、このぶっ飛んでるいかしたセンスを身につけたいです。
 「ハゲよ!」というタイトルを付けるのも秀逸なら、ウォシュレットについての文章も秀逸(表現がちょっと…下なんで、ここでは書けません、気になる方はこの本を読んでください)。

 P179~180を読んでドキリとしました。
 余談ですが、わたしも思春期の一時期、ネットのゲーム世界に埋没し、ゲーム内の「自分」を何人も作成し、その「自分」それぞれを好みの容姿に整えたり力を付けるのに耽溺し、現実世界では飲むことも食べることも寝ることも忘れ、ネットのニュースで『○○時間ネットゲームをしていた男性が死亡』というニュースを見てもゲームにログインしまくっていました。
 あれは…中村さんに言わせれば、身体感覚を喪失した病の究極系、だったのですね。今考えると怖いです。そう、思えばあの頃、わたしは自分の顔を鏡で見て「こりゃだめだ、いじってどうにかなる人は元がいい人だ、わたしはどうしようもない」と諦め、ヴァーチャルな世界に逃げ、超ナイスバディなクール美女を作成して戦場に繰り出したりしていたのでした。
 結局わたしは途中で目が覚めて、ブサイクはブサイクなりにせめて多少は見られるブサイクになろうと美容に励むようになったのですが、あのまま目が覚めなかったらどんな「自分」がここに居たのだろうと思うとゾッとします。
 中村さんは「際限なき万能感…それは人類にとって、地獄なのか天国なのか?(P180から抜粋)」と書いておられるけれど、少なくともネットのゲームは地獄だと思います。
 なぜなら、所詮ネットのゲームなんて、お金をかけられるかかけられないかで容姿も能力も変わりますからね。課金ユーザーはいいアイテムを買ってどんどんレベルアップして、無課金ユーザーはちまちまと地道にレベルを上げていくしかない。全て自分の思い通りになる(はずの)ゲーム内において、お金を持っているか持っていないかという、どうしようもない壁があることを痛感し、それでわたしは目を覚ましたのでした。…と、余談が長くなりすみません。

 文庫版あとがきを読んでびっくりしたのですが、中村さんはその後本当にレズビアンになったのでしょうか?
 美容整形も試し、デリヘルも試し、女性も試す(P195を読む限り、実際には既に経験済みだったようですが)。
 やっぱり中村さんは凄い人です。凄いとしか言えない。
 わたし、早速中村さんの本を集めてみます!
 P164~P165の、カップルの接客をする時は女性の目しか見ない、というのを読んで、わたしも仕事中に活用するようになりました。うちの施設は介護施設なので、よく夫婦連れで入居相談にいらっしゃるのですが、旦那さんと話が弾むと奥さんの目が吊りあがってきたりということもあったので…。女性の目しか見ないよう心がけることで、そういうことが大分減りました。感謝。
 P100~P101に書いてある、ストレス解消法についての話も好き。ストレスをため込まないようにしないといけないですね。
 三浦しをんさんの本を初めて読みました。すっかりファン。素敵ですね~言葉の使い方が絶妙!

 特に、『水底の魚』の錦鯉の跳躍を描写した「体から振り落とされる水滴が、彗星から剥脱していく氷のかけらを思わせる(文庫本P167から抜粋)」がすごく綺麗。ああ、なぜ自分はその現場に居合わせず、そのキラキラした光景を見ることが出来ないんだと悔しくなったくらい。
 一番気に入ったのは「待っていた(P150から抜粋)」の使い方。うまく言えないのですが、このたった五文字にこの150ページ以上もの物語を集約されちゃった、そうだよね、真志喜も黄塵庵もお互い待っていたからこんな結末を迎えたんだよね、たったの五文字にやられた~! ってつい唸りました。しかもこの「待っていた」の直前に「一瞬の間をおいて、早口で言い切った」を付けてるのが格好いい。これを言った時の真志喜の目を見たい。

 『水に沈んだ私の村』も気に入りました。「空は極上の藍から抽出された深い宇宙の色だ。そこに純白のつややかな入道雲が染め抜かれているさまは、なんだか作り物めいて見えるほどだった。~嘘みたいに夏だ(P184から抜粋)」ですって。いい表現ですねぇ。ああ、そんな夏を感じられる登場人物たちが羨ましい。
 羨ましさのあまり、タイムマシンが欲しくなりました。わたしも友達とワンピースを着たままプールに飛び込んじゃうような(P187のエピソード)爽やかな馬鹿をやらかせば良かった。
 水に沈んだ村そのものについての描写には天空の城ラピュタのワンシーンを思い出しました。パズーとシータがラピュタで水の中を覗き込んでるシーン。魚が空を泳いでるんですよね。…ああ、早速DVD見なきゃ!(←ジブリっ子)



