古今和歌集の勅撰にあたった紀貫之を主人公とした長編小説。

 同じく勅撰にあたった紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒らの様子も描かれています。

 まだまだ漢詩が幅を利かせていた時代に、日本の心を詠み上げる素晴らしさを日本初の勅撰和歌集という形であらわした彼らには、本当に頭が下がります。

 気の遠くなるような数の和歌の中からこれはというものを選び出し、テーマごとに分類し、更にそれらを日本の四季の移ろいが感じられるように並べて…、という工夫を凝らした大仕事は相当大変だったことでしょう。
もしタイムマシンがあったなら、彼らにそっと差し入れをしたい気分です。

 彼らの様子を読んでいると、古今和歌集だけでなく日本に伝わる他の歌集についても、かつて誰かが苦労して編纂してくれたからこそ、今の時代を生きるわたしたちが時を超えて歌を楽しめるのだよなぁ…とつくづく思いました。

 また、この小説は、僧正遍照、在原業平、文屋康秀、喜撰法師(この小説においては紀貫之自身であるという設定)、小野小町、大友黒主、これら「六歌仙」と呼ばれる歌人たちも登場します。
 登場するだけでなく、例えば在原業平は藤原高子との恋物語を、小野小町は白夜通いをされた思い出を、それぞれ語ってくれるのですから、なんとも豪華な構成の小説だなという印象です。

 特に、在原業平が藤原高子との恋について語った後、「いや、もうよいわ」「そんなのは、神代の話だもの」(p119から抜粋)と締めくくるのが素敵。
在原業平の有名な和歌「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」に掛けているのでしょうね。

 そうした優れた歌人たちとの交流を経て大人になった紀貫之が、和歌集の選者となる…。
 と、この小説のこういう流れは良いのですが、在原業平と藤原高子の出会いをめぐる真実(あくまでこの小説での、ですが。真実は、今の時代を生きる者にはただ想像する他ないので)があまりにどろどろしているのでびっくり…。
 あり得ないことではないだろうけれど、もしこれが真実だったら嫌だな…。
 更に、幼い紀貫之が受けた災難にびっくり!
 否、もうこれは災難というか虐待では!?と、わたしは読んでいて悲鳴をあげそうになりました。
 そしたら在原業平が救世主の如く華麗に登場!
 業平さま素敵!

 そんなこんなで生臭い部分もあるこの小説ですが、幼い紀貫之を慈しむ在原業平の様子と、大人になった紀貫之が愛娘を慈しむ様子がとても綺麗。
 暗い部分と綺麗な部分との対比が、まるで平安の世の陰と陽をもあらわしているかのよう。
 元監察医の方が書いた本。
 わたしは以前この方の別の本(『死体は悲しい愛を語る』)を読んだことがありますが、この本のほうが、親が子を思う情念についてよく書かれていると感じました。

 明らかにもう死んでいる我が子を抱きしめる。
 まだあたたかいのだから死んでいない、早く治療して、と医師にすがりつく。
 親が怪我をして、子がそのお見舞いに来ているのに、そんな状況でもやっぱり親は子を心配する。

 そういう話がこの本のメインテーマになっているようです。

 そういういわゆる美談だけでなく、親に虐待されて餓死した子どもの遺体にはたいてい打撲のあとなどがあるという話や、家族と同居していた高齢者が家族の中で阻害されて自殺するという話や、以前検死で担当した方の今度は遺族自身の検死をした時の話なども(もっともこの件についてはその遺族自身が故人を殺した犯人でもあったそうなのですが)、この本には含まれているので、読んでいて人間社会の現実というか、業の深さを思い知らされました。

 監察医という仕事は患者の病気を治すわけではないけれども、亡くなった方の声なき声を聞いて死因を探り、もし他殺だったとしたらそこに必ず犯人がいるのだから、この仕事は社会秩序の維持に役立っているのだ…という内容もこの本の中で書かれています。
 本当に重要なお仕事ですね。

 なお、わたしが一番ハッとしたのは、この本のP67に書かれている内容。
 「最期は穏やかな死に顔で、と願うであろう。誰しも苦痛に満ちた顔であってはならないと思うだろう。しかし、われわれが想像するような表情は死体にはない。死後、神経が麻痺してしまうからみな穏やかな顔になるのである。この世に神様がいるとしたら、神様はなんと粋なはからいをしたのだろうと思う」(P67から抜粋)
 この文を読んで…、今までわたし自身が見送ってきた方たちの死に顔がみんな穏やかだったことを思い出しました。
 なるほど、神経の麻痺。
 死ぬ時は苦しいし痛いし怖かったはずなのに、みんな穏やかな死に顔だったのは、そういうことだったんですね…。
 でも、それを見て遺族が少しでも救われるような思いがするのなら、神経の麻痺も悪くないですね…。
 短編小説『双生児(ある死刑囚が教誨師にうちあけた話)』、『一人二役』、『ぺてん師と空気男』、『百面相役者』、『一寸法師』を収録した文庫本。

