カラーの無声映画のような雰囲気を持つ短編小説集。非現実的なのに、音や色や匂いや感触が直接伝わってくるかのようです。
 主人公たちは現実から浮遊(浮遊した後は地に落ちるだけということを意味)した存在にはなりたくないけれど、地につま先しかつけていられないような人たち。短編の1つ『ある映画の記憶』の主人公などは懸命にかかともつけようとしている感じですが、『睡蓮』の主人公である理瀬は物語が終わったのち浮遊してしまったかもしれません。
 恩田さんは少ない描写で人物の魅力を伝えるのがうまい方ですね。リフレイン(同じ言葉を繰り返すこと)を効かせるのもうまい。それを活かすため短編『春よ、こい』が書かれたのだと思います。本当にリフレインが素晴らしい効果になっている。短編でしか書けない透明さを表現していると思います。直接関係がないのでここで紹介するのは恐縮ですが、映画『花とアリス』の持つ薄くて綺麗な色や澄んだ空気を彷彿とさせます。けれど2人の女の子を主人公にしているとは言え、若干視点をころころ変え過ぎたり時間を移動させ過ぎているような感じがします。そのように構成していることでこの小説のテーマである冬から春への移り変わりが活きてくるとは思うのですが、最初読んだ時「押し付けがましい」という印象を拭えませんでした。何度か繰り返し読んだことでこの作品を好きにはなれたのですが、「この短編集の中で1番好き」にはなれませんでした。この小説の後半だけページの色がピンクなら違っていたかもしれないけれど(無理ですかね・・・)。
 わたしがこの短編集の中で1番好きなのは『イサオ・オサリヴァンを捜して』。こういうBGMの静かそうな、品のあるSF小説が好きなものですから。わたしもイサオを捜しに行きたくなりました。2番目に好きなのは、『国境の南』。静かすぎる、穏やかすぎる、そんな狂気の物語。結末ではわたしも主人公同様、冷や汗を感じました。
 恩田さんの代表作の1つ『六番目の小夜子』の番外編が書き下ろしされているのも嬉しいものです。それがこの本のタイトルにもなっている『図書室の海』。平凡な学校で引き継がれている、変わった伝統。それを感じながら学校生活を送る生徒たち。図書室のあの特別な感じ、まどろみ・・・、よく出ていますね。読むととても心地よくなります。また図書室に行きたいなあ、と。図書館ではなく図書室へと。
 各ページに情報がぎっしり詰め込まれているし難しい用語も出てくる、なのに面白いです。読みやすいです。第3部だけでも読む価値があります。
 なぜこの本が面白いのか。読みやすいのか。
 それはアルコール・煙草・お茶・カフェイン・塩・砂糖などもドラッグである、としているからです。無くても死にはしないのに、無いと楽しくないもの。ついつい摂取してしまうもの。摂取し過ぎてしまうもの。嗚呼、依存物質。これらが無い社会はもはや考えられない、とわたしは思います。
 世界中で依存物質が何のために用いられてきたか、政治的に(特に課税できるという点において)どのような役割を果たしたか。それらをこの本によって知ったことで、わたしは先に挙げた依存物質とより良い付き合い方ができるようになりました。煙草を吸っている友人にさりげなく禁煙をすすめるようになれましたし。特に第3部P268の『サイコアクティヴ・ドラッグの規制カテゴリー』でドラッグが分類されていることが理解を助けてくれました。ここで「無制限成人利用」に分類されている煙草がいつか「純粋禁止」になることを願っております。
 P99にはアブサンについても書いてありますよ(幻覚物質を含んだエメラルドグリーンのお酒。どうもわたしは昔の映画を観たり文学を読んだせいで、なんだかアブサンには魔力と魅力を感じてしまいます。危険、危険)。
 
 檜谷昭彦さんの現代語訳は非常に読みやすいです。
 福沢諭吉さんってこんなに格好いいことを仰っていたのですね。さすが1万円札になった方です(←厳密に言うと1万円札にはなっていません。印刷されたのです)。
 「わたしは言いたい。孟子でも孔子でも遠慮があるものか」(P108から抜粋)。もしも西洋文化と日本文化が逆だったとしたら、例えば親鸞が西洋人でルターが日本人であったら日本の先生がたは親鸞を褒め称えルターを劣ったものと見なすだろうということも仰っています。外国に憧れるあまり安易に外国の方が素晴らしいと決め付けるな、と。
