白石さんの回答も洒落ているけれど、学生たちの質問も楽しいものばかりです。
 学生たちはこういう質問をどのように考えていったのでしょうか。空き教室に入り込んで、友達同士お菓子でも食べながら、「白石さんを笑わせてやろう」と質問検討ミーティングでも行ったのでしょうか。わたしもそのミーティングに参加したいぞ。
 学生たちの白石さんへの質問を見ると、わたしはとてもほのぼのします。みんなよく考えますね~。
 「リュウとケンはどっちが強いんですか? 同じだろ!」という明らかにウケを狙ったもの。「はがねの剣100本」という商品仕入れ要望と見せかけて何処か間違っているもの。「どーやったら鈴木さんと付き合えますか」という白石さんではなく鈴木さんに聞いた方が良いもの。

 もしも東京農工大学のひとことカードの担当者が白石さんでなかったら。もしも白石さんのようにユーモアのある人でなかったら。
 学生のこんな可愛らしさは引き出せなかったかもしれません。体はほとんど大人だし、難しい研究に励んでいる彼らの、まだまだ子どもっぽい一面。
 わたしも白石さんみたいな人になりたいです。
 みんなで楽しさを共有できるから。
 何故、陽子は勿忘草の香水をつけ続けていたのでしょう。
 華やかな容姿を持ち、お金持ちの家に生まれ、誰にも忘れられないような自信を見せていたというのに。
 何故、陽子は牧子に近づいたのでしょう。
 お姫様扱いしてくれる取り巻きが大勢いたというのに。

 この物語を結末まで読むと、陽子の行動の理由がわかります。
 読み手の胸の中に、思春期に思い悩んでいたことが蘇ります。
わたしは一生をかけてでも、どの色がどんな名を持つのか知りたいと思っています。
 青の名を「青」しか知らず、赤の名を「赤」しか知らず・・・、寂しいではありませんか。
 色の名には、名付けた人の想いや時代背景があるはず。
 例えば「萌葱(もえぎ)」。草木が芽吹く季節が訪れたことの喜びを感じさせます。この本のP17によると、『平家物語』には若さの象徴として萌葱縅しの鎧が出てくるそう。Wikipediaによると、この萌葱は平安時代から近世まで常用されている色で、現在陸上自衛隊の武器科の職種色にもなっているそう(*注*萌黄の可能性あり)。人は時代を経ても、色に同じパワーを感じているのかもしれませんね。
 
 この本は、どの色がどんな風に使われてきたか、カラー写真をで紹介してくれています。例えばP27に載っている南禅寺金地院茶室「八窓席」のカラー写真を見ながら、「この茶室には七官や祗陀利院が使われているのかな・・・? 元々は違う色だったけれど色褪せて今の色になったのかな?」と考えることが出来ます。
 解説も丁寧なので、今後も読み返したい本です。 
 パーサーが着けているバッジの色でパーサーの階級がわかるんですね。初めて知りました。
 赤ならアルバイト。えんじなら社員。社員の中でも、改札業務を任されていると緑。グリーン車の責任者をしているなら青。列車全体をフォローしているなら紫。新人研修の講師をしているなら黒。(*注*業務内容についてはところどころ省略しました)
 赤<えんじ<緑<青<紫<黒
 
 この本の著者はえんじ色のバッジ。著者は2006年に、著者が在籍する東京列車営業支店において売り上げNo.1パーサーになったそう。
 
 この本では、著者がなぜ売り上げNo.1になったかが書かれています。
 著者曰く「努力と笑顔が理由」。その努力と笑顔のためにはお客様への気遣いが必要だ・・・ということがこの本の全体を通して書かれているのです。
 
 飛行機ではお客様が途中下車することはない。
 けれど、新幹線の場合はいくつかの駅で停車するので、その度下車するお客様も乗車するお客様もいる。
 だから、もしも接客で失敗しても挽回するチャンスは無いと思った方がいい。接客チャンスは一度きり。
 その一度に心を込める。お客様の抱えている背景を想像しながら接客する。お客様は機嫌が悪いのかもしれないし、体調が悪いのかもしれないし、悲しいことがあったかもしれない。
 そういったお客様に出逢った際、「接客にあたっての五A」を思い出す。
 アタマニクルナ。アワテルナ。アセルナ。アキラメルナ。(先輩を)アテニスルナ。

 著者はそういった心がけを、接客業として当たり前のことであり、当たり前のことを丁寧にやれば結果に表れる・・・と捉えているようです。

 
 −−−−−−−
 わたしも接客のアルバイトをしているので、この本に出会えて良かったです♪ 思い返せばわたしは五Aが出来ていませんでした・・・反省。
 妊娠8か月の女性が恋人の後を追って身を投げた・・・。
 ジャンヌ・エビュテルヌという女性はそんな死に方をしました。
 彼女のお腹にいたのはモディリアーニとの間に授かった2人目の子ども。
 子どもは父に会えなかっただけでなく生まれることもできませんでした。
 この本を読むまで、正直わたしには彼女の行動がさっぱり理解出来ませんでした。「せめてあと2か月待って産んでから、1人で後を追えば良かったのに」「1人目の子どもを連れて逝かなかったことは不幸中の幸いか・・・」などという感想ばかり浮かびました。
 モディリアーニの描いた、瞳のある彼女と瞳のない彼女。彼女の自画像に描かれた彼女の瞳の強さ。この本のP69,70に書かれている見解。