 どの作品も、自分以外の誰かを演じる人物が登場します。

 表題作『双生児』は、双子の兄を殺して兄になりすまそうとした男の話。

 『一人二役』は、ふとした好奇心から架空の男に変装して、妻が浮気心を起こさないか確かめようとした男が、なんと架空の男として本当に妻との間に恋心を芽生えさせてしまったため、本来の自分を捨ててその架空の男として生きていこうとする話。

 『ぺてん師と空気男』は、仕事が続かず母親からの仕送りに頼って生活していた男(空気男)が主人公。
 空気男は、ある日、不思議な魅力を持つ男(ぺてん師)と出会います。
 ぺてん師は、いわゆるドッキリに近い悪戯を見事に成功させてゆきます。
 なぜドッキリに「近い」のかというと、ぺてん師は、悪戯を仕掛けられた人たちに「ドッキリ大成功!」のようにネタばらしをしないので、みんな自分が悪戯を仕掛けられたことにさえ気づかないからです。そういうみんなの様子も含めて、ぺてん師は愉快がるのです。
 誰も損をしないけれど得もしない、そんなことを「ジョーク」として幾つも考え出しては必ず成功させるぺてん師に、空気男はすっかり魅了されてしまいます。
 空気男とぺてん師は、友人と呼べるほど親しい関係になるのですが、やがてぺてん師は空気男を一世一代のジョークの被害者として選んでしまいます。

 『一寸法師』は、主人公は小林紋三という男ですが、江戸川乱歩ファンお馴染みの探偵明智小五郎が登場し、紋三と共に令嬢失踪事件の謎解きに挑みます。
 バラバラ殺人事件の話なので、残酷な描写が苦手だという方にはおすすめできませんし、また、差別用語も頻繁に使われているので、読む人を選ぶ作品です。


 わたしの心に一番引っかかったのは『ぺてん師と空気男』です。
 ぺてん師が空気男と知り合ってそう経たない頃に話した「ぼくもときどき恐ろしくなってくることがある。ジョークに深入りして、今に犯罪の方へ移っていくのじゃないかという恐怖だね」という言葉と、一世一代の悪戯を成功させた後でぺてん師が空気男に語った「本当の罪を犯すことは絶対に避けたかった。それでは折角のジョークが映えなくなってしまうからね」という言葉を読み比べてみて…、…わたしは違和感のようなものを感じました。
 もし犯罪を犯すことでよりいっそうジョークが映えたとしたら、このぺてん師は犯罪さえも簡単にやってのけたかもしれない、とわたしには思えました。

 この文庫に収録されている中では、『一寸法師』が一番グロテスクな作品なのですが、わたしには『ぺてん師と空気男』のぺてん師のほうが、より得体が知れない、何をしでかすかわからない存在のように感じられ、怖くなりました。
 「着物は~でないといけない」「着付けは~でないといけない」などと縛られずに、普段着として、自分の着たい着物を自分らしく楽しみたい、そんな方にぴったりなエッセイ。

 なかでも、群ようこさんと篠田桃紅さんの対談が素敵です。
 この対談を読んで、わたしは自分が今までいかに着物というものを窮屈なものと誤解していたのか、ということに気づかされました。
 もっと自由でいいんですね。

 また、群さんの呉服屋さんたちとのトラブル実体験も書かれているので(なんと、「先作り」と言って、頼んでもいないのに勝手に着物を仕立てられたこともあったそうです! おそろしい!!)、「わたしは群さんほど着物が買えるわけじゃないけれど、同じような目にあわないように気をつけよう…」と勉強になりました。
住職と家元の座を11歳で継いだ、という生い立ちや、いけばなや人との対話を通して感じられる美について書かれた本です。

「花を拠り所にしていると、なぜだか自分の心がなごみ、喜びも悲しみも、手向けた花が吸い取ってくれて無心に返ることができます。花との禅問答のようなものでしょう」(P26~27から抜粋)

「花の鼓動が聞こえたのかもしれません」「花が人を呼んだのでしょう」(いずれもP29から抜粋)

「いけばなは見えないものを見せるものなのです」(P83から抜粋)

「花は非常に便利な言葉でもあります。花にたとえると、すべてが美しい姿に変わっていきます」(P96から抜粋)

「池坊の花の美しさは、つぼみにあると言われます。つぼみはこれから花を開くもので、常に未来を向いています」(P158から抜粋)