 『学問のすすめ』は小難しい漢文などの学問ではなく、まずはそろばんや帳簿のつけ方などの実用の学問をすすめる本。・・・わたしはこの本はまずは難しい学問を修めることをすすめる本だと勘違いしておりました。そして福沢諭吉さんはそういう本を書いたからこそ有名になった方なのだと勘違いしておりました。訂正して謝罪します。実用の学問をすすめた上で、志を高く持ち難しい学問もして更に文明を発展させ社会を平穏にせよ、しかし論語読みの論語知らずにはなるなという本なのですね。敬服致します。役人は多すぎる、と民間化の大切さを説いたり赤穂浪士は本当に義士なのか。敵討ちは間違いだ、と論じたり、また学者を批評したければ学者になれと言うくだりは・・・ロックです。ロックンロールです。
 わたしは身分の高低はその人に学問の力があるかないかによって決まる、人間は万物の霊長である、外国人を雇うことは日本の資金を外国に捨てているようなものだ、とする考え方には異論を唱えたいのですが、それらを抜きにしても面白い本です。
 また、福沢諭吉さんは素晴らしいことを仰いました。「自分に害を加える悪人がそうそういるわけもない。恐れず遠慮せず、真情を率直にあらわしてつき合うべきだ」(P222〜223から抜粋)と。
 若者必携の指南書と言えましょう。
 とはいえわたし「文章ではさほど意味のないことでも、〜」(P150)のところ思わず笑いましたよ。文章ではさほど意味のないってそんな。意外とジョークを言う方だったのかもしれない・・・!?
 音叉やチューナーがなくても楽器を調律できる。曲を作る時も楽譜を書く時も、楽器で音を確かめなくても良いので速く作業が進む。絶対音感って便利だな、わたしも欲しいな、と常々思ってまいりました。
 しかしこの本を読んだことでわたしは絶対音感は必ずしも「絶対」ではないということや絶対音感を持つがゆえに苦しむ人もいるということに気づきました。一般人にとっても音楽家にとっても、絶対音感はあっても良いし無くても良いものだと思うようになりました。
 一口に絶対音感と言っても程度は人それぞれ。例えばヴァイオリンの音が8分の1(半音をさらに4等分した音の高さ)低いと指摘したモーツァルトのように「同じオクターブのドとドでも何分の1ほどこちらのドの方が高い」などと微妙な高低を当てられる人もいれば、自分が弾いている又は弾いたことのある楽器の音しか高低を当てられない人もいます。また前者の場合、よく聴こえすぎるがゆえに何度も何度も楽器の調律をしてしまったり、音楽が聞こえてくると聴くことに集中してしまい他のことは何も出来なくなる人がいるようです。
 絶対音感があると音楽を音符の集まりではなく音の集まりとして聴けるのですが、それは音楽を楽しんだり作ったり演奏する力とは関係ないようです。音楽を愛せるか否かは絶対音感の有無に関係なし。絶対音感を持たない者の一人として、とても安心しました。
 女性は鬼にもなれる・・・。
 わたしは『雨月物語』の磯良と同じくらい『四谷怪談』のお岩さんが怖いです。
 お岩さんは容貌の醜い女性。伊右衛門という美男を婿養子に迎え、伊右衛門を愛しますが、伊右衛門はお岩さんを嫌いました。伊右衛門は喜兵衛、長右衛門らと謀ってお岩さんを離縁することに成功します。伊右衛門はお花という女と結婚しました。お岩さんはそのことを知って発狂。やがて失踪します。それから伊右衛門とお花、喜兵衛、長右衛門らは死亡。その子どもたちも死んでいき、彼らの家は絶えました。
 これはお岩さんがやったのでしょうか。それともただの偶然? いえ、お花や子どもたちの死を目の当たりにしたり幻覚を見たりと伊右衛門が徹底的に苦しんでいることから、お岩さんの仕業と言えましょう。しかしお岩さんがやったのかお岩さんの怨霊がやったのかはわからず、誠に不気味な物語です。
 お岩さんはどこへ消えたのでしょうか。
 醜かったからお岩さんは愛されなかったのでしょうか。
 もしかしたら最初から、お岩さんは鬼だったのでしょうか?