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 <2月21日追記>
 ところでこの本に書かれている古本売買についての考え方は、わたしにとってはとても新鮮でした。売買されている以上本は生きている、図書館に入ると死んでしまう、という考え。
 『十三番目の人格 ISOLA』と『黒い家』を読んだ時には感じませんでしたが、貴志さんって絶妙なリズムの会話を書けるんですね。
 P266の「だから、それは、誰……?」には、読み手であるわたしもクスッと笑ってしまいました。この一言自体は普通のセリフなのですが、このセリフを置く場所がとてもいいと思います。
 『黒い家』のような心臓に悪い物語を書いた割に、貴志さんは案外面白い人なのかもしれません。

 この『狐火の家』に収録されている『黒い牙』に使われている「ペット」の名前の選び方も秀逸。
 ジョディ、メグ、ニコール、キャメロンと来て、最後にシャーリーズですって! 思いっきり女優の名前じゃないですか!
 最初は「ふぅん。女性の名前かな?」と思わせつつも「ん? キャメロン?」とキャメロンあたりで思わせ、最後にシャーリーズで締める。素晴らしいです。モニカも入れて欲しい。
 人気女優の名前を使うことで、登場人物が「ペット」の魅力にのめり込んでいることが読み手に伝わります。女優に恋い焦がれるファンのように。
 …でも、貴志さん。「ペット」の雄の名前は「金太郎」なんですね…。…なぜ雄だけそうなるのですか! 雌とのこの待遇の違いは何ですか! 他の雄は「桃太郎」とか「浦島太郎」なのですか! …それはそれで面白いから番外編として書いて欲しいな。
 幾つかジョン・ガリアーノのことが書いてあります。
 ディオール生誕百年のコレクションで用いた刺繍のことは勿論、「Diorのジョン・ガリアーノだって二〇〇八年に来日し、インスピレーションを得る為、~新宿のマルイのBABY,THE STARS SHINE BRIGHTを偵察した際には写真を撮ろうとしてBABYの店員さんに怒られたんだからな!」(P145から抜粋)という事件のこととか…。
 …フリフリの超ラブリーなお洋服に身を包んだお姉さんに怒られる、50歳手前の金髪のおっちゃんジョン・ガリアーノ…。想像したらちょっと笑えます。ジョン・ガリアーノは「俺はヒットラーが好きだ」等の発言を連発したせいで、今ではDiorを解雇されてしまったのですが、そんな強烈な人があのBABYの甘カワ~なお店の中に入ったとは…。意外。人間って不思議。

 他にも思わず「へえぇ~!」と言っちゃう話が載っています。決して下品な言葉は使わず(あれ? 使ってたような気も)、野ばらちゃん特有の言葉の紡ぎ方が素敵なので、スイスイ読めます。わたしにはジョン・ガリアーノの話が一番面白かったけど、原宿という街についての話も興味深くて、行ってみたくなりました。実際どれだけ刺激的なのか? 気になります。
 パーティーやデートを予定していないたった一日の休日にも、最高のおしゃれをする。自分を取り戻すために。
 このことが書かれているP38~41が、際立って魅力的に思えました。
 他のページには、茂木さんのプロフィールや、つばさレディの仕事中の失敗談、後輩への指導時に心がけていることなどが書いてあり、もともと優秀とは言えなかった人が成功していく過程がわかって興味深いのですが。
 写真ページを除けばたった3ページしか割かれていないこのP38~41の方が、わたしには印象に残るのです。
 この3ページによると、茂木さんは小悪魔agehaの格好が好きなのだそうです。普段の仕事中の姿とはまるで違いますよね。派手な服と髪型、メイク。茂木さんは、友達と遊びに行くだけの休日にも、わざわざ美容室で髪をセットしてもらうそうです。ガラリと印象が変わるので、多分常連さんと街ですれ違っても茂木さんとは気づかれませんよね。
 それってとても大事。
 服も髪もメイクも装いを凝らすことで、逆に心は素に戻れる。休日にお客さんに声をかけられると、どうしても心は仕事モードに戻ってしまうけれど、多分茂木さんにはそれがない。
 『講演会などに呼んでいただいても、私服で会場に入るとまさか講演者だとは思われず、誰からも気づかれることなく「茂木さんが来ない!」と大騒ぎになることもよくあります』(P40から抜粋)と茂木さん自身が書いているくらいですもの。…講演会って仕事なんだから、さすがに違う服装で行きなさいよ、とこっちは思ってしまいますが、悪気がないのが茂木さんのいいところ。
 余談ですがわたしも小悪魔agehaが好き。だから茂木さんにはもっともっと盛って欲しい! 髪にはもっと高さが欲しいし、つけ睫毛(もちろん二重以上に重ねて)も付けてほしい! カラコンも入れて、つけ爪でいいから爪もキラキラに。似合うと思う。…ってしてやり過ぎでしょうか? 余談失礼いたしました。
 「アタシにバッサバッサ斬り倒させてくれるタマはどっかにいないのっ!?」というマツコさんの嘆きが聴こえてくる一冊。
 「どこかに好敵手となりうる猛者はおらんのか~血を吸いたい~」と彷徨う妖刀の如く、マツコさんはネタにすべき相手を欲しています。
 若い層の芸能人がちっちゃくまとまってしまって、四十代以降くらいの層の芸能人(高岡早紀さん、寺島しのぶさん、叶姉妹等々)しかマツコさんがイジるべき相手がいないのです。
 面白くなりそうだなと有望視させた若手もアレレな方向に落ち着きつつあるので、このまま四十代以降の層が引退していけば、マツコさんは商売上がったり。
 この本で、マツコさんは若手も何人かピックアップして語っているのですが、どうも舌の調子が今いち(ちなみにこの本、語り起こしです)。ああ、きっとマツコさんは今、「語るべきこともないのに、このオンナの何を語れっていうのよ」と思いながら語っているんだろうな、と思わせる内容の薄さ。
 マツコさんがP203で『もうこうなったら、アタシ自ら、引っ掛かる存在になってやるわ』とおっしゃっているけれど、もう既になっちゃってる以上、食糧危機ならぬネタ危機が更に進むのは間違いないです。もう、一言も喋れなくなっちゃっりして!?
 というわけで、わたしはこの本を芸能人の方々にこそ読んで欲しいです。そして、何かやらかして欲しい。そしてマツコさんに思う存分吠えて欲しい。