などの言葉にハッとさせられました。
こういう感性をわたしも身につけて生きていきたいです。
 「いつか子どもを産みたい」と思いつつも様々な事情で妊娠が遅れ、いざ「子どもを産もう」と思った時にはもはや妊娠出来る年齢ではなかった…という人を少しでも減らしたい、という想いで出版された本。

 この本のタイトルだけを見ると、女性側の加齢(三十五歳以上かどうかが一つの目安)による不妊についての内容がメインの本か、という印象を受けるかもしれませんが、この本は女性側だけでなく男性側の問題による不妊についても言及しており、日本という国は妊娠「しない」ための性教育はしていても妊娠「する」ための知識の普及が不十分であること、諸外国と比べて不妊についての議論が活発でないこと等の問題についても触れた本です。

 特に、第三章『医師と患者 苦悩の現場』は涙なくしては読めませんでした。
 夫婦も頑張っている。
 医師も頑張っている。
 けれど頑張ったからといって必ず妊娠に繋がるわけではない。
 妊娠出来たからといって、流産せずに必ず無事に出産出来るとは限らない。
 …辛い話です。
 連日、ニュースを見れば、我が子を捨てたり暴力をふるったり殺したりする親のニュースが出てくるけれど…、子どもが欲しくて欲しくてたまらない夫婦のもとに子どもが授からず、バカ親(敢えてこの表現を使わせていただきます)が子どもが授かれるのは、本当に腹の立つ話です。
 若い時に性行為に及ぶか、歳を取ってから性行為に及ぶか、その差が道を分けるのだ…と頭では納得出来ても、心は納得出来ないです。したくない。
 特に、この本の第三章で、ある夫婦が、子宮外妊娠した時の受精卵の写真も、体外受精で出来たその他の受精卵の写真も、大切に保管していて、「せっかく私たちの子どもとして来てくれたのに、育てられなくてごめんね」とつぶやいた…というくだりを読んだ時、わたしは涙が止まらなくなりました。
 なんでこの人たちに子どもが授からないのか。
 なんだか他人事とは思えず、悔しいです。

 けれど、たとえ納得したくなくても、不妊治療は魔法ではない、ということは理解しなければいけません。
 「卵子が老化していると、分裂するときに組織を引っ張り合うエネルギーが足りなくなっていたり、バランスが崩れてしまっていたりして、正常な分裂が行われなくなるとみられているのだ」(P28から抜粋)
 「不妊治療は、受精卵が成長するための「環境」を整備する、という手助けを行うことはできるが、分裂に関しては、受精卵が持つ力に頼るしかない。だからこそ、どんなに高い技術を持った医師でも、卵子の老化に太刀打ちすることができずに、頭を抱えているのが現状なのだ」(P29から抜粋)
 というこの本の記述を読むと…、もし「いつか子どもが欲しい」と思っているのであれば加齢は大きなリスクであることがよく分かりました。

 わたし自身は現在二十代未婚で子どもはいないのですが、今のうちからこの本と出逢えて本当に良かったです。
 産む、産まない、を選択するのは自由だけれど、加齢によって妊娠そのものが難しくなることを知った上で産む、産まないを選択するのか、或いはそれを全く知らずに選択して後から後悔するか、は大違いなので…。

 また、この本は、子どもがいない夫婦に平気で「お子さんは?」と聞いたり、「子どもはいいわよ」「なんで作らないの?」などと言ってくる人たちの存在についても折々で触れています。
 …本人たちは全く悪気はないのかもしれないけれど、なんて心無いことでしょう…。
 …わたしは決してこういう人たちにはなりたくないです…。でも、もし今までにわたしもそんなことを聞いたり言ったことがあるとしたら、自分で自分を殴りたいです。

 数=楽しい、というイメージを子どもに持ってもらうのにうってつけの絵本。
 「足して9」計算法や「足して4」計算法を使っておつりを素早く計算する方法、100に近い二桁や三桁のかけ算を楽に計算する方法、長方形や十文字の紙を切って正方形を作る方法、江戸の算数「清少納言 知恵の板」、などを分かりやすく紹介。
 数学にまつわる偉人の言葉などのエピソードも織り交ぜて教えてくれるので、「親子で楽しむ!」というタイトル通り、大人も楽しめる内容です。
 小学生以上の子ども向けの絵本だと思いますが、むしろ、数=難しい、と子ども時代に苦手意識を持ってしまった大人にこそすすめたいです。
 わたし自身、数学が苦手だった、というより算数の時点で大の苦手だったのですが、この本は楽しく読めました。
 歯の本だけど目から鱗!
 歯並びというより噛み合わせそのものに注目すること、症状が出てしまった後から対処するのではなく事前に予防していくことの大切さが書かれている本です。