 そうではないと信じたいのですが・・・。
 人形を作ること・・・自分又は誰かに抱く幻想を永遠に閉じ込めること。
 人形を壊すこと・・・「(その人なりの答え)」
 現実への回帰か。それとも拒絶か。
 どちらかを選択しなければならない時は必ず来ます。
 現実を選ぶなら、自分の手で自分が生み出した幻想を打ち壊さなくてはなりません。では現実を打ち壊し、人形を主人公にしようと決めたなら? そう決めたなら、脇役である自分もいつか消さなくてはなりません。
 ただし、自らバラバラにした「人形」を復元するかそのままを愛しむか、それもまたその人次第。捨ててしまうことだってできる。
 この小説はそういう物語です。
 自分にそっくりな顔をした人形と出逢った女性・聖(ひじり)がどうなるのか、ドキドキしながら読みました。
 長年の疑問がすっきりしました! 「ジャイ子と結婚してもしなくてもセワシが生まれる謎」。
 本来、セワシはのび太とジャイ子の孫の孫。のび太とジャイ子が結婚しなければセワシの曽祖父も祖父も父も誕生しないので、セワシは生まれないのでは? ドラえもんが来ることでのび太はしずかちゃんと結婚するのに、セワシがいなくなるとドラえもんがのび太の家に来ることもなくなってしまう。そうなると予定通りのび太はジャイ子と結婚するので、セワシ誕生! 誕生したセワシはドラえもんを送り出して消滅、誕生を繰り返すということでしょうか。うーん、まさにSFな循環。
 この疑問について、この本は1つの答えを出してくれました。のび太が「ぼくの運命が変わったら、きみは生まれてこないことになるぜ」(単行本1巻P18)と聞いた時のセワシの返事を分析することで答えを導き出しています。セワシの返事は「心配はいらない。ほかでつりあいとるから」(同上)。
 のび太はセワシの父方の先祖なので、セワシが生まれるためにはまずセワシの父を誕生させなくてはなりません。父の配偶者である母はのび太と血はつながっていないわけですから。セワシの父を誕生させるには祖父が必要。この場合も祖父の配偶者はのび太と関係なし。さてここからが問題。セワシの祖父が誕生するためには曽祖父つまりのび太の子どもが誰かと結婚しなければなりません(別に結婚しなくたって子どもは生まれるわけですけど、夢を持ちたいですね)。
 本来のセワシの曽祖父はのび太とジャイ子の間に生まれる子どもで、名前は公表されていません。この子の配偶者もまたのび太と血はつながっていません。注目すべきは、のび太としずかちゃんの間に生まれる子どもノビスケ。セワシが生まれるためには前述の通りノビスケも誰かと結婚しなくてはなりません。ここでセワシの言った「ほかでつりあいとるから」の意味が判明します。ノビスケがジャイ子の娘と結婚すれば良いわけです! こうすればのび太とジャイ子が結婚しなくても、セワシはのび太とジャイ子の孫の孫になれるのです。曽祖父が生まれるにはのび太の血をついだ父とジャイ子の血をついた母がいれば良いだけで、ジャイ子の血をどれくらいついでいるかは関係なし・・・なのでしょうか?  
 むむ。破綻してきました。この理論は遺伝の法則を無視しています。ジャイ子の娘とはいってもその子はジャイ子と誰かの間の子どもであり、ジャイ子の誰かである配偶者の遺伝子が加わってしまいます。万が一ジャイ子が単性生殖して(ヒト科ヒトなのに)配偶者なしで子どもを生んだ場合でも、ノビスケにはしずかちゃんの遺伝子が入っているのでセワシの曽祖父はのび太とジャイ子の間の子どもとは違う遺伝子構造になってしまいます。ゆえにたとえセワシがのび太とジャイ子の孫の孫であったとしても、セワシの曽祖父は誕生せず祖父も父もセワシも生まれない!
 長々と考えた末にわたしがたどり着いた結論は、この本が掲げたのび太の子どもとジャイ子が結婚する説はどうも違う、ということ。
 簡潔な答えをここで出したいです。なぜタイムパトロールがセワシとドラえもんを逮捕しないのか考えてみましょう。歴史を変えようとすれば逮捕されるはず。ではなぜ逮捕されないのか。セワシとドラえもんがのび太の前に現れ、のび太がしずかちゃんと結婚しノビスケが生まれ代を重ねてセワシが生まれる、それが正しい歴史だからです。考えてみれば、のび太とジャイ子が結婚するという未来はセワシやドラえもんがのび太に伝えたものであって、のび太が実際に経験したものではありません。ひみつ道具によってこのままいくと自分はジャイ子と結婚するのだ、何とかしなきゃ、と信じているのび太ですが、あれはセワシとドラえもんがひみつ道具に細工して作ったニセモノの未来なのではないでしょうか。セワシはのび太が多額の借金を作ったために孫の孫である自分まで苦労していると言っていますが、少なくとも現在の日本の民法では相続の破棄ができるので、セワシはのび太の子どもに相続破棄を勧めるだけでも良いはず。また、借金を作った時ののび太に自己破産を勧めても良いでしょう。なぜそれをしないのか。それはセワシが裕福だから。いくら何でも家庭にドラえもんとドラミちゃん、合わせて2体のロボットを持っている家庭が貧乏でしょうか。お金に困っているなら売っているはず。タイムマシンも持っていないでしょう。ゆえにタイムマシンとドラえもんを所有しているセワシはのび太に言うような貧乏な生活をしていません。
 つまりジャイ子と結婚する未来なんて最初から存在していなくて、のび太がしずかちゃんと結婚、結果としてセワシが生まれ、セワシはドラえもんと共にのび太の前に現れる・・・この歴史が元々のものであると言えます。
 またここで新たな疑問が浮かびます。来る必要もないのに、なぜドラえもんはのび太の前に現れるのか?