 
「彼女は子育てができず、乳母に預けっぱなしでした。すべての愛情はモディリアーニに集中して注がれたのであり、モディリアーニなしには生きてゆけなかったのです」


 これらを知って、わたしも少しは彼女の気持ちを考えることが出来ました。
 彼女は少なくとも6:4で物事を好きか嫌いかに分ける女性ではなかった・・・わたしはそう思います。7:3か8:2か9:1か、10:0か。それは彼女自身に聞いてみないとわかりませんが、少なくとも6:4のバランスではない。
 モディリアーニが描いた絵で、彼女は短刀で胸を突いて自殺しています。この絵の題は「自殺」。(この本ではP73に掲載)
 モディリアーニは彼女の自殺を予想していたのでしょう。彼は当時まだ不治の病だった結核に罹っていました。結核に罹っているにしては長く生きてこれたものの、多分自分は長くない。もし自分が死んだら彼女は死ぬだろう・・・。そう思って描いたのではないでしょうか。
 彼女をよく知る彼がこの行動を予想した、ということからも彼女の価値判断の独特さが読み取れます。もしかしたら彼女が「あなたが死んだらわたしも死ぬわ」とハッキリ彼に言っていた可能性もありますね。
 実際には彼女は短刀自殺ではなく、アパルトマンの6階から身を投げたのですが。
 突然の事故や病で彼を失ってパニックになった訳ではなく、あらかじめ彼は長くないと予想できていながらも後追い自殺をする・・・。「彼がいなくなった世界では生きない」という意思が固かったのでしょう。それはわたしにも何となく理解できます。大切な人が亡くなった時、世界が急速に色褪せて見えた経験がありますから。彼女は「今ここにあの人がいたらこう言うんだろうな」と思い出しては「でも決して言うことはない」などと思い知らされる未来を放棄したのでしょう。ほんの少し彼女を羨ましく思います。わたしも6:4で物事を好きになるタイプではないから。
 けれどお腹の子どもにとってはいい迷惑だったでしょうね。実際これって無理心中でしょう。あと2か月もすれば生まれてこれたのに・・・。わたしには彼女の行動を責める権利など無いのですが、賛同は出来ません。実の親がいなくても子どもは生きられます。生きるチャンスを与えてあげて欲しかったです。・・・けれど彼女にとってモディリアーニへの愛とモディリアーニの子どもへの愛は別だったのでしょうね。
 線引きのハッキリした女性です。
 この本の第1章には紅を差してから外出する84歳の女性が登場。第2章には庭の梅の木が咲くのを楽しみにしている男性(80歳台くらい?)が登場します。
 どちらもピンク色に関係した老後ですね(男性の庭の梅の木は紅いようなので、厳密にはピンクと言えないかもしれませんが)。この2人はホームヘルパーである著者が実際に出逢った利用者のようです。2人はそれぞれ一人暮らしのようですが、自分なりに生活を楽しんでいる様子。著者独自の「テープ版画」で描かれるこの2人は、皺があるせいなのか・・・何だかとても表情が豊か。
 それに対して、この2人と向き合う著者自身と思しき若い女性の表情は硬いです。この若い女性は1人目の女性に対して、この人の生き方いいなあ、と思っています。2人目の男性に対しては、梅が咲くのを待つ以外には特に何かするわけでない男性に歯がゆさを感じ、歯がゆく思う自分を恥じているようです。
 この若い女性は第3章では1人で登場します。ほとんど無表情で。この若い女性は何故かはわかりませんが毛虫駆除をしつつ、自分の老後について考えています。庭の手入れはホームヘルパーの業務ではないので、この女性は自宅の庭の手入れをしているのかもしれません。
 自分が歳を取って一人暮らしをしたらどんなことを思うだろうか。
 気楽だと思うか。
 家事は大変か。
 さみしいと思うか。
 あの2人のように自分なりに楽しめることを見つけられるか。
 何もすることがないのではないか。
 寝たきりになったかどうしようか・・・。
 そして第3章は、この若い女性の後ろ姿しか見えない画と「今からそんなことを考えたって仕方ないけど、でもね、そのとき私はどうなんだろう」という文章とで締めくくられます。