 「知覚過敏は歯ブラシのやりすぎで起こると説明される歯医者も多いのですが、歯ブラシで何百万回みがいても歯はほとんど削られません。しかし、夜間などの無意識下での歯ぎしりや食いしばりは、通常の意識下のかむ強さの3~4倍の大きさで歯をすり合わせています。~(中略)歯が次第に壊れていくのも無理からぬことです」(P64から抜粋)

 「最悪はうつ伏せ寝姿勢で寝る方で、~(中略)左右どちらかを下にして寝て顎がずれますと、顔もずれますので、その寝方を続けていますと、ますます、顔が左右に歪んでいきます」(P78から抜粋)

 など、ぞーっとするようなことが書かれているのですが、特に、

 「抜けたままにしておくと、どうしても下顎は「抜けた側」で噛もうとします。~(中略)昼間の食事のときは歯のある側でしかたなく噛むのですが、夜寝ている間は、不思議なことに、逆に歯のない側で噛もうとするのです」(P102から抜粋)

 という記載には、わたしは心底驚かされました!
 人間の体って…不思議なことでいっぱい。

 この本を読んで、わたしは歯科へ行きたくなりました。
 歯だけではなく、噛みあわせもちゃんと診てくれる歯科へ。
 近所にそういうところがあるのか分からないけど…。
 十代、二十代、三十代など、若い世代の孤独死の事例も紹介されており、孤独死は決して他人事ではなく、自分自身や友人などにも遠い未来ではなくすぐにでも起こり得るかもしれない…と気付かせてくれる本です。
 孤独死しやすい人の特徴も挙げられており、『本当の「ひとり」にならないための26のアドバイス』と題したアドバイスも書かれています。
 …わたし自身、孤独死しやすい人の特徴にいくつか思い当たる点があったので…、…反省し…、すぐさま部屋を片付け、そしてしばらく連絡を取っていなかった友人へ年賀状を出しました。

 「「おひとりさま」ではなく、実家で親と同居しているケースでも、死後1週間ほどで発見される例が増加している」(P74から抜粋)という一文には、特に衝撃を受けました。
 一人で暮らしていても独りではない場合もあるし、逆に、家族と暮らしていても独りかもしれない…何とも皮肉な話です。
 たとえ臨終の際に一人だったとしてもすぐに誰かに遺体を見つけてもらえる人と、死後1週間以上経っても誰にも気付いてもらえず腐っていってしまいその異臭でやっとその死に気付いてもらえる人との違いが、この本には書かれています。

 「まだ、誰も気づいてくれない……」
 「でも明日になれば、きっと誰かが気づいてくれるはず」
 「もう4日だ……。どうして誰も気づいてくれないんだ!」
 「私の顔が変色してきた……」
 「虫が、私の体の上を歩いている……」
 「あーっ、誰か早く私に気づいてくれー!!」(以上P111から抜粋)
 という、孤独死した人の想いをイメージしたくだりを、わたしは決して忘れないでしょう。
 この声なき悲鳴は、今まさにどこかで誰かがあげているのかもしれないから…。

 …人間は生まれてきた以上いつか必ず死にます。
 長生きが一番ですが、いつ死ぬか、どう死ぬかは、誰にもわからない。
 わたしも、せめて死後48時間以内くらいには気付いてもらえて、逆に友人など周りの人の死に早く気付いてあげられる、だけではなくて、死んでしまう前にちゃんとお互いに気付いて、出来る限り助け合い、生を全うしたいです…。
 
 中高年の皆さん! …じゃなくて中高生の皆さん!(「ちゅう」と入力しただけで「中高年」と変換する我がスマホよ、ああ無情)
 この本を図書館で借りるなどして自宅へ持ち帰った後、家族の目につく場所に放置しておくのはくれぐれもやめましょう。
 有名なタイトルの本=真面目な本、とは限りません。
 寺山修司のこの「書を捨てよ、街へ出よう」は有名な本の中でも特に、真面目に不真面目な本です。
 家族に「あの子どんな本読んでるのかしら…パラパラ(ページを捲る音)…ンマー!」 と家族会議を開かれるまでには至らなくとも、どのページを読まれても、ヤ、ヤバイ。
 ストリッパーやトルコ風呂や競馬の話はともかく(ともかく!?)、『第四章 不良少年入門』の「上手な遺書の書き方」で遺書の書き方指導が、「自殺にふさわしい場所を選ぼう」で舞台装置の用意についてのことが、事細かく書いてあるのを見られたら…。…。…こりゃえらいこっちゃ!
 以上のように、中高生が読むには多少…いや大分リスキーなエッセイではありますが、大真面目に不真面目な寺山修司が少年時代のことを時折思い返すくだりは何だか胸にくるものがあるし、「われわれはどんなに長く昼寝をしてもーー(たとえ二十四時間、眠りっぱなしでいても)ガールフレンドを失うことはない。マイナスよりはゼロが得。これは、きわめて単純な算数の問題ではないか」(角川文庫P270から抜粋)など、なんだか彼氏または彼女がいない人をフォローしてくれるようなことも書かれているエッセイ。
 読んでいると不思議に励まされます。
 最近わたしにやたら「早く結婚せい」と言うくせに、わたしが土日に出かける時に「誰と出かけるの。男じゃないでしょうね」といちいち確認して小言を言う(わたしもう26歳なんですけど!?)、そんな母が「…これ読んでみて」とこの小説をすすめてくれました。