 それはきっと大人になったのび太が、ドラえもんが子どもの頃の自分に会いに来るように何らかのことをしたからだと思います。子どもや孫にそう頼んだのかもしれませんし、もしかしたらドラえもんに直接頼んだのかも☆ この本によると『ドラえもん』単行本プラス5巻のP186では45年後ののび太とドラえもんがごく普通に話している姿が描かれています。久しぶりに会ったという風ではなく、まるでいつも話しているかのように。つまり・・・ドラえもんはのび太とずっと一緒にいるのかもしれない♪ そしてのび太が死んでドラえもん自身がのび太に会いたくなったり、子どもの頃の自分のところへ行くようにのび太が言い残したなどの理由で、ドラえもんは子どもの頃ののび太のところへ現れたのかもしれない! セワシはその橋渡しとなる優しい子だったのです。のび太が知らないだけで、ドラえもんもセワシもドラミちゃんも、のび太を暖かく見守っていたのです。
 そう思うと『ドラえもん』は物凄い感動作ですね。時代を超え世代を超え次元や種族をも超えた友情。さああなたも引き出しを開けてみませんか。大切なものが飛び出してくるかもしれませんよ☆(^∀^)

 すみません、レビューになりませんでした。
 いや、でもこの結論はこの本を読んでこの本が出した答えを検証したからこそ出た結論で・・・わ、わ、わ、許してください。
 この本は他にも骨川家の資産状況について深読みするなどしています。意外と骨川家って切り詰めてるんですね。スネ夫がコンプレックスの塊であるということも判明しました。「恐竜をハンティングしたドラえもんはなぜ捕まらないのか?」(P204)など着眼点が新鮮。どうせならジャイ子の本名が明らかになっていないことやスネ夫の弟であるスネツグがなぜ養子に出されたかについても深読みして欲しかったのですが、十分楽しめる本です(前者については藤子先生自身が答えを出していて、「もしジャイ子に名前をつけてしまったら同じ名前の子がいじめられてしまうだろう。だからジャイ子には名前をつけなかった」のだそうです。後者については不明。ファンの間では、骨川家が人脈を築くために次男スネツグをお金持ちの家に養子に出したという説があります。スネ夫は長男なので骨川家に残されたとか)。
 奥の深いマンガです〜。
 主人公は高校生・桐谷修二。彼は自分の外見や言動を目立ちすぎず且つ地味にならないよう調節し、クラスの人気者「桐谷修二」を作り上げてきました。周りの人間はこの「桐谷修二」は俺自身だと騙されている、みんな馬鹿だ、だけど俺は頭が良い・・・と笑いながら。そんな彼は、ある日編入してきた丸々と太ってワカメのような髪型のどうしようもなくダサい小谷信太を人気者にすることで、自分の頭の良さを証明しようとします。
 しかしそれは悲劇の始まり。小谷信太、通称「野ブタ」は「桐谷修二」よりも人気者になっていったのです。「野ブタ」は彼のプロデュースに従って外見を変えたり行動を起こしたりしているとはいえ、性格の良さは本物。それに比べて彼自身は周りを騙し自分自身をも騙しながら「桐谷修二」を作ってきました。嘘はいつかばれるもの。「桐谷修二」がニセモノだったことが、ばれてしまいます。人気者からの転落は早いものでした。彼はクラスにいられなくなり、転校。けれど再び悲劇は起きるでしょう。彼はこの新しい学校で、「桐谷修二」に自分をプロデュースしてもらおうとしているのですから。
 なぜ彼は彼自身でいられないのでしょうか。若者特有の過剰な自意識ゆえでしょうか。自分が特別な存在ではなく一人の高校生に過ぎないということを認めたくなくて、傷つきたくなくて、自分自身の代わりに「完璧な自分」を作る。一番の存在になるのは疲れるしいじめられるのは怖いから、「完璧な自分」は目立ちすぎてもいけないし地味でもいけない。だから彼は「桐谷修二」を生み出したのです。やがてお互いに崩れていくことに気づかぬまま。「桐谷修二」は友達の数は多くても親友はいませんでした。信じてくれる人もいませんでした。彼は「桐谷修二」ではない彼自身を生かすことができませんでした。
 この小説は過去にドラマ化されていて、わたしはそのドラマを毎週夢中になって見ていました。桐谷修二は小説より角が取れた少年になり、「野ブタ」は優しい女の子に、そして桐谷修二には彼自身を信じてくれる親友ができました!