 ――――――――
 <備考>
 わたしはこの若い女性の後ろ姿を好ましく思いました。この若い女性が今どんな表情をしているかわからないことによって、この本を読んでいる読者も自分の老後がどうなるかわからないということに気づかされるように思います。
 わたしはこうも思いました。この女性は未来のことについて色々悩んでいるからこそ、感情を表情に出す暇がないのかもしれない・・・と。そうだとしたら、第1章の女性と第2章の男性との巧い対比が出来ているなあと思います。
 著者の画についてわたしが特に気に入ったところは、第1章に登場する女性の顔と腕の色と足の色とを変えているところ。文章を読まなくても画を見ただけで、この女性がストッキングを履いているということがわかります。これにより、この女性は自分の肌の色より明るい色のストッキングが好みなのかもしれないなあ、と想像する楽しみが生まれました。著者の細かな美意識を感じます。
 「〜あそばす」「お召しになる」「ございます」などの言葉使いで書かれているので、とても気持ち良く読めました。
 と言っても、内容が堅苦しく書かれているわけではありません。
 例えば、この本のP59、60でなめ子さんが竹田さんに「よく、おばさんが『美智子様〜』と気安く手を振っていますが、これはいかがなのでしょうか?」と質問しています。竹田さんはまず「実はその『様』というのは、やめてほしいのです。『様』というのは誰にでもつけますよね?」と言った後、皇后なので「陛下」の敬称をつけるべきなのにおかしくなっているという事と、雅子様の場合は皇太子妃なので「雅子殿下」「皇太子妃」「皇太子妃雅子殿下」などが正しいということも教えてくれます。
 わたしは、なめ子さんが率直な質問をし、竹田さんがなめ子さんの質問にただ答えるだけではなく上手く情報を付け加えて答えるという形式に読者への配慮を感じました。この1冊で庶民が知りたいこと(皇族方はインターネットをするのか? など)が知れるので、他の本を読まずに済みます。わたしは日本人として生まれ育ちながらも皇室についてほとんど何も知らないので、「皇室について知りたいなあ」と思いついた時にこの本と出会えて幸運でした。
 そして。わたしはこれについても書かねばなりません。
 この本のP195からは、マスコミによる雅子殿下へのバッシングについての竹田さんの意見も書かれています。竹田さんはこう言っています。天皇のご公務は国事行為として定められているけれど、皇太子妃のご公務は法律上何の規定もないのです、雅子殿下はご公務を自主的にしているのです、ということを。
 ・・・わたしは規定があるのかと思っていました・・・。規定があるのに御休みになっているものとばかり・・・。知らないって恐ろしい。
 伊良部総合病院神経科唯一の看護師マユミさん。
 わたしは前作を読んでからというもの彼女がどんな人物なのか知りたいのですが、続編となる今作でも彼女の情報は小出しに描かれています。奇人・伊良部医師の傍にいる謎の看護師として。
 なんたって服装です。看護師が看護婦であった頃の理想(誰の理想?)の服装。ミニスカートで、Fカップの胸の谷間がくっきり見える白衣を着ているのです。香水だってつけています。けれどいつも無表情。くわえ煙草で患者の前に現れたり、診察中に雑誌を捲っていることもあります。尖端恐怖症の患者にお尻を触られた時は、爪を患者の顔に近づけ、患者がびびっている間に無言でいなくなりました。・・・かっこいい。そうかと思えばサーカスの子どもと追いかけっこを始め(多分無表情のままで)、子どもを捕まえて「ただでいいですよ」とインフルエンザの予防注射を打ったりします。患者が書いた小説を読んで感激し、患者に照れながらお礼を言ったこともあります。マユミさんは不思議な魅力の人です。
 なぜマユミさんは伊良部総合病院神経科にいるのでしょうか。
 もしかしたら、マユミさんもかつては伊良部医師の患者だったのかもしれません。
 伊良部医師とマユミさんが出会った頃のエピソードも、もしあるならば読みたいです。無ければ書いていただきたいです。
 ・・・もしかしてマユミさん・・・、看護師免許を持っていないコスプレイヤーだったりして!? いやまさか・・・でも神経科の医師は伊良部医師だけ。伊良部医師のことですから「いいよ、だって注射するだけだし」とマユミさんの存在をしれっと許している可能性は0ではありません。
 気になる。

 
 ―――――――
 <備考>
 Amazonでこの『空中ブランコ』の次の作品『町長選挙』を検索したところ、マユミさんの魅力があまり出ていないそうなので残念です。
 わたしは『町長選挙』を読まずに、その次に出てくれるであろう作品に期待したいと思います。
 大人になってからバレエを始めようとしている人の為の本。中でも、バレエをエクササイズとしてではなくバレエとして踊りたい人向き。
 ただし、「大人になってから既にバレエを始めた。もっと上手くなりたい」という人にはおすすめ致しません。読んで無駄になるということは無いでしょうが(わたしには参考になりました)、この本のタイトルが示す通り、内容はあくまでこれから始める大人向きなのです。