 この小説の主人公は父子家庭の父。
 娘視点で書かれたページも折々に挟まってくるけれど、主体となっているのは父。
 主人公は、娘の結婚が決まって動揺。
 主人公は、相手が良い青年であることは間違いないのでホッとするけれど、相手の母親に何か問題があるのでは…と心配し続けます。

 親からの子どもへの愛が詰まった小説、という印象を受けました。
 親にとって、子どもはいつまでもいつまでも子どもで、可愛くて心配でならないものなんだな、と読んでみて思いました。

 と同時に、わたしの母がわたしに「…これ読んでみて」とすすめてきた理由が、何となくわかったような、わからないような、くすぐったい気分になりました。
 わたしもいずれ誰かの親になったら、子どもに「…これ読んでみて」とすすめたりして。
 20代から80代までの方たちが詠んだ、歳を取ることの悲哀あり笑いありの川柳が載った本。
 一句一句が大きく印刷されているから祖母の読書用にいいわぁ~とパラパラ読んでいたら、「中身より 字の大きさで 選ぶ本」(P58から抜粋)なんて川柳もあって、大いに笑わせていただきました。
 早速うちの祖母にこの本をすすめたところ、祖母は「おじいちゃん 冥土の土産は どこで買う?」(P24から抜粋)が一番好きだそうです。
 ば、ばあちゃんはもう少しのんびりしてから冥土の土産買ってねっ。
 平民出身でありながらルイ十五世の寵姫となり、影の実力者として名を馳せたポンパドール公爵夫人ジャンヌ・アントワネット・ポワソンの生涯を描いた歴史小説。
 彼女の影響によってロココ様式が華開いていく様子や、『百科全書』の刊行支援、セーブル磁器事業のこと、オーストリア女帝マリア・テレジアとの同盟や、幼いアマデウス・モーツァルトの演奏のことなど、その時代ならではのことにあれこれ触れてあって、楽しく読めました。
 誰もが羨む寵姫の座をなぜ平民出身の自分が勝ち取れたのかという本当の理由を知って驚いたり、王と他の女性たちとの関係について悩んだり、彼女がいわゆる不感症であったため王と無理にベッドを共にしなくてもヴェルサイユでの地位を確立出来るように努力したり、などの彼女の心の揺れ動きをも垣間見れるような気がしつつわたしはこの本を読みました。
 ルイ十五世専用のハーレムのような館「鹿の苑」について、ポンパドール夫人がやり手ばばあのようである、と悪い印象を持っている方が少なくないようにわたしは思うのですが、この本においては、ポンパドール夫人は「鹿の苑」に居る女性たちが妊娠したら安心して出産してその後可能ならちゃんとしたところへ嫁げるようにフォローした、という風に好意的に書かれていたので、ポンパドール夫人好きのわたしとしては嬉しかったです。
 ポンパドール夫人からは、女性のしなやかな強さを感じます。
 
 2013年3月11日から同年4月11日までに撮られた、東日本大震災に関する写真集。
 
 この本の前半には震災直後の被災地の光景が、中間には福島第一原発の事故の経緯が、後半には希望を捨てず未来へ歩き出す被災地の方たちの様子がおさめられています。
 
 前半はページをめくる度に涙がこぼれました。
 どの方を写した写真も心に突き刺さってきたけれど、特に「愛娘たちの遺体が見つかった現場近くでお菓子やジュースをまく母親ら(3月14日、宮城県石巻市)」という写真を観た瞬間、どう表現していいかわからない感情が沸き起こりました。

 中間を読んでいたら無性に吐き気がしてきて一度吐き、その後もお腹がグルグル鳴っていました。
 
 後半のページをめくったら、これが本当に現実なのかと問いたくなるほどの瓦礫の山と、家族の安否が分からない方たちがいる状況においても、少しずつ子どもたちが笑顔を取り戻しているのが伝わってきて、少しだけ安堵しました。