 この小説はこの小説で若者の不安定さや苦しみを描いていて嫌いではないのですが(前の席に座っている女の子の三つ編みの輪っかを神妙に数えるところなど、コミカルな部分が冴えてます☆ 言葉の運びもテンポが良いし)、わたしは小説とドラマが違う作品になっていて良かったと思います。
 モーツァルトの生涯を、その挫折に焦点を当てて探った本。
 著者は傑作「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コシ・ファン・トゥッテ」「魔笛」のアリアを紹介した上で、これらの傑作を生み出した彼の生涯について書き始めています。彼だけでなく彼に関わった人々の肖像画や書簡も掲載、また、後世の人々が彼の音楽にどう向き合っているのかについても多くページを割いています。
 著者が「伝説となった現在の彼」ではなく「当時の人々と共に生きた、一人の人間としての彼」を書こうとしたからでしょう。
 わたしは、アマデウス・モーツァルトという人は周りに才能を誉めそやされ援助されながら成長した人で、晩年の惨めな生活は彼自身の享楽によるものだと思っていました。栄光の人生を送った人だ、と。だから明るく華やかな貴族向けの曲を残しているのだ、と。しかし彼の生涯を辿ってみると、栄光は人生の初めだけだったということに気づきました。成長してもはや神童ではなくなった彼に対する風当たりは、甘いものではなかったのですね。当時の音楽家は貴族や王族などの有力者に援助されなければ食べていけない奉公人。騎士の勲章を与えられたりコンサート・マスターの地位を与えられたりしても彼は裕福にはならなかった。援助を求めても与えられず苦悩し貧窮し、その中で曲を書き続ける彼の姿を想像してわたしは愕然としました。だから彼は音楽教師の仕事もしていたのか、生活するために・・・調律をしていないピアノを弾かされるという屈辱に耐えながら! しかもただでさえお金がないのに、彼は有力者の娘と結婚するという道を取らず自分の愛する女性コンスタンツェと結婚(実際は彼女の姉であるアロイジアを燃えるように愛していたようですが)。幸せではあっても自分の道を余計に苦しいものにしたことは否めません。才能を代償とした苦悩、苦悩を代償とした才能、どう言えば良いのかわかりませんが、その中で数々の傑作を生み出していった彼の力は本当に凄まじい。また、わたしは彼が子どもの心を失わない純粋な人だったと知り、とても嬉しくなりました。もっと彼の世界を知りたいです。今までクリアーに絶望を見据えている彼の音楽が怖かったけれど、今も怖いけれど、知りたいです。
 地図や年表も載っていて好感の持てる本でした。
 倫理について感情をまじえずにあくまで科学的に、しかし慎重に語った本です。
 例えばES細胞研究などの生命に手を加える研究を非難する時、その人の脳の中では何が起きているのか。脳はどのようにして善悪を判断しているのか。
 著者の意見ではES細胞研究は悪いことではありません。受精卵に手を加え研究に使うことは倫理に反することではない、なぜならその存在は体外受精のために作られる受精卵と何ら変わらないから。受精卵がいつか人間になる可能性を持ったものだとしても、その段階で人間として認めることはできない。
 わたしにとってこの意見は目から鱗でした。今まで何となく、感情的に、「科学者は命を軽視している。人間には立ち入ってはならない領域がある」とこうした研究を非難・批判してきましたが、感情を抜きにしてよくよく考えようと思います。確かに受精卵を人間として認めることはできません・・・受精卵が人間になろうとする存在であるとは言っても、それゆえに「生きている。人間である。生まれてくる権利がある」と認めてしまうと、中絶手術を禁止しなければならないどころか卵子や精子の時から人間であるということになってしまいそうだから。そうなってしまうと卵子や精子を使わずに捨てることは保護責任者遺棄罪、死体遺棄罪、ひいては殺人罪にまであたってしまうのでは? えらいことです。中学生くらいから子どもを生み続けないと逮捕されるようになってしまいます。どこかで線引きをしなければいけません。何週目までは受精卵は受精卵であって人間ではない、けれど何週目以降はそれは胎児であり人間であると認められる、という風に。