 ところで、この本でマツコさんは20人以上の女性芸能人について言及しているのですが、中でも高岡早紀さんについての記述はズバ抜けて勢いがあります。
 わたしは高岡さんのあのただならぬ色気が大好きで堪らないので、頷きながら読みました。
 多分本人が読んでもニヤリと笑うだろうなっていうのが匂ってくる文なので、他の方にも是非勧めたいです。ただし成人してる方だけに。なぜって…、なぜって高岡さんですから。


 ところで、が続くけれど…、ところでわたしはこの本の装丁も好きです。
 そもそも、書店で見かけた時に、思わず手に取って感触を確かめたくなるような感じだったので、それをきっかけにこの本を買いましたもん。
 ページを開いた時の、この紫の色合いもマツコさんにぴったりで。「紫」としか表現できない自分が悔しいのですけど。もっと違う名のある色だと思います、これは。それを知りたいので、今後はちゃんと色について勉強しようかなと思います。
 わたしにとってこの本は、そういうきっかけにもなった本です。
 「紫の横のページがなぜキラキラしているのか?」についても不思議だったので、是非言及したかったのですが、「紫の横のページ」は正式には何と呼べばいいのでしょう? 帯じゃないし。扉? これも調べねばっ。
 P62の、「この国のこの状況を作ったのは僕ら自身だ」という言葉にハッとさせられます。


 日本は介護職がどんなに頑張っても報われない国です。
 わたし自身介護施設で働いていますが、やり切れない気持ちにならない日はありません。
 うちの施設では今月は同期が2人辞め、先輩も2人辞めていきました。
 ところが、毎月4人くらいのペースで職員が辞めていくのに、新しい職員は入ってきません。
 募集はしているのですが、なかなか応募が来ないのです。
 不況のおかげで介護に職を求めてくる人がいるにはいるのですが、2週間くらいで辞める人がほとんど。
 給料の安さ、身体的疲労、精神的疲労、時間拘束の長さ、社会的地位の低さ・・・、辞めたくなる理由は沢山。
 せめて介護職の社会的地位がもっと高ければいいのですけれどね。
 看護師ですと自己紹介すると「すごい」と言ってもらえたりするのに、介護士ですと自己紹介すると「偉いわね。わたしにはとても出来ないわ。汚いものには触りたくないもの」と言われたりしますもの・・・。
 せめて「人のために働いている」という誇りが持てれば良いのですが・・・、認知症のある方に叩かれたり引っ掻かれたりしながら失禁衣類を替えないといけない時もあり・・・、・・・やりきれないですよ、とてもじゃないですけど。
 「これはご家族が介護するには大変だ。ご家族のためにがんばろう」という気持ちで何とかモチベーションを保てる人はいいけれど(わたしはこのタイプ)、ご家族の中には介護施設を姥捨て山のように考えていて職員にも冷たい方もいるので、そういうご家族と出会うと心が折れそうになります。・・・ご家族を変えることは出来ないので、そこは仕方がないのですが。お年寄り自身にも感謝されず、ご家族にも感謝されず、給料も少なく、休日にも「加勢に来い」と言われて無償の休日出勤があることもあって、・・・とこんな風なのに働き続けられる方が不思議でしょう。
 日本にいる何名かの教授や医師は「介護職が専門的スキルを身につけていないから給料が安いし社会的地位が上がらないのだ。介護職は認知症の改善方法や歩行介助方法をもっと学んで、素人が持たない専門性を身につけるべきだ」とおっしゃっており、わたしもそれには一理あると思うのですが、その専門性を身につける前に辞めてしまう人が多い現状に危機感を抱いています。
 