 最後のほうは、震災後に福島県で咲いた桜の写真や、津波の被害を受けた教室でランドセルを手にする男の子の写真が載せられています。

 わたしは最後まで読んだらまた中間を読み返したくなり(読んだら吐き気がするのだけど。原発事故から随分経つのにいまだに問題は解決していないから…)、何度も中間と後半を往復して読みました。
 
 写真は本当に、寡黙にして雄弁ですね…。
 被災地にカメラを向ける行為自体は無神経だけど、どんな報告書を読むよりも、写真を見る方が、その場にいる方たちのまさにその時の感情を受け取れるような気がします…。

 わたしも出来る範囲でも構わないから、これからも被災地への支援を続けようと思います。
 『月の影 影の海』から『黄昏の岸 暁の天』上下巻まで読んでからこの『魔性の子』を読んで、本当に良かった。
 もし、「『魔性の子』は十二国記のサイドストーリーとして執筆された物だ。とはいえ、十二国記として最初に出版された訳だから、十二国記を読み始めるにあたっては、当然『魔性の子』から読むべきだ」とわたしが『魔性の子』から手に取っていたとしたら…。
 90%くらいの確率で、わたしは「な、な、なんじゃこりゃあぁぁ!」と某俳優のような叫び声を心の中で轟かせ、十二国記を読むこと自体に挫折していたに違いありません。

 なぜなら、『魔性の子』においては、あらゆる登場人物に向かって、これでもかこれでもかと不幸が押し寄せてくるから。
 怪我を負っただけで済んだ者はまだいい。
 大怪我を負った者や、無残に殺害された者も大勢いるのですから。
 だから、もしわたしが予備知識なしで『魔性の子』を読んでいたとしたら、なぜ高里が神隠しにあい、そしてなぜ神隠しから帰って来たのか、なぜ高里の守護者であるはずの者たちが高里の周りの人々を襲撃するのか、なぜ高里の家族が惨殺されたのか、高里を探してさまよっていた女性は何者なのか、何が何だかさっぱり分からなかったと思います。

 『月の影 影の海』から『黄昏の岸 暁の天』上下巻まで読んできたからこそ、事情がわかる。
 わかるからこそ、この『魔性の子』の内容がなお辛い。
 心を抉る。
 『魔性の子』P326辺りにおいては、高里の母親が本来ちゃんと高里のことを愛していたことが書かれています。
 『黄昏の岸 暁の天』では、好き嫌いは良くない、と高里の今後の成長のことを思って、両親が高里に肉を食べさせるシーンが描かれています。まさか我が子が本当は麒麟で、肉を食べることは身体に良くないだなんて、両親は知る由も無かったから。…そのせいで、高里の守護者である白汕子(はくさんし)と傲濫(ごうらん)に「毒を盛られている」と敵視されるなんて…。
 悲劇、というありきたりな表現は使いたくないけれど、悲劇と言わずして何と言いましょうか。

 『魔性の子』から読むべし、という意見もあるかもしれませんが、もしこれから十二国記を読み始める方がいたら、是非、『月の影 影の海』から『黄昏の岸 暁の天』上下巻まで読んでから『魔性の子』を読むことをわたしはおすすめします。
 こういう言い方は不謹慎かもしれませんが、パニック映画を観るよりも、この本を読んでいる方が、ずっとずっと怖い。
 
 よく、原発について語る際に、「もし安全性が保証されるならば原発に賛成」という言い方をする方がいますが、この本を読んだら、そんな「もし」は簡単に言えなくなると思います。
 原発は人間の力で制御出来る、と言われていたのは、もはや遠い過去の話。
 この本には、原発の安全神話がいかにして崩れ去ったかがよく描かれています。
 
 原発で事故が起きたら、たとえ放射能を浴びながらであっても、原発で働く社員がその場でなんとか対処して、放射能が外部へもれるのを止めなければなりません。
 でも、作業をするのは、ロボットではなく生身の人間。
 未だかつて無い地震が起きて、そのすぐあとに大きな津波がきて、身内の安否がわからず、いつまた地震や津波が襲ってくるかわからない、ただそれだけでも想像を絶する恐怖だろうに、原発の電源喪失という前代未聞の事態に対するマニュアルが無く、どう対処していいかもはや誰も正しい答えを持っていない中で、でも途方に暮れることもパニックになることも許されずとにかくこの状況を何とかしなければならない…、という極限状態がこの本には描かれています。
 
 この本には、まさにその当時の社員の様子を写した写真がたくさん載っていますが、別にそれは、社員に写真を撮る余裕があったわけではありません。むしろその逆。
 この写真たちは、その場で実際に作業にあたった職員たちの遺書代わりとして撮られたもの。
 生きてこの場から帰れるかわからない、この場に居たという記録を残したい、という、写真の形態を取った遺書。
 家族の一人一人に宛てて遺書として書かれたメモもこの本では紹介されていますが、早く作業に戻らないと一刻を争うため長文は書けなかったようで、ごく短い文ずつしか書けていません。
 だから、放射能に冒される中で撮影された写真がこうして残っているんですね…。