 この本は、バレエ初心者の大人が抱くであろう疑問に答える、という形で書かれています。
 例えば「身体が硬いのはハンデになる?」という質問に対し、呼吸を止めないようにしながら静的ストレッチ(30秒以上同じポーズを保つ)を行えば靭帯や筋肉は柔らかくなっていく、という回答がなされます。呼吸し続ける理由は、酸素を十分に取り入れることで筋肉の疲れを軽減し、筋肉をしなやかに変化させるためだそうです。
 脚をより高く上げるためには腹筋を鍛える必要がある、ということも書かれていて・・・、わたしは「もっと早くこの本を読めば良かった」と思いました。わたしも大人からバレエを始めたのです。この本を読んで、レッスンの時先生に何度も「腹筋が弱い!」と言われる理由がわかりました。腹筋が弱いせいで上体がグラグラして足が上がらないのですね。
 他にも、水分補給のタイミング、バレエらしい腕の曲げ方、レオタードの下に着るもののことなどが書かれていて、やはりもっと早く読めば良かったと思いました。正確な動きをしようと頑張りすぎなくてもやがて自然にバレエらしい動きが身に付きますよ、というスタンスで書かれていますし。全国のバレエ教室に関するデータは少ないのですが(おまけ程度といった方が正しい)、そのデータが少ない分、自分でどう教室の選ぶかについてページが割かれていますし・・・。
 初心者が安心できる本だと思います。

 1つこの本に文句を言うとすれば、『世界&日本のダンサー』というデータの中にポリーナ・セミオノワさんの名前が無いことくらいです。すみません個人的に大好きなんです・・・♪
「私」は著者。
「夫」は著者の夫。
「アモン君」は夫の恋人。

君という敬称が示す通り、アモン君は男性。
アモンという言葉の意味は悪魔。
「私」と「夫」の子どももいる家の中で「夫」と「アモン君」がキスしているのを「私」が見てしまってから、「私」の約1年に及ぶ葛藤が始まります。

葛藤の理由は様々。
まず、「夫」が浮気をしていたこと。
浮気相手が、男性とはいえ若くてきれいな青年であり、自分は子どもを産んで30歳を過ぎた女性であること。
「夫」に離婚はしたくないが「アモン君」と今すぐには別れられないと土下座され、あたかも自分が2人に対して悪役のような気分になったこと。
「夫」がもともとゲイだったのに自分と結婚したのか、結婚後に「アモン君」が夫の潜在的なゲイ要素を目覚めさせたのかわからないこと。
「夫」が感情をぶつけてくれず、「夫」の本心がわからないこと。・・・など。

「夫」が離婚したくないと言うのは「私」をまだ愛しているからではなく単に子どもと別れたくないからではないのか、わたしはオプションなのではないか、という不安もあったようです。

著者はそうした気持ちをブログに想いを書き綴りました。
著者は、ブログを読んだ人からのアドバイスや忠告を受けて「焦ることはない」などと気付きます。
まだ決断を下したくないなら焦ることはない、そう気づいた著者は離婚や別居などの手段を取ることなく「夫」と「アモン君」に働きかけ続けました。
ゲイとは何なのか調べたり、自分自身の過去の恋愛を振り返るなどして、「夫」を責める気持ちが薄れていったようです。

「夫」は感情をぶつけてはくれないとはいえ、何を思っているのか気持ちを伝えてくれるようになりました。
「私」は「私」の質問にあいまいに答える「アモン君」のことも理解しようと努めました。
しかし理解、であって好きになる、ではありません。
「アモン君」は「夫」が結婚していることを知りながら「夫」と付き合っているのですから。
「アモン君」も「夫」の妻である「私」のことが嫌いなようです。

「アモン君」はある日「私」のブログを発見しました。
「私」の頑張りと、「夫」と「私」「私」の関係が切れないことを知り、「私」がブログに綴った気持ちを読んだことが功を奏したのでしょうか、浮気発覚から約1年が経った後「夫」と「アモン君」は別れたそうです。

著者は、もしかしたら「夫」はまた男に恋をするかもしれないが、その時「夫」が今回のように「私」を悲しませることはないだろう・・・と締めくくります。

・・・いつかわたしが結婚して、夫が浮気をしたらこの本を読み返そうと思います。浮気相手が男性であれ女性であれ、この本はきっと心の支えになると思います。

下記は著者のブログ「夫が男に恋をした」です。
この本は下記のブログの内容をまとめたものであり、書籍化にあたりカットした部分も多かったようです。多くを知りたいならブログ閲覧をおすすめいたします。 
http://ameblo.jp/beathorice/
 