 ・・・すみません、この本のレビューを書こうと思ったのに愚痴ばかりになってしまいました。



 けれどこの本が指摘するように、こうなったのは「国のせい」ではなく、「そんな国にした自分たち」のせいなんですよね・・・。
 「そんな国にした自分たち」のせいで介護職が減って、介護の質が落ち(介護士が少ない為お年寄り全員にきめ細かな介護が出来ないし、すぐ介護士が辞めるので技術の継承が難しくほとんど素人の集まりのような状態になってしまう)、結局は自分たちが苦しむことになる。
 わたし自身も長生きすれば必ずお年寄りになって、きっと介護を必要とするようになります。
 そうした時にこの国の介護がどうなっているのか・・・。
 想像すると恐ろしいです。
 今からでも何とかしなければなりません。
 安心して老いることが出来る社会にするために。
 短編小説集。「伊良部シリーズ」の3作目です。
 自分自身が高齢者となった時、わたしはこの本の冒頭に収録されている『オーナー』を読み返したくなると思います。


 高齢な主人公は、他の同期が第一線を退いていっても地位ある役職を守り通しています。
 しかし主人公は・・・時折パニックを起こします。
 カメラが焚くフラッシュと、暗闇と、狭いところに対して。
 そのため主人公は伊良部医師の神経科を受診するのです。
 伊良部は「パニック」という極めて適切な診断を下しました。伊良部はやっぱり名医なのだと思います。

 
 強い光は、人が死に臨む時に感じるという光を彷彿とさせる。
 暗闇は、沈黙は、死を思わせる。
 その狭い世界は、棺桶。


 主人公は、いつの間にか自分が死んでしまっている、そんな事態を恐れていたのです。
 自分が成さねばならぬことがまだまだ沢山あるから。


 ・・・大分ネタバレをしてしまい申し訳ありません。続きは小説を読んで確かめてください。
 この短編集『町長選挙』は、表題の『町長選挙』以外の作品は明らかに実在の人物をモデルにして書いてあるため評価が分かれがちですが、それでもやっぱり面白いですよ。伊良部が名医ぶりを発揮している分、伊良部のはちゃめちゃ振りを期待する人には物足りないかもしれませんが。今までの伊良部シリーズ作品より、「考えさせる」要素が濃くなっていると感じます。
 浮世絵は庶民のためだけのものではなかったのですね。
 全ての貴い人が浮世絵に触れたというわけではないようですが、庶民に流行しているもののうち自分のレベルに合うものを、望めば愛でることが出来たのですね。
 例えば光格天皇は浮世絵師の代表格と言える葛飾北斎の『西瓜図』を気に入っていたようです。
 いいですよね、この絵。スイカが食べたくなります。皇族もそんな風に感じるのかな? と想像しながらこの絵を見ると、皇族へ親しみが湧いてくるから不思議です。


 わたしはこの本に登場する中では特に、葛飾北斎の『二美人図』や勝川春章の『美人鑑賞図』が好きです。
 『二美人図』にはいやらしくない色気を感じますし、『美人鑑賞図』は自分もこの絵の中に混じってお姉さんたちと語らいたくなりますし狩野探幽の掛け軸を登場させている所に遊び心を感じます。


 この本を読んで勢いづいたので、今後は浮世絵に関する本も沢山読んでいこうと思います。
 「ニーズのある分野ほどリターンも期待できる」。
 わたしはこの本のP39に書いてあるこの一言に勇気づけられました。リターンは必ずしもお金という形にはならないだろうけれど、きっと「成すべきことをしている」という充実感を得られるでしょう。それに、自分自身も社会の一員なのだから、社会が良くなれば、社会の一員である自分自身もその恩恵を受けることが出来るでしょう。そういった意味でも、世の中を自分が必要とする世の中に変えていくべきではないでしょうか。
 わたし自身はというと、わたしはまだまだコドモなので、ついつい「自分を必要としてくれる世の中」を必要としてしまいます。
 未熟ですよね。
 それよりもまず、自分がどんな世の中を必要としているのか突き詰めないと。
 この本には、紛争を和解に導く、とか、敵対民族の子どもを集めて交流キャンプを開く、とかなかなか実行に移せないようなことをしている人も紹介されています。けれどどんな凄いことをしている人も、「なぜこんな風になってしまったんだ」と疑問を抱くことから出発しているように感じます。
 わたしもまずは「なぜ・・・」とアンテナを張ることから始めたいと思います。

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