 同様にわたしはこのことについても考えてしまいます。普段自分が飲んでいる薬も使っている化粧品も動物実験などで安全が確認された後手元に届いているということに。動物実験をいけないものだとすれば多くの研究が困難となり、それだけ医学の発展が遅れてしまうことはわかります。動物を実験に使うことは動物を殺して食べることと変わらないのかもしれません。けれどどうもわたしの脳にはその辺の線引きがうまくできないようです。普段スーパーでお肉を買って食べているくせに。矛盾している。これがわたしの脳が科学者になれない理由でしょうね。わたしの脳を作っているニューロンが、わたしにそう判断させているのでしょうか。それともわたしの脳の構造が、脳の各部位の発達具合がそうさせているのでしょうか。うーん、そうなると脳によって賢さや倫理観が決められるのかという新たな問題が生じてきます。
 他にも薬で能力を高めることの是非や老化研究についても書いていて興味深い本でした。
 女性は、女という性を持つ人間です。女性は人間です。人間には感情があります。意思があります。
 けれど男性は女性を人間ではなく女として扱います。女性は混乱します。現在の社会はまだまだ男性社会。男性に人間ではなく女として扱われ、女性は「性的価値がない女性には何の価値もない」と思うようになっていくのです。
 中村うさぎさんが一時期いわゆるデリバリーヘルスで働いたのは、そうした苦しみの末、自分の性的価値を金銭という形で確認したくなったからだそうです。しかしそれを公言した後、中村さんは男性から「社会的制裁」を受けることになります。体を売った経験を持つ女性には嫌がらせの電話をしたり馴れ馴れしい口をきいたり体を触ってもいい、仕事を奪ってもそれが当然なのだ、と男性たちは考えたのです。
 なぜなのでしょうか? 体を売るという行為には女性の感情や意思が伴われています。しかしそれらについて考えることなく、ただ体を売ったという事実だけで人間である女性を傷つけ貶めるのは果たして当然の行為なのでしょうか? 例えばミニスカートを穿いている女性が痴漢被害に遭った場合でも同じような現象が起きます。「ミニスカートを穿いている方が悪い」と。女性は被害者なのに、なぜか女性にも非があるように言われてしまいます・・・男性に。時には女性にさえもです。もしも女性が窃盗被害に遭ったというのであれば泥棒が加害者で女性が被害者となるのに対し、性犯罪においては被害者である女性にも非があるということになってしまいます。暗い夜道を一人で歩いていたから、ミニスカートを穿いていたから、・・・女性が悪いのですか? わたし自身も電車の中で何度か嫌な思いをしましたが、そういう時相手の男性は大抵笑っていました。犯罪をしているという意識がない顔でした。文句を言いたいのに全く声が出ず、ずっと耐えるしかなく、わたしはしばらく男性不信になりました。
 決して女性を男性より優位に置けと言っているのではありません。女性が人間であるように男性も人間です。人間同士。対等のはずです。
 わたしはこの本を読み、もしかしたら昨今の少子化や非婚現象は女性たちが「自分は人間である」と叫んでいる証かもしれないと思うようになりました。生まない、結婚しないという意思や感情を、本来誰も非難できないはずです。いずれ『女の平和』のように、女性たちが性ボイコットをしたりして。「女性が子どもを生まないと人間は絶滅する」という意見があると思いますが、子どもを生むのが嫌なのではないのです。子どもを生む道具のように扱われるのが嫌なのです。
 水。自分の体の中にもある、水。この水も汚染されているのだろうか、と読みながら手のひらを見つめてしまいました。そのうち、生物濃縮という言葉に手はぶるぶると震えだしました。
 もう自然のままの水は飲めないのか。上流で何が投棄されているかわかりやしない。その水を飲んでいる野生動物をもはや食べられない。食べられることは食べられるけれど、自分の体にそれは蓄積される。泳げる場所も少なくなり。本当にこれからは石油ではなく水を巡る戦争が起こるかもしれません。否、起こすのでしょうね。生きるために。
 誰か1人が悪いわけではなく全員が悪い。わたしも洗剤を使うし紙で拭ってはいるけれど油を流している。トイレにも行く。車にも乗る。エアコンも使う。今降っている雨が自分が汚したものかもしれないなんて、またすぐに忘れてしまうかもしれない。
 今日は映画『エリン・ブロコビッチ』を観ようと思います。普通の主婦だった女性が水の汚染に立ち向かう映画。昔から好きな映画でDVDも持っているのですけど、新たな視点で観ることができそうです。