 子供の狐は、先入観無しに世界を見ることができます。
 お陽さまが反射している雪を見て「目に何か刺さった」と言うくらいに、世の中がどんなものであるか知らないのです。
 だから子供の狐は、母さん狐が「人間はこわいものなんだよ」と言い聞かせても、「ふーん」と言うだけ。
 まだ何にも世の中を知らないからこそ、母さん狐が言うことは絶対だ、などとは思いこまないのでしょう。
 母さん狐が子供の狐に手袋を買いに行かせたのは、多分、人間のこわさを子供の狐に教えるため。
 しかし子供の狐は、身をもって人間のこわさを実感することはありませんでした。
 狐であることがばれてしまったというのに、人間は子供の狐に手袋を売ってくれました。偶然出逢った人間の親子も、母さん狐と子供の狐みたいでした。
 子供の狐は無事に帰って来て、「人間ってちっともこわくないや」と母さん狐に言います。
 母さん狐は「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら」と呟きます。
 わたしは、この母さん狐が「いいえ、人間はこわいものなのよ」などと子供の狐を否定しないところが良いなあと思います。母さん狐としては、子供の狐が一人立ちできるまで生き延びさせるために、人間はこわいものだと教える必要があるでしょう。人間は良いものだ、と思った子供の狐が不用意に人間に近付いて、捕まったり殺されたりしては大変です。けれど母さん狐は、子供の狐の意見を受け入れつつもお前の意見は正しいかどうかわからないよ、というニュアンスの言葉を繰り返します。
 この言葉の繰り返しから、母さん狐が無事に成長してこれた理由を垣間見れるような気がします。A=B(この場合は「人間=こわいもの」)は絶対である、という考え方では日々状況が変わる自然の中で生きていけないのではないでしょうか。
 人間をこわくないと思った子供の狐も、生き延びそうな気がします。子供の狐は母さん狐から聞いたことを絶対だと思わず自分で確かめています。それに、子供の狐は「人間は良いものだ」と簡単に思ってしまわず「人間ってちっともこわくないや」と思うに留めていますから。
 そう思って読み返してみると、この物語に登場する人間の親子の母親も、似たようなニュアンスで子どもの質問に答えています。人間も他の動物も、根本は同じかもしれませんね。
 恋愛と性によって感情に起伏が生まれる、リハビリへの意欲に繋がる、ということにも言及している本です。この本を著した会の名前からわかるように、この本は性が生を支えるというスタンス。
 初版は1994年発行。
 「最低限の生活ができれば十分。恋愛と性なんて無くても死なない。けしからん」という意識が「人として当たり前。本人がするかしないかを選べる」という意識へ変わっていくために、この本も一役買ったのではないかと思います。
 特にわたしが興味深く思ったのは、障害者が性的欲求を一人で満たせない場合の介助は誰が担うべきかという問題について書いているところ。恋人、配偶者、介護ボランティア、など様々考えられ、それらについても言及されているのですが、この本ではソープランド利用がかなりページを割いて提案されています。
 なぜかというと、性は身近な人との関係をぎこちなくする可能性があるから。例えばP14〜21に登場するカップルの場合、彼氏が身動き出来ないがゆえに彼女が性的リーダーシップを取らねばならず負担になっています。P60〜67に登場する障害者と介護者の場合は、障害者が介護者にアダルトビデオを買いに行かせる、性器を洗わせる、などを頼みそれ以上をも頼んでしまい関係がギクシャクしてしまいました。
 そうなってしまうよりはプロのいるソープランドへ、という考え方のようです。
 しかし男性の障害者はそれで良くても、女性の障害者となるとそうはいきません。性の欲求を満たそうとする以前に、施設職員が「子宮をとってしまった方がいいのではない?」と言うような時代もあったのです(P90~92)。もしかしたら今でもそんな考えを持つ職員がいるのかもしれません・・・。
 P94〜95では本人の同意が無いのにも関わらず担当精神科医や医学部教授が何の異常もない子宮を本当に摘出したケースが紹介されています。担当精神科医曰く「生理の処理の介助が大変」、医学部教授曰く「本人のため、それしかない」。・・・こういった子宮摘出(摘出と言うと必要な処置という印象がするから嫌ですね)は昔から何例もあります。けれど前例があるからといって、その方法が正しいとは誰も言えません。P95〜96ではこの精神科医たちに賛同した人たちの「きれいごとを言うな」などという意見が紹介されています。それらの意見に対して施設職員の一人は「〜(中略)子宮をとったからといって、本人にとっても介護者にとっても、すべてが解決するわけではないんです」と言います。わたしもそう思います。本人の気持ちを無視しているから。もしかすると摘出する側は、女性障害者が暴れるのは自分たちの対応に落ち度があるのではなく生理が悪いのだ、と言い訳したいのではないでしょうか。切り取ってしまったものは元には戻らないのに・・・。この本では触れられていませんが、男性障害者の場合も切除される例がいくつもあり、如何にこれまで障害者の性が認められていなかったかがわかります。
 性を認めないのはすなわち生を認めないことになるでしょう。

 ・・・なんだかブルーな気持ちにさせてしまうことを書いてしまいました。m(><)m
 この本は実際はもっと軽い語り口ですので読みやすいですよ。官能小説並みにダイレクトな表現が使われているので、読む場所にはくれぐれも注意ですが(^皿^)
 *注*
 18歳未満はこの本を読むべからず。
 実年齢15歳以上で「精神年齢は18歳超えてますよ!」という方は読んでも良いかもしれません。ただし御両親にこの本を捲られて「あんた何読んでんのー!」と殴られた場合の責任は当方負いかねません。