 わたしは福島に知人が数人居て、みんな地震と津波で家族と家と仕事を失っただけでなく放射能によって故郷に帰れなくなったので、別にわたしは東電社員を擁護したいわけではありません。
 けれど、こうして現場で作業をした社員たちは、果たしていま無事なのか、家族に会えたのか、避難出来たとすれば東電社員ということで避難先に居辛くなったりしなかったか、PTSDの症状に悩んでいるのではないか、…と、わたしは読んでいて色々考え込んでしまいました。
 泰、芳、慶、才、奏の人々にまつわる短編集。
 どの国の話も、国を治めることの難しさについて書かれています。

 中でも才についての章「華胥」(かしょ)は、読んでいて辛かった…。
 
 玉座に座ってからというもの、才の王・砥尚(ししょう)は、善い王であろう、理想の国を作ろう、悪政をしいた先代の王・扶王(ふおう)とは違う政をしよう、と夢を抱いてきました。
 華胥の夢を。
 特に、王は、民へ課す税を軽くするなどの政策を行いました。
 先代の王が民に課した税が重かったため、自分の代ではそうすまいとしたから。
 ところが…、王は天に見放されました。
 才の麒麟は失道の病にかかってしまいました。
 これは王朝の終焉を意味します。
 けれども、王にしてみれば訳がわかりません。
 自分は決して先代の王とは逆の、理想の国つまり華胥の国を作ろうとしているのに、なぜ、と。
 みるみる衰弱していく麒麟に責められ、民や官吏に失望され、王は混乱し追い詰められていきます。
 そして王は、禅譲という形で位を退きました。
 …禅譲。それは、麒麟を生き残らせ、王だけが死ぬ退位の方法。
 …失道の病は放っておけばやがて麒麟を死に至らしめます。麒麟が死ねば王も死に、王のいない国は荒れてしまう。新しい麒麟が生まれて新しい王を選ぶまでには月日を要す。新しい王が立つまでの間に、国はどんどん荒れてしまう。
 …だから王は禅譲という道を選びました。
 「責難は成事にあらず」という遺言を残して。
 
 …王は、先代の王が行ったことを責めても何かを成す事は出来ない、先代の王とは違う政をと努力してきたけれどそれは自分なりに考え抜いた政ではなくただただ先代の政とは違う政を目指しただけのものだった、自分なりの政が出来なかったから自分は天命を失ったのだ、と王は気づいたけれど、気づいた時にはもはや手遅れだったのですね…。 
 王が死んでしまった後で、周囲の人々が語る「扶王の課した税は重かった。だから軽くすべきだと砥尚様は考えたわけですよね。すると国庫は困窮し、堤ひとつ満足に作ることができなくなりました。飢饉が起こっても蓄えがなく、民に施してやることもできなかった」(P289から抜粋)という話や、「税は軽いほうがいい、それはきっと間違いなく理想なんでしょう。でも、本当に税を軽くすれば、民を潤すこともできなくなります。重ければ民は苦しい、軽くても民は苦しい」(P290から抜粋)という話を読んでいて、折しも消費税増の話で持ちきりの日本という国に住むわたしは、やりきれない思いでいっぱいになってしまいました…。
 …才の王がもっと早くそれに気づけたなら良かったのに…。
 国同士で協力したことが無い。
 軍が国境を越える事、それ自体が罪。
 他国を助けようとして軍を派遣しただけで、その途端、王も麒麟も天に裁かれて絶命し、王がいなくなった自分の国の方が荒れてしまう。
 
 …この巻に至って、我々の世界と十二国記の世界がいかに違うかがよく分かってきました。
 我々の世界だと、良くも悪くも軍が国境を越えてばかりですけどね…。
 十二国記の世界では、天が定めた条理に守られながらも縛られている…。
 十二国記の世界においても、これまで人々は神を見たことさえなかったのですが。
 「天が人を救うことなどあるはずがない」「人は自らを救うしかない」(P171から抜粋)という陽子の言葉は、我々の世界にも共通しており、心にグサリと刺さりました。