 英語学習の心の友とまではいかないにしても、心強い同志かも。わたしは挫折する度このエッセイを読んでいます。挫折している時って注意力が散漫なものですが、色つきの漫画とおまけ的な図がたっぷりで頭に入っていきます。何たって内容の7割が著者である小栗さんの英語学習挫折記ですから「勉強しろと親に言われてやる気がなくなった」的な気分にはならないのです。リスニングCDを聴いてみてザセツ、本を読んでみてザセツ、教室に通ってみてザセツ・・・しかし立ち上がるのです。
 それにしても英語学習法って多様。わたしはこのエッセイの中で著者の夫であるトニー氏が提唱する、言語を切り替えて生活する作戦をとりました。するといざ単語や文法を勉強する時に「あ、これはよく出てくるから覚えよう」と誰かに言われるのではなく自分の実感として気づけるようになりました☆(つまりまだ話せず)
 言語を学ぶということは同時に文化を学ぶということ。当然文化と文化が衝突して、譲れること譲れないことも出てくる。その辺にも触れています。
 本日わたしは魚をおろしたため手は血まみれ、鱗だらけ。というわけで嶽本野ばらさんの『鱗姫』を本棚から出して読み直してみました。
 美意識。この作品を一言で表すならわたしはこの三文字を掲げます。美と醜それらは皮膚で決まる、皮膚こそがアイデンティティであると主人公は言います。けれど美しい彼女は体に鱗がはえる病気を患っている。日焼け止めを塗り日傘をさし黒い服を身に纏い白い肌を維持しても、増えていく鱗。増えていく。増えていく。治療法はない。いえ、あるのです。治療法とは呼べないけれど、鱗の一部を消す方法が。ただ一つ・・・。
 『ミシン』が出版されて以来嶽本野ばらさんの作品を読み続けておりますが、この『鱗姫』が一等好きです。フェミニズムに抵抗する姿勢も新鮮。ここからの文章はネタバレを含みますので読む方はご了承くださいませ。わたしって兄妹の恋愛フリークなのです。義理の兄妹ではだめ、母親の同じ実の兄弟でなくてはいけません(だから、と言うわけではないですが山岸凉子さんの『日出処の天子』も好きです)。お兄ちゃんが大好きです。男友達に今日一日お兄ちゃんと呼ばせてくれと懇願して実行する始末。幸いわたしには兄がいないのですけどね。良かった良かった。いたらどんなことになっていたことか。現実的に考えてジャイアンとジャイ子の関係になっていそうですけど。もしやわたしがジャイアン!?
 主人公同様わたしにとっても皮膚は大切。紫外線対策にいつも日焼け止めを塗りサングラスをかけ帽子をかぶり、明日は日傘を買いに街へ出かけます。鱗がはえてきたら・・・どうしましょ。Fくんの生気でも吸い取るか。血なら前に吸ったし(^皿^)
 眠っている美女には心惹かれるものがある。川端康成の『眠れる美女』もまた背徳ゆえの恍惚を味わわせてくれる。
 老人は宿へ行き、そこで美しい女の子の隣で眠る。女の子は一糸も纏わず眠らされ続けている。触れても声をかけても目覚めない、あたたかな人形のように。宿には禁制があって、女の子を犯してはならない。口の中に指を入れてみようとしてもいけない。だが主人公はこの宿へ来る相応の歳を取ってはいてもいまだ衰えてはいない。禁制を破ろうとする。思いとどまる。破ろうとする。思いとどまる。そのうち女の子と同じ薬で死んだように眠りたいと思い始める。
 若さとは?老いとは?という高尚な問いかけをする体裁を取りつつも、実は川端康成による官能小説のような気がしないでもない作品。

 他にこの全集で心に残ったのは『みづうみ』ではなく短編『弓浦市』。スティーヴン・キングのミザリーと江戸川乱歩のパノラマ島奇談を思い出した。わたしも気がつかぬうちに弓浦市に行ったことがあるのだろうなあ。
 中学2年か3年のある日、友達の彼氏にこの小説を貰いました。「貸す」ではなく「あげる」で、しかも表紙の女の人の顔が怖いしタイトルに磯良って書いてある、とびっくりしつつ読んでみて・・・。
 今でも彼にありがとうと言いたいです。多重人格というものに大竹しのぶさんのドラマくらいしか知識がなかったわたしは、一人また一人と女の子の中から現れる度に、凄い世界に来てしまったと衝撃を受けました。しかももう引き返すことはできない世界に、と。出て来ないでくれと願うのに、ISOLAは現れた。ISOLAは蠢く毛虫の塊みたいに気持ちが悪い。なのに、言っていることは間違っているはずなのに、言い返せない。声も出ず。ラストでは主人公と一緒にわたしも雨に打たれていました。どんな表情をしていたのか覚えていません。