 これはフェチシズム小説です。
 主人公の男性は、女性の美脚フェチであり、且つ、皮革で出来たヒールの高いセクシー靴のフェチ。主人公は女性の脚の指の長さや、爪の色など様々な観点から女性の脚を採点します。靴に関してもヒールの無い靴は論外。
 主人公は、道行く美脚女性に声をかけては脚や靴に関する質問をし、質問に答えてくれる女性に対して調子に乗ってセクハラ質問をして怒られます。この主人公は女性に「変態」と言われると「僕は変態ではない」と反論しますが、変態です。自分は違うと思っていても相手にそう思われるようなことをしたなら変態です。
 主人公は女性の内面に興味を示しません。興味があるのは脚。そして靴。
 主人公は運命の女性に出会います。彼女の名前はキャサリン。形、長さともに主人公が求める完璧な脚を持ち、セクシーな靴を履きこなす女性です。
 主人公は彼女に夢中。この小説のタイトル通り、セクシーな靴を履いた彼女の脚に踏まれることに大喜び。主人公は夢中になりすぎ不気味がられて彼女から別れを宣告されますが、決して諦められません。彼女以上に僕の欲求をかなえてくれる女性などいない、と確信しているのです。主人公は彼女の新たな恋人を突き止め、車の中から彼女を観察・・・。彼女にあからさまに拒絶されようと、めげません。
 そんな日々を過ぎす中、彼女の新しい恋人が殺されました。普通なら主人公を疑うところ。けれど主人公は犯人ではありません。
 主人公をも凌ぐ究極の脚&靴フェチがいたのです。
 名探偵・竜ヶ崎桃子が殺人事件に挑む小説です。・・・少し嘘を吐きました。桃子はロココに身を捧げた女子高生(留年決定)です。挑む、というのも若干嘘。彼女に体育会系のノリはありません。彼女はロココな乙女。気が向いた時に推理を進めていきました。
 殺人は、東京から下妻へ帰るバスの中で発生いたしました。ヤクザがぐっさり刺されたのです。気の毒にもヤクザはトイレの中で殺されました・・・臭そう。疑われたのはイチゴ。桃子と違って素直なイチゴは殺人事件発生に怯えまくってしまい、警察にマークされるような言動を取ってしまったのです。

 *注*以下完全ネタバレを含む感想です。

 桃子は真犯人を暴きました。・・・また少し嘘を吐きました。暴く、というと正義感に満ち溢れた感じがいたします。桃子はエルキュール・ポワロのような名推理を完璧なものとするために、真犯人は誰か明かす必要があった。それだけのことですもの。
 真犯人は自首。
 もし真犯人が自首したいと言わなければ、桃子は真犯人の正体を警察に告げることはなかったのではないか・・・とわたしは思います。
 この物語を読む立場のわたしだとて、この真犯人には自首して欲しくありませんでした。不道徳ですけれど。
 御釈迦様の御嘆きはこれだけでなかったに違いありません。
 カンダタに蜘蛛の糸が下りてきたのは、カンダタが一生のうちたった一度だけ良い行いをしたから。
 地獄に落ちた他の罪人たちも、一生のうち一度くらいは良いことをしていたでしょう。
 もしかすると御釈迦様が御下ろしになった蜘蛛の糸は、他の罪人たち一人一人にも下りてきていたかもしれません。
 カンダタに下りてきた蜘蛛の糸と他の罪人たちに下りてきた蜘蛛の糸を編んだならば、きっと強い縄ができたことでしょう。 
 けれど皆そうしなかった。
 カンダタは一人でのぼっていった。
 他の罪人たちは自分の蜘蛛の糸に気づかず。他人の蜘蛛の糸にのぼってきた。
 だからカンダタの蜘蛛の糸は切れてしまった。きっと他の罪人たちの蜘蛛の糸も。
 御釈迦様がいくら人間を御救いになろうとしても、人間たちがそれを駄目にしてしまう。
 だから御釈迦様はお嘆きになったのではないでしょうか。
 アインシュタインも挫折することもあった、けれどやはりアインシュタインは天才だ・・・ということを軽快な文章で教えてくれる本。
 物理の基礎がない方には2章以降は読み進めるのが辛いかと思いますが、その場合はP24だけでも目を通してみてください。研究者以上の知識がある方には、1つ1つの研究を詳細に説明しているわけではないので物足りないかも。