 そんな十二国記の世界に在っても、陽子たちは呼びかけ合い、各国の王たち・麒麟たちとうまく協力し合って、どうにか泰麒を探し出しました。
 …ところが、それでめでたしめでたしとはいきません。
 陽子の真意を理解出来ず、「これほど他国の王が出入りするのは何故か。あなたは慶を他国に譲り渡すおつもりか」(P218から抜粋)と、陽子を暗殺しようとする者たちが現れたからです。
 むしろ民と国のためを思って、善い王になろうとしてこれまで努力してきた陽子は、こう言われてすっかり虚脱してしまい、「…当の民がいらないと言うのなら、在り続けようとしても仕方がない」(P220から抜粋)と、抵抗さえしませんでした。
 幸い、景麒が駆け込んできて陽子は救われるのですが…。
 …暗殺者たちは浅はかだけれど、陽子のことを愚かな王だと誤解したその気持ちは分からなくはないし、民がいらないと言うのならわたしは要らないのだという陽子の考えも分からなくはないし、…なんだか読んでいてとても複雑な気持ちになる巻でした、この『黄昏の岸 暁の天〈下〉』は。

 さて。
 泰麒は見つかったけれど、泰王は見つかりません。
 わたしがまだ読んでいない『魔性の子』に何かヒントがあるのでしょうか? 或いは、『魔性の子』にまさに泰王その人が現れるのでしょうか?
 『魔性の子』をどのタイミングで読むべきか、とても悩みます…。
 泰王が殺されたとの嘘を伝えられ、自らもまた裏切り者に斬られてしまい、麒麟の象徴たる角を抉られてしまった泰麒。
 泰麒があげた悲鳴によって鳴蝕が発生、その鳴蝕に乗って、泰麒は蓬莱まで逃げ延びる…、という怒濤の展開でこの『黄昏の岸 暁の天』上巻は始まります。

 蓬莱は、かつて泰麒が子ども時代を過ごした場所。
 自分が本当は蓬莱へ流されてしまった麒麟であるということなど知る由もなく、自分は高里要という名前の人間の子どもだと信じて日々を過ごした世界。
 周囲の人々は泰麒が普通の子どもとは違うことを本能的に察し、疎んでいたから、泰麒は決して幸福に満ちた子ども時代を蓬莱で送れたわけではありません。
 しかし、意識的にしろ無意識的にしろ、とっさの逃げ場所として泰麒が選んだのが蓬莱であり、しかもかつての生家だったことに…、読んでいて複雑な気分にさせられました。
 これまでの境遇がどうであったとしても懐かしい故郷へ帰れたのだから、喜ぶべきなのか。
 それとも、そこしか逃げ込める場所がなかったのだ、と哀れむべきなのか。
 
 恐ろしい体験をしたせいなのか、それとも麒麟の象徴たる角を大きく損なってしまったせいなのか、泰麒は麒麟としての記憶をすっかり失ってしまいました。
 そのため、泰麒…つまり高里要は、神隠しにあっただけでなく神隠しから帰ってきた子どもとして扱われることに。
 しかし、最初は高里要の帰還を喜び、同情してくれた人々が、気味悪がって物を投げてくるようになるには、たいして時間はかかりませんでした。

 高里要として生きていくのが幸せなのか。
 泰麒としての記憶を取り戻すべきなのか。
 泰王は本当に反逆者によって命を落としたのか。

 続きが気になるのですが、続きを知ってしまうのがなんだか怖いので、しばらく日を置いてから下巻を読みたいと思います。
 セーラー服、タカラジェンヌ、茶摘み娘など、18種類にも及ぶ扮装体験エッセイ。
 「コスプレ」ではなく、敢えて「扮装」と銘打ったのは、三島由紀夫のエッセイ『扮装狂』にインスパイアされての事であるようです。
 わたしは「三島由紀夫って、筋肉&ふんどし&切腹フェチよね。変態だわっ」と顔を赤らめるフリをしつつも、なんだかんだで『春の雪』あたりを愛読書棚に置いていて時折読み返してはその日本語の美しさににやついている、にわか三島由紀夫ファンでございますれば、この本の中に三島由紀夫のエピソードが出てくる度に思わずにやにやしてしまいました。
 この本、それぞれの扮装について、その成り立ちなどの色んな雑学を織り交ぜて説明してくれている中で、たまーにですが三島由紀夫についての話題が出てくるのです。
 それゆえ、わたしは「ウォーリーをさがせ!」ならぬ「三島をさがせ!」としてもこの本を楽しみました…すみません、でもこれも一興でしょ?

 さて、肝心の、酒井さんの扮装については、それぞれの章ではイラストが、巻末では写真がすごろく状に掲載されています。
 写真は全てモノクロですけれど。涙。
 カラーで見たかったし、すごろく状にそれぞれを小さく載せるのではなくて、1つにつきどーんと1ページ使って載せて欲しかったけれど、そこは印刷の都合及び大人の事情なのでしょうか。
 個人的には、特に、18番めの扮装にあたる、十二単の写真をカラーで見せて欲しかったです。モノクロではその色合いの美しさがいまいち伝わらず、残念…。

< 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 >

 

お気に入り日記の更新

最新のコメント

日記内を検索