 読み終わって登校して彼にお礼を言って、ラストに残った謎について語り合って、そうしたら彼の考える真相とわたしの考える真相は違っていて。これらも凄い読書体験のうちの一つでした。今でもこの小説を大事に持っているのですが、結局最後まで残った謎はなぜ彼がこの小説をわたしにくれたかですね。なぜだかあの時聞けなかった。いつか会ったら聞いてみよう。元気かな。
 書いた人のルイス・キャロルへの愛が伝わってくる、そういう本です。わたしはこれを読んでますますルイス・キャロルを好きになりました。と言っても「不思議の国のアリス」しか読んだことがなく、「鏡〜」などの他の作品についてはろくに知らない状態からの出発でしたが。
 写真や絵や彼の手紙、色彩の選び方、作品から感じられるルイス・キャロルというひと。痩せていて背が高くて、子ども好き。いつも1分遅れている時計より完全に止まった時計の方が役に立つ、なぜなら1日に2回正確な時間を示すから、なんて言ってしまうおじさん。子どもの方も彼を好きにならないはずがない。
実物のアリスの写真も載っていて、綺麗な子だけれどそれだけではなく芯から光る何かを持ち合わせている子だなと思いました。この子に彼が惹かれ、「不思議の国のアリス」が生み出されたのは当然だったでしょう。ロリコンだなんて下世話な言い方、やっぱり彼は恋をしていたのじゃないかしら。叶わない恋だったけれど・・・、けれどかつて「金色の午後」で彼の紡ぐアリスの物語を聞いていた彼女は、まさしくその物語の中に今もいる。『キャロルがどのようにして、彼の心のなかに「不思議の国」を育てていったか。そのことについては、あまりよくわかっていない。もっとも重要な資料である、彼の20代後半の日記が失われてしまっているからである。したがって、この問題については当時の彼の手紙や友人たちの記憶、その他の資料に頼らなければならない』(P64より)。こういう謎があることも素敵だなあと感じます。
 彼の作品のあらすじや彼が遊んだ子どもたちへ書いた手紙、年譜やそれに関する地図も載っているこの本。写真と絵がとても多いので目でも楽しめますよ。
 人の形をして、人の動きをする、オートマタ。生きている振りをして、生きてはいない。死ぬ振りをして、死にはしない。
 この本はオートマタの歴史を紹介すると共に、人が人の形をしたものを作ることの意味についても書いています。神が人を作ったように、人もまた自分の似姿を作る。それは自分自身の姿を見るためである、と著者は言います。
 わたしにとってのオートマタのイメージは、「砂男」のオリンピアであったりします。何も語らぬ彼女に青年は恋焦がれ、発狂し、けれど彼女は何も語らぬまま壊れていく。それでも彼女は泣いている、と感じるのは、きっとわたしがこの物語に泣いたからなのでしょう。
 鏡のような彼らに想いを馳せてみたい方、この本はおすすめですよ。
 アウシュヴィッツはいつまた起きるかわからない。
 なぜなら、「非人間的のきわみであった親衛隊員さえも、悲しいことに、われわれと同じ人間的存在」(本書から抜粋)であったのだから。
 歴史を学ばなければならない。繰り返さないために。なぜ歴史を学ぶのか、子どもたちに言わなくてはならない。
 P229~231の、解放から間もなくして亡くなった少年についての記述が胸に突き刺さる。「彼は解放されたが、救済はされなかった」。彼を救いたい。この本を読む度にそう思う。
 寺山修司さんは何を思っていたのか。それはやはり作品に表れるはずなのだけれど、寺山さんは巧妙に隠している気がする。母親について語る時も同じ。性の目覚め、夢と影、何を語っても。きっと、生涯それと闘っていたのだろう。彼の醒めた眼にはクリアーに絶望が見えていて、それをずっと見つめていたのだろう、と。他の天才たちと違い狂気の世界に逃れることをせず生きた生涯は、不幸だったのか幸福だったのかわからない。境界線の上に立つのは苦しい、彼が言うように「自分の輪郭がなくなっていく」から。けれど、自己を肯定も否定もしない、「2+2(荷と荷)は4(死)になってはいけない。少なくとも3(産)であるべきだ」と言う彼の姿勢を、わたしは好ましく思う。
 できるならお会いしたかった方の一人。

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