 わたしはP24の写真を見て大笑いしました。アインシュタインが子ども時代にクラスメートと撮った集合写真です。どの子がアインシュタインなのか、説明文を読まなくても一目でわかります。他のみんなが険しい表情をしているのに、アインシュタインは1人だけニヤッとしているのです。
 この本の第1章には、アインシュタインが若年期いかにニヤッとした人間だったか書かれています。成績はとても良かったけれど、教師に敬意を示さなかったため退学しろと言われたこと。女性によくモテたこと。晩年になって主治医にタバコを禁じられたけれど、同僚からタバコを盗んで吸い続けたこと。
 ・・・盗む以外に方法はなかったのでしょうか。
 他の章では、アインシュタインがニヤッとしていなかった時についても書かれています。アインシュタインが思考実験、ニュートン物理学と相対性原理が両立しないことの証明、光電効果、特殊相対性理論などに取り組んだこと。量子論の結論を推論の結果として出そうとしたこと。
 研究中はさすがにまじめな表情をしていたことでしょう(してない!?)。1人の人間の脳味噌でこれだけ研究できたということに敬服します。
 生涯で3つの国の国民になったけれど、どこの国にも故郷を感じられなかったこと。人類が原子力という、人類には扱い切れない兵器を使い始めた事実に危機感を抱いたこと・・・。
 この辺は常人にも想像はできる苦悩ですね。アインシュタインの苦悩そのものを理解することはできないでしょうけれど。アインシュタインの死後も世界の難民・移民問題は解決する兆しがないし、人類はさらに原子力を使おうとしています。もしもアインシュタインが現代に生きていたら、アインシュタインは何を思うのでしょうか。
 
 92年6月号から97年9月号までフリーペーパー『花形文化通信』に掲載されたエッセイ。乙女たる者の心構えが書かれています。

 乙女はおとなしそうな顔をして、実は身勝手。(P12の内容)
 乙女は汚いものには眼を背け、臭いものには蓋をする潔さを持つ。(P17の内容)
 乙女は素直で直接的なエロスを好まない。(P22の内容)
 乙女はダイアモンドの指輪よりプラスチックの玩具の指輪の方がずっと似合う。(P31の内容) なぜなら乙女は「『女性』のレプリカであると同時に『少年』のレプリカ」(P10より引用)であり、模造品としての可愛さと美しさを持つ存在だから。
 乙女は本物の死を求めない。本物の死は人間的すぎる。(P32の内容)
 乙女はハイソサエティな可愛さを愛す。ファンシーに堕すことがない。(P47の内容)
 乙女は道徳を好むけれど実は不道徳。(P79の内容)
 乙女は好きと思えば手に入れる。どんな恋慕の情にも貴賎はない。(P116)

 などなど。
 乙女は善良なだけの少女ではないのです。


<備考>
 野ばらちゃんが言うには、ロリータの精神を持っていれば、たとえロリータ・ファッションに身を包まずともロリータなのだそうです。ロリータの本質はロリータ・ファッションに憧れることにあるのだそう。服や小物を身につけられないからといって気にしては駄目、隠れキリシタンとして生涯をまっとうすれば良いのだそうです。
 「本当はロリータ・ファッションをしたいけれど・・・外には着て行けないし高いし・・・」と悩んでいる方、憧れているだけでも立派なロリータですよ♪ 自信を持ってくださいまし。
 わたしも伊良部医師による診療を受けてみたいです。
 患者よりよほど問題を抱えた伊良部医師による治療(?)を。
 伊良部医師は男性で、中年で、太っていて、マザコンで、バツイチで、注射フェチ。それだけなら普通です。しかし彼は常識に縛られない人間。真夜中の区民体育館に侵入、イラン人を雇って元妻と縁を切ろうとする、明らかに無理なのに男優オーディションに応募、メール依存の患者に何通も何通も何通もメールを送る、子どもに物を譲らない、他の病院の水道を止める・・・、彼の奇行はこれだけに留まりません。
 神経科と言えば精神的に参ってしまっている人が診療を受けに行くところです。その神経科に、患者よりよほど精神的に変な医師がいる・・・。患者たちは伊良部医師に呆れます。患者たちは気づきます、伊良部医師によってかえって症状が悪化させているのではないか、と。
 伊良部医師は、水泳依存の患者と水泳をし続けたり、世の中のあらゆる人が自分のストーカーだという妄想を抱いている患者にブランド品を貢いだり、メール依存の患者にひたすらメールを送ったりするのです。また、彼はどんな症状の患者にも必ず注射を受けさせます。注射が必要でない患者にも必ずするのです。彼は注射フェチだから。彼は誰かが注射されるのを見てハァハァ言う人なのです。患者たちは呆れ果てますが、この神経科にマユミさんという露出狂気味な看護師(この本では「婦」という表記)がいることや、彼がブランド品を貢いでくれることや、彼という人間への好奇心などからか受診し続けます。
 そしていつの間にか患者たちは自力で自分の問題を解決してしまうのでした。
 とはいえ、患者たち1人1人だけではきっと問題は解決しなかったでしょう。
 伊良部医師がいればこそなのです。
 患者たちは「医者はあてにならない。自分しか頼りにならない」と思ったことでしょう。自分よりダメな人間がいる」と安心したことでしょう。「こんな人間が世の中にはいるのか」と世の中への好奇心を刺激されたことでしょう。
 これらは伊良部医師の功績。
 手術道具も薬も必要としない・・・。ある意味名医ですね。ある意味。
  大学生の時から現在(37歳以上)に至るまで、脳に度重なるダメージを受けてきた著者による本。著者の体験談から、高次脳機能障害になった人の世界を垣間見ることができます。
 著者の場合、右脳を損傷したことで形の認識が苦手になり、右脳の中でも頭頂歯のダメージがひどかったため物の位置関係を理解しにくくなったそう。
 探し物が視界に入っていても、見つけ出すことができない。書類に記入する時も、何を書くべき欄なのかわからない。自分を起点とした方向感覚がわからない。空間に順序正しく並んでいる物の規則性がわからない。そして、自分がこうなっているということを客観的に認識できるものの、見た目には以前と変わらないため周囲がなかなか理解してくれず無能者扱いされてしまうのが辛いのだそう・・・。
 しかしこの本の題からもわかるように、「どんな脳でも必ず何かを学習する」(P133)と著者は言います。「脳の一部が壊れた時、脳は残された正常な機能を総動員して壊れた部分を補い、危機を乗り越えようとするものらしい」(P212。正常な〜動員までの箇所が正確でないかもしれません。申し訳ありません)と。脳の壊れたところは元には戻りませんが、脳が全て壊れたわけではありませんものね。著者は「〜周囲が、『もぐもぐもぐもぐ』などと声をかけたほうが、患者は噛むことを思い出しやすい」(P163)とも言っています。工夫をすれば以前のような基本動作に可能な限り近づけるかもしれませんね。
 また、わたしは著者の話の中で「私の海馬は、〜まったく無傷であると、何人かの脳外科医から説明された。しかし私の記憶はまったく正常というわけではない」(P105)というものに興味を引かれました。一体記憶とはどこにあるのか。わたしは常々、大切な記憶は心臓に保管されるものと思っているのですが・・・(通常の心拍よりドキドキした履歴が残っていそうで)。記憶についても知りたい、と思わせてくれる本でした。

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 <備考>
 批判になってしまうのですが・・・。著者は高次脳機能障害はなってみないとわからないものだ、と言っています。しかし著者はこの本の中で、認知症になった人々について決めつけるようなことを書いています。認知症だって、なってみないとわからないもののはずなのに・・・。どうしても「あれ?」と疑問を感じてしまいます。
 タイトルにインナーマザーとあるものの、心の内側にいる父についても論じた本です。

 「親」という生き物はいないけれど、子どもは心の内側に「親」というイメージを作り上げます。もしもその「親」が子どもにとって良くないものであったとしても、子どもは「自分が悪い子だからだ。良い子になったら愛してもらえる」と思って努力してしまいます。たとえ親に虐待されようと、「本当は愛されている」と思って耐えてしまいます。努力が報われないまま大人になってからも、その人は「親」に愛されようとして苦しみ続けてしまいます・・・。
 そしてその人は、自分を苦しめる相手に自ら近づいていってしまうのです。自分を褒めてくれる相手には不信さえ抱きます。「私のことやさしいとか言う人はみんなだまされているんだとか思ってしまう」(P20)。逆に、自分を苦しめる相手には安心します。「ほら、やっぱり私はダメなのよ」「こんな彼だけど、本当は私のことを愛してくれているのよ」(P43)と・・・。
 子ども時代に「苦しめられる」状況を「愛されている。安心できる」状況だと思い込もうとしてしまったため起こる現象ですね。子ども時代と同じ状況を作ることで、その人は子ども時代に叶わなかった「愛される」ことに再挑戦しているのかもしれません。大人になった今からでも、もしも愛されたなら、子ども時代の飢えを癒せる・・・と信じて。けれどその人はどうすれば良いかわかりません。そのため相手と別れた後も、新たな自分を苦しめる相手と付き合い続けてしまい、自分をすり減らしていってしまうのです。

 斉藤さんは、子どもを苦しめる「親」にならないために以下のようなことをすすめています。わかりやすいように「」で表しますが、「」内には『』を使わせていただきます。実際は『』ではなく「」が使われています。
 「〜(中略)『お前はそのままでいい』『そのままのおまえが私の大切な子だ』というメッセージが、きちんと伝えられているという前提が必要なのです」(P69。叱る時は、ということ)「母は『いいかげん』ぐらいのほうがよい」(P76)。「聖母になどなれっこないし、めざす必要もないのです」(P78)。「子どもの住む世界は子どもの聖域ですから、ある程度以上は近寄らない」(P198)。「子どもの『秘密』に触れない」(P199)。「子どもが出ていく時期がきたら、『いつでも帰っておいで』といって部屋を用意しておくと、安心してサッサと出ていきます」(P210)。「自分で決めた人生を子どものせいにしない」(P220)。

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 わたしの「母」は一番最後のものが出来ていなかったなあ・・・